初期の核拡散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:00 UTC 版)
1950年代から60年代にかけて、米ソ両国以外に他3カ国が"核クラブ"入りした。 詳細は「イギリスの大量破壊兵器」、「フランスの大量破壊兵器」、および「中華人民共和国の大量破壊兵器」を参照 イギリス連邦は、1943年にケベック協定でアメリカと核開発のリソースを共有 して以来、マンハッタン計画の初期からのメンバーであった。しかし、1946年にアメリカ合衆国でマクマホン法 (en:McMahon Act) として知られる、原子力技術の国外転移を禁じる法律 が成立した後、アメリカは一方的にイギリスとのパートナーシップを破棄し、今後イギリスには一切の情報を渡さないと通告した。クレメント・アトリー政権下のイギリスは、英国独自の原爆開発がなんとしても必要であると決定した。マンハッタン計画に協力していたため、イギリスは一部の分野では豊富な知識を持っていたものの、実用兵器を開発するまでの道はまだほど遠かった。 ファットマンを改良した型の原爆が開発され、1952年2月26日には当時の首相ウィンストン・チャーチルがイギリスも核兵器を開発したと宣言、最初の核実験であるハリケーン作戦は1952年10月3日に実施された。最初は自由落下爆弾であったがその後ミサイルを開発している。米英間の核兵器に関する協力関係は、1958年の米英相互防衛協定で回復している。この協定とポラリス販売協定 (Polaris Sales Agreement) の結果、英国はアメリカの潜水艦ミサイルの設計図を購入、独自の核弾頭を配備している。イギリスはミサイルの使用についてアメリカからの完全に独立したコントロールを所持している。 フランスは、第二次世界大戦まではジョリオ・キュリーの功績などもあり核物理学の先進国であった。しかしフランスでの研究は戦争によって途絶え、その後第四共和政の政権の不安定さと資金不足によって、研究が再開されることはなかった。しかし、1950年代には民間での核研究計画が開始し、その副産物としてプルトニウムが生成された。 1956年には、秘密組織の原子力軍事応用委員会 (Committee for the Military Applications of Atomic Energy) が組織され、核爆弾の運搬兵器の開発も開始された。1958年にシャルル・ド・ゴールがフランス大統領の座に復帰すると、彼は核爆弾の開発の最終決定を命じた。その後1960年には、フランスは独自の核実験—ジェルボアーズ・ブルーを成功させた。 1951年には、中国とソ連は協定を結び、中国側がソ連に対してウラン鉱を提供し、その見返りに核技術の援助を受けることに同意した。1953年には、中国は核エネルギーの民間利用に模した原子力研究プログラムを開始している。1950年代を通して、ソビエトは中国に大量の装置を提供したが、両国の関係が悪化するにつれてソ連側の協力は減少していく。そして、1959年には、中国はコピーのための核兵器の提供を拒絶されている。それにもかかわらず、中国は核開発の突貫計画を進め、1964年10月16日にはロプノール周辺にて最初の核実験を実施、1966年10月25日には核ミサイルを開発、そして水爆を1967年6月14日に開発した。 中国は原爆の核弾頭を1968年から、水爆の核弾頭を1974年から生産している。また、アメリカへのスパイ活動から得た情報を用いて中国の核弾頭は2200 kg から 700 kg まで小型化されたと考えられている。中国共産党の極端な秘密主義のために、現在の核兵器保有数ははっきりとしていない。それでも、最大で2000個の核弾頭が生産されたと考えられているが、実戦使用可能なものはそれよりもずっと少ないかもしれない。中国は21世紀初頭現在のところ、核兵器による先制攻撃をしないと宣言している唯一の国である。
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