2008年12月13日
長崎カクレキリシタンについて。
先月11月28日 長崎において、カソリックの世界的式典がありました。
世界中から3万人のカソリック信者が長崎に集まりました。
その式典では、バチカンのローマ法王・ベネディクト16世の使者が訪れて、日本の17世紀の禁教の時代に、カソリック信仰を守っため殺された信者、188人の殉教者を称えました。彼らのほとんどは名もない普通の庶民であります。この日、彼らは聖者として、ローマ法王より正式に認定されたわけです。もちろん、キリスト教徒の殉職者はもっとたくさんいますし、また禁教令は明治になってもすぐには解かれませんでした。 【日本26聖人】や 【信徒発見】については、すでに広く内外に知られてますが、この式典のことを、日本のメディアがほとんど伝えなかったは残念です。
というワケで、長崎のカクレキリシタンについて・・・
私はいわゆる「カクレキリシタン」の話には、なぜかすごく興味がありまして、外海町や平戸・生月島、さらには天草のゆかりの場所を訪れました。また、頼まれもしないのに、英文でホームページまで作っています・・・。
たとえば、長崎・外海町ではクリスチャン神社で知られる枯松神社には、祈りの岩があって、テーブルのような岩陰に信者は集まってひっそりと祈りつづけたそうです。また、外海の彼杵の山深い小屋のバスチャン屋敷。そこに何十年も身を隠しては宣教をつづけた日本人伝道師バスチャン。ついに夕餉の煙を炊いたことで見つかって処刑されたらしい。さらに、外海のうつくしい海に向かって遠藤周作の傑作【沈黙】(この地区が小説のモデルとなった。)の碑があります。
また、平戸・生月島に点在する殉教者にために祀られたいくつもの祠・・・。それぞれに悲しいドラマがあり、その祠はどこもひっそりとしています。生月島には、明治以来、キリスト教の信仰が許されたにもかかわらず、いまだにカクレキリシタン信仰(オラショ。お経でキリスト教の祈りをささげる。マリヤ観音、納戸の十字架。)を引き継いでいるひとたちがいらっしゃるそうです。
禁教の時代、もし、見つかったら、一族郎党どんなひどい目にあうかは広く知られていたはずです・・・。にもかかわらず、人々は祈りをささげ、信仰を守っていた、あるいは守ろうとした。磔にされてまでも信仰を守ったもものいれば、カクレキリシタンになったものがいました。長崎の地では踏み絵は年中行事のひとつなりました。カクレキリシタンたちはその日、真新しい草履に履き替え、踏み絵をした後、ウチに帰ってからその草履をお湯で煮てその汁を飲んだそうです・・・。彼らは、表向き仏教という形式で、彼らなりの信仰を持ちつづけたました。それぞれ彼らの気持ちはどんなふうだったんだろう?と、その場所行っては、思いをめぐらしたものです。しかし、禁教する側にも、当時の統治者なりの理由があったようで・・・歴史はいろんなことを考えさせられます。
ご存知、島原・天草の乱では老若男女3万7千もの住民が、島原の原城に立てこもり、幕府・大名連合軍さらにはオランダ海軍の攻撃に対して最後のひとり(内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)を除く。)まで抵抗して全滅しました。この乱の要因は、厳しく追い詰められたキリスト教徒の反乱と同時に、当時の圧政に対する農民の反乱という性格が大きいそうです。長崎・天草は農地が乏しかったにもかかわらず、年貢の取りたてが容赦なかったそうです、そういう土地柄もあって、貧しい人々はキリスト教に救いを求めたのでしょうか・・・。(ちなみに当時の天草は唐津藩の寺沢氏の領地だった。 ) 原城跡は実に風光明媚なところにあるのです。うつくしい海に付きでた小さな半島の突端にあります。私がここを訪れたときは春真っ盛りで、菜の花や桜がたくさん咲き誇っていました。そんな美しい場所に永遠に眠れるというのがせめてもの彼らへの手向け・・・と、そう思っていたところに、歴史好きの高校生がひとりぽつぽつと歩いてやってきました。そういえば天草四郎がココに眠ったのは15歳だったそうです。。。
長崎にはたくさん教会がありますね。私は特に島の教会に興味があります。いつか五島の島々の教会を訪れたいです。教会にまつわる歴史もまたドラマがありますね。これについてはまたいつか。。。
世界中から3万人のカソリック信者が長崎に集まりました。
その式典では、バチカンのローマ法王・ベネディクト16世の使者が訪れて、日本の17世紀の禁教の時代に、カソリック信仰を守っため殺された信者、188人の殉教者を称えました。彼らのほとんどは名もない普通の庶民であります。この日、彼らは聖者として、ローマ法王より正式に認定されたわけです。もちろん、キリスト教徒の殉職者はもっとたくさんいますし、また禁教令は明治になってもすぐには解かれませんでした。 【日本26聖人】や 【信徒発見】については、すでに広く内外に知られてますが、この式典のことを、日本のメディアがほとんど伝えなかったは残念です。
というワケで、長崎のカクレキリシタンについて・・・
私はいわゆる「カクレキリシタン」の話には、なぜかすごく興味がありまして、外海町や平戸・生月島、さらには天草のゆかりの場所を訪れました。また、頼まれもしないのに、英文でホームページまで作っています・・・。
たとえば、長崎・外海町ではクリスチャン神社で知られる枯松神社には、祈りの岩があって、テーブルのような岩陰に信者は集まってひっそりと祈りつづけたそうです。また、外海の彼杵の山深い小屋のバスチャン屋敷。そこに何十年も身を隠しては宣教をつづけた日本人伝道師バスチャン。ついに夕餉の煙を炊いたことで見つかって処刑されたらしい。さらに、外海のうつくしい海に向かって遠藤周作の傑作【沈黙】(この地区が小説のモデルとなった。)の碑があります。
また、平戸・生月島に点在する殉教者にために祀られたいくつもの祠・・・。それぞれに悲しいドラマがあり、その祠はどこもひっそりとしています。生月島には、明治以来、キリスト教の信仰が許されたにもかかわらず、いまだにカクレキリシタン信仰(オラショ。お経でキリスト教の祈りをささげる。マリヤ観音、納戸の十字架。)を引き継いでいるひとたちがいらっしゃるそうです。
禁教の時代、もし、見つかったら、一族郎党どんなひどい目にあうかは広く知られていたはずです・・・。にもかかわらず、人々は祈りをささげ、信仰を守っていた、あるいは守ろうとした。磔にされてまでも信仰を守ったもものいれば、カクレキリシタンになったものがいました。長崎の地では踏み絵は年中行事のひとつなりました。カクレキリシタンたちはその日、真新しい草履に履き替え、踏み絵をした後、ウチに帰ってからその草履をお湯で煮てその汁を飲んだそうです・・・。彼らは、表向き仏教という形式で、彼らなりの信仰を持ちつづけたました。それぞれ彼らの気持ちはどんなふうだったんだろう?と、その場所行っては、思いをめぐらしたものです。しかし、禁教する側にも、当時の統治者なりの理由があったようで・・・歴史はいろんなことを考えさせられます。
ご存知、島原・天草の乱では老若男女3万7千もの住民が、島原の原城に立てこもり、幕府・大名連合軍さらにはオランダ海軍の攻撃に対して最後のひとり(内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)を除く。)まで抵抗して全滅しました。この乱の要因は、厳しく追い詰められたキリスト教徒の反乱と同時に、当時の圧政に対する農民の反乱という性格が大きいそうです。長崎・天草は農地が乏しかったにもかかわらず、年貢の取りたてが容赦なかったそうです、そういう土地柄もあって、貧しい人々はキリスト教に救いを求めたのでしょうか・・・。(ちなみに当時の天草は唐津藩の寺沢氏の領地だった。 ) 原城跡は実に風光明媚なところにあるのです。うつくしい海に付きでた小さな半島の突端にあります。私がここを訪れたときは春真っ盛りで、菜の花や桜がたくさん咲き誇っていました。そんな美しい場所に永遠に眠れるというのがせめてもの彼らへの手向け・・・と、そう思っていたところに、歴史好きの高校生がひとりぽつぽつと歩いてやってきました。そういえば天草四郎がココに眠ったのは15歳だったそうです。。。
長崎にはたくさん教会がありますね。私は特に島の教会に興味があります。いつか五島の島々の教会を訪れたいです。教会にまつわる歴史もまたドラマがありますね。これについてはまたいつか。。。
Posted by いっきゅう
at 13:01
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