八木沢敬『分析哲学入門』 - logical cypher scape2の続編である(前作を読んでないと分からないという部分はなく、全く別の著作として読んでも問題ない)。
ぐっと内容の濃度が上がっていて、なるほど中級編だという感じ。
すごい色々と勉強になり、そういうことだったのかーとか、おもしれーとか色々あったけれど、むずいという部分も結構あった。
あと、ここまでは合意があるがここから先は意見が分かれてる、ということも書かれていて、ここから先は分析哲学の先端(?)なのかーというなんかワクワク感(?)も感じられる。
内容についてのレジュメもやっていきたいところなのだけど、とりあえず、どういうトピックが出てきたかを羅列しておく。
なお、以下人名のカタカナについては八木沢によるものに従う*1。
はじめに
ジェームズのリスの思考実験(混同しやすいが別々の問題をわけること)
第1章 分析論
ムーアの未決問題(「善い」についての概念分析あたりの話)
→一般化=「分析のパラドックス」
第2章 意味論
フレーゲ「意義」と「指示対象」、「意味の組成原理」
アプリオリ性と必然性を分析性で説明する立場=論理実証主義
意味の検証主義(ラッセルのセンスデータ論とか、カーナップとか)
カーナップや論理実証主義への批判
→クワイン「経験主義のふたつのドグマ」
→パットナム 意味の外在主義(双子地球の思考実験)
第3章 内包論
外延の組成原理はいかにして成り立っているのか→タースキーの真理理論
外延の組成原理に対する判例としての「信念の文脈」
→フレーゲ理論による解決
→フレーゲ理論の修正(外延性の破綻)
→ベンソン・メイツによる、カーナップおよびルイスに対する反論→フレーゲ主義自体が崩れるかもしれない
第4章 真理論
真理の蛇足理論
→蛇足理論の問題点
→生成理論による解決=真理の対応理論(タースキー)
→対応理論の問題点
→タースキーによる解決(広く受け入れられる一方で、批判の的でもあるが、本書では論じられない)
第5章 存在論
マイノンク「黄金の山」
→ラッセル「記述理論」
→クワイン「存在論的コミットメント」(ラッセルから非フレーゲ的要素を排除。「ペガソスる」という動詞の導入)
(意味の外在主義として、パットナム、クリプキー以外に、カプラン、ドネラン、バージの名前に言及)
存在とは何か
→個体の性質か否か
→アンセルムス「個体の性質である」
→フレーゲ:この立場に対する決定的な反駁をなす→存在は、個体ではなく概念の性質(メタ概念)である
→命題そのものに個体は含まれないとするフレーゲの立場は、ある時期のラッセルの立場やクリプキーの立場と対立する
メタ概念を存在量化記号として捉えると、フレーゲの立場を維持したまま、個体に適用できる
「yが存在するとは、(∃x)x=yであるということである。」
ところが、ここにはx=y、つまり「yと同一である」という非フレーゲ的概念が含まれている。これはデレ概念。
第6章 同一性論
同一性の一般的と思われる定義
→ウィギンスによる批判
ヘラーの四次元主義
クリプキー「同一性の必然性」
→ギバードによる反論(「偶然的同一性」)
→ウィギンスとギバードの違い
- 言語論的転回から個体的展開へ
分析哲学の特徴は、言語論的転回とされるが、哲学の問題とは言語の問題以外の何ものでもないと考えてしまうのは正しくない。
例えば、クリプキーによって、必然性は文の性質ではなく個体の性質であるということが明らかになった。
哲学が言語を扱うのは、言語が個体についての何かをいうための手段だからであり、必然性や同一性はあくまでも個体の問題である。
感想
パットナムの意味の外在主義を扱っていたところが難しくて、まだ議論の流れがちゃんと掴めてない。
タースキーもだな。
真理値評価指標としての可能世界のとこと、カプラン、ルイスの指標理論が面白かった。
「分析のパラドックス」や「同一性」のあたりもなかなか。
デレが段々重要なものになってきて、なるほど、と。
このエントリのために読み返してみると、この本についてざっくりまとめると、分析哲学史をフレーゲ的な考えvsクリプキ的な考えとして読み解くというものなのかもしれない。
「意義」なりデディクトなりで分析しようとするとフレーゲと、デレ概念が重要だというクリプキ。最後の、言語論的転回から個体的展開ってそういうこと?
編集者が上田哲之さんだった