初期の村政(地方改良運動)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 01:34 UTC 版)
「生出村」の記事における「初期の村政(地方改良運動)」の解説
明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行にともない生出村が発足。長尾四郎右衛門が初代村長に就任する。四郎右衛門は茂庭の旧領主である生出小学校校長・茂庭秀福の助力を得て、村の振興策を推し進めていく。 明治25年(1892年)、馬越石トンネルを開削。明治26年(1893年)、村会において「本村養蚕業奨励法」を成立させ、明治29年(1896年)に製糸工場を設立、原料生産から製品販売までを一貫して行う体制を整えた。また、山林資源の主な利用法を薪炭利用から木材利用へ転換。針葉樹の植林事業を展開し、明治40年には150万本を植樹した。これらの産業振興策によって村民所得は大幅に増加し、補助金に依存しない自立した村政運営を達成した。さらに、村民の生活水準が向上したことと、校舎の整備などで施設面を充実させたことで、学童就学率をほぼ100%に近づけることに成功している。 明治35年(1902年)2月に策定された「宮城県名取郡生出村村是調査書」は、明治36年(1903年)の第五回内国勧業博覧会において好評を博した。これが前田正名の目にとまり、生出村の村是は郡是・市町村是の模範的事例として紹介され、生出村は千葉県山武郡源村・静岡県賀茂郡稲取村と共に日本三模範村として盛んに宣伝された。 明治38年(1905年)5月1日には「行道会」を設立。役場と学校が一体となって社会教育・農事改良にあたり、女子部では家事・看護・育児などの指導にあたった。
※この「初期の村政(地方改良運動)」の解説は、「生出村」の解説の一部です。
「初期の村政(地方改良運動)」を含む「生出村」の記事については、「生出村」の概要を参照ください。
- 初期の村政のページへのリンク