東映・近鉄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 10:12 UTC 版)
1954年に一旦は引退し、一家で仙台の奥の北上川の畔に粗末な山家を構える。朝の5時から鉱山で鉱石を砕く仕事に従事し、仕事が終わると山に入りバットで樹の枝を叩き折っていたという。アマチュア・水沢駒形野球倶楽部に所属したのは、仲良しの小西得郎が、あまりに悲惨な岩本一家の暮らしを心配し、仙台の野球人や新聞社に繋がりをつけたためである。同年第25回都市対抗野球大会と翌1955年の第26回都市対抗野球大会に富士製鐵釜石の補強選手として出場し健在ぶりを発揮。全試合4番を打ち第25回大会では準決勝進出に貢献する。 1956年に強化三ヵ年計画を打ち出した東映フライヤーズの選手兼任監督として三度目のプロ野球復帰。明治生まれで最後の現役選手でもあった。1957年8月18日の阪急戦で五番レフトとして先発出場し、45歳5ヶ月で本塁打を打ち、史上最年長記録となった(駒沢球場、投手・種田弘)。同年限りで現役を引退。監督は1960年まで5年間務め毒島章一、土橋正幸、山本八郎などの主力選手を率いて、1958年には5選手をオールスターゲームに送り、1959年には同郷の高卒新人・張本勲を抜擢するなどで、チームを初めてAクラス入りさせた。 正捕手・山本八郎が故障すると自分でチェストプロテクター、レガースを付けてホームに座り、若い投手に大声をかけた。また、ユニフォームを脱げば若い選手とコップ酒を飲み"アンちゃん"の愛称で慕われたという。優勝を期待された翌1960年は5位に終わる。このため巨人の監督水原茂が辞任、東映が水原を次期監督候補としているという情報が入り岩本は辞任、保井浩一に代理監督を任せるとシーズン終了待たずに辞任し、翌1961年は東映のコーチを務めた。 その後は近鉄のコーチ(1962年 - 1964年)を経て別当薫の後任として1965年から1966年の2年間近鉄の監督を務めた。2年連続最下位であったが鈴木啓示らを育てた。1981年に競技者表彰で野球殿堂入り。 晩年は郷里の三次で余生を送った。長寿で知られグラウンドに自転車で出かけては子供たちに野球を教えたり、地元TVに出演して神主打法を披露したりしていた。 2006年頃から特養ホームに入所していた。2008年9月26日に急性心不全のため死去。96歳没。
※この「東映・近鉄時代」の解説は、「岩本義行」の解説の一部です。
「東映・近鉄時代」を含む「岩本義行」の記事については、「岩本義行」の概要を参照ください。
- 東映・近鉄時代のページへのリンク