競技生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 09:57 UTC 版)
1968年から競技大会への出場を始め、2年目の1969年にシムケントで開かれたスパルタク共和国選手権大会で初めて金メダルを獲得した。しかし、その1年後に彼女は五輪で9つの金メダルを獲得した著名な元体操競技選手のラリサ・ラチニナから「キムには将来性がない」と指摘を受ける。バイディンは「ラチニナの言い方は厳しいが、その指摘は間違っていない」とキムにさらなる努力を促し、一方の彼女は将来性がないのであれば、これからどうすればいいのかと不安を感じながらもこれに耐えた。 それから約2か月後、ソビエトユース代表チームのヘッドコーチを務めるリディア・ガヴリーロヴナ・イワノワから「すぐにスフミへ来るように」との連絡を受けた。その頃、スフミではユース代表の合宿が行われていた。キムに着目し、選手として評価していたイワノワは彼女をユース代表に招集したのである。彼女はスフミへ行ってチームと合流し、しばらくの間、代表の合宿でトレーニングを行なった。シムケントを離れ不慣れな土地でトレーニングをするのは初めてだったが、スフミで体操競技に関するさまざまな新しい知識と経験を得た。 初めて大きな全国大会に出たのは1971年である。その年のジュニアソビエト連邦選手権に出場し、個人総合で5位に入った。翌1972年12月のジュニアソビエト連邦選手権では個人総合で銀メダルを獲得し、跳馬と段違い平行棒で金メダルを獲得と前年から大きく成績を伸ばした。この大会の平均台で、その年の8月に開催されたミュンヘン五輪でオルガ・コルブトが演じたような宙返りを決めて注目を集め、イワノワからも「順調に成長していることが明確に見て取れる」との賛辞を受けている。 1973年のオールユニオン・ユーススポーツ大会では15歳でカザフチームのキャプテンに選ばれ、チームを率いて団体総合と個人総合、平均台で金メダルを獲得した。同年8月に東ドイツ(現ドイツ)のゲーラで開かれた東側諸国によるドルーズバ国際ユース競技大会でルーマニアのナディア・コマネチと初めて対戦。個人総合でコマネチに次ぐ銀メダルを獲得した後、自身初のシニアの全国大会であるソビエト連邦カップでは個人総合で8位に入り、段違い平行棒ではリュドミラ・ツリシチェワと同点で金メダルを獲得。続いて11月にニコライ・アンドリアノフらとともに日本へ移動し、名古屋市で開催された中日カップに出場して金メダルを獲得した。キムは初めて経験するエキゾティックな日本に強い印象を受け、また、加藤澤男・塚原光男など大選手たちのホームランドで優勝したことは彼女にとって喜びでもあった。当時の中日ニュースは中日カップを報道する記事の中でキムを「16才の妖精」「第二のコルブト」と評している。 翌年の1974年には、5月にロストフ・ナ・ドヌで開かれたソビエト連邦選手権において初出場で個人総合の銅メダルを獲得。さらに8月にヴィリニュスで行われたソビエト連邦カップの個人総合でもツリシチェワに次ぐ銀メダルを獲得し、これらの好成績が評価されたキムはその年の10月にブルガリアのヴァルナで開催される世界選手権のソビエト代表に初めて選ばれた。大会では団体総合予選・跳馬の規定演技の着地の際に足首を捻挫したが、それでも出場を続行してチームの団体総合金メダル獲得に貢献した。しかし、その夜から捻挫した足首が腫れ上がり痛みがひどくなったため個人総合決勝は欠場して少しでも痛みが和らぐのを待ち、大会最終日の種目別決勝に出場して平均台で銅メダルを獲得した。この大会はキムが経験する初めてのシニアの世界選手権だったことから、彼女はこの大会でどうしてもメダルを獲りたいと考えていた。さらに足首を痛めながら獲得したこともあり、彼女にとってこの銅メダルは現役生活の中でもとりわけ思い入れのあるメダルとなった。 続く1975年は、3月に開かれたソビエト連邦カップの個人総合で銀メダルを獲得した後、5月にはノルウェーのシーエンで行われた欧州選手権に初めて出場し、同じく初出場であるコマネチと対戦。ここでも個人総合でコマネチに次ぐ銀メダルを獲得した。そして、7月にレニングラード(現サンクトペテルブルク)で開催されたソビエト連邦選手権でキムはツリシチェワやコルブトなどの強豪に勝ち、個人総合で金メダル、種目別でも3つの金メダル(段違い平行棒、平均台、ゆか)と1つの銀メダル(跳馬)を獲得した。この大会は4年ごとに開催されるソビエト連邦国民スパルタキアードの体操競技として開催されたため、そこでの彼女の勝利は当時のソビエトにおいて栄誉となるものだった。これを受けて、彼女の地元カザフの人々はキムに「鉄のネリー」というニックネームをつけた。 その直後に行われたモントリオール・プレ五輪大会での女子体操競技は、同年の欧州選手権シーエン大会で種目別のゆかを制したキムと、同大会でゆか以外の個人種目を制したコマネチとによる激しい戦いとなった。各種目で両選手による接戦が行われた結果、個人総合では先の欧州選手権に続きコマネチに次ぐ銀メダルだったが、種目別で3つの金メダル(跳馬、平均台、ゆか)と1つの銀メダル(段違い平行棒)を獲得した。このとき、キムは跳馬の種目別決勝で「前転跳び1回半ひねり」という難度の高い技を決め、米国体操協会が発行する月刊誌『Gymnast Magazine』誌もこれを特筆している。この技は彼女自身が前年1974年の世界選手権ヴァルナ大会において世界で初めて成功させたもので、国際体操連盟(仏: Fédération Internationale de Gymnastique、略称:FIG)により「キム」という技名がつけられて『FIG採点規則(FIG CODE OF POINTS)』にも掲載された。 このプレ五輪大会での女子体操競技について、当時のカナダの新聞は「キムの演技は、自然の微笑には勝利よりも価値があると思わせる瞬間の連続だった。きらめきがあり快活で生き生きとした演技、それがキムの演技スタイルである」と論評している。 モントリオール五輪を目前に控えた1976年5月のソビエト連邦カップでも、跳馬と平均台で金メダル、段違い平行棒で銀メダル、個人総合でもツリシチェワとコルブトに勝って金メダルを獲得した。世界のスポーツメディアは「今やキムがソビエト女子体操競技界の実質的なリーダーであり、来るべきモントリオール五輪でのメダル獲得が有望視される主要な選手の一人でもある」と考えており、米国のスポーツジャーナリストたちがシムケント市内にある彼女の自宅まで取材に訪れるようになっていた。英語が堪能な彼女は、米国からやってきた彼らとのインタビューに英語で応じていたとバルコワは語っている。 一方、ソビエトの国民やメディアは依然としてツリシチェワとコルブトがソビエト女子体操競技界のリーダーだと考えており、ソビエトコーチ評議会でさえもキムをリーダーだとは明確に示さなかった。ソビエトコーチ評議会が自らのチームのリーダーが誰かを正しく見極めることができなかった誤りをソビエトの専門家たちはモントリオール五輪終了後に認めている。 モントリオール・プレ五輪大会を終えて帰国した後の1975年秋にキムはバイディンから突然、新しい技に関する提案を受けた。それは、跳馬で「ツカハラ跳び1回ひねり」、ゆかで「後方2回宙返り」に挑戦するというものだった。これらの技を考案したのは、バイディンと交流があるモスクワ体育研究院准教授のレフ・コンスタンティーノヴィッチ・アントノフである。この提案にキムは戸惑った。全く新しい複雑なジャンプを習得する自信はなかったが、モントリオール五輪で勝つためにはそれを習得するしかないと考えた彼女は最終的に提案を受け入れて、2つの技を習得するため連日、トレーニングを重ねた。しかし、当初はこれらの技が要請する空中での連続した複雑な動作を円滑に行うことは容易ではなく、また彼女は当時、足首を痛めていたこともあって、着地を決めることは特に困難だった。キムは練習熱心だったが、ただ漫然と長時間の練習をすることは好まなかった。彼女にとって練習とは楽しむことであり、ひたすら同じ練習に集中して打ち込み続けることも苦ではなかった。そして、未踏の領域に挑戦しそれを開拓するときにおいて自らの力を最大限に発揮した。彼女は次第に2つの技を習得していき、1976年5月のソビエト連邦カップの際に初めて試合でテストし、これを成功させた。こうして7月にキムにとって初めての五輪を迎える。
※この「競技生活」の解説は、「ネリー・キム」の解説の一部です。
「競技生活」を含む「ネリー・キム」の記事については、「ネリー・キム」の概要を参照ください。
「競技生活」の例文・使い方・用例・文例
- 競技生活のページへのリンク