自分では無神論者だと思っているような人でも、願掛け(神仏に願うこと)というものをやったことのない人間はまずあるまい。「こうなって欲しいなあ」という想いが起こるというのは、それが神や仏であるかどうかはともかく、思いや意思を形にする何らかの力が存在することを心の隅にでも信じているのであり、何によって信じるかというと、直感しかないと思う。しかし、純粋な直感ほど確かなものは無い。
『老子』の21章にも、おぼろげで分かりにくいものの中に、なんらかの力があることを、私は直感によって知っていると書かれているのは興味深いものであると思う。

ところで、願掛けを効果的にするものとして「断ち物」というものが、古今東西に存在する。断ち物とは、好きな食品、嗜好品、あるいは、薬などを絶って、その代わりに、願望の成就を願うものである。断ち物の期間は、普通は、願望が叶うまでであるが、祈願の際、「一生○○を絶ちますので、願いを叶えて下さい」と祈れば、さらに成就の可能性が上がるのである。我が国でよく知られているものには、春日局が、幼少の時の徳川家光が病で瀕死の状態であった時、その回復を祈願する際、一生薬を絶つことを誓ったというものがある(家光は奇跡的に回復した)。また、上杉謙信が、戦での勝利を祈願した際、生涯の女絶ちを誓ったことも有名で、実際、彼は妻も側室も持たなかった。

断ち物は、迷信と思われることもあるが、私は、必ずしもそうではないと思う。
断ち物では、先に述べた通り、好きな食べ物や嗜好品、あるいは、薬などを絶つのであるが、好きな食べ物とか、酒、タバコ、コーヒーといった嗜好品を絶つというのは、欲望を捨てることである。現代であれば、ゲーム、漫画、アニメ、あるいは、昨今の事情では、クーラーといったものでも良いと思う。一方、春日局のように、薬を絶つというのは、生命を捧げても良いという意味になり、決意の強さを感じるのである。また、上杉謙信も、おそらく、健康で強健な若い男子であったのであるから、一生、女を求めないという決意も並々ならぬものを感じさせる。
この世には、目に見えるものだけではなく、その背後、あるいは、内部、あるいは、もっと別の形で、何かの力、エネルギーが存在することは科学的にも確実であるし、その見えないものについて、我々が知ることは極めてわずかである。だが、その存在を、自然の中で生き、迷信もあっただろうが、現代の我々より鋭い直感を持つ人々は、神、仏、あるいは、天使、妖精、精、霊などと言ってきたのだ。
欲望を捨てる、命を捧げるというのは、その神秘な力に働きかけ、動かすことが、経験的に知られており、真摯な目的で行った者なら、それが恐るべき力であることが確証されているのであると思う。
だが、上杉謙信のように、戦に勝つという、ある意味、我欲のようなものであれば(必ずしもそうではないと思うが)、女を絶つという、男にとって最も辛いことを対価にする以外に無いのかもしれない。

水野南北は、願いがあれば、食事の三分の一を神仏に捧げよと教えている。別に、本当に神棚、仏壇に捧げる必要はなく、ただ食べずに、心の中で捧げれば良いとする。それで、小さな願いで1年、ちょっと大きなもので3年、大きな願いでも10年で叶うという。なぜ叶うかというと、食は生命を育てるものであり、食物を捧げるということは、生命を捧げることであるからだと言う。
水野南北は、観相(顔や身体の相で運命を鑑定する占術)で、その名を天下に轟かせていたが、それよりも、その人の食を見れば、万に1つも、運勢を読むことを誤らないと自信を持って断言した。即ち、食多く美食であれば逆運(不運)、食少なく粗食であれば幸運である。
少食、粗食であるにこしたことはないが、すぐに始めるのが難しければ、チョコレートが大好きならそれを絶つ(女優の細川ふみえさんもこれをやった。彼女は、3食全てチョコレートで良いというほど好きだった)、大好物がカレーライスならそれを絶つといったことから始めても良いと思う。そこそこの願い事に効果は必ずあると思う。あるいは、複合技で、好きなケーキ、スパゲティ、焼肉、ステーキを絶つという風にすれば、さらに願いを叶える強力な力になる。
これを、引き寄せの法則や、潜在意識の法則などと組み合わせれば、これまで願いが叶わなかった人も、きっとうまくいくに違いない。







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