レイトスターターと言わないで
このような、チェロのレイトスターターの挑戦を綴った本としては、これまでにも
ジョン・ホルト著「ネヴァー・トゥー・レイト―私のチェロ修業」や石川敦子著「Cello Love ニューヨーク・チェロ修行」などがあり、これらの本に勇気づけられた方も多いと思いますが、この本もこうした中の一冊に加わることになるかどうか。
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この機会に、「レイトスターター」の一人として、ここ数年感じていることを書くと…
憧れだったチェロを大人になって弾き始めてからの歓びや苦労は、それぞれの人生──仕事や家庭やいろいろ──の中での「個人的な物語」で、だからこそ同じチェロという楽器を選んだ者の間では、歩んできた人生は違えど、共感せずにはいられないわけです。
ただ、チェロを通じて色々な経験をし、色々な人と出会ってみると、
「レイトスターターなのにここまで来れた」
「上手くならないのはレイトスターターだから仕方ない。でも楽しもう」
といったことを言葉にするのは、少し恥ずかしいこと、という気もするようになってきました。
そうした「無邪気な『レイトスターター』の連呼」は、自分の心の中でだけならいいですが、人前では言い訳のようで潔くないし、「個人的な物語」の押しつけになって、周りの人に苦々しい思いをさせているかも知れない。
たとえばオーケストラやアンサンブルで別の楽器の人と付き合っていると、彼らにとって自分はチェロの一人でしかなく、何よりまずチェロとしての役割を果たさないといけない。彼らがバイオリン奏者としていかに経験があり優れていても、代わりにチェロを弾いてくれるわけではない。そんな中で「自分はレイトスターターだから」と言ってみても何の意味もない。おそらく彼らは心の中で思うことでしょう。「いいから、ちゃんとやれ」と。
(チェロアンサンブルでも事情は同じかも知れませんが、チェロ同士はもう少し優しい)
おそらく「レイトスターター」ということが自分にとって意味を持ち、支えになる時期の後に、それほどでもなくなる時期、あるいはそんなことは言っていられない時期が来る、ということじゃないかと思います。
このブログも、チェロのことを書くとき、「レイトスターターだから」ということは、言葉にしないまでも書いている視点や前提として、もしかしたらぷんぷんと匂ってしまっているかも知れませんが、そこは所詮「個人的な物語」ということでご容赦ください…
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