タイトルにあるとおり、19世紀後半のベルエポック期から、狂乱の時代とも呼ばれる1920年代までの、パリのサロンにおける芸術家たちの人間模様について書かれた本。
クラシック音楽にはあまり知識や関心がなかったので、「パリの音楽サロン」についても事前には何の知識も関心もなかったのだが、サブタイトルの「ベルエポックから狂乱の時代まで」に惹かれて読んでみることにした。
ここでいうサロンというのは、美術の官展のことではなくて*1、貴族やブルジョワの夫人が邸宅などで定的的に(毎週何曜日とかで)開いていた社交の場のことである。
音楽家が招かれて演奏会をやっていることが多い(様々な作品が、サロンで初演されていたりする。まずはここで試しにお披露目して、という感じだろうか)。
サロンに来ているのは音楽家だけではなくて、文学者や画家も多い。
本書も、音楽にとどまらず、当時のパリの芸術家たちが目白押しで登場する。
個人的にはやはり、後半の「バレエ・リュス」まわりの話などが面白かった。「バレエ・リュス」については別途他の本を読もうとも思っていたところで、この本にも出てくるとは知らなかったので思わぬ収穫だった。
筆者はピアニスト・文筆家で、ドビュッシー研究で博士号も持っているという。
本書は、岩波の『図書』での連載(検索してたらこの連載は筆者のブログでそのまま読めるっぽい)に、他の雑誌媒体での原稿も加えて一冊の本にしたもの。
研究書とかではなくて、芸術家たちの人間模様について書いた読み物、という感じのもの。
なお、出てくる芸術家たちについては、当然知ってますよねという体で書かれていて、どういう作品を作ったのか、どういう主義・潮流の人なのかみたいな教科書的な説明はほぼない。
一方で、「あ、この人(作曲家)とこの人(詩人)って同じ時代の人で、ここで会ってたりするのかー」みたいな感じで楽しむ本、のような気がする。
どこかで「文学と音楽の壁は厚い(のでこのことがあまり知られていない)」みたいなことが書かれていたが、確かに、どうしても文学史なら文学史、音楽史なら音楽史という形で切り分けて学びがちである。サロンという切り口から見ることで、当時の雰囲気がもう少しつかめるのかもしれない。
各章、大体1人か2人の人物に焦点を当てて書かれている。
特に、サロンの女主人が主人公になっている章が多い。
はじめに サロンという登竜門
Ⅰ 団扇と婦人
ニナ・ド・ヴィヤール(1843~1884)について
マネの「扇子と婦人」のモデルとなった女性で、1868年頃からサロンを開いてマラルメやリラダン、アナトール・フランスなどの芸術家たちが集まっていた。高踏派詩人たちのミューズであった。
詳しくは次の章で書かれるシャルル・クロという詩人が、ニナともっとも長く「オフィシャル」な恋人であったが、常に複数の関係をもっていたらしい。
平服で参加できる親密な雰囲気のサロンで、サロンのある日はいつもどんちゃん騒ぎみたいな感じだった、と。
なお、ニナ自身も詩人・ピアニストであった。
上述の通り恋多き女性だったが、30代後半から体型が崩れはじめ、当時の恋人とも別れ、41歳の時に精神病院で亡くなっている。
Ⅱ シャルル・クロ
ニナの恋人だった詩人(ニナと別れた後、別の人と結婚している)
象徴主義の詩人であると同時に、発明家・科学者であった。現在では、どちらかといえばマイナーな人だと思うが(とはいえWikipediaはあるレベル)、ヴェルレーヌと仲違いしたせいで、ヴェルレーヌの評論集で取り上げてもらえなかった(ユイスマンスの『さかしま』には少し言及がある。のちにブルトンによって評価されるようになる)。
カラー写真や蓄音機の発明をしているのだが、いずれも先取権争いで負けている。
ピアノの打鍵を記録してインスピレーションを数値化しようと試みたり、『恋愛の科学』という作品の主人公は、女性と会った際の身体的反応とかを測定するなどの研究をしていたりした。
Ⅲ ニコレ街一四番地
この章はサロンの話からはやや離れて、ランボーとヴェルレーヌの話になる。
(自分は見たことないけど)『太陽と月に背いて』で有名なあれ。
この章はそこにひねりが効かせてあって、当時10歳のドビュッシーが実は近くにいたのだ、という話になっている。
ヴェルレーヌは、共にニナのサロンの常連であった作曲家のシヴリーから妹を紹介されて、結婚している。
さて、このシヴリーは、パリ・コミューン後に監獄に収監されていたことがある。で、一方、ドビュッシーの父親もまたパリ・コミューンに関連して同じ牢獄に収監されていた。ドビュッシーは当時既に音楽の才能を垣間見せており、ドビュッシーの父親はこの息子のことをシヴリーに相談する。シヴリーはピアノ教師である自分の母親を紹介する。
つまり、ヴェルレーヌにとっての義理の母親が、少年時代のドビュッシーのピアノの先生だったのである。
この章にはシャルル・クロも登場してくる。最初にランボーの面倒を見たのはクロだったらしい。また、ヴェルレーヌの離婚の際には、クロがヴェルレーヌの妻側の肩をもったのが、最終的に仲違いする理由になったらしい。
ところで、このランボーとヴェルレーヌの関係、才能のある若者に慕われて、ついには共同生活をするまでに至るけど、若者の行動についていけなくなって生活が破綻するのって、ゴッホとゴーギャンに似てるな、とちょっと思った。調べてみたら、年齢もほぼ一緒だった(ランボー=1854年生まれ、ヴェルレーヌ=1844年生まれに対して、ゴッホ=1853年生まれ、ゴーギャン=1848年生まれ)
Ⅳ ポーリーヌ・ヴィアルド
ポーリーヌ(1821~1910)はオペラ歌手で、のちにサロンを開くようになる。
ジョルジュ・サンドに気に入られて、当時、サンドの恋人であったショパンとも共演している。実際、ショパンとかかわりのある歌手、として語られることが多いらしい。
ただ、サンドとショパンが別れたことでショパンとの関係は絶え、その数年後にはショパンは亡くなる。
ショパンが亡くなったあと、ポーリーヌはサロンを開催するようになり、サン=サーンス、ベルリオーズ、リスト、あるいはフローベル、さらにはアングルやドラクロワなど、錚々たるメンツが募り、ポーリーヌは歌を披露していた。
ポーリーヌのサロンの常連には、ツルゲーネフも名前を連ねている。
ツルゲーネフってパリに住んでたのか? と思ったら、どうもモスクワとパリを行ったり来たりしていたらしい。
ポーリーヌはサンクト・ペテルブルク公演で訪露しており、その頃にツルゲーネフと知り合う。ポーリーヌ22歳、ツルゲーネフ25歳の時である。そして、ツルゲーネフが65歳で亡くなるまで関係が続いた。ポーリーヌはその死を看取り、遺産も受け取っている。
しかしこの2人が一体どういう「関係」だったのかははっきりしないようだ。そもそもポーリーヌは夫のある身ではある。ツルゲーネフはツルゲーネフで同棲していた女性との間で子供を作っているが、終生独身であった。筆者はプラトニックな関係だったのかと疑問を呈しつつ、しかし、ポーリーヌは「友情」こそ長続きする決めてであり、サンドとショパンの間には「友情」がなかったと述べていたことで話をしめている。
Ⅴ ガブリエル・フォーレとサロン
このフォーレ(1845~1924)という作曲家、全然知らなかったのだが、本書ではこの前にも名前が出てきているし、この後にも度々名前が出てくる。
ポーリーヌ、サン=マルソー夫人、ルメール夫人、ポリニャック大公妃、グレフュール伯爵夫人と多くのサロンの主宰者たちからの庇護を受けていた、サロンの音楽家なのである。
フォーレも女主人やその家族に曲を捧げている。
パリ音楽院の教授になるまで経済的には困窮しており、オペラを書くことを進められていたが、気乗りしなかったという。当時、作曲家として成功するためにはオペラを書く必要があった。ドビュッシーは実際にオペラで成功している。一方、ショパンはフォーレと同じで、オペラを書くよう薦められたが書かなかったという(音楽教師として生活した)。
本章では、ジャン=ミシェル・ネクトゥーによるフォーレの伝記が度々引用されるが、本章に限らず他の章でもこのネクトゥーの伝記は参照されていて、音楽サロンというテーマとフォーレという作曲家はかなり密接に結びついているのが分かる。
フォーレは、ポーリーヌの娘と恋仲だったことがあり、また、後のドビュッシー夫人となるエンマ・バルダックと関係を持ったこともある(バルダックの第二子は、フォーレとの不倫でできた子)。
ヴェルレーヌの詩をもとに歌曲を作っていて、これを初演したのがエンマ・バルダック。
ところで、サン=マルソー夫人がなんか謎のくじびき大好き人間で、フォーレがバイロイトにワーグナーを観劇しにいくことができるための「なぞなぞびっくりくじ」(何それ?)を作ったり、フォーレの結婚相手をくじ引きで決めたりしている。
Ⅵ ドビュッシーとサロン
ドビュッシー(1862~1918)はもともとは貧しい家庭の生まれ
1889年に開店した「独立芸術書房」というサロン的な書店で交友関係を広げる。
マラルメと知り合ったり。
で、次第に上流階級のサロンへも行くようになるが、ある婚約話の際に、他の女性との付き合いが切れてなかったことがわかり破談になり、サロンへの出入りが禁止される。
別の女性と結婚
1902年、オペラ『ペレアスとメリザンド』で名声が高まる。
エンマ・バルダックの息子ラウール経由で、エンマと知り合い、のちに駆け落ちする。
Ⅶ サン=マルソー夫人
サン=マルソー夫人は1850年生まれ、1870年に最初の結婚をして(ボーニ夫人となった)、1891年に夫と死別、1892年に再婚した。1875年から1927年まで世紀をまたいで50年以上、サロンを開いていた。パリ音楽界の有力者という感じである。
日記を残しており、サロンでの演奏や見に行ったコンサート等の感想が記されている。
フォーレを寵愛したほか、ラヴェルやドビュッシーのことも評価していて、サロンの常連であった。
ドビュッシーの出世作である『ペレアスとメリザンド』も、オペラ=コミック座での初演前にサン=マルソー夫人のサロンで披露されている。この『ペレアスとメリザンド』というのは、メーテルリンクの戯曲でドビュッシーがオペラとしての曲を書いたのだが、メーテルリンクが自分の愛人を主演に推していたのだが、別人が主演になって激怒したというエピソードが書かれている。で、この別人というのは、オペラ=コミック座の音響監督であったメサジェの愛人だったという。
メサジェもまたこのサロンの常連だったので、夫人は事の顛末を知らされていたという。
夫人のサロンの特徴は「譜読み」で、作られたばかりの曲や初演前の曲について、ピアノで演奏されていた。
サン=マルソー夫人自身が初見能力が高くて「春の祭典」を初見で弾いていたりする。
ただ、音楽の好みとしては保守的で、「春の祭典」を試しに弾いてみたりはするけれど、ストラヴィンスキーやサティなどは好みではなかったようである。
Ⅷ オギュスタ・オルメスとジュディット・ゴーティエ
オギュスタは、劇作家マンデスの愛人で作曲家
ジュディットは、同じくマンデスの妻で詩人・文芸評論家
Ⅸ ポリニャック大公妃
ポリニャック大公妃(1865~1943)は、1887年から1939年までサロンを開いており、サン=マルソー夫人のサロンとかなり期間が重なっている。
サン=マルソー夫人が再婚によりボーニ夫人からサン=マルソー夫人になったように、ポリニャック大公妃も再婚によってセ・モンベリアール侯爵夫人からポリニャック大公妃となった。
ポリニャック大公妃という響きからはいかにもフランス貴族の娘という雰囲気だが、本名をウィナレッタ・シンガーといい、アメリカ人富豪(シンガーミシン創設者)の娘である。ただ、2歳の時に渡仏している(とはいえ英語アクセントがあったようだが)。
サン=マルソー夫人のサロンは親密な空間で、音楽が流れると自然に静かになったというのに対して、ポリニャック大公妃のサロンは、おしゃべりがやまず音楽が聞こえなかったという。また、サン=マルソー夫人の音楽の好みが保守的であったのに対して、ポリニャック大公妃は、若い作曲家やバレエ・リュスなどへの積極的に出資・助成して、社会との結びつきが強く、大公妃亡きあと彼女のサロンはシンガー・ポリニャック財団となって、若い音楽家を支援する奨学金制度などが展開されているという。
1906年、のちにバレエ・リュスの主宰者となるディアギレフと出会う。1909年、ロシア側の支援者が亡くなったことで資金難に陥ったディアギレフが大公妃に泣きつき、大公妃は自身が資金援助するとともに、他に援助者を募る。あとの章で出てくるミシア・セールが出資するのもこのときから。
資金援助だけでなく、ストラヴィンスキーに作曲を委嘱したりもしている。
1916年には、サティに高額で交響劇を依頼している。
同じ頃、バレエ・リュスはサティ作曲の「パラード」が大騒動を引き起こし、サティは告訴されてしまう。この時の罰金の肩代わりもしている。
Ⅹ グレフュール伯爵夫人
音楽が流れると自然に静かになったサン=マルソー夫人のサロン、おしゃべりが騒がしくて音楽が全然聞こえなかったというポリニャック大公妃のサロンに対して、グレフュール伯爵夫人のサロンには、演奏中には静寂さを求めて注意書きなどが貼ってあったというから、主宰者によってサロンの雰囲気は様々なのだな、と思う。
1890年「フランス音楽協会」を設立している。新しい作曲家を紹介するのが目的。同じ目的の組織として国民音楽協会があったのだが、こちらは保守化が進んでいたため。一方、1909年にはラヴェルらが「独立音楽協会」を設立。夫人は、独立音楽協会との競演というコンサートを主催するが、それが「フランス音楽協会」としては最後の公演になったという。
また、ディアギレフと、フランス側の興行主であるアストリュックを引き合わせ、バレエ・リュスの資金難にあたっては、呼びかけを行った。グレフュール伯爵夫人自身には資金力がなかったが、人脈等で貢献した、と。
なお、フランス音楽協会はグスタフ・マーラーの公演も行っているのだが、当初、夫人はマーラーのことを知らなかったといい、筆者は、既にニューヨークデビューも果たしていたにもかかわらず、当時の情報環境だとかくも名声が伝わらないものなのか、と不思議がっている。
ⅩⅠ ルメール夫人とプルースト
ルメール夫人というのは、プルースト『失われた時を求めて』ヴェルデュラン夫人のモデルとなったうちの1人らしい。
プルーストって『失われた時を求めて』を書くまでは社交界評論家みたいな人だと思われていたとか。
この章は『失われた時を求めて』のヴェルデュラン夫人についてのあらすじがまとめられている
ⅩⅡ 六人組誕生
サティの影響下にあり、またコクトーが仕掛けて、批評家のコレが1920年に「フランス六人組」と名付けた6人の作曲家
彼らはそれ以前からそれぞれ互いに親しい友人でもあった。
大体10代のころにサティの音楽に触れて衝撃を受ける経験をしている。
1917年、バレエ・リュスでサティ作曲の「パラード」が初演され、当時ブラジルにいたミヨー以外の6人組が結集する。その後、メンバーとしては3人だったりなんだったりするのだが、サティを中心に「新青年派」という形で活動。
1918年で第一次大戦が終わって、ミヨーも帰国し、毎週土曜日に集まってわいわい騒ぐようになり、これが「六人組」となっていく。
が、「六人組」としての活動はあまりない。ラヴェルの評価について割れていたりしたので。
ⅩⅢ ジャーヌ・バトリ
ジャーヌ・バトリはメゾ・ソプラノ歌手
初見能力がとても高くて、主演が出られなくなった時に、ラヴェルやドビュッシーから急遽代演を頼まれて、それを見事にこなしている。ただそんな風に助けられている割に、ドビュッシーはバトリに冷たかったようだが(出演したいという要望を断ったりしている)。
ヴィエ・コロンビア座というパリの小劇場の支配人が渡米した際に、音楽監督代行の座につくと、次々とコンサートを企画していく。アポリネールの講演とか、のちに六人組となる若手作曲家たちを世に送り出したりしている。
ⅩⅣ 旧時代と新時代のメセナ ココ・シャネルとミシア・セール
ココ・シャネルとミシア・セールは、2人ともバレエ・リュスへの資金援助を行ったメセナである。
ディアギレフが行ったムソルグスキー作品の公演を見たミシアは、すぐにディアギレフと会って二人は意気投合する。二人は同じ年だったが、ディアギレフはミシアのことを「母親のように」慕ってなんでも相談するようになった。また、ミシアは、サティやコクトーをディアギレフに紹介した。そして、ディアギレフとシャネルを引き合わせたのもミシアだった。
シャネルは1913年頃からサロンに出入りするようになる。彼女がミシアやディアギレフと初めて会ったエピソードなどが書かれているが、当時の彼女は、あくまでも出入りの業者であり、その場では基本的に何も話していない。
しかし、ミシアはシャネルを気に入って友人となり、彼女をあちこちに旅行へ連れて行っている。
そして、シャネルはディアギレフやストラヴィンスキーに、ひそかに、しかし多額の資金援助をするようになる。ミシアはそれが気に食わなかった。
これについて、ある伝記作者は、ミシアに所有欲や保護者意識があったとしている。対してシャネルはそうした所有欲を嫌悪していた。
ミシアは音楽一家に育ち、パリではフォーレにピアノを習っていたこともある*2。それでムソルグスキーを聞いて魅了された、わけだが、一方で、『春の祭典』再演への資金援助をしたシャネルは『春の祭典』を見ていない。
グレフュール伯爵夫人やポリニャック大公妃が生まれつきないし結婚によって資金が備わっていたのに対して、シャネルは自らの労働の成果として資金を得ていた。自ら働き創造する者であったという点で、シャネルはこれまでのメセナたちとは異なっていた。
ポリニャック大公妃は密かにライバル心を持っていたらしいが、ディアギレフが「お金がないよ~ポリニャック大公妃に泣きついたらいくらくれたよ~」とかいうと、シャネルがそれを上回る額をポンと渡した、というエピソードがあったりする。
ミシアはシャネルのことを恩知らずだと言っていたが、それでも2人の友情は亡くなるまでずっと続いた。シャネルは、ディアギレフとミシアをそれぞれ見送っている。
シャネルの「私は、服を愛さなかったけど、仕事は愛した」という晩年の言葉が、「なかなか重みがある」という筆者のコメントともに紹介されている
ⅩⅤ ヴァランティーヌ・グロス
グロスは画家で、バレエ・リュスの舞台裏や練習風景、ダンサーの様子などを描き残している。1913年以降社交界にも入り始めて、サロンを開くようになる。
この章では、コクトーが撮影したサティとグロスの写真から始まり、その写真の裏にある顛末について解説している。
グロスは、コクトー、サティそれぞれと親しく、コクトーとキュビスムの画家との結びつきを作ったりした。
バレエ・リュスの次の企画を、コクトーとサティがともに計画しはじめるのだが、ディアギレフへ影響力を持つミシアへの相談をめぐって、2人のやりとりがすれ違い仲がぎくしゃくする。最終的には2人は仲直りするのだが、先の写真はその1,2日後に撮影されており、グロスは双方から事の成り行きを聞かされていたのだという。
こうしてできあがったのが、台本コクトー、音楽サティ、そして衣装と舞台装置をピカソが担当したバレエ・リュスの問題作「パラード」なのである。
なお、グロスはのちにヴィクトル・ユゴーの曾孫ジャック・ユゴーと結婚している。
ⅩⅥ サティとマン・レイとダダイスム
マン・レイがパリ時代にサティと非常に親しかったようだ、という話
ダダがシュールレアリスムへと切り替わっていく時代
ツァラも、ブルトンに呼ばれてパリに来ていたがしかし、ブルトンとツァラは考え方に違いがあってずれていく。
マン・レイはシュールレアリスム側に合流するが、サティはツァラ側にいた。
ただ、マン・レイという人は、どのグループとも親しくできる人だったようだ。
1924年『幕間』という映画に、サティとマン・レイ、ピカビアなどが共演している。
筆者は、サティとマン・レイの共通点として「永続性」をあげる。つまり、彼らは新しさを追い求めてはおらず、自分らしい作品をずっと続いていて、それがたまたまダダっぽかったり、シュールレアリスムだったりしただけでは、と。