2008年12月25日
【使える】ではなく、【通じる英語を!】の巻。
先日、文部科学省から、2013年度より高校英語の授業では基本英語を使って、という方針が打ち出されました。【使える英語】を教えるというのが目的だそうです。しかし、そもそも【使える英語】とは具体的にはなんなのでしょうか?英会話なのでしょうか?【使える】というのは、実用的、便利に・・・と解釈できますが、高校英語が目指すべきものはそれだけでいいんでしょうか?
私は英語の授業が一番なすべきことは、【生徒の発信力を高めること】だと思います。それは 【使える】ではなく、【通じる英語】でなくてはならないと思います。そして本気で発信力を高めようとしたいのなら、【何を、如何にして発信するのか。】の演習を徹底しなければなりません、この訓練なしに、単に英語の授業を英語で進めるだけでは、まったく十分ではない、と思います。
要するに、何か議題について議論したり、スピーチしたり、意見を論理的に書けるかということ。ある意味それは国語や社会科や道徳などの授業でやるべき事柄と深くリンクしています。アメリカでは、いろんな議題について議論しあう小学校からディベートの授業があります。その主要な目的はいかに論理的に、効果的に、説得力ある議論を展開ができるかです。まず、内容としての発想力、知識、データ・・・。そしてそれを他者に訴える技術として、構成力、表現力・・・。さらには、相手が言うことを把握する力。これこそ、国際社会で、求められる英語の運用能力です。【英語はコミュニケーションの手段であって、目的ではないはずです。】 端的に言えば通じる英語とは【国際社会で英語を使って主張ができること。また、相手の言っていることを正しく理解することです。】
亀山社中資料館にて
先日のカンブリヤ宮殿というテレビの番組に、【ユニクロの社長柳井正氏】が出演されました。その経営戦略や哲学など話されていましたが(もちろん日本語です。)ものすごく明解で、発想が柔軟であり、尚且つ、論理が一貫している。一番驚いたのは質問に対する反応の早さと、どの答えも、あっ、なるほどそうか・・・と思わせるところです。いわゆる【プレゼン力】がものすごいのです。彼こそが、発信力の生きるモデルだと思いました。別の言葉で言えば、発信力のカリスマです。(=^・^=) たぶん、彼のアイデアやビジョンを実現させる過程で、交渉力、提案力、批評能力が磨かれていったのだと推察されます。今、若い人にはそういうものの基礎を身に着ける訓練こそが、教育では一番必要な気がするのです。
実は、英語の発信力の基本パターンこそ、プレゼンテーション能力の向上ににものすごく役立ちます。なぜなら、英語は読み手、聞き手を中心に捉えて、いかに明快に発信するかに力点を置く言語だからです。ただ、それはなにも、授業でかならずしも英語だけを使う必要はなく、英語の授業の内容の比重を発信型に変えることの方が重要に思われます。さらに、英語は日本語の対比において、理解度が深まることも忘れてはいけません。
受験英語がたびたび槍玉に挙げられますね。文法と訳ばかりの詰め込みで、ちっとも話せやしない、と。でも、学生が学ぶべき英語とはそもそも何なのでしょうか?日常英会話なのでしょうか?確かにコミュニケーション能力においては重要な部分ですが、それはほんの一部のはずですし、卒業してからの勉強でも全然遅くないです。やはり将来、専攻する分野で世界にある英語の論文を読んだりその内容を把握したり、要約する。また、論文を書く、さらには、議論、発表することが期待されているのだと思います。たしかに、受験英語は問題も多々有るのは認めます(実用性に欠ける、という)が、センター試験はかなり改善しました。センター試験では、実用的な英文をすばやく読んで、要点を把握する力が試されます。また国立二次試験では、【自由英作文】で自分の意見を英語で論理的述べるという【アカデミックライティング】の課題を多くの大学が採用しています。つまり、受験英語対策で十分に本来学生が求められている英語力も培われるとおもいます。単に【使える】ではなく、【通じる英語】 この観点から「英語を授業で使うか、使わないかは、さほど大きな問題ではない」と思うのですが・・・。いかがでしょう?
【当塾は、個別英語塾として対話を重視し、受験英語を通して、生徒さんの発信型の英語の向上に努めます。】
最後に高校の英語の授業のみで発信力アップを取り組むのではなく、小学、中学を通じて、国語、社会科、あるいは、道徳授業などで、議論やスピーチをする取り組みをすべきだと思います。日本でも明治はそんな時代だったそうです。
私は英語の授業が一番なすべきことは、【生徒の発信力を高めること】だと思います。それは 【使える】ではなく、【通じる英語】でなくてはならないと思います。そして本気で発信力を高めようとしたいのなら、【何を、如何にして発信するのか。】の演習を徹底しなければなりません、この訓練なしに、単に英語の授業を英語で進めるだけでは、まったく十分ではない、と思います。
要するに、何か議題について議論したり、スピーチしたり、意見を論理的に書けるかということ。ある意味それは国語や社会科や道徳などの授業でやるべき事柄と深くリンクしています。アメリカでは、いろんな議題について議論しあう小学校からディベートの授業があります。その主要な目的はいかに論理的に、効果的に、説得力ある議論を展開ができるかです。まず、内容としての発想力、知識、データ・・・。そしてそれを他者に訴える技術として、構成力、表現力・・・。さらには、相手が言うことを把握する力。これこそ、国際社会で、求められる英語の運用能力です。【英語はコミュニケーションの手段であって、目的ではないはずです。】 端的に言えば通じる英語とは【国際社会で英語を使って主張ができること。また、相手の言っていることを正しく理解することです。】
亀山社中資料館にて
先日のカンブリヤ宮殿というテレビの番組に、【ユニクロの社長柳井正氏】が出演されました。その経営戦略や哲学など話されていましたが(もちろん日本語です。)ものすごく明解で、発想が柔軟であり、尚且つ、論理が一貫している。一番驚いたのは質問に対する反応の早さと、どの答えも、あっ、なるほどそうか・・・と思わせるところです。いわゆる【プレゼン力】がものすごいのです。彼こそが、発信力の生きるモデルだと思いました。別の言葉で言えば、発信力のカリスマです。(=^・^=) たぶん、彼のアイデアやビジョンを実現させる過程で、交渉力、提案力、批評能力が磨かれていったのだと推察されます。今、若い人にはそういうものの基礎を身に着ける訓練こそが、教育では一番必要な気がするのです。
実は、英語の発信力の基本パターンこそ、プレゼンテーション能力の向上ににものすごく役立ちます。なぜなら、英語は読み手、聞き手を中心に捉えて、いかに明快に発信するかに力点を置く言語だからです。ただ、それはなにも、授業でかならずしも英語だけを使う必要はなく、英語の授業の内容の比重を発信型に変えることの方が重要に思われます。さらに、英語は日本語の対比において、理解度が深まることも忘れてはいけません。
受験英語がたびたび槍玉に挙げられますね。文法と訳ばかりの詰め込みで、ちっとも話せやしない、と。でも、学生が学ぶべき英語とはそもそも何なのでしょうか?日常英会話なのでしょうか?確かにコミュニケーション能力においては重要な部分ですが、それはほんの一部のはずですし、卒業してからの勉強でも全然遅くないです。やはり将来、専攻する分野で世界にある英語の論文を読んだりその内容を把握したり、要約する。また、論文を書く、さらには、議論、発表することが期待されているのだと思います。たしかに、受験英語は問題も多々有るのは認めます(実用性に欠ける、という)が、センター試験はかなり改善しました。センター試験では、実用的な英文をすばやく読んで、要点を把握する力が試されます。また国立二次試験では、【自由英作文】で自分の意見を英語で論理的述べるという【アカデミックライティング】の課題を多くの大学が採用しています。つまり、受験英語対策で十分に本来学生が求められている英語力も培われるとおもいます。単に【使える】ではなく、【通じる英語】 この観点から「英語を授業で使うか、使わないかは、さほど大きな問題ではない」と思うのですが・・・。いかがでしょう?
【当塾は、個別英語塾として対話を重視し、受験英語を通して、生徒さんの発信型の英語の向上に努めます。】
最後に高校の英語の授業のみで発信力アップを取り組むのではなく、小学、中学を通じて、国語、社会科、あるいは、道徳授業などで、議論やスピーチをする取り組みをすべきだと思います。日本でも明治はそんな時代だったそうです。