ソロ活動
ソロ活動 (1989年 - 現在)
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「ポール・ウェラー」の記事における「ソロ活動 (1989年 - 現在)」の解説
スタイル・カウンシル消滅のショックで一時は音楽界から身を引くことも考えたようだが、結局「自分には音楽しかない」と考え、それまででは考えられなかったような小さなホールやクラブハウスを周るなど再び一から地道な活動を始める。1991年に「ポール・ウェラー・ムーブメント (Paul Weller Movement)」名義でソロ最初のシングル “Into Tomorrow” を自主制作レーベルFreedom Highからリリース。この時期にはスタイル・カウンシル時代には決して演奏することのなかったジャム時代の曲も披露している。日本でもクラブチッタ川崎などでクラブ・サーキットを行った。 紆余曲折を経て1992年、自身の名前を冠したソロ1stアルバム『ポール・ウェラー (Paul Weller)』を日本のポニーキャニオンから発表 (イギリス本国では契約が取れず、日本に遅れること約半年後Go!Discsよりリリース)。彼自身の音楽に向き合う原点回帰とも呼べる素朴で芯の太いサウンドと、アシッドジャズの影響を感じさせる柔軟でノリの良い曲との対比が印象的である。当時彼は英国内ではメインストリームとは程遠く完全にマイナー・アーティスト扱いであったが、日本ではスタイル・カウンシル時代からのファンが根強く本国よりもヒットした。 続く1993年には前作からさらに力強さを増し、洗練された楽曲を揃えた2ndアルバム『ワイルド・ウッド (Wild Wood)』を発表。じわじわとチャートを上昇し、ソロとしての復活を印象付ける。この頃からオーシャン・カラー・シーンやオアシス、ブラーといった若い世代のアーティストからリスペクトを受けるようになり、結果的にブリットポップ・ムーブメントの火付け役の一人と言える存在となった。1995年にはウェラーの本領発揮とも言うべき英国的な「渋さ」と先人に対する敬愛の念、さらに当時の音楽シーンからの逆影響をフルに詰め込んだ3rdアルバム『スタンリー・ロード (Stanley Road)』が、当時UKを席巻していた (自らもその形成に一役買っていた) ブリットポップの波にも乗って大ヒット。ソロ転向後初の全英1位に輝くなど延々チャートに居座り続け、完全復活を果たす。 その後も定期的にアルバムをリリースし、自らの音楽遍歴を生かした多様な楽曲を発表。年齢を感じさせない鋭いロックサウンドを前面に押し出した『ヘヴィー・ソウル (Heavy Soul、1997年)』 『アズ・イズ・ナウ (As Is Now、2005年)』や洗練された音が魅力の『ヒーリオセントリック (Heliocentric、2000年)』 『イルミネーション (Illumination、2002年)』のほかボブ・ディラン、トラフィック、ニール・ヤング、ドクター・ジョンなどのルーツ・ミュージックに接近した作品も多数製作しており、その嗜好は自身初のフルカバーアルバム『スタジオ150 (Studio 150、2004年)』に凝縮されている。 2006年のブリット・アウォーズで功労賞を受賞。いまだシーンの最前線で活躍するUKロック/ソウルを代表する大御所としての地位を完全に確立している。齢40を超えてようやく過去の栄光から吹っ切れたのか、近年は今まであまり演りたがらなかったジャム時代の曲も頻繁にパフォーマンスするようになった。 2008年にはオアシスのノエル・ギャラガーとゲム・アーチャーのギタリスト2人組、リトル・バーリー、元ストーン・ローゼズのアジズ・イブラヒムやシングル“This Old Town”で競演していた元ブラーのグレアム・コクソン、おなじみのスティーブ・クラドックやサイモン・ダインなどそうそうたるゲストアーティストを迎えた壮大なコンセプト・アルバム『22ドリームス (22 Dreams)』をリリース。全英初登場1位を獲得し、変わらぬ健在ぶりを見せている。 2014年には、娘のリア・ウェラーと共にファッションブランドDAKSの宣伝ビジュアルモデルに起用された。
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