1972年12月
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「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の記事における「1972年12月」の解説
生存者のひとりナンド・パラードは、34年後の2006年の著書『アンデスの奇蹟-南米アンデスの高山に墜落した旅客機 生還者みずからが語る72日間の真実』(en)』でこのときの寝袋について綴っている。 「 2度目の挑戦では、日没後の外気への露出から身を守らなければならなかった。我々が死にそうなほどに夜はまだ寒く、一年のこの時期、昼間でも、広く露出したスロープでは避難できないことは分かっていた。凍死することなく長い夜を乗り切る方法が必要だった。我々は、尾部で断熱材が巻き付いたポールを発見して解決した。(中略)遠征について皆で議論し、一緒にパッチを縫うことで、大きく暖かいキルトを作れると分かった。我々はキルトを半分に折り重ね、継ぎ目を縫い合わせて、3人が遠征に耐えられるだけの断熱性のある寝袋を作った。3人の体温が断熱布によって保持されるなら、最も寒い夜を乗り切ることが可能かも知れなかった。カルリトス・パエスが作業をやってみると言った。彼は、少年だったときに母から裁縫を教わっていた。母の化粧箱から裁縫用の針と糸を見付けて作業に取りかかった。(中略)彼は他の生存者たちにも裁縫を教え、交代で作業を行った。(中略)我々の中で、コチェおよび、グスターボ、フィトが最も仕立て作業が速いことが分かった。 」 12月9日(土) ナンド・パラードの誕生日で、尾部で見付かった葉巻を他の生存者たちが誕生日プレゼントとして与えた。 12月11日(月) 捜索機が上空を通過するときに備えて、雪の中にスーツケースで大きな十字を描いた。 アルフレド・"パンチョ"・デルガドの親友であったヌマ・トゥルカッティが死亡した(死亡29人、生存16人)。 12月12日(火) 寝袋の完成後、ロベルト・カネッサは出発をためらっている者を最終的に説得し、ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人がチリへ向かう谷を見つけるために最終的な遠征に出発した。パラードが先頭に立ち、行進速度を緩めるために頻繁に声をかけた。登りの行程は、厳しい長旅となった。夜、巨大な岩の横で仲間たちが縫い上げた寝袋で眠った。厳寒であったが、寝袋によって数夜を生き延びることができた。 12月13日(水) カネッサは、渓谷を見て、それが道路であると考えたが、そのときはそのことを他の2人に話さなかった。グループは登り続け、午後までには、睡眠のための前日と同じような大きな岩に達した。カネッサが道路について言及し、引き返すことを主張したが、パラードは異なった意見を述べた。議論は続いたが、決断を下すことなく彼らは眠りについた。 機体の食料の備蓄が底を突きかけ、グスターボ・セルビーノとアドルフォ・"フィト"・ストラウチは死体を探しに機体を出て、1体を発見したが、2人はそれを機体に回収することができないほど疲れていた。 12月14日(木) ビシンティンとパラードは登山を続けたが、カネッサは道路と考えた地点を観察するために宿泊地点から動いていなかった。パラードたちは山の頂上に到達したが、パラードはその光景に息を飲んだ。彼の前に見渡す限り広がっていたのは、より多くの山々だった。山脈は眼前に小さく「Y」の文字のように遠くまで広がり、当初の計画であった山脈を越えて救助を求める望みは絶たれた。 食料の消費を最小限に抑えるために、パラードとカネッサが遠征を継続し、ビシンティンは自分の食料を2人に預けて墜落地点へ戻った。帰りのルートは、下るだけであり、壊れた機体の部品から作成したソリがあったので、1時間しかかからなかった。残った2人はその晩はその場で眠った。 機体では、カルリトス・パエスとホセ・ペドロ・アルゴルタがより多くの遺体を探しながら谷を通って登った。1体を発見し、腐敗を防ぐために雪で覆った。 12月15日(金) パラードとカネッサは、遠征に出発してから9日目(12月20日)の昼間の休息以外は、再開から7日以上歩き続けていた。 朝、機体に残った13人の男たちが何かが山を滑り降りて来るのを発見した。初めは岩石だと思ったが、ビシンティンが機体の座席を利用したソリを使っていることがわかった。到着と同時に、ビシンティンはカネッサとパラードがまだチリに向かって遠征を続けており、ビシンティンの分の食料を2人に預けたと説明した。前日にアドルフォ・"フィト"・ストラウチ、グスターボ・セルビーノ、ホセ・ペドロ・アルゴルタが外で遺体を探している間に、他の生存者たちがラジオを聴き、彼らがスーツケースで雪上に描いた十字をウルグアイ空軍のC-47が発見したことを知った。 12月16日(土) カネッサとパラードが3時間を掛けて峰を登り、最も良い下りのルートを捜索した。午後にソリでかなりの距離を滑降した後に2人は眠りについた。 12月17日(日) 機体の生存者たちは、彼らがスーツケースで雪上に描きウルグアイ空軍のC-47によって発見された十字が、アルゼンチンの気象学者が融雪量測定のために円錐形のマーカーで描いたものであると公表されたことに驚愕した。 パラードとカネッサは、決めたルートの通りに進み、正午までに山のふもとに達して、谷へ進んだ。ある場所で休息したとき、近くの小川にコケやアシが生えているのを発見した。それは彼らが遭難以来初めて目にした植物だった。カネッサは、ハーブを摘んで食べた。 12月18日(月) パラードは、谷の下方から登っているとき、先のものを見ようとして足を速め、カネッサを置き去りにした。進んでいくと、雪道は終わり、植物がたくさん生い茂っていた。小川は西に向かって注ぎ、動物がいる可能性もあった。彼らはその光景に驚いた。休息しながら川に向かって歩き続けた。カネッサはしばらくしてサングラスを落としたことに気づいた。それがなければ、雪に反射する太陽の光で網膜が焼かれ、失明する危険があった。2人はサングラスを見つけるために一旦引き返し、サングラスを発見後、再び川に向かって歩き続けた。夜、彼らは機体を出発して以来初めてぐっすりと眠ることができた。 12月19日(火) 朝、2人は牛の群れを発見した。これは彼らの歩みの希望となった。次に、文明の最初の兆しである空のスープ缶と蹄鉄を発見した。その後、多くの牛と切り倒された木を見たとき、文明圏が間近であることが確かだと考えた。彼らは救出されることを確信し、熟睡した。 12月20日(水) 彼らは、起床した後、リュックサックから寝袋など不要になったものを捨てて歩き続けたが、その後文明の兆しを発見できなかった。カネッサが吐き気を催したので、パラードが彼の荷物を代わりに担いだ。最終的に、彼らは石の柵囲いまで到達し、そこを寝床に決めた。 眠る前に、パラードは自分たちが進もうとしているルートが2番目に発見した川で遮られたことに気づいた。胃けいれんを起こしていたカネッサは、薪を拾っていたとき、川の向こう岸に居る馬に乗った男性のようなものに気がつき、近眼のパラードに大声で斜面を走り降りるように言った。パラードは、カネッサが叫んだのを聞いて川へ向かって走ったが、男性を発見することはできなかった。 パラードは、最初はカネッサの想像にすぎないと思っていたが、少しして、川の向こう岸で誰かが叫んでいるのを聞くと同時に、馬の背にウアッソの男性が3人乗っているのを確認した。カネッサとパラードは、川に走り寄り、自分たちが絶望的で、助けを求めていることを身振りで示した。乗り手の1人は、馬を抑制しながら何かを彼らへ大声で叫んだ。乗り手の1人、セルヒオ・カタランは、2人に、「明日」と叫んだ。明日助けられれば、それで十分だった。2人はこの時点で救助されることを確信し、歓喜に震えながら川のそばで寝入った。出発から9日が経過していた。 12月21日(木) 機体では、カルロス・パエス、ダニエル・フェルナンデスが遠征隊が救援を求めることに成功したという兆しを待っていた。 セルヒオ・カタランが川へ来た。紙と鉛筆を結びつけた石を川の向こう岸の2人へ投げた。パラードがそれを拾って読むと、「すぐそこへ到着するように人間を送った」と書かれていた。パラードは書いて投げ返した。「私は山へ墜落した飛行機から来ました。ウルグアイ人です。私たちは10日間歩いています。墜落地点に負傷した友人を残しています。まだ飛行機に14人の負傷者が居ます。私たちはここから早く脱出しなければなりませんが、どうしたら良いのかわかりません。ほんの少しの食料もありません。私たちは非常に衰弱しています。あなたはいつ私たちを救出しに来てくださるでしょうか? 私たちは歩くことが出来ません。ここはどこですか? SOS」 セルヒオ・カタランはその文章を読むと、2人へ身体全体で大きく了承の意を示した。カタランは、馬を走らせ、数時間後に2人の元へ到着した。カネッサとパラードは遭難事故について簡潔に説明した。カタランは、貪欲に食事を求める2人へ小屋とパンを与えた。カタランが税関検査官へ2人の手紙を見せ、税関検査官たちがサンディアゴから3機のヘリコプターで出発したとカタランは2人へ伝えた。 機体の生存者たちは、2人の遠征隊が発見され無事に救出されたというニュースをラジオで聞いた。 12月22日(金) 朝まで山が霧に包まれており、ヘリコプターを飛ばすことができないことにパラードとカネッサは、愕然とした。 10月13日に起きた墜落事故を生存者たちが厳しい環境下で生き延びたというニュースは世界中の報道機関を注目させ、その後関係者の下には洪水のようにレポーターたちが訪れた。パラードとカネッサは朝食を摂り、増加する報道陣に会った。彼らは熱心に質問に答えたが、どうやって生存できたかについては話すのを避けた。 午後に、小さな村(ロス・マイテネス村)にヘリコプターが到着した。同乗したパラードによって誘導され、フェアチャイルド機が横たわる墜落地点までの谷を飛び、生存者たちは2人の捜索隊、救出登山家によって救出された。救出されたとき、生存者の数は事故直後の半分以下の16人に減っていた。ヘリコプターの到着は、歓喜に満ちた14人の生存者たちに歓迎された。1回目に救助されることとなった追加の最大積載人員である6人は、救出されることを山に対して感謝した。生存者たちがロス・マイテネス村に到着したとき、彼らは喜びの頂点にあった。草を抱擁し、笑い、転がり回り、自分たちの救出を祝った。数時間後に、全員がサンフェルナンドのセント・ジョン聖病院へ収容された。 2回目の救出飛行は夜間にすることになり、さらに、霧に覆われたアンデス山脈に衝突する危険があるため翌朝まで遅れた。残りの8人の生存者たちは機体の中でもう一夜眠らざるを得なかったが、毛布や衣類、食料と水を手にし、サポートとして医療班と登山家が共に墜落地点にいた。 12月23日(土) 午前10時、救助ヘリコプターが機体に残る8人の生存者たちのために墜落地点へ戻った。16人の生存者全員が救助され、喜びの場面が再びロス・マイテネス村で繰り返された。2番目のグループは、最初の救助者グループと異なり、まずチリのコルチャグアへ輸送されてからサンティアゴの国民健康保険病院へ輸送された。生存者の全てがサンディアゴの病院へ収容され、高山病、脱水症状、凍傷、骨折、壊血病、栄養失調の治療を受けた。 生存者6人はすぐに退院し、シェラトンホテルへ行った。ロイ・アルレーとハビエル・メトルは、コチェ・インシアルテとアルバロ・マンヒーノが先に収容されていた4人部屋に引き留められた。19時に、アルレー、メトル、インシアルテ、マンヒーノ以外の生存者は皆、シェラトン・デ・サン・クリストバルで再会した。 12月24日(日) 4人が病院から退院し、シェラトンホテルで他の皆と合流した。ロベルト・"ボビー"・フランソイスとダニエル・フェルナンデスはモンテビデオに帰り、それ以外の14人は、クリスマス・イブを一緒に祝った。 生存者たちは、救助直後には機内に持ち込んでいたチーズを食べて生き延びていたと説明していたが、家族と詳細かつ内密に議論し、遺体を食べざるを得なかったことを公にしようと考えた。 12月26日(火) グループは別れ、パラードはサンティアゴを離れてビナ・デル・マールの家に引っ越した。生存者たちは、モンテビデオへ戻るときに記者会見を行うことを計画していた。 しかし、機内に残されたままの切り分けられ保存された遺体の写真が救助隊に同行した山岳ガイドらによってリークされ、サンティアゴの新聞「El mercurio」は一面トップで生存者たちの人肉食に焦点を合わせたセンセーショナルな記事を発表した。 12月28日(木) 生存者たちは、モンテビデオへ到着し、ステラ・マリス大学で記者会見を開催し、72日間の生存の試練について説明した。 年月を経て、この出来事に関する本2冊と映画2本と公式サイトができた。 まだ非常に衰弱していたロイ・アルレーはチリに残り、数日後に帰宅した。 救助隊員は、墜落地点から800メートルほど離れた地点に死者の遺体を埋め、石を積み重ね、中心に鉄製の十字架を建てた。機体内に残っていた遺体の残骸は野次馬による損壊を防ぐために焼却処分された。
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一時帰国。
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