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『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』  大塚 英志

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うえしん

物語論で読む村上春樹と宮崎駿  ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)
(2009/07/10)
大塚 英志

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 まあ、おもしろかったし、物語の解釈はつぎつぎとページをめくりたくなった。わたしは物語のよい解釈者ではなくて意味がわからないことがおおいから、すなおに村上春樹と宮崎駿の物語解釈はたのしめた。「へぇ~、そういうことをいっていたのか」とたのしめた。

 大塚英志は何冊か読んだことはあるのだが、過剰な自分語りにはうんざりしたり、単純化・簡素化してくれない迂遠で饒舌な文章には嫌気がさしていてこんかいで読むのをやめるかもと思っていたのだが、あんがいおもしろかった。

 まあ、この本は『スター・ウォーズ』の種本にもなったジョセフ・キャンベルの単一神話論で村上春樹も宮崎駿もその物語を読み解けるということで、物語のフォーマットや構造だけで中身なんかなにもないのだと批判している。世界にうけたのはそういう万人受けする普遍的な物語構造を援用したからだということで、それで憤っているということになるのか。この本はそのキャンベルの『千の顔をもつ英雄』の物語構造をふたりの作家にあてはめて読んでゆくというもので、物語の謎解きはおもしろかった。

 千の顔をもつ英雄〈上〉 千の顔をもつ英雄〈下〉

 現代は「大きな物語」が終焉した時代だといわれる。それと呼応するように年代記やサーガが書かれるようになった。『スター・ウォーズ』の三部作といったものや村上春樹も年代記をおおく含むし、『ガンダム』もサーガをふくんんでいる。「大きな物語」の終焉を贖う行為が物語りに求められた。オウムもそれをおこない、オウムはベタでイタいサブカルワードを援用したが、だからこそ村上春樹は似たような姿をそこにみて、はげしくオウムにコミットメントしなければならなくなったということである。「大きな物語」なきあとの失敗作、リアル世界につくりだそうとしたオウムの奇怪さに村上春樹は物語に希望をたくす自分と似た姿を見いだしたということだ。

 キャンベルの単一神話論では死者の国に降りてゆき、生還する物語が神話の共通項としてあると抽出したのだが、村上春樹や宮崎駿の作品にも同じ構造がみとめられるという。イザナギ・イザナミ神話にも死者の世界に降りる話がある。「あちら」の世界に行き、「こちら」の世界にもどってくるというわけだ。それが「自己実現物語」や「教養小説」の構造としてあり、あるいは「名をうしなった主人公」が名を回復する物語として描かれるというわけだ。『千と千尋の神隠し』なんてずばり名をうしなう話だ。この構造で村上春樹も宮崎駿も描かれているからダメということか。

 わたしは死者の国に行く世界がなにを目的にしているかいまいちわからない。自己実現や成長をあらわしているということなんだろうが、なぜ死者なのか、成長や自己実現がなにを意味するのかよくわからない。どうして死者の世界にいけば成長できるのか、どうして成長は必要なのか、成長とはなにを意味するのかわからない。そもそも成長や成熟の目標がない人間かもしれない。なぜ死者の国なのか。こういう素朴な前提にわたしはつまづいている。死を思わないからだろうか。

 キャンベルの神話では神との融合のようなことが目的とされているようにいっているが、現代人がそれを目的にすることはない。「分離、移行、統合」とはなにを意味するのだろうか。そういえばケン・ウィルバーは『意識のスペクトル』『無境界』のなかでペルソナと影、身体との統合、神との融合をスペクトルとして描いているが、宗教なきこんにちでもそれは必要なのだろうか。わたしの成長とか自己実現ってなんだろう。わたしはそれが必要なのか。わたしは成長し、自己実現しなければならないのか。

 村上春樹の作品の中で父殺しや影殺しはしばしば他人に代行されているという。妻や他人にやってもらっている。宮崎駿のアニメでも女性ははやばやと自己実現してしまうが、男性は女性をえられなかったり、降りたりしていて、胎内回帰願望が濃厚なのだという。アシタカはサンとわかれて暮すし、『紅の豚』のポルコは隠棲にちかいという。千尋もキキも女の子はみな成長する。男は成長せずにただ母胎回帰にとどまり、それがハッピーエンドとなっているという。宮崎駿は成長する女性と成熟しない男性を描き、それをよしとしたのだろうか。まあ、男は成長しないのが時代かもしれない。男が男としてのプレッシャーに強く押しつぶされてきたのがこれまでとすると、へなちょこであっても男は成長しなくてもいいのかもしれない。大塚英志がそういうへなちょこ男に憤っているとしても、男の脱男性化が世界に届いているのかもしれない。

 ヒッチコックの手法に「マクガフィン」というのがあって、だれもが「マクガフィン」について語るが主人公はそれがなにであるかわからない。気になってしょうがなくなるのだが、この謎を映画のなかにしこませると読者は物語にひきつけられるという方法があるそうだ。みんなは知っていて、自分だけが知らないという落差、仲間はずれ感が読者をひきつける。意味がない空洞の記号であってもそれでいいのだ。人は意味のない空洞にたえられないからそこに意味を補填しようとする。

 村上春樹の物語って意識的にこの方法が使われているのかもしれない。村上春樹の作品って意味がわからない本やエピソードで満ちあふれている。謎本がつぎつぎと出て、記号を読み解いたり、解釈を提出する。おまけにサリンジャーやフィッツジェラルドなどのアメリカ作家など固有名をちりばめてアメリカ的カッコよさを演出する。謎と空洞、記号という真空によって読者はいやがおうでも想像力たくましい意味や謎解きを充満せざるをえないというわけだ。

 評論家のなかには謎の多い物語ではテーマもメッセージも届かないではないかと不満をいうが、もしかして中身も意味も空っぽのひきつけられる物語だけを欲しているのかもしれない。謎と意味不明という物語に人間はたまらなくひきつけられるのだ、村上春樹の小説はそれを体現しているのかもしれない。人間には謎と意味が必要だ、ということをからくりであらわしているのだろうか。これは意味や謎のパロディかもしれないな。マジメではないかもしれないが、人はそういうものであるというメタな立場からの物語のプレゼントなのだろうか。

 大塚英志はなぜ世界に届いてしまったのか、なにを届けたのか不問のまま、日本が世界に届いたと喜んでいるといっているが、べつに構造だけであろうと、成長しない母胎回帰の物語であってもべつにいいじゃないか、なにが問題なのかといまいちわたしにはわからなかった。意味や成長だけがそんなに大切とは思えない。捨てたり、墜ちたり、負けたり、逃げるのも人の成長や発展ともいえる。上るだけが人生ではないと隠遁と老荘とニューエイジに影響をうけたわたしは思うのだが。成長しなければだめですか。


『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』 三浦 雅士
『「宮崎アニメ」 秘められたメッセージ』 佐々木 隆
『物語消滅論』大塚 英志


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Posted byうえしん

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