季布(き・ふ)、(?~?)とは、戦国時代末期~漢代の人物。項羽(こうう)に武将として仕えたが、項羽の敗死後、逃亡し、やがて、漢王朝に伝えた。
項羽の武将としての具体的な事績は伝わらないが、項羽の武将にしては、知名度の高い人物である。
項羽の死後は、劉邦(りゅうほう)に仕え、劉邦の皇后であった呂雉(りょち)の無謀な匈奴(きょうど)討伐を諫め、その後、漢の皇帝となった文帝(ぶんてい)を諫めたことでも知られる。
義侠心と剛毅な人物で知られ、「季布の一諾(いちだく)」は故事成語ともなった。
この項目では、季布の親族である丁固(ていこ)、季心(きしん)、季布の命を救った朱家(しゅか)、季布と同様に項羽に仕えながら、劉邦にも仕えた利幾(りき)、許猜(きょせい)、鄭君(ていくん)、かつては項梁に仕えていた説がある柴武(さいぶ、陳武(ちんぶ)とも呼ばれる)についても、あわせて紹介する。
楚の国の出身の人物であり、感情は激しいが、誇り高く、義侠心がとても強い人物であり、楚の国において、名が知られていた。
季布は、いつの時期から仕えたか、分からないが、「西楚の覇王」を名乗り、楚の国の王になった項羽に仕えた。
※創作作品などでは、早い段階から、項羽の叔父にあたる項梁(コウリョウ)に仕えており、その武将となっていることにされることが多いが、史書では、季布はあくまで項羽に仕えていたことが分かるのみである。季布が秦の章邯(ショウカン)や王離(オウリ)との戦いの時に、項羽の部下として仕えていたかは分からない。
季布は項羽に、武将として用いられ、兵を指揮することになり、しばしば漢王である劉邦を追い詰めた。
『史記』の著者である司馬遷(シバセン)も、「項羽のような激しい気性の君主の部下でありながら、季布は勇猛さで楚の国で知られる存在であり、しばしば、軍を率いて、敵の旗を何度も奪い取った」と記しており、季布の名は、かなり知られており、相当に活躍していたことは推測できる。
だが、季布が、項羽の武将として、どれほどの立場であったかは分からない。項羽と劉邦の戦いである楚漢戦争そのものにおいては、その名は一度も史書にあらわれない(もっとも項羽陣営に関してはその記述そのものが少ないのも事実である)。
また、陳平が挙げた項羽の臣下の忠義厚く優れた人物は、「范増(ハンゾウ)・鍾離眜(ショウリバツ)・龍且(リュウショ)・周殷(シュウイン)」ら数人であり、「ら」とあるため、ここの季布は入るのかもしれないが、少なくとも彼らよりは、その功績や立場は低かったようである。
※ただし、季布が加入したのが彼らよりかなり遅く、秦との戦いにおいて、項羽の部下として参加していないのであれば、彼らより功績が少ないのは当然であり、彼らより武将としての名声が劣ったのは、武将としての力量が劣っていたということではないかもしれない。
とにかく、季布の、項羽の武将としての具体的な活躍は分からないが、やがて、項羽は劉邦に敗北し、紀元前202年12月に自害してしまい、楚の国は滅亡してしまう。
季布はそのまま逃亡した。
季布に何度も追い詰められていた劉邦は、天下の主となり、「漢の皇帝」に即位すると(※)、季布に「千金」の懸賞金をかけて、かくまったものがいれば、その一族も罰するというお触れを中国全土に出した。
※『史記』では「漢王」ではなく、「高祖」と言い換えているので、このように解釈している。
季布は濮陽(ボクヨウ)の地にいた周氏(しゅうし)にかくまわれていた。
ある時、季布は周氏にこのように告げられる。
周氏「漢では、将軍に懸賞金をかけて厳しく追及しています。その追及は、私の家にも及びそうです。私が計略を将軍にお伝えしますので、お聞き届けください。もし、その計略に従えないということでしたら、私が先に自裁することをお許しくださいますように(※)」
※ 季布に周氏が「自害を願った」という訳し方もある。原文は、「願先自剄」。
季布は、周氏の計略を聞いて、その計略に従うことにした。
季布は頭の毛をそり、(罪人や奴隷のように)首枷をはめて、粗末な衣に着替え、大きな車にいれられて、周氏の家の奴隷数十人とともに、魯(ロ)の国の有名な義侠である朱家(シュカ)の家に売られていった。
誇り高く、感情の激しい季布としては、とんでもない屈辱である。特に、髪の毛は、当時、人間の生命エネルギーの宿るものと考えられており、これを剃るなどは、とんでもないことであった。それに比べ、義侠の人物である季布にとって、「自害」することなどは、それほど大したことではない。
だが、季布はこれを受け入れることにした。ここは、まだ、季布自身が死ぬ場所ではない、と考えたからであった。
朱家は、季布を見ると、すぐにその人物の正体が季布だと気づいたが、そのまま買い取って、農地にある小屋に住まわせた。さらに、朱家は息子を戒めた。
「農事のことはこの奴隷の好きなようにやらせてやれ。また、必ず、食事をこの奴隷とともにして気づかうように」
朱家は、洛陽にいた漢王朝の太僕(たいぼく。馬と車を統括する長官。漢王朝の大臣である九卿の一つ)の役職にあった夏侯嬰(カコウエイ)をたずねた。この時、どうやら、劉邦は洛陽にいて、夏侯嬰も同行していたようである。夏侯嬰は劉邦の部下の中で、特にその義侠心で知られた人物であった。
朱家は魯の国で名高い義侠の大物であり、すでに大勢の豪傑を救ってきた高名な人物であった。すぐに夏侯嬰は、朱家と会ってくれた。
夏侯嬰は、朱家を歓迎し、屋敷に留め置いて、数日、酒を飲んで話し合った。
朱家「季布は、どのような大きな罪があって、お上(劉邦)はあれほど厳しくお尋ね者として探されておられるのですか?」
夏侯嬰「季布は、主君であった項羽のために何度も、お上(劉邦)を苦しめてきたからですよ。だから、お上は季布を恨んで、必ずや捕らえようと望んでおられるのです」
朱家「あなたは、季布をどのような人物とお考えになりますか?」
夏侯嬰「すぐれた人物です」
朱家「臣下は、それぞれの主君のために役立とうとするものです。季布は、項羽の武将として用いられて、職分として、お上(劉邦)を追い詰めただけです。
項羽の臣下は全て、誅殺できるのでしょうか?
この度、お上ははじめて、天下をお取りになったばかりです。自分一人の個人的な恨みから、たった一人を追及されるとは、天下に度量の小ささを示されているようなものではないですか!
季布ほど優れた人物を、漢王朝がこのように厳しく追及されるのなら、彼は、北の匈奴(きょうど)か、南の百越(ひゃくえつ)に逃亡するだけでしょう。立派な人物を嫌って、敵国に利益を与えるようなことはあってはいけません。
あなたは、なぜ、お上をお諫めならないのですか?」
夏侯嬰は、大侠である朱家が季布をかくまっており、その上で、このことを話していることを察した。夏侯嬰はその上で、すぐにその願いを聞き入れることに決めて答えた。
夏侯嬰「おっしゃるとおりにいたしましょう」
夏侯嬰は、劉邦の暇がある時に、朱家の考え通りに伝えて、劉邦を説得した。劉邦はすぐに、季布の罪を許した。
このことを聞いた、多くの人々は、季布がその剛毅な性格をおさえて、柔軟に身を処したことを称えた。また、同時に、朱家もその名声を天下にとどろかせた。
季布は、劉邦に呼び出され、謁見すると、その罪を謝し、許されたことに礼を言った。季布は、劉邦によって、郎中(ろうちゅう、側近の一人)に任じられた。
やがて、時は流れて、紀元前195年に劉邦が死去する。
漢王朝の皇帝には、劉邦の子の劉盈(リュウエイ)が帝位についた(漢の恵帝)。劉盈はまだ、若く、後見として劉邦の皇后(こうごう)であり、劉盈の実母である呂雉(リョチ)がその皇太后(こうたいごう)として、後見となり、政治を取り仕切ることとなった。
この時には、季布は中郎将(ちゅうろうしょう)という宮中の警護の責任者の一人に任じられていた。
この時、正確な年月は不明であるが、漢の北にある匈奴(きょうど)の冒頓(ボクトツ)単于(ぜんう、匈奴の帝王)から、皇太后であった呂雉あてに手紙が送られてきた。匈奴は、漢の北に広がる広大な草原の大帝国であり、かつて、劉邦が大軍で討伐を行ったが、敗北したこともあるほどの強国である。匈奴とは一応の盟約は結ばれているが、もとより、友好国というわけではない。
「私は草原に生まれて、平野で牛馬を扱うことに長けています。その上で、何度も辺境に来て、中国の地へ遊びにいくことを願っています。陛下(呂雉のこと)は、ご主人(劉邦のこと)を失って独身であり、私も独り身です(冒頓も后に先立たれていたか、ただの言葉の綾かは、不明)。
両国の君主が寂しい思いをしており、独り身では楽しいことなどありません。どうか、私の余った男性の部分で、あなたの足りない女性の部分を埋めさせあわないでしょうか? つまりは、二人でいいことしましょう。」
またに、呂雉を侮辱する無礼極まりない文章であった。呂雉は激怒した(※)。
※ただし、この手紙は、匈奴では対等の国の国主に対する手紙であり、匈奴の冒頓単于があえて漢の習慣にあわせずに送ったものという説もあり、挑発や侮辱する意図ではなかったという意見もある。
呂雉はすぐに漢の諸将を召して、このことを議論させた。軍事に明るい季布もまた、この席に呼ばれた(季布はかつての項羽に仕え、そのまま漢に仕えた武将たちの代表的な立場であった可能性もある)。
漢の軍の代表となっていた上将軍の樊噲(ハンカイ)が発言した。樊噲は、呂雉の妹(呂須(リョシュ))の夫であり、呂雉や劉盈とは親しい関係であり、もはや、季布よりもはるかに上位の将軍である。
樊噲「私に十万の軍勢をお与えください。匈奴を討伐してみましょう」
諸将もまた、呂雉と樊噲におもねって、「その通り」と同意した。
しかし、季布は黙っていなかった。死しても、やらねばならない時は「今、この時」であった。季布は、その激しい気性と剛毅さをむき出しにして発言する。
高帝(劉邦のこと)は、40数万の将兵を率いて、平城(ヘイジョウ)で、冒頓単于に苦戦したのです(実際は敗北している)。それなのに、今回は、樊噲が十万の軍で匈奴を討伐することができましょうか? これは、君主をあざむこうとしているのです!
秦は、匈奴を討伐しようとして、陳勝(チンショウ)の乱を引き起こしました。現在、いまだ、(漢の国民の受けた)かつての戦いの傷は癒えていません。樊噲は君主におもねって、天下に騒動を起こそうとしているのです!」
季布の発言が終わると、宮廷中がどうなることかと恐れた。
それというのも、呂雉は、劉邦の皇后として、劉邦の功臣たちの粛清をむしろ先導して行ってきた。劉邦の功臣たちでも特に功績の大きかった韓信(カンシン)と彭越(ホウエツ)は、劉邦は彼らの命までは奪わないでおこうと考えたに関わらず、呂雉は、謀反の「疑い」で、彼らを一族ごと処刑していた。
さらに、呂雉は、劉邦の死後、劉邦の側室である寵愛を独り占めにして、劉盈(恵帝)の太子の地位を自分の子へと奪わせようとした戚(セキ)夫人を無残な手段で処刑し、その子である劉如意(リュウニョイ)も、子であり、皇帝となっていた劉盈が止めたにも関わらず、殺害するような女性であった。
また、樊噲にしても、戦場で大勢の人物を討ち取って来た猛将であり、「鴻門(コウモン)の会」では命がけで劉邦の命を救った豪傑である。楚漢戦争では、劉邦の代表的な武将として、項羽軍と何度も命がけの交戦をしていた。
その時に、樊噲は、項羽に仕えてきた季布とも敵対関係にあり、「劉邦を何度も苦しめた」季布とは(史書に明記はないが)宿敵関係にあった。樊噲とすれば、この時に、季布に「斬るべき!」と言われたことだけでなく、楚漢戦争の時の報復ができる絶好の機会であった。
宮廷中の人物が、呂雉と樊噲の怒りを恐れ、季布ばかりか、この言葉に同意したものや、季布を擁護したものにも後難(こうなん)が襲うのではないかと恐れ、季布の一族も危ういのではないか、と考えたことは容易に想像できる。
しかし、呂雉は、朝廷での議論を打ち切ると、また、匈奴の問題を議論しようとしなかった。季布の発言は聞き入れられた。
季布は、このことで別段、呂雉からとがめを受けることはなく、樊噲の報復も特に起きなかった。この時、季布の名声は漢の宮廷においても、広がったものと思われる。
やがて、季布は東にある河東(カトウ)の太守に任じられた。河東は重要地である。
季布は呂雉の信任を得たとともに、彼の剛毅さは中央の宮廷には向かないと判断され、地方に赴くことになったのかもしれない。
紀元前180年に、呂雉も死去し、その後の政変を経て、劉邦の子の一人であった劉恒(リュウコウ、母は呂雉ではなく、薄氏(はくし))が、皇帝として即位する(漢の文帝)。。
皇帝に即位した文帝は、これもいつの年月か不明であるが、季布のことを「優れた人物です」という人物の推薦を受けて、季布を召し出して、漢の御史大夫(ぎょしたいふ。漢王朝の副丞相。三公の一人)に任じようとした。
しかし、文帝は、別の人物から、季布のことを「剛毅すぎる上に、酒を飲むと近づくことも難しい人物です」と評判を聞いた。
そこで、文帝は、季布に都の屋敷に一か月とどめた上で、河東の地に帰すことにした。
季布「私は何の功績もないのに、歴代の(漢の)皇帝たちの寵愛を受けて、河東の地でお役目にあずかっています。陛下(文帝)は、特に理由もないのに、私を召し出しました。これは、間違いなく、私のことを、誰かが陛下をあざむいて、高すぎる評価をしたものがいたからでしょう(「あざむいて」は言葉の綾であると思われる)。私が、都についたら、今度は、何事も命じられず、帰り去るようにおっしゃりました。これも、間違いなく、私のことを悪く言ったものがいたからでしょう。
さて、陛下は、一人が私を誉めれば、私を召しだし、一人が私をけなせば、私を帰らせます。私は、天下の有識の人物がこのことを聞いて、陛下のお考えの正否をあれこれと話すのではないかと心配でなりません」
このことを聞いた文帝は黙って恥じると、時間を置いて答えた。
文帝「河東は私が股肱(ここう)の地と頼む重要な郡である。それゆえに、特にあなたを召し出しただけである」
これを聞いた季布は、文帝のもとを辞して、河東の地に帰ることにした。
楚の地方の人であった曹丘(ソウキュウ)という人物がいた(『史記』には曹丘生と書かれるが最後の「生」は先生の意味とのこと)。高名な弁士であり、何度も権勢ある人物にまねかれては相談に乗り、金銭をもらっていた。
曹丘は、貴人の趙談(※)(チョウダン)に仕え、文帝の皇后である竇氏(とうし)の兄である竇長君(トウチョウクン、竇建(トウケン)のこと)とも親しかった。
※『史記』には趙同とあるが、これは『史記』の著者である司馬遷(シバセン)の父・司馬談(シバダン)の名を避けたわけで、「趙談」が正しい。
季布は、このことを聞いて、手紙を竇長君に送って諫めた。
「私は、曹丘先生は『徳や信義のある人物』ではないという噂を聞いています。交際されない方がいいでしょう」
曹丘は竇長君の元から、楚の国に帰ることとなった。その時、曹丘は、季布に面会するための紹介状を竇長君に書いてもらうように頼んだ。
竇長君「季布将軍は、あなたのことを好んではいない。あなたはいかない方がいいだろう」
それでも、曹丘は、竇長君に紹介状を無理にお願いすると、書いてもらい、季布の元へ行くことになった。曹丘は、まず、使者を送って、紹介状を季布に届けさせた。
季布は紹介状を受け取ると、(竇長君の予想通り)激怒して、曹丘を迎い入れて話すことにした。曹丘は季布のところに来ると、一礼して、季布に向かって語った。
曹丘「楚の人は、ことわざとして、『黄金百斤(斤は重さの単位)を得ることは、季布の一諾(いちだく、一度の承知)を得ることに及ばない(季布はひとたび承諾したら約束は必ず守る。その価値は黄金百斤にも勝る、の意味)』と語っています。
あなたは、どうして、あなたのその名声を梁(リョウ、かつての魏の国の地方)や楚の地方で広く知られておいででしょうか? それは、多くの人があなたの素晴らしさを広めたからでしょう。
私は楚人ですし、あなたもまた楚人です。私が遊説して、あなたの名声を天下に広めるのは、よいことではありませんか?
どうして、あなたは、私をそれほどまでに退けられるのですか?」
曹丘は、「自分を厚く遇すれば、季布の名声はさらに広がるのに、なぜ、私をはじめから嫌いのか?」と季布にたずねたのである。
季布は、合理的な提案を行った曹丘が態度と勇気が気に入ったのか、曹丘の手により自分の名声が天下に伝わるという提案をうれしく思ったのか、この話を聞いて、大変喜び、曹丘を屋敷に引き入れて、数か月、上客として留めて、手厚く(楚の国に)送って行った。
季布の名声がますます広まったのは、曹丘がさらに高めたおかげであった。
「項羽のような激しい気性の君主の部下でありながら、季布は勇猛さで楚の国で知られる存在であり、しばしば、軍を率いて、敵の旗を何度も奪い取った。まさに、壮士(そうし。勇敢な人物)というにふさわしい人物である。
しかし、処刑される危険が迫ると、人の奴隷になってでも生き抜いて、自害しなかった。よく耐えたことだ。
季布は間違いなく、自分の才能を自負しており、だから、はずかしめを受けても、恥じないで自分の才能を活用できる場所が生まれることを望んで、(死ぬことに)満足しなかったのである。そして、漢の名将となったのだ。
すぐれた人物は本当に自分の死に場所を大事に思うものだ。それに対して、身分の低い男女が強い感情に任せて自殺するのは、本当の勇気ではなく、自分の生活設計が狂い、回復することができないために過ぎない。
いにしえの烈士でも、彼以上のことはできなかったであろう」
と高い評価を与えている。
司馬遷自身が、「すぐれた人物は本当に自分の死に場所を大事に思い、はずかしめを受けても、恥じないで自分の才能を活用できる場所が生まれることを望む」人生を歩んだこともあって、季布に感情移入し、高い評価を与えているようである(※)
※ 司馬遷は、漢の武帝時代の、匈奴討伐において、李陵(リリョウ)を弁護して、武帝から罪を得て、腐刑(ふけい。男子が去勢される刑罰)に処されながらも、『史記』を書きあげるために、生きることに甘んじた人物である。
創作における季布は、項羽の武将の中では、鍾離眜と並ぶ重要な武将として扱われることが多く、史実では彼よりも格上と思われる龍且や周殷、項羽の一族よりも活躍することや出番が与えられることが多い。
また、義理堅いイメージのためか、項羽に仕え、後に劉邦に仕えた人物たち(韓信、陳平(チンヘイ)、項伯(コウハク))らが、項羽に不満をおぼえがちなのに比べ、項羽に忠実な人物として描写されることが多い。
季布や朱家らその関係人物は、「遊侠精神」に厚い人物たちでよく知られている。そのため、ここでは遊侠について細かく解説する。
この文章は、主に宮崎一定「遊侠に就(つい)て」という論文を主に参考にしている。
※短く知りたい方は、彭越の項目「彭越について」の「当時の遊侠について」、もしくは、項伯の項目「項伯について」の「当時の遊侠の考えについて」参照
「遊侠」とは、「侠客(きょうかく)」、「任侠」、「豪侠(ごうきょう)」、「侠」とも呼ばれる。
元々の「遊侠」は、「(中国において)故郷を離れ、定まった主人を持たず、招きに応じて、各地におもむき、雇い主のために働く剣客や浪人」のことを指していた。
遊侠の起源は、春秋時代(紀元前8世紀~紀元前5世紀)において、武芸にすぐれた「士」を中心とした人物たちが、有力者に仕えて、重く取り立てられることにあるようである。かの孔子の弟子にも、子路(シロ)のように武芸にすぐれた人物もいた。
(中国の)戦国時代(紀元前5世紀~紀元前3世紀)には、「士」たちは各地に主人を求めて仕える習慣が生まれた。彼らは「食客(しょっかく)」と呼ばれ、各地を流浪し、雇った主人のために働いた。
彼ら、食客の「士」を養った主な人物としては、「戦国の四君」(※)が知られる。彼らの多くは食客を数千人も養っていた。
※孟嘗君(もうしょうくん)、平原君(へいげんくん)、信陵君(しんりょうくん)、春申君(しゅんしんくん)の四人。
この「戦国の四君」の豪快で、金銭を惜しげもなく人に分け与え、物事の約束を大事にし、正しいと思ったことは必ず実行しようとする器の大きい人格は称えられ、本来は、「侠」の保護者であった彼らが「侠」と称されるようになり、「侠」がそのような人格を称えるような言葉となっていった。
この時代の「士」族は、社会的に市民権を持つ男子を指す。「士」であれば、「庶民」と異なり、世の中の尊敬を集めることができた。ただ、次第に、庶民の中からも戦功により、「士」族に仲間入りする人物も増え始めていた。
「士」であることは、ある程度の国家に与えられた待遇だけでなく、相応程度に生活が維持できていることが条件であり、地位を一目にわかるため、帯剣を行うことが士としての権利としえ認められた。帯剣は「士」であることの表明であり、彼らは貧困になっても、(韓信のように)帯剣だけは手ばさなかった。
「士」は困窮したら、有力者の食客になるか、地位が低くても国家の役人になるしか生活の手段がなかった。商業などで生活手段にする場合は、丸腰になる必要があった。
ただし、それ以外は、無法者である博徒(ばくと)になる手段があり、この場合は、「士」として帯剣することができた。そのため、「遊侠」は「博徒」を意味する言葉に変わっていった(日本に伝わった時でも、そういった意味でつかわれている)。
帯剣の風習がなくなったのは、前漢時代であり、儒教の流行とともに、次第に廃れていった。
無法者となった遊侠は、「博徒」以外の生活手段として、「刺客(殺し屋)」や「銭の私鋳(しちゅう。金属をとかして、銭を自分で作ること。完全な違法である時代も多い)」、「墓場の盗掘」、「追いはぎ」などの「盗賊」同然な完全な犯罪行為に手を染めるものもあらわれた。
そのため、遊侠は、「政府の法律に従わず、暴力でその地方に自分勝手にふるまうもの」と強い批判を受けることも多かった。
また、遊侠は一種の社交界でもあり、「士」の娯楽場・集会場・社交場となった都市の「市場」において、宮廷の社交界とある意味では対立する民間の社交界を形成した。
先にあげた「戦国の四君」など多くの食客を養った人物たちは、この民間の社交界に積極的に入っていった。彼らは、権勢や金だけでなく、大きな度量を持つ必要があった。そのために、自然に、「人を災いから救う」、「承諾した約束を大事にする」という遊侠の道徳は、重んじられ、この社交界の鉄則となった。
そのため、この気風は民間に入った遊侠たちにでも重んじられ、彼らはただの盗賊や無法者とは言い切れない存在となり、「遊侠の黄金時代」を形成するに至った。
秦王朝の統一により、法治主義によって、遊侠たちは「士」としての立場を失い、圧迫された。遊侠たちは、宮廷の社交界に入ることはできなくなり、公然とした有力者の庇護もなくなり、民間で生きていくしかなくなった。
遊侠たちは民間にひそんで、民間にいる遊侠の中にいる有力者を中心に団結し、裏社会に強い勢力を有するに至った。秦の法治主義もいまだ、徹底していなかったため、項梁や始皇帝を暗殺しようとした張良(チョウリョウ)も潜伏することができた。
この時代から民間にいる遊侠が大きな力を有し始め、黥布(ゲイフ)や彭越(ホウエツ)、張耳(チョウジ)、陳余(チンヨ)、劉邦のような遊侠が各地に存在した。
秦王朝の次の漢王朝は遊侠である劉邦たちによって、建国されたが、遊侠たちに対しては圧迫の政策をとり、天下の豪強(豪族や遊侠の有力者)たちを関中に移し、六代目皇帝の景帝(けいてい)の時には、多くの遊侠が処刑された。
しかし、それでも前漢時代は、民間では、多くの遊侠が存在していた。
秦代から漢王朝の景帝時代までが民間の遊侠の隆盛時代といっていい。
前漢時代、遊侠が盛んだったのは、関中・燕・趙・斉・薛・南陽・呉の地方であったとされる。
漢王朝の誕生により、社交界は宮廷が中心となり、学問で立身出世を行う人物は増えたが、武勇で領主になる機会は失われた。
そのため、民間の遊侠は政治権力と結ぶことをあきらめ、時には反抗して、独自の勢力を築いていった。
彼らは独自の道徳として、戦国の四君らをまねて、「勇敢にふるまい、自己の利益を犠牲にしても、弱きを助け、強きをくじく」姿勢を見せて、男伊達にふるまい、そのことを愉快極まることだとした。
前漢時代にそういった遊侠として、(後述する)朱家・田仲(デンチュウ)、季心、劇孟(ゲキモウ)や郭解(カクカイ)が存在した。
「その行為は法に触れるものがあったが、義にあつく、廉直で、謙虚なふるまいは、称えるに足るものである。その名は何もないのに挙がっているわけではなく、多くの士も何もないのに彼らを頼ったわけではない。
今の遊侠はその行いが(国家や世の中の)正義によるものではないが、言葉は信義を重んじ、行いは果たすことを重んじ、約束は誠実であることを重んじ、自分のことよりも他の士の困窮を救うことを選ぶ。自分の命がかかった場所にまでおもむきながら、自分の行いや恩徳を自慢することを恥じる。
彼らは地方の豪族たちが、財産を積み上げて、貧しいものをこきつかい、横暴にして弱きものを侵害し、欲望のままに生きてそれを快楽としているのを見て、恥ずかしいことと見なした。
これは素晴らしいことと、称えるに足ることである」
と称賛している。
しかし、遊侠は前漢の武帝時代あたりから堕落し、裏社会にとりこまれ、ただの自分の利益をはかる盗賊や無頼の人間たちの集まりと化していった。
遊侠は宮廷と独立しても存在できる社会勢力であり、犯罪行為を行ってでも経済でも自給自足できるので、完全なる根絶は不可能であった。
そのため、漢王朝は、遊侠の社交界を、宮廷の社交界の一部に取り込むことで妥協をはかった。そのため、遊侠の代表は次第に貴族化していき、独立の気概は失われた。
遊侠の貴族化は、前漢のなかば以降には盛んになり、彼らは王莽(オウモウ)を支援することさえ行った。後漢時代では、遊侠はさらに貴族化していった。
そのためか、後漢の荀況(ジュンキョウ)は、遊侠のことを「気勢を立て、尊大にふるまい、個人的な交際を行い、その強さを誇って、世の中で生活するものであり、徳の賊(害するもの)である」と評価している。
中国の講談を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
元々は、秦の会稽(カイケイ)郡守である殷通(インツウ、項梁の項目「項梁に関係する人物たち」参照)に、鍾離眜とともに、仕えていた武将であったが、殷通が項羽に斬られた後、項梁に仕え、その武将となる。
項梁に范増を軍師として推薦し、勧誘に成功して連れて帰ってくる。項梁の戦死後も項羽に仕え、英布(エイフ)や鍾離眜と並ぶ、項羽の重要な武将として、秦や劉邦との戦いで活躍する。
戦いにおいてだけでなく、項羽を何度も諫めるなど、知勇に優れた武将として描かれる。
項羽が「四面楚歌」におちいり、兵が逃げ出した時に、項羽を一緒に討ち死にするよりは再起を期そうとして、鍾離眜とともに逃亡する。
その後は史実の通り、周氏(この作品では周長(シュウチョウ)という名とされる)と朱家にかくまわれ、朱家の活躍により、劉邦に仕えることになる。
その後、劉邦に、「鍾離昩が韓信の元にいるであろう」ことを告げている。
『史記』本文では、丁公と書かれているため、創作作品でも、「丁公」と記されることが多い(丁固はあくまで『史記』の「注釈書」に記される名である)。
季布ととともに、楚軍の武将となり、項羽の部下として劉邦と戦った。
紀元前205年4月、劉邦は項羽の本拠地であった彭城(ホウジョウ)を落とし、圧倒的大軍であったにも関わらず、彭城に攻め寄せた項羽に大敗した(彭城の戦い)。
項羽の武将として、この戦いに参加していた丁固は、逃走した劉邦を追撃し、直接、刃をまじえての戦いとなり、劉邦は危機におちいった。
劉邦は丁固を見て、「二人のすぐれた人物が、お互いに苦しめる必要はないではないか」と語りかけた。
どういった心理か、丁固は、兵を率いてもどっていった。
紀元前202年12月、項羽が滅び、同年、2月に劉邦が皇帝に即位する(当時は10月が年始)。
この頃、丁固は劉邦に謁見をした(季布が劉邦に登用された時期との前後関係は不明であるが、それ以前のことであると考えられる)。
丁固は項羽の滅びた後で、劉邦に仕えに来たものと考えられるが、この時、丁固は、劉邦に捕らえられ、軍中で引き回された。
劉邦は宣言した。
劉邦「丁公(丁固)は、項羽の臣下でありながら、不忠であった。項羽が天下を失わせた人物は、丁公である。後世の人臣たろうとするものに、丁公に習うものを生み出させてはならない」
そのまま、丁固は、処刑された。
上述した通り、この事件の時期は不明であるが、季布がずっと正体を隠していたのは、「劉邦を助けたことのある(親戚の)丁固すら、このようであったから」が理由の一つであると思われる。
実際に、項羽の重要な武将であった鍾離眜も(どのように死んだか、二つの説はあるが)許されずに、自害もしくは処刑に追い込まれている。
劉邦の方から呼びかけたことであるにも関わらず、劉邦の丁固に対するこの処置は、同じように劉邦に降伏した項伯らに対するものと比較すると、余り納得できない人も多いのも事実である。
そのため、上述した『通俗漢楚軍談』では、このようにその処置が行われた理由が改変されている。
彭城を敗走する劉邦を、項羽の武将である雍歯※(ヨウシ)と丁固が追撃し、雍歯は徹底的に追い詰めたが、丁固は劉邦の説得により、「劉邦に恩を売りつけた方が得」であると、追撃を断念した。
※史実では、項羽に仕えたことはないが、この作品では項羽の武将の設定
後に、劉邦が項羽を滅ぼした後、劉邦は恩賞をもらえなかった武将たちが謀反を起こそうと相談をしていることを張良から聞いて、張良に対処法を相談する。
張良「武将たちの仲で、陛下(劉邦)が最も愛する人物は誰で、最も嫌う人物は誰ですか?」
劉邦「最も愛するのは、わしを助けてくれた丁公(丁固)だ。最も嫌うのは、わしを追い詰めた雍歯だ」
張良「雍歯は忠臣でありますが、丁公は裏切りものです。丁公を斬り、雍歯に恩賞を与えれば、陛下が嫌う雍歯すら恩賞を与え、忠臣を賞したことにより、謀反はなくなるでしょう」
と、進言される。
そのため、雍歯は「侯」として賞されたが、丁固は処刑される。劉邦の諸将たちは、「雍歯ですら賞された。我らも恩賞が降るだろう。丁公のようなことをして命を失ってはいけない」と言った。
季布の弟。ただし、年はかなり離れていたと思われ、季布の子とする説もある。
その気概は関中(※)を覆うとまで言われ、他人にはうやうやしく、謙虚にふるまい、「任侠」にふさわしい行い(人助けや約束を果たすこと)につとめていた。
※ 季布の弟でありながら、気概が「楚」ではなく、「関中を覆う」と言われているのは、明らかに季布が漢に仕えてから、関中に来たものと思われる。そのため、季心はおそらくは項羽に仕えてはおらず、季布のかなり年の離れた弟か、子であると思われる。あるいは、彼は劉邦が各地の豪族を関中に移してきた時に移住した一人なのかもしれない。
季心のいる周囲数千里の遊侠の士は、争って彼のために死のうとした。季心はかつて(おそらくは遊侠の行いのために)殺人を犯し、呉の国に逃亡した時には、袁盎(エンオウ、漢の文帝や景帝に大臣として仕えた人物)のところにかくまわれた。そのため、季心は、袁盎に年長者として仕えた。
また、灌夫(カンフ、漢の景帝や武帝に地方官として仕えた人物)や籍福(セキフク)のような漢王朝に仕えながら、遊侠精神に強い人物を弟のようにかわいがった。
かつて漢王朝に仕えて、中尉(ちゅうい)の司馬の役職にあった時には、(上司にあたる)中尉の郅都(シツト、厳格に法律を守り、厳しく人を罰する酷吏であった人物)でさえ、季心には、礼節を守って接した。
(遊侠らも含む)無頼の徒は、季心の名を借りて、関係があるように多くのものがふるまった。
漢王朝の初期の時世において、季布が(約束を必ず守る)「諾」で名を挙げたのに対し、季心は、(勇ましさである)「勇」で、その名を関中で挙げた。
袁盎は、「危急におちいった時、頼まれたら、必ず助けてくれる人物は天下に、季心か、劇孟(遊侠として当時、名高い人物)しかいない」と季心のことを高く評価していた。
季心は、兄の季布や(後述する)朱家の志を継ぐ、数少ないすぐれた遊侠の一人であったと考えられる。
劉邦とほぼ同時代を生きた人物である。
魯の地に住んでいた。魯の地は、儒学が盛んな地であったが、朱家は義侠の行いで、名高かった。朱家にかくまわれ、命を救われた豪傑や義侠の士は、百人にものぼり、その他の凡人たちを救うことは数えきれないほどであった(※)。
※ 秦の国家の追及から大勢の人物をかくまったということであろう。周氏のところから大勢の奴隷を買ったのも、わけありの(敗れた国家の)戦争犯罪者やその一家が悲惨な牢獄や過酷な強制労働をさせられるのを救うために、普段から、行っていた行為なのかもしれない。
それでも、朱家は自分の能力を誇らず、その恩徳を施したことを自慢もせず、恩徳を施した人々に会って感謝されることも嫌っていた。
朱家は困っている人を救う時は、貧しい家から優先した。家には余った財産はなく、衣もつぎはぎだらけであり、食事は一品だけで、外出する時も、仔牛が動かす車に乗った。
だが、他人が危機におちいった時には、自分の時よりも、急速に行動した。本文の通り、季布の危機も救ったが、季布が高い地位につくと、生涯、彼に会おうとしなかった。
函谷関(カンコクカン)より東にいる人たちで、彼と交際することを熱望しない人はいなかった(※)。
※ なぜ、函谷関より西の関中(カンチュウ)や蜀の人々が外れているのかは不明であるが、秦の時代のことを書いているのかもしれない。
楚の国の人に田仲(デンチュウ)という人物がいて、この人物も義侠の行いで有名であり、剣術を好んでいた。田仲は朱家を父として、仕えていたが、その行いにおいて、「朱家に及ばない」と思っていたと伝えられる。
朱家も田仲も、(項羽のために最後まで抵抗した)魯と楚の出身であり、それ以前から、季布と関係がある可能性もあるため、(軍に入っていたかはともかく)、項羽に仕えていた時期があった可能性はある。
朱家は後世の遊侠に模範を垂れた人物と考えられ、『史記』を記した司馬遷も朱家を理想として、『史記』に「遊侠列伝」を設けたものと考えらえる。
元は、項羽に仕え、項羽の武将となっていた。項羽により、「陳公※(ちんこう)」に任じられていた。
※ 「陳公」は、「陳県の県令(県の長官)」説と、「陳県を中心としたいくつかの県の軍を率いる軍事責任者」説がある(これを書いた人は、後者の方が新しい学説であることもあって、説得力があるように感じる)。
項羽が敗れると、項羽に従わずに、逃亡して、劉邦に降伏する(※)。
※ 利幾は「垓下(ガイカ)の戦い」前後に、項羽が死ぬまえに劉邦に降伏したようである。「垓下の戦い」の直前には、利幾が領していた「陳」の地で激しい項羽軍と劉邦軍の戦いが行われ、項羽軍が敗北しているため、利幾はこの時に降伏したのかもしれない。
(おそらくは、紀元前202年12月の項羽の死後に)利幾は、潁川(エイセン)の地を領土とする「侯」に封じられる。
同年の7月か8月、劉邦が燕王に封じていた臧荼(ゾウト)が反乱を起こす。劉邦、自ら、臧荼を討伐して、捕らえる。
劉邦がその帰りに、洛陽(ラクヨウ)によると、列侯の名簿を見て、利幾を呼び寄せた。
利幾は粛清されるのではないかと恐れ、秋(7~9月)に、謀反を起こす。
劉邦はみずから、利幾を討伐すると利幾は敗走した。
この後に史書に登場はしないが、逃亡先で殺害されたか、捕らえられ処刑されたものと考えられる。霊常(レイジョウ)という人物に敗れたという記述もあるので、彼に討たれたのかもしれない(霊常については、「黥布」の項目、「黥布に関連する人物たち」参照)。
劉邦はこの時には、特に臧荼に謀反を起こされた以外は、別に諸侯王に対する粛清は行っておらず、利幾は「そそっかしい」人物であると評する意見もある。
項羽の武将であったが、紀元前204年、楚と漢がほぼ互角の攻防を行っている時に、臨済(リンサイ、かつて、魏の国の首都としていた土地)において、劉邦に降伏して、劉邦に仕える。
劉邦の郎中に任じられ、劉邦に従って、項羽や(紀元前197~195年に劉邦に謀反を起こした)陳豨(チンキ)討伐で功績をあげた。
壯(そう)侯に封じられ、六百戸を与えられている。功臣としての順位では112位である。
劉邦は、元々、項羽の部下だった人物に、項羽の名である「籍(セキ)」と呼ばせて、(呼び捨てできるかどうか)試したことがあった。
この時、鄭君だけは従わなかったため、他の人物は、「大夫(たいふ)」の爵位に任じられたが、鄭君は追放された。
鄭君は漢の文帝の時代(在位:期限前180年-紀元前157年)の時に死去した。
鄭君の子である鄭当時(テイトウジ)は、漢の武帝時代に高官に任じられている。
史書において、「陳武」とも呼ばれる(三国志の陳武とは当然、別人)
紀元前208年、劉邦が項梁の配下になった頃に、薛(セツ)の地において、2,500人の兵を率いる武将として、劉邦の部下となる。
この時代の劉邦は一万の軍も率いておらず、突然、2,500人も率いる人物が、項梁の軍ではなく、劉邦の軍に入るのは不自然である。
このため、柴武は、紀元前208年4月に、劉邦が薛の地にいる項梁のところに来て、その参加に入った時に、項梁が豊(ホウ、劉邦の故郷)攻めのため、劉邦に援軍として与えた五千人の軍の武将の一人であったと考えられる。
同年同月、柴武は劉邦とともに、豊を守っていた雍歯(ヨウシ)を攻撃し、豊の攻略に成功している。
同年8月、項梁が秦の章邯(ショウカン)と交戦した時に、別軍を率いて、功績をあげる。この時には必ずしも劉邦の正式な部下とはなっておらず、独立して軍を率いていたようである。
紀元前207年12月頃、劉邦は秦の本拠地である関中(カンチュウ)を目指して、西へ進軍していた。この時、劉邦は、群雄であった彭越(ホウエツ)と出会い、共同して、秦軍が守っていた昌邑(ショウユウ)を攻めることにした。
しかし、共同して攻め込んだにも関わらず、戦況は不利であり、一度、撤退して栗(リツ)の地に来ると、「剛武侯(ごうぶこう)」に出会い、その軍、四千人余りを奪った。劉邦は魏の武将である皇欣(コウキン)、武蒲(ブホ)や彭越とともに、再度、昌邑を攻めた。
この「剛武侯」は、柴武のことであるという説が、史書の注釈に記されている。その注釈によると、柴武は、楚の懐王(かいおう)・羋心(ビシン)の配下であったとされる。また、この時の柴武は、魏の武将であったとする注釈もある。
この時の劉邦は、不自然な動きも多く、魏の方につこうとしていた説や自立をはかっていた説もあるが、劉邦が楚の独立軍であった柴武の軍を奪い、彼を配下の武将としたとすることが最も自然な解釈だと思われるので、ここではそのように解釈しておく(※)
※「剛武侯」は姓名が記されていない、柴武とは別人であるという説もある。
再度の昌邑攻めも失敗に終わり、劉邦はさらに西に向かうことになった。柴武も劉邦に従軍して関中攻めに参加した活躍したようである。
ただ、柴武は、元々は劉邦の部下でなかったこともあってか、項羽によって「漢王」に封じられた劉邦の漢中入りには従わなかったようである。
それからの柴武の消息は不明であるが、紀元前205年10月、劉邦が章邯らを討伐し、関中を制したことに劉邦の参加に入った。
それからしばらくは功績がなかったが、紀元前203年10月頃、韓信(カンシン)に従い、斉討伐において、歴下(レイカ)の地にいた斉の将軍である田既(デンキ)の軍を破った。
紀元前202年12月、劉邦と項羽との最後の決戦である「垓下(ガイカ)の戦い」において、周勃(シュウボツ)とともに劉邦の後軍を率いている。
紀元前201年3月、棘蒲(キョクホ)侯に封じられている。功臣としての順位では13位とかなり上位に位置付けられている。
紀元前196年正月頃、劉邦に反乱を起こした韓王信(カンオウシン)が、匈奴(きょうど)の軍を引き連れて、(かつて代(ダイ)の地と呼ばれていた)参合(サンゴウ)に地に攻め込んできた。
将軍となった柴武は劉邦に命じられ、韓王信を討伐した。柴武は韓王信に降伏をうながそうとして手紙を送った。
「陛下(劉邦)は、寛大で人徳あるお方です。諸侯に反して逃亡したものがいても、また、帰ってきたら、元の官位と称号をもどしてあげられ、処刑はされていません。これは、大王(韓王信)もよくご存じと思います。王(韓王信)は、敗れて、匈奴へと逃亡しただけです。大きな罪はありません。すぐに、漢に帰り参じください」
しかし、韓王信が降伏を拒否したため、戦闘になった。柴武は、参合の城を落とし、韓王信を斬った。
紀元前180年、「呂氏の乱」が起こり、漢の実権を握っていた呂氏(劉邦の皇后であった呂雉(リョチ)の一族)が誅殺され、皇帝であった劉弘(リュウコウ、恵帝の子)は廃された。
この時、代王であった劉邦の四子である劉恒(リュウコウ)を皇帝として迎えることを決定し、将軍(※)であった柴武は、陳平や周勃とともに、劉恒を出迎えた。
※ 『史記』文帝本紀には「大将軍」とあるが、ここでは、『史記』「漢興以来将相名臣年表第十」により、大将軍に任じられたのは紀元前177年とする。
ある時、将軍であった柴武は、他の人物とともに、文帝に進言する。
「南越(なんえつ)と朝鮮の国は服属して臣下となったはずですが、兵を有して険阻(けんそ)な土地によって、形勢を観望しています。高祖(劉邦)のときは、天下が定まった ばかりで、討伐軍を出すことができませんでしたが、いまなら、兵も民も喜んで討伐や徴用に従いましょう。どうか、南越と朝鮮を討伐されてください」
しかし、文帝は討伐に賛同せず、南越・朝鮮討伐は取りやめとなった。
紀元前177年6月、文帝が匈奴討伐に、代の地である太原(タイゲン)の地に留まったと聞き、済北(セイホク)王である劉興居(リュウコウキョ、劉邦の長子・劉肥(リュウヒ)の子)が謀反を起こし、滎陽(ケイヨウ)の城を攻撃しようとした。
この時、柴武は文帝によって、大将軍に任命され、10万人の軍を与えられ、劉興居の討伐を命じられる。
同年8月、柴武は劉興居を破り捕らえた。劉興居は自害し、済北国は漢の直轄領土となった。
紀元前174年、息子の柴奇(サイキ)が淮南(ワイナン)王・劉長(リュウチョウ)の謀反に加担したとされ、処刑された。
紀元前163年、死去している。
子の柴奇(サイキ)が謀反に参加した関係で、棘蒲侯の後継は置かれず、その領土は没収されている。
韓信とともに、漢の大将軍に任じられた数少ない人物の一人である。
『史記』について、原文や読み下し文、翻訳だけでなく、注釈を踏まえた解説や、全体的な解説を加えた書籍。翻訳だけでは理解しにくい時代背景や人物解説、その時代の研究やその論文の要約、紹介も行った書籍。
翻訳だけなら、「ちくま学芸文庫」を参考にした方がいいが、内容を深く理解したい時は、「新釈漢文大系」の『史記』がおすすめである。金銭に余裕がない人は大きい図書館に置いている可能性は高いので、蔵書から探して読んでみよう。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/13(月) 20:00
最終更新:2025/01/13(月) 19:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。