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廃墟で歌う天使―ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を読み直す (いま読む!名著) 作者: 遠藤薫出版社/メーカー: 現代書館発売日: 2013/06/01メディア: 単行本この商品を含むブログ (4件) を見る タイトル通り、ベンヤミンの古典を題材にしたメディア論の教科書的な本であり、初音ミク論でもある。 このような情報が記録される記憶媒体(映画フィルムや写真のネガ、レコードなど)、つまり物質性を持ったものの複製ではなく、デジタル(データ)化され実体も場所も持たない抽象世界での「情報それ自体」の「再製」を可能にした技術を、本書では「メタ複製技術」とよぶ。 遠藤薫はそのように定義したうえで、インターネットなどでの「N次創作」的な状況を「メタ複製技術」の観点で考察し、初音ミクからベンヤミンの複製芸術論をとらえ直す。 初音ミクのほか、Perfume、“江南スタイル”などへの言及もあり、『ソーシ
『ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ』では、ネット動画が発達して以降の音楽(との遊びかた)に関して、音+映像+αの同期の楽しさが目立っていることを考察した。その延長線上で最近、次のような原稿を書いた。 「ディズニーから初音ミクへ受け継がれる同期の娯楽」(ビジスタニュース)http://bisista.blogto.jp/archives/1621421.html 東京ディズニーランド開業30周年を記念して書いたこの文章では、音+映像+αの技術の先達としてディズニーに着目し、その楽しさが初音ミクにも継承されていると指摘した。文中ではディズニーの3D映像アトラクションにも触れ(最近、TDLの「スター・ツアーズ」がリニューアルされましたね)、故マイケル・ジャクソンの「キャプテンEO」にも言及した。 http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tdl/tl/at
『エンタメ小説進化論』では『何者』で直木賞を受賞した朝井リョウの『少女は卒業しない』も論じた。同書所収「四拍子をもう一度」では軽音部のヴィジュアル系エアバンドが出番前に化粧道具・衣裳・音源を奪われ…。『ソーシャル化する音楽』の観点からも面白い話である。 本書ではEXILEも話題にした。そこでは、世代継承を一つのテーマに掲げたこの一族にとって、家長HIROのパフォーマンスからの撤退のしかたが重要だということも書いたのだが、意外に早く現実化したなという印象である。 『エンタメ小説進化論』ではAKB48、EXILE、レディー・ガガ、ニコニコ動画といった事象を同時代の小説と絡めて、また『ディズニーの隣の風景』では今や日本の音楽風景を語る際に欠かせないYOSAKOIについて、それぞれ論じている。 『ソーシャル化する音楽』を読んだかたには、ついでにぜひ読んでいただきたい。 この際だからアーバンギャルド
(『ゼロ年代の論点』その後のメモ1) 僕が、過去10年ほどの批評のガイドである『ゼロ年代の論点』を2月半ばに刊行してから約9ヵ月が過ぎた。その後、同書で触れた本が文庫化されたり、言及した書き手の新刊が発売されたりといったことが当然、いろいろ起きている。なので、そうした動きについて時間があるときにメモしていきたいと思う。 増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫) 作者: 北田暁大出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2011/07/08メディア: 文庫購入: 3人 クリック: 27回この商品を含むブログ (30件) を見る 『広告都市・東京 その誕生と死』(2002年)は、街を広告化する手法、テーマパーク的な手法がどのような時代的変遷をたどったかを追った都市論だった。今年7月に刊行されたその文庫版の最後には「補遺 あるいは続編のためのノート――終わりなき日常の憂鬱」と題された
『ゼロ年代の論点』発売から約1ヵ月が経過した。一方、1年前の4月には共著『バンド臨終図巻』が刊行されたわけである。この2冊は、扱っている題材は批評とバンドだし、まるで関係がないのだけれど、今思えば自分の書きかたは、けっこう共通していると思う。 『バンド臨終図巻』で僕が担当した項目は、60〜70年代に活躍したプログレ、ハード・ロックのバンドが多かった。それについては、ディープ・パープルとレインボーとブラック・サバス、キング・クリムゾンとイエスとエマーソン・レイク&パーマー――といったぐあいに人的交流のあるバンド個々の項目をあわせて読むと、プログレ、ハード・ロックといったジャンルの生態系や空気が自然と浮かび上がるような、そんな書きかたを心がけた。 これに対し、『ゼロ年代の論点』も、批評本を一冊一冊、あるいは批評家を一人一人紹介するというより、それぞれの相関関係、複数人がかかわった議論やテーマの
『ゼロ年代の論点』の終章に関しては、現行ヴァージョンとは違う内容を当初(=昨年末)には計画していた。東浩紀編集長の雑誌『思想地図β』のファンクラブ的位置づけである「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に連載されている宇野常寛の小説「AZM48」についての考察を入れようとしていたのだ。実際、メモもとっていたし、プラン通りに書いていたら、400字詰め20枚くらいになったかもしれない。 「AZM48」は「AZM」が「あずま」を含意しているように、東−宇野周辺の実在する若手批評家たちが変名で大勢登場し「男−男」の絡みが語られるやおい的なパロディになっている。若手批評家たちがつるみ、居酒屋での盛り上がりなどをツイートしたりしている状態は、ホモソーシャル性が批判されもする。それを受けて逆に自らホモセクシュアルを演じてみせる批評的なパフォーマンスだ――そんな理由づけが「AZM48」には、とりあえ
(※当初、ブログタイトルを「『ゼロ年代の論点』来週発売」にしていましたが、発売時期が近づいてきたので上記に変更しました) ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー (ソフトバンク新書) 作者: 円堂都司昭出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ発売日: 2011/02/18メディア: 新書購入: 8人 クリック: 75回この商品を含むブログ (39件) を見る もうじき発売になる『ゼロ年代の論点』の目次を公開します。2000〜10年の批評・メディア論のブックガイドと、「ウェブ・郊外・カルチャー」をめぐる言論動向に関する考察で構成した本です。 まえがき 第1章 ゼロ年代批評のインパクト ●ゼロ年代の批評をリードする――東浩紀『動物化するポストモダン』 ●コミュニケーションを鍵として――宇野常寛『ゼロ年代の想像力』 ●ニコニコ動画は政治をも動かす――濱野智史『アーキテクチャの生態系』 ●
『バンド臨終図巻』において僕は、レッド・ツェッペリンやクイーンなど、60〜70年代にデビューした洋楽バンドを多く担当した。その際に考えていたことがある。 「大人のロック!」という雑誌があって、「1960〜80年代洋楽ロックファンに向けた、季刊の音楽誌」とうたわれている。同誌は基本的に、昔のロックはよかった、今もかつてのスターたちは昔のスピリットを失っていない――と過去を懐かしみ、美化するアングルで作られてきたといっていいだろう。 そこでとりあげられるバンドは、60年代、70年代、80年代にそれぞれ黄金期を迎えたが、現在から冷静にふり返れば、むしろその後の試行錯誤・迷走・踏ん張りに入ってからの期間の方が長くなったベテランばかり。しかし、誌面では、彼らの長い人生では短い時間にすぎなかった黄金期を大きく扱い、試行錯誤期間についてはさらりと流す構成になっていたことが多い印象だ。 これに対し、僕は、
最近自分が書いたもの 「『けいおん!』に勝てない日本のロック」 → http://bisista.blogto.jp/archives/1299201.html 先週、メルマガ「週刊ビジスタニュース」において「今世紀の『バンド』・ブームをめぐって」のタイトルで配信された原稿を、上記↑のように改題したうえでアップしてもらった。 新タイトルは、「SNOOZER」6月号の特集名「レディ・ガガに勝てない日本のロック」のもじり。「ROCKIN’ON JAPAN」読者/関係者に怒られそうなエグいフレーズではあるが、このほうがテーマをアピールしやすいだろうと思って改題した。 原稿の方向性としては、かつてザ・ストーン・ローゼズ(のジョン・スクワイア)が「90年代はオーディエンスが主役」と宣言したのに対し、ゼロ年代以降の日本には彼らの予想とは違った形で「オーディエンスが主役」の状況が訪れたのではないか――と
東『クォンタム・ファミリーズ』を法月が書評 クォンタム・ファミリーズ 作者: 東浩紀出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2009/12/18メディア: 単行本購入: 61人 クリック: 1,937回この商品を含むブログ (198件) を見る 東浩紀の第一長編小説『クォンタム・ファミリーズ』が刊行された。同書に関しては法月綸太郎が「波」1月号に書評を寄せており、東はブログでこう反応している(ツイッターにも同趣旨のツイートあり)。 法月さんにしかできない読解であるとともに、僕の『ミステリーズ!』連載の法月綸太郎編への返信にもなっている。こんな批評的な往還ができるとは。小説書いてよかった! http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20091218/1261143462 (2010年1月15日追記:法月の書評はこちら。http://www.shinchosha.co.jp/shi
asahi.Com http://www.asahi.com/obituaries/update/0527/TKY200905270111.html 訃報を知り、驚いている。 第9回本格ミステリ大賞の受賞者記者会見で、私は話した。江戸川乱歩のような過去の作品は子どもの頃から読んでいたが、同時代に生み出されたミステリを読んだのは栗本薫『ぼくらの時代』が初めてだった、と。同じく、同時代の文芸評論で読んだ最初の一冊は、中島梓『文学の輪郭』だった、と。今思えば、文芸・音楽評論家と称する円堂都司昭のジャンル横断体質は、初期の中島梓/栗本薫から受けた影響が大きい。 しかし、結局、本人にお会いすることのないままだった。 ご冥福をお祈りします。 『「謎」の解像度』のコンセプトからはズレていたため収録しなかったが、自分は過去に約60枚の中島梓/栗本薫論を書いたことがある。 http://noririn414
(読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090419-OYT1T00854.htm (サンクチュアリ出版)http://www.sanctuarybooks.jp/parade/ 盗用問題でいろいろ騒がれている本である。 ディズニー従業員が体験した(とされる)“泣ける話”集だが、これを読むと驚いてしまう。ディズニーランドには死を間近にした人や障害を持った人しか来園しないのか――といいたくなるほど、その手のエピソードばかり並べられているのだ。 よく知られている通り、ディズニーでは、客はゲスト、従業員は(ショーの出演者だけでなくただの清掃人まで含めて)キャストと呼ぶ。つまり、テーマパーク全体が演技空間なわけだから、「東京ディズニーランドのキャストだけが知っている涙が止まらない物語」と帯に書かれたこの本も、「ディズニーランドで本当にあった」と
(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 7) 昨日に続き、昨年末に刊行された本をめぐる話。なぜこの時期になってアップするかといえば、私は年明けすぐにインフルエンザでダウンしてしまい、ようやく書けるようになったのが今だから。 早稲田文学 2号 作者: ミシェル・ビュトール,東浩紀,宇野常寛,川上未映子,円城塔,鹿島田真希,福嶋亮大,千野帽子,早稲田文学会,篠山紀信出版社/メーカー: 早稲田文学会発売日: 2008/12メディア: 単行本(ソフトカバー) クリック: 40回この商品を含むブログ (25件) を見る ↑には、昨年10月に開催された「早稲田文学」主催の10時間連続シンポジウム「小説・批評・メディアの現在と未来をめぐって」の模様が採録されている。そのうち、「ポッド4 読者と小説 批評と書評、文学賞」で、千野帽子が次のように発言していた。 わたしは探偵小説研究会というところに所属していま
(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 6) 笠井潔が、『容疑者Xの献身』論争で書いた文章をまとめて収録したミステリ論集を、昨年暮れに発売した。これも一つの機会だろうから、最低限のコメントをしておく。 探偵小説は「セカイ」と遭遇した 作者: 笠井潔出版社/メーカー: (株)南雲堂発売日: 2008/12/01メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 35回この商品を含むブログ (21件) を見る (本格ミステリ界を騒がせた『容疑者X』論争の経緯については、こちらが詳しい。 → 「X論争黙示録」http://longfish.cute.coocan.jp/pages/2006/061009_devotion/) 『容疑者X』論争からは、批評論争といえるものが派生した。 (それについては、こちら http://longfish.cute.coocan.jp/pages/2006/061009_
(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 5) 19日に行われる「早稲田文学」主催の10時間連続公開シンポジウムを、自分も見物しに行くつもり。 【プログラム】(予定) 10:30-12:15 ポッド1「文芸メディアの現在――批評的メディアはどうありうるか」パネリスト:東浩紀、宇野常寛、佐々木敦、中森明夫、山本充、前田塁+ 12:30-14:15 ポッド2「日本小説の現在――現在時の日本小説をめぐって」パネリスト:東浩紀、渡部直己、池田雄一、新城カズマ、大森望、前田塁+ 14:25-15:00 休憩(エクストラ・プログラムの場合あり) 15:10-16:55 ポッド3「文芸批評の今日的役割について」パネリスト:東浩紀、宇野常寛、福田和也(予定)、前田塁+ 17:10-18:55 ポッド4「読者と小説――批評と書評、文学賞」パネリスト:東浩紀、千野帽子、豊崎由美、芳川泰久、中森明夫、前田塁+ 19
ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち 作者: 速水健朗出版社/メーカー: 原書房発売日: 2008/06/09メディア: 単行本購入: 25人 クリック: 781回この商品を含むブログ (213件) を見る いろいろと刺激的な本である。速水健朗は、ケータイ小説で描かれる恋愛にデートDV的な傾向を見出す。そのうえで、ケータイ小説で恋人の死ぬ話が多いのは、デートDVにさらされているヒロインが無意識下で恋人の死を望んでいるからだ――と読み解く。この論理展開はスリリングだし、文芸評論としての醍醐味がある。 本書で速水は、浜崎あゆみがケータイ小説に与えた影響を検証している。そして、あゆの詞とケータイ小説の3つの共通点をあげる。 1 回想的モノローグ 2 固有名詞の欠如 3 情景描写の欠如 一方、斎藤環の新刊文芸評論でも、ケータイ小説の走りであるYoshi『Deep Love』について述
円堂都司昭 評論集『「謎」の解像度(レゾリューション) ウェブ時代の本格ミステリ』−−見出し一覧 (略称:なぞレゾ) *スペースや制作進行の都合上、本の目次に細かい見出しまで載せられなかったので、ここに紹介しておきます。 はじめに プロローグ 基本感情 現実への抗いとしてのミステリ――有栖川有栖 合理と不合理を腑分けする手つき/現実に一泡ふかせるために/「ペルシャ猫の謎」『幻想運河』での逸脱/答えてくれないものへの問い/江神二郎というキャラクター/探偵という存在 I.場所 シングル・ルームとテーマパーク――綾辻行人1 Mの密室とディズニーランド/大邸宅と1DK/家族の解体と個室/子ども部屋の誕生/シングル・ライフの確立/ウォークマンと犯人のモノローグ/「館」とテーマパーク/ドストエフスキー、『哲学者の密室』/ダーク・ライドと叙述トリック/「館」という人格の完成/個室からストリートへ プラ
(「ローレゾリューション論(仮)」のための覚書 4) 「InterCommunication」64号の音楽/メディア特集で、増田聡はこうも書いている。 DJ的な「作曲の時代」の支援ツールだったはずのものが、キャラクター志向的な想像力へと吸引されてしまう事態は、声という音響素材が、DJ的な「作曲の時代」の音楽実践の中でまだ確固としたポジションを与えられていない事実をもまた指し示している。われわれは歌声の背後に、歌う現実の身体を想像してしまう慣習から逃れられない。 「『作曲の時代』と初音ミク」 増田は「声」の強さについて記しているわけだが、同誌同号には、またべつの観点から「声」に着目した論者がいた。鈴木謙介である。 鈴木は「同期するメッセージ、空虚への呼びかけ」という掲載原稿のなかで、「孤独」ではなく「孤立」を恐れさせるケータイ依存について触れている。そして、ケータイのような「同期メディア」は
(「ローレゾリューション論(仮)」のための覚書 3) Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 04月号 [雑誌] 出版社/メーカー: エヌ・ティ・ティ出版発売日: 2008/02/27メディア: 雑誌購入: 1人 クリック: 25回この商品を含むブログ (20件) を見る 上の雑誌に増田聡が「『作曲の時代』と初音ミク」という論考を寄せている。そこで彼は、初音ミクの開発者の意識と、実際の受け入れられかたのズレについて、次のように整理している。 つまり、開発者の困惑とは、DJ文化的な作曲実践の支援(あらゆる音をユーザーに自由にコントロールさせる目的)のために送り出したはずの製品が、オタク的なキャラクター志向的想像力を満足させるための二次創作環境の用途に「流用」されてしまったことに起因するわけだ。 実は、これとどこか似た状況整理を、増田は『その音楽の〈
速水健朗『自分探しが止まらない』 ミステリには、真相探しと自分探しの相乗効果を狙った作品がある。事件に巻き込まれた記憶喪失の人間がいて、彼が真相を発見すると同時に、本当の自分も知ることになる――というストーリーに典型的であるような。だから、ミステリ評論も行っている僕としては、“自分探し”や“探すこと”に以前から関心を持ってきた。 その点、速水健朗『自分探しが止まらない』は、そうそう、こういう本を読みたかったんだ――という内容である。ウッドストック開催の60年代までさかのぼり、自分探しの歴史をよく整理してくれている。『あいのり』が「恋愛観察バラエティ」ではなく「“自分探し”観察バラエティ」――という指摘だとか、ラーメン屋の作務衣に自分探しのノリを見るくだりなど、とても面白い。 浅田彰『逃走論』と上野千鶴子『〈私〉探しゲーム』 速水はこの本の発売直前、自身のブログに中身の見出し一覧を掲示してい
昨日は、青海の東京カルチャーカルチャーで「POP2*0ナイト 第1夜洋楽ロック編」を見た。名著『電子音楽 in JAPAN』の田中雄二が企画・司会(というより講師ですね)し、津田大介、ばるぼらがゲスト出演した電子音楽の歴史を辿るイベントである。 (詳細は田中雄二のブログ → http://d.hatena.ne.jp/snakefinger/20071206/p1) 50年代の映画に使われた電子音楽から始めて、ビートルズ周辺を経由し、80年代に隆盛を迎えたテクノ・ポップ/エレ・ポップがスクリッティ・ポリッティで一つの完成をみるあたりまでを扱っていた。曲をかけまくる4時間弱だったが、電子音楽に関する歴史がよく整理され、体系立てられていたのでわかりやすかったと思う。初めて聞く曲も多かったので面白かった。 僕は音楽ファンとしては、まず映画音楽から聞き始め、それからロックに移った人間なので、映画音
旧聞になってしまうが、今月最初の週に東京ビッグサイトで催された東京国際ブックフェアに行ってきた。いろいろ興味深い展示はあったが、「書店に未来はあるのか! 大型書店から街の本屋まで、激変期の書店経営者が徹底討論」と題されたシンポジウムにおいて、あるパネリストの言ったことが印象に残っている。 高野幸生・TSUTAYA商品本部BOOK企画グループリーダーの発言の一部である。 TSUTAYAはレンタルヴィデオを展開する企業であり、この7月時点で北海道から沖縄まで1,300店ある。そのなかで、本の売り場があるのは750店舗程度。 新商材の開発ということでは、昨年、ケータイ小説大賞に協賛させてもらった。ケータイ小説がなぜ売れるかといえば、今まで本屋に来なかった子たちが来て買っている現象だから。日本で情報を伝えるもののうち、書籍は縦書きだが、他はだいたい横書きであり、それが若い人たちには受け入れられにく
陣野俊史『フランス暴動 移民法とラップ・フランセ』を読む。昨年発生したフランス郊外暴動については、ラップが悪影響を及ぼしていると批判されたという(同国では最近また、若者向け雇用政策でもめているが)。陣野のこの緊急レポートでは、フランスにおけるラップと郊外の若者の関係に迫ろうとしている。 フランスのヒップホップ事情は全然知らないので、とても興味深く読んだ。ただ、ヒップホップ受容の大衆化した部分には少ししか触れず、先鋭的な部分にばかりスポットを当てている。このため、本書で取り上げたラップが、フランスのポップ・ミュージック界でどんな地位にあるのか、いま一つ不鮮明なのは残念。――といっても、緊急出版しなければならなかったという事情や意気込みは納得できるので、そこまでのサービスは求めてはいけないのかもしれないが……。 気になったのは、フランスに対する日本の立ち位置を考えるため、第三章に挿入された志人
『CDは株券ではない』 『CDは株券ではない』ISBN:4835615638、Jポップシングルのレヴュー集としては、面白かった。ただし、語り口はべつに新しくない。 著者の菊地は前書きで、 我が国の「流行歌〜歌謡曲」を俎上に乗せ、それを「評論」する。と称して、多く社会風俗と自分の人生観を絡めたエセーを良い湯加減で書く。という行為ほど気持ちよくそして空疎なものはない。 などと既成の音楽評論、J−POP批評を揶揄する。けれど、本文を読めば菊地自身も、社会風俗、自分の人生観、サブカルチュア、業界事情など、非音楽的なことがらへの言及は排除していない。というか、やたら「僕は」「僕は」と本人が顔を覗かせてしゃべり口調を繰り出すその文章は、そこで批評されている曲以上に騒々しく耳元に聞こえてくるかのよう。そうして〔良い湯加減〕に自分を押し出しつつ手持ちの教養で語るのは、サブカルなレヴューの常套でしょう。 菊
創刊10周年記念の「小説トリッパー」2005年夏季号をめくってみると、朝日新人文学賞が発表になっていた。受賞作は楽月慎『陽だまりのブラジリアン』だが、落選した候補作のなかに、ちょびっと目立つタイトルがあった。 クレヤボヤンス マイミクシィ 佐東歩美 ミクシィとはもちろん、近頃流行りのあの“知り合い系サイト”。一方、クレヤボヤンスとは、透視、遠感知能力、千里眼などと訳される超能力を指す。今時のネット環境を超能力に喩えたあたりに、作品内に展開されるだろう批評性を期待するのか、たぶんタイトルのフレーズで批評性は尽きているのだろうと想像するのか、微妙である。まぁ、落選したんだから、当然、後者っぽいわけだけれど……。 気になるのは選評で、「クレヤボヤンス マイミクシィ」についてコメントする際、選考委員5名のうち3名までもが田中康夫を引き合いに出していること。以下、田中の名の出てくる部分だけ、乱暴に
朝日新聞の今日の朝刊に、1面トップにするほどの内容じゃないと思うが、「文学賞異変」という記事が載っている(署名は「野波健祐」)。その見出しを並べると―― 文学賞異変 創設ラッシュ 審査員から作家外し テーマは「恋愛」「青春」「感動」 権威より販促 というわけで、大塚愛、成宮寛貴、柴門ふみらが選考委員をする「日本ラブストーリー大賞」(宝島社)、読者投票を行う「青春文学大賞」(角川書店)の創設などが紹介されている。 (関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050531#p1) 記事では、審査員から作家を外した賞が増えたきっかけとして、「本屋大賞」の成功を指摘する。そのうえで記している。 文学賞は権威付けのために選考委員に作家を起用してきたが、販売促進のためには不可欠ではない――出版業界に「学習効果」が生まれた。 現状をみると、文学賞が多いくせして選考委員の作家は
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