批評、影響
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「卒業 (尾崎豊の曲)」の記事における「批評、影響」の解説
本当は『卒業』で歌っているのは、いろんな人から聞いた学生運動の歌だったりとか、仲間や自分の感じていることだった。だけど、表面的にしか受けとらないわけじゃない? 暴走族がどうのこうのとか。ずっとそういうこと歌ってきたけど、結局、マスコミっていうものに対して、僕自身も甘えてたのかもしれない。もう少し自分自身がしっかりしなくちゃいけないな、と思った。 尾崎豊, ROCKIN'ON JAPAN Vol.42 1990年 シングルとしてのリリース以前となる1984年には、本作は尾崎の代表曲とはなっておらずライブでの演奏時に一部の聴衆に共感を得ているだけの状態であった。しかしリリース後には尾崎のパブリックイメージを担うこととなり、10代の尾崎の代表曲として「15の夜」(1983年)、「十七歳の地図」(1984年)と共に取り上げられることが多くなった。音楽情報サイト『CDジャーナル』では、体制や大人と闘ってきた尾崎が、自身が大人になっていく葛藤を描いた曲であるとした上で、「どうしようもないやりきれなさに、心をわしづかみにされる」と称賛、また1999年の再リリース盤に関しては当時には時代性として学校のガラスを割る中高生はいないだろうと指摘しながらも、「怒りをポジティヴな衝動へと変えた彼の姿からは見習うべきところがあるかも」と肯定的に評価した。 リリース当時、尾崎の作品の詞の一部が過激とされ、「不良」のイメージを植え付けられる一方、若者から圧倒的に支持される。実際、当時の全国の中学校・高校で影響を受けた学生が歌詞の通りに夜の校舎で窓ガラスを損壊する事例があった。またリリース当時だけではなく、後の世代にも影響を与えており、2013年においても本作の影響による事例が発生している。 尾崎自身、本作を代表曲として売り込まれていくことに危機感を覚えており、例え話としてアルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明したものの後に殺人用の武器となったことを挙げ、「『15の夜』を最初に作ったのは、間違いだったのかな」と当時考えるようになっていたという。また本作の影響により窓ガラスを破壊する若者が発生したことに関して、「すごく罪の意識を感じるようになった」とも述べている。尾崎の妻であった尾崎繁美は尾崎の死後「あの曲を書いていた時は、割らなかった」と述べている。
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批評、影響
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「THE END (遠藤ミチロウのアルバム)」の記事における「批評、影響」の解説
専門評論家によるレビューレビュー・スコア出典評価CDジャーナル 肯定的 音楽情報サイト『CDジャーナル』では、本作に収録された曲が様々なジャンルに跨っている事を指摘した上で、「本格的なソロ活動のプロローグにふさわしい一枚」と肯定的に評価した。 2019年5月22日、5月27日には、同年4月25日に逝去した遠藤の追悼番組として、本作のタイトルを使用した『THE END 0』がDOMMUNEにて各5時間、計10時間配信された。同番組にはザ・スターリンに所属していた金子あつしや乾純の他、山崎春美、JOJO広重、吉田豪、掟ポルシェ、丸尾末広、高橋和也、タテタカコ、山本久土、大友良英、和合亮一、宮藤官九郎などが出演した
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批評、影響
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専門評論家によるレビューレビュー・スコア出典評価CDジャーナル 肯定的 音楽誌が書かないJポップ批評22 肯定的 別冊カドカワ 総力特集ユニコーン 2009 肯定的 本作の音楽性に対する批評家たちからの反応は概ね肯定的なものとなっており、音楽情報サイト『CDジャーナル』では、本作は前作までのハードロックおよびパンク・ロックの路線から転換し「ユーモアあふれる独自のロック・サウンドを展開した」と述べた上で、「「大迷惑」や表題曲「服部」など、痛快なナンバーが満載された名盤だ」と称賛した。音楽誌『別冊宝島724 音楽誌が書かないJポップ批評22 ユニコーン&奥田民生の摩訶不思議(ロック・マジック)』において音楽解説者の榊ひろとは、本作をビートルズにおける『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967年)に当たると位置付けた上で、メンバーそれぞれの制作曲が増えたことで「現在にも通じる奥田ナンバーの個性がかえって際立つようになっている」と指摘した他、「ペーター」および「逆光」、「デーゲーム」が特に良い出来であると肯定的に評価した。文芸雑誌『別冊カドカワ 総力特集ユニコーン 2009』において音楽評論家の平山雄一は、本作から阿部が正式加入したことによって「膨大な音楽知識とハチャメチャなキャラクターがバンドに一大革命を巻き起こした」と指摘した上で、ラテン・パーカッションやブルースハープ、ティンパニなどメンバーの担当楽器が増加しておりメンバーが「楽器の持ち替えを目いっぱい楽しんでいる」と表現、その他にも後に至るまで活動を共にするスタッフが本作において結集したことやPSY・SのCHAKAやプリンセス プリンセスの奥居香が参加していることから「とにかく音楽で遊んじゃうユニコーン・スタイルが確立したアルバム」と述べ傑作であると称賛した。 ロックバンドのマカロニえんぴつメンバーである「はっとり」の芸名は本作のタイトルから取られている。
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批評・影響
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「アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91」の記事における「批評・影響」の解説
ニューヨーク及びパリ在住の作家、批評家、フリーランスのキュレーターのヤコブ・バール=テシューヴァ(英語版)(Jacob Baal-Teshuva ジェイコブ・バール=テシューヴァとも仮名表記)は『アンブレラ』について、"クリストの芸術家人生の中で、最も野心的で費用がかかったプロジェクト"と表現している。 日本では、美術評論家の針生一郎が『アンブレラ』を1991年間の国内美術展覧会のベスト5のひとつに選んでいる。また映画・演劇・音楽・美術情報誌『ぴあ』が読者票を基に行った1991年に国内で催された美術展覧会・イベントのランキングで『アンブレラ』は第4位に選ばれている。 『アンブレラ』と『アンブレラ』より前のクリストとジャンヌ=クロードのプロジェクトとの違いについて、『アンブレラ』開催時に水戸芸術館現代美術ギャラリーの学芸員であった森司(アーツカウンシル)は、『ヴァレー・カーテン』、『ランニング・フェンス』、『囲まれた島々』が遮り、分割或いは区分によって逆に関係性を浮き上がらせたのに対し、『アンブレラ』はプロジェクト名の"Joint"が示すように繁る、結合することでより明確に関係性を表現した、と考察している。 実際に日本側の『アンブレラ』を鑑賞した美術評論家の篠田達美は、この作品が"地方都市の景観を良く生かしている"、と述べている。篠田はまた、最初驚きで見た傘が鑑賞時間の経過と共に刺激的で無くなって来た、との感想から、日本側の『アンブレラ』では、鑑賞者は異化されたものが時間の経過と共に同化され日本的なものに変質するというプロセスを体験する、と評した。 経済・産業面への影響については、カリフォルニア芸術評議会(英語版)から『アンブレラ』の経済効果に関する調査依頼を受けたコンサルティング会社の、"ラフな分析"であると前置きした上での、『アンブレラ』はロサンゼルス郡とカーン郡の経済に3430万ドルの波及効果をもたらした、とのレポートがある。日本側では、開催場所にあった日立市農協が運営する農産物販売所"サングリーン中里"が通常の4倍の売り上げを開催中にあげた、との報道がある。 栗林賢(北海道教育大学)らによる日立市下深荻地区での観光農園の状況を調査した研究では、『アンブレラ』開催地となった同地区は傘を見る客が多く訪れたことを契機に観光農園が増加した、と報告している。 日本の美術史の中で『アンブレラ』は"アートプロジェクト"という、制作過程を含め作品とする芸術活動、地域に芸術を投げる社会的活動、といったものが日本で拡がる過程での作品として捉えられている。 谷口文保(神戸芸術工科大学)は日本での"アートプロジェクト"の拡がりの初期において『アンブレラ』を福岡市の『ミュージアム・シティ・プロジェクト("ミュージアム・シティ・天神"、"ミュージアム・シティ・福岡"とも言う)』と共に重要な事例のひとつとしている。また、谷口は『アンブレラ』がもたらした、農村を芸術空間に変え、都市部から多くの鑑賞者を招いた状況が、越後妻有アートトリエンナ ーレ等の日本各地で開催されるようになったアートプロジェクトの雛形となったと思われる、とも述べている。 加治屋健司(東京大学)は、日本で”アートプロジェクト”という言葉で作品を表現する者は川俣正や柳幸典などの先例がいたが、一般的に認知されるようになったのは『アンブレラ』からであるように思える、と述べている。 五十嵐太郎(東北大学)は2017年発表の日本における建築とアートの関係を論じた論文で、日本では建築家は、1990年代後半迄はアートイベントに参加することは殆んど無かったが現在は普通に参加している、との推移を示した上で、1991年の『アンブレラ』は建築的なインスタレーションで画期的な作品であった旨を述べている。 『アンブレラ』開催から25年後の2016年9月17日から11月20日に茨城県では『KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭』(以下、"県北芸術祭"と記す)を開催した。これは『アンブレラ』で会場になった常陸太田市、日立市を含む茨城県北地域5市1町の各地を展示会場にした大規模な現代美術の展覧会であった。この県北芸術祭で総合ディレクターを務めた南條史生は、茨城はアートへの意識が高い県であると感じた、と述べている。南條はその原因として『アンブレラ』の影響が大きいとする説があることを挙げ、更に自身が県北芸術祭の話を進める中、多くの茨城県関係者から「あの『アンブレラ』のような事をやるのですか」との反応があった、と『アンブレラ』の記憶が茨城に強く残っていることを指摘し、茨城に現代美術への距離感の近さを感じたと述べている。 南條のもとで県北芸術祭山側エリアのキュレーターを務めた四方幸子も県北芸術祭を進める中で、開催地域には”アートを受け入れる土壌が既にあった”、”自然の中にアートがある意味を住民は感覚で捉えていた”などのことを述べ、その要因として『アンブレラ』の記憶が影響していると、述べている。 アメリカ側では新聞"ベーカーズフィールド カリフォルニアン(英語版)(The Bakersfield Californian)"が、『アンブレラ』の遺産については意見が分かれている、としつつも、『アンブレラ』の記憶と歴史はカーン郡の重要なアイデンティティの一部を成している、との論調の記事を、ベーカーズフィールド美術館(英語版)のキュレーターであるVikki Cruzの"(『アンブレラ』は)カーン郡の歴史に重要な印を残した"との言葉と共に、『アンブレラ』開催から20年後の時に掲載している。この記事でCruzはまた、自身が11歳の時に『アンブレラ』を鑑賞した体験を基に、『アンブレラ』によって地域は"慣れ親しんだ風景への認識を一時的に変えることを余儀なくされた"とも語っている。 一方、事故で終わった『アンブレラ』は、イギリスのジャーナリスト、美術評論家のジョナサン・ジョーンズ(英語版)、アメリカのアートライターのAlyssa Buffenste、日本の現代美術作家の眞島竜男らによる"アートと危険性"、"アートと殺人"、"アートと事故"等の切り口から書かれた記事の中で、リチャード・セラの鉄板作品が起こした死亡事故と共に、重大な人身事故を起こした現代美術作品の例として挙げられている。 金沢21世紀美術館建設事務局他は「公共性と美術:1983-2003」と題した公共性の変容とそれに関わる美術の動向をまとめた年表において『アンブレラ』に"現代美術プロジェクト運営上の難しさが露呈"と表現した上で[アートと社会的責任]とのタグを付けた。 そしてクリスト自身は『アンブレラ』とその事故について、 …現実の世界には全てが含まれます。リスク、危険、美しさ、エネルギー、現実の世界で出会う全てのものです。このプロジェクトは、それが現実の一部であるため、全てが可能であることを示しました。…この作品は、自然とその自然がもたらす全てのものとの対立を生み出すようにデザインされています。 — Christo、Robert Louis Chianese (2013-March/April). “How Green Is Earth Art? The Umbrellas”. American Scientist 101 (2): 108-109. https://www.americanscientist.org/article/the-umbrellas. と、自評している。
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批評・影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 21:53 UTC 版)
中心となる登場人物は青木の演じる腕白な子どもであるが、共演する大人の斎藤達雄・坂本武の2人への小津の演技指導のおかげで、子役である青木の効果が出ているといわれた。しかし、作品自体は「ニュアンスのない無機的なもの」といわれ、当時の『キネマ旬報』では「小津のひとつのデッサンと見たほうがよい」と述べられている。 一方、青木は本作をきっかけに松竹蒲田の人気子役となり、「突貫小僧」の名で知られるようになったため、以後これを子役時代の芸名とした。また、松竹蒲田ではこれにあやかって「爆弾小僧」「アメリカ小僧」という芸名の子役も後に登場した。
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