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◆昨日の読書 ・フィリップ・ラクー=ラバルト、ジャン=リュック・ナンシー『ナチ神話』(松籟社、2002) ・加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』(NHKブックス、2007) とはいっても『〈個〉からはじめる生命論』は前半のみ。 第一章「胎児や脳死者は人と呼べるのか―生命倫理のリミット」で主要な標的となっているのはトゥーリーやシンガーの功利主義に立つパーソン論だが、「関係性の考慮」云々をめぐる議論は功利主義に関する基本的な誤解に立っているとしか思えない。(またそれと関連することでもあるけれど、パーソン論で言われる「パーソン」概念の思想史的背景を考えるならば、「倫理的配慮を受けるに値する」者たる「〈誰か〉」――人格(パーソン)に代わるものとして――への依拠も的外れに見える。) 第二章「「生まれない方がよかった」という思想―ロングフル・ライフ訴訟をめぐって」では、前半部分で各国でのロング
◆アンスコム「ルール・権利・約束」 ・G. E. M. Anscombe, "Rules, Rights and Promises," Midwest Studies in Philosophy 3 (1978); reprinted in Ethics, Religion and Politics (Basil Blackwell, 1981), pp. 97-103. ********************************************************* I ヒュームは約束について二つのテーゼを唱えた。一つは、約束が「自然には理解不可能 naturally unintelligible」だというテーゼであり、もう一つは、もし仮に(本当は不可能であるにせよ)約束が「自然に理解可能」であったとしても、約束が何らかの義務を自然にもたらすことはあり得ないという
◆A・フォード「行為と類種関係」(1/3) ・Anton Ford, "Action and Generality," in Anton Ford, Jennifer Hornsby & Frederick Stoutland (eds.), Essays on Anscombe's Intention (Harvard University Press, 2011) [pdf] とりあえず冒頭の三分の一ほどを訳してみたもの。 この論文の主題である"generality"とは、よりgeneralな類(genus)とよりspecificな種(species)との間の関係如何に関わる問題である。こうした趣旨を汲んで、"generality"は基本的に「類種関係」と訳した。(ただし、種のspecificityとの対比で類のgeneralityについて語られる箇所は「類的性格」と訳した。) *
◆F・スタウトランド「アンスコム『インテンション』の要約」(1/2) ・Frederick Stoutland, "Summary of Anscombe's Intention", in A. Ford, J. Hornsby & F. Stoutland (eds.), Essays on Anscombe's Intention (HUP, 2011) これは序論とは別に、編者のスタウトランドが与えている「要約」。(やはりトンプソンからの影響がそこここに見え隠れする。) 文中での「[8=14]」といった表記は、Intention原著の頁付け(この場合は8頁)と邦訳の頁付け(14頁)を表す。また幾つかの箇所で、文意を明確にするために「〈…〉」記号を用いた。 ************************************************* 以下に記すのは、アンスコム
◆Coulter ・Jeff Coulter, The Social Construction of Mind: Studies in Ethnomethodology and Linguistic Philosophy (Macmillan, 1979) ひとまずざっと読み終える。(邦訳本を参照しなかったのはひとえにその入手困難ゆえなので、他意はありません。) 読む前はかなり詰まらない本なのではないかとやや危惧していたものの、自分なりに得るところがあって面白かった。(正直すまんかった。)とは言っても、本書の議論内容自体に教えられる所が多かったというよりも、むしろこの本で採られている基本的な方向性からはかなり外れるような形でエスノメソドロジーの可能性が少し垣間見えた(ように感じる)ということなので、他の人に本書の一読を勧めようという気にはあまりなれないのだけれど。 ごくごく大まかに本書の
◆カヴェル「ルールと理由」(3/3) これとこれの続きで、どうにか完結。 (前の部分も若干修正しました。) ・Stanley Cavell, The Claim of Reason (OUP, 1979), Chapter XI "Rules and Reasons" (pp. 292-312)を日本語にしてみたものであります。 ・本論中で論じられているロールズの「ルール」論文について、カヴェルは初出雑誌(Philosophical Review, Vol. LXIV, No. 1, 1955, pp. 3-32)のページを指示している。ここではそれに併せて、次の邦訳の参照ページを示した。ジョン・ロールズ(田中成明編訳)『公正としての正義』(木鐸社、1979)(ただし、“practice”の訳語として「実践」ではなく「慣行」をあてた点をはじめ、必ずしも上掲書の訳文にしたがってはいない。
********************************************** 刑罰の功利主義的正当化と義務論的正当化との和解調停の試みについて、ここでは、私がどのような点でそれに留保を付けたいのか、大まかに概略する以上のことはできそうにない。 刑罰は、約束することや約束を守ることとは違って、明らかに社会的制度に該当する(あるいは社会的制度を含んでいる)が、「刑罰の制度」について考えるには二つの考え方がある。[まず第一に]それは、親族システムや法、宗教といった制度、[人間]社会を蜜蜂の巣や銀河系からは分かつ意味での制度と同列に考えられる。すなわち、総じて人間の共同体を記述する一般的な次元という意味での制度、である。あるいは[第二に]、一夫一婦制や一神教、殉死、石打の刑などと同列の特定の制度として考えることもできる。すなわち、一つの社会を別の社会から、あるいは以前の同じ社会か
********************************************** その究極の姿にまで達したとしても功利主義の道徳哲学は結局のところ、ごく基本的な二つの道徳的原理には抵触するのではないかと多くの哲学者に危ぶまれてきた。問題となるのはすなわち、約束を守らない方が全体的に見て最善だという事情は、約束を破る理由としては容認できないということ、および、無辜の者を罪ある者と同様に扱ってはならないということ、である。近年現れた中では最も啓発的と思われる倫理学的著作において、少なからぬ哲学者はこれらの反論から功利主義を擁護すべく、こうした批判者は(またもしかすると[功利主義に与する]論者自身でさえ)功利原理が適用可能なポイントを見誤っているのだと主張している。そうした哲学者も認めるように、たしかに功利主義は、個々の約束や個々の処罰に関してわれわれが抱く道徳的感情に忠実であるこ
◆Cavell, CR ・Stanley Cavell, The Claim of Reason: Wittgenstein, Skepticism, Morality, and Tragedy (OUP, 1979) まだ第1部途中の第4章まで読んだだけ。 500ページ近くに及ぶ大部の分量ゆえ敬遠したくもなるけれども、文章のスタイルからするとこれはカヴェルの著作の中では最も読みやすいものだと思う。(少なくともここまで目を通した限りでは。) 本書の第1部「ウィトゲンシュタインと知識の問題」での基本的な論点について、『哲学の〈声〉―デリダのオースティン批判論駁』(春秋社、2008)には次のような言及がある。 …私は『理性の呼び声』の初めのところで、ある発見をしたが、喜びをこめてそれをここに書きとめておこう。ウィトゲンシュタインは彼が独特の意味をこめて使う「規準(criterion)」―
◆Paul Redding, Analytic Philosophy and the Return of Hegelian Thought (CUP, 2007) ひとまず第6章まで読む。これに続く第7、第8章では、最近のプリーストの試みについての話も交えつつヘーゲルの矛盾概念について論じられるとのこと。しかしその辺はあまり関心がないのでここらで一旦打ち止め。ここまで読んだ範囲で既にお腹いっぱいという感じでもあるし。 何となく、もう少し気楽な感じで読めるような本なのかと予想して(若干あなどって)手に取ったのだけれども、きちんと読みこなすにはカントやヘーゲルについてそれなりの知識が前提として要求されているらしいことが判明。そうした予備知識が自分に欠けているせいなのかどうなのか、(少なくともここまで読んだ限りでは)取り上げられる話題の展開の仕方がやや雑然としているというか、全体を貫く主筋が
◆Vendler, Mourelatos ・Zeno Vendler, "Verbs and Times" (1957) ・Alexander P. D. Mourelatos, "Events, Processes, and States" (1978) ついでなので、この機会にアスペクトの問題について勉強しておくか、ということで、ケニーの本は前に見てあったのでその続編。これらを見ると取りあえずは「アスペクトをめぐる哲学史」の大要が分かってしまうというのは、嬉しいような、悲しいような。 ----------------- 半世紀を経てヴェンドラー論文を振り返ってみると、その日常言語哲学チックな論述スタイルや、ライル的な行動主義への共感があらわに見えるあたりがやはり、その後の哲学の流れ中でヴェンドラー(やケニー)の切り開いた問題領域への関心を閉ざす要因となったんではなかろうか、――と
◆かわいい認識論理 ・http://blog.livedoor.jp/exphenomenologist/archives/51186067.html ハッキングのいわゆる「ループ効果」――人があるカテゴリーの成員として捉えられるためには、当人はそのカテゴリーの概念を持っていなければならない――のちょうど裏返しに、それを自分自身に適用しない人だけが属するようなカテゴリーが存在して、ことによると「かわいい(人)」というのもそうしたカテゴリーの一つなのではないかという気もするのだけれども、しかしそれは「ある人が自分がかわいいと知っているならば、その人はかわいくない」というように知識の概念を用いて定式化されるべきものなのかがちょっとよく分からない。 自分の感覚としては、これはむしろ信念の概念を用いて、「ある人が自分がかわいいと思って(信じて)いるならば、その人はかわいくない」という形で述べた
◆B・ウィリアムズ「直観主義は何を含意しているのか」 ・Bernard Williams, "What does intuitionism imply?" (1988); reprinted in Making sense of humanity and other philosophical papers 1982-1993 (CUP, 1995) かなり駆け足で議論が進むこともあって、英語で読んでよく分からんものは、日本語に移してもやはりよく分からん罠。 (方法論的)直観主義には理論構築のモデルとも知覚観察のモデルとも違った第三の道があるというのだけれども、むずかしいのう。 ******************************************************** 倫理学における直観主義は、今日では通常、方法論的な教説として扱われている。ジョン・ロールズが『正
◆暑っつい。。。 こんなの五月じゃない。(われに五月を) ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ―美学と政治』(法政大学出版局、2009)。一応読了。しかしこれは本文が僅か60ページ程しかないのだった。なお、本文以外には、訳者によるランシエールへのインタビューと、訳者による解説が加えられております。 バディウとかいう人がどーしたこーしたという訳者解説での現代思想的なお話は私にはさっぱり分からんですが、本文の方はそれなりに面白かった。それはまず差し当たっては、リオタールの崇高論とかベンヤミンの複製技術論が普通に流通していることに覚える違和感からすると、ランシエールのコメントは非常に納得のゆくものだという点で。しかし小著からは、美的なものを支えている表象の体制に照準を合わせることで、美的なものを取り巻く政治的布置を浮かび上がらせようというランシエール自身の積極的なプログラムの全
◆メモ ・Jacques Rancière, "The sublime from Lyotard to Schiller: Two readings of Kant and their political significance" ・Jacques Rancière, "The Aesthetic Revolution and Its Outcomes" [pdf] 芸術と生を一つに繋ぎ合わせる「美的ユートピア」というシラー的理念が辿った命運: 三つの主要なシナリオ (1)芸術が生となる――自己教育としての芸術 ・美的革命――新たなsensoriumの創出を通じての新たな集団的エートスの涵養 ・ヘーゲル、シェリング、ヘルダーリン「ドイツ観念論最古のプログラム」 ・初期マルクス――「人間の解放」 ・ウィリアム・モリスとマラルメ ・アドルフ・ロース以降のモダニズム建築、機能主義的な
◆門脇俊介『破壊と構築―ハイデガー哲学の二つの位相』(東京大学出版会、2010) 【目次】 第I部 破壊としての存在論と哲学の新しいボキャブラリー 第1章 哲学の新しいボキャブラリーの創出(1994) 1 ハイデガーと存在論 2 体系的哲学と啓発的哲学――ローティの区別 3 『存在と時間』の存在論の体系的位置価 4 「可能性の制約」という考え方 第2章 存在の物語、志向性の物語――『存在と時間』の二つの顔(1992) 1 オイディプス王の「悲劇」 2 『存在と時間』の二重性 3 『存在と時間』における志向性概念についての諸研究 第II部 認知科学とテクノロジーとの対話 第3章 ハイデガーと認知科学(2002) 1 ハイデガー――哲学的大言壮語か、それとも? 2 メタファー系としての認知科学 3 存在論のメタファー系の転換――周縁から中心へ 4 認知科学批判から
◆Rawls, CP もし俺がロールズのCollected Papersを読んだら。ということで、以下のものを拾い読み。 ・"A Kantian Conception of Equality" (1975) ・"The Independence of Moral Theory" (1975) ・"Kantian Constructivism in Moral Theory" (1980) ・"Justice as Fairness: Political not Metaphysical" (1985) ・"Themes in Kant's Moral Philosophy" (1989) あとオニール先生のこれも。 ・Onora O'neill, "Constructivism in Rawls and Kant," in Samuel Freeman (ed.), The Ca
◆Gilbert, SF ・Margaret Gilbert, On Social Facts (Princeton University Press, 1989) まだ序盤。 この本ではデュルケム、ジンメル、ヴェーバーと並んでルイスの規約論が大きくフィーチャーされることになるけれども、ただしルイスへのアプローチにおいては、共有知識の概念に関するチャールズ・テイラーの懐疑論から強くインスパイアを受けているよ、というようなことなのだそうな。 どうでもいいけど、ヴェーバーについて英語で書かれた本を見るたびに、ヴェーバーの英訳テキストと日本語訳との対応関係がどうもよく分からないのが困ったもんだ。 以下は第1章からの抜粋。 ********************************************** 第1章 序論:日常的概念と社会的実在 1 前置き 個人としての人間と、個
◆ウィンチ『社会科学の理念』「第二版への前書き」(承前) こいつを途中までの宙ぶらりん状態のまま放置してたのを思い出して、その続きをやっつけ仕事的に一先ず完成。後半部分は「規則」の概念を中心とした話。 変な部分は後ほど修正します。 ******************************************** 人間行動の理解に関して述べた中で私が「規則」という語を用いた仕方にも、上とやや似た歪みが含まれている。ウィトゲンシュタインは言語使用に対して用いられた〈規則に従うこと〉という概念について論じていたが、私の戦略は、彼の議論の中心的特徴と思われるものを素描した上で、この議論をはるかに一般的な形で人間行動に当てはめようとするものであった。これは今でも良い戦略だったと私には思われる。それは何より、言語に関するウィトゲンシュタインの議論の一つの中心的な特徴として、言語を取り巻く行
本書の前半部分に関して自分が感じる疑問というのは、結局のところ、行為者性(第1章)、価値(第2章)、それに社会的協調(第3章)について論じるに当たってヴェルマンが一貫して依拠している「理解可能性」という概念、あるいは「意味をなす」という概念に関する疑問に集約されることになりそうである。 ・本書前半の各章で鍵概念として用いられている「理解可能性」というのは決して、「相応しさ appropriateness」や「善さ」、「正しさ」を意味するものとして理解されてはならないのだと、ヴェルマンは何度も強調している。彼の言う意味で「理解可能であるもの、意味をなすもの」とは、「素朴心理学の用語で説明可能なもの」という純粋に認知的な意味しか持たないとされる。「相応しさや正しさ、良さが理解可能性から導かれるのであって、それゆえ――循環に陥るのでなければ――後者をそうした規範的な考慮から導き出すことはできない
◆ウィンチ『社会科学の理念』「第二版への前書き」 Peter Winch, The Idea of a Social Science and its Relation to Philosophy, Second Edition (Routledge, 1999), pp. ix-xviii から。 ただし以下はその前半部分(pp. ix-xiii)のみ。(「原因」と「規則」という二つの概念について説明を加えたこの前書きの内、「原因」について述べられた部分。)文章の調子がなんだか日本語に移しにくい感じで、訳文もちょっとピンぼけ気味。 ********************************************************** 増刷に際して本書に改訂を加えてはという出版社からの誘いを私はお断りしたのだが、それは決して、現行の姿のまま一語たりとも変えたくないという理由
◆ピーター・ウィンチ『倫理と行為』(勁草書房、1987) ひとまず読了。ウィンチという人の仕事には全く詳しくないので、こういう本だとはちょっと予想しなかったな。これはかなり異色。ウィトゲンシュタインの哲学的アプローチにヴィーコのような歴史的視点とシモーヌ・ヴェイユの倫理的眼差しを重ね合わせるといったようなその構えも異色とは言えるだろうけれども、それ以上に、(ウィンチ自身の言葉を借りれば)「哲学者が哲学者として語りうるようなことはもはやそれほどないように[…]思われる」(p. 283)領域に果敢に切り込んでいくといったその足取りには、ちょっと呆気に取られる。 本書の内で、第二論文「未開人の理解」をはじめとして前半部分に収められた諸論文は、意味や理解、合理性といった諸概念をめぐる社会哲学的考察ということで、『社会科学の理念』の問題圏に接するもの。そして、『論考』における意志概念の取り扱いを
◆清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房、2009) 恵投いただき読了。(ありがとうございます。) およそ基礎知識の欠落した人間でも居心地の悪さを感じずに済む丹念な議論運びであるけれども、何分こうした方面には全く不案内なこともあって、以下はかなり取り留めのない個人的感想。 「おもに言語的なフィクションの場合を念頭において、「語る」行為に焦点をおいた展望から、映画・演劇や絵画・彫刻のような「見せる」作品をも視野に入れたより包括的なフィクション理論の展望」(p. 15)を切り開くことが本書全体を通じての狙いとのことで、第四章までの前半部分ではまず、基本的に言語的フィクションを対象として統語論、意味論、語用論の見地に立つアプローチの整理と批判的検討が示されている。本書の中の長大な助走段階とも言えそうなこの前半部分については、全体を通じてそれほど大きな疑問は感じなかったのだけれども、ただ一点
◆アンスコム「行為・意図・『二重結果』」(2) これの続編。 このペースで行けば、5回くらいでお終いまで辿りつけそうではありますが、第2回目にして既にへばり気味。そもそもアンスコムがここで論じているのは哲学なのか、それとも神学なのかということからしてよく分からないんだよな…。 訳語についてですが、「[特]種的」や「種[類]」といったぎこちない表現は、“specifically”や“specific”など“species”関連の語にあてたものです。大まかに話を先取りしておくと、一方では「行為はみな行為である限りで――つまり行為一般という類に属する限りで――善いものであり、類的な善さを等しく分け持つ」という(トマス的?)主張が立てられ、またもう一方では、個々の善い行為について、それがいかなる種類に属する善い行為であるか、どのような「種的な善さ」を持つかが問われる、――といったような構図を念
◆アンスコム「行為・意図・『二重結果』」(1) 毎度おなじみ流浪の和訳練習シリーズ第二弾ということで、アンスコムの1982年の講演“Action, Intention and ‘Double Effect’”を訳出していく予定。 (なおこれは、ウッドワード編集の二重結果論アンソロジーにも採録されてますが、訳出にあたってはアンスコムの論文集Human Life, Action and Ethics (Imprint, 2005), pp. 207-226に収められたものを底本としています。以下はそのうち、207頁から210頁下段にかけての部分。) ********************************************************* 英国等で主流の哲学において「行為の哲学」が問題となる場合、「行為」や「行為者性」という語に制約を加える慣わしがあります。そのた
◆行為の哲学史、その他 ・Stewart Candlish & Nic Damnjanovic, "Reason, Action and the Will: the fall and rise of causalism," in Beaney, M. (ed.), The Oxford Handbook of the History of Analytic Philosophy (OUP, forthcoming) [pdf] ウィトゲンシュタイン、ライル、アンスコムによる因果説批判(身体行動の原因たる意志作用の概念への批判)に対して、デイヴィドソンはきちんとした対応をついに怠ったのではないか、というような内容。 ・John M. Finnis, "Anscombe's Essays," National Catholic Bioethics Quarterly, Vol. 9 (200
◆Wiggins, NVT “Truth, Invention and the Meaning of Life”(1976)と“A Sensible Subjectivism?”(1987)。 あいかわらずよく分からんわけですが。 “Truth~”なんかは、その後の議論の流れを大きく方向付けた論文ということになるのだろうけど、非認知主義的な価値理論ではイカン(し、素朴な認知主義でもイカン)のだという話はいいとして、議論の内容が正直あんまりピンとこない部分も多くてどうなんだろな、と。これはまあ時代的なコンテキストを良く知らないままに読んでいるせいかもしれないけれども。 ◆いろいろ 疲れたー。見知らぬ人が大勢いる場に行くと、他人の常同運動がひどく気になって精神的にくたびれる。 今川英子(編)『林芙美子 巴里の恋』(中央公論新社、2001)を読み終える。 1931年から32年にかけての
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