新自由主義の帰結
服部茂幸「新自由主義の帰結―なぜ世界経済は停滞するのか」の感想。
世界的な金融危機、経済停滞を分析し、新自由主義の理論がそれらを防止するどころか、促進してきたという主張である。こうした主張をする本は今までも読んでいて、新自由主義というのは信用できないものだという感じを持っているが、それがさらに強化される。
本書は要するに次のようなことが書いてある。
つまり、新自由主義の世界では、政治と経済は非対称なのである。
経済がうまくいっていれば政治が邪魔をするなと言い、うまくいかなくなれば政治が助けざるをえなくなるというのがこの世界の本質である。
そしてうまくいっているときは、1%の人に富を集中させ、それが他の人にも益をもたらす=トリクル・ダウンは起きることもなく(というか困っている人は後回しが前提ということ)、これが新自由主義の帰結である。
こうしたことが、大恐慌以来の長い歴史上のさまざまな経済・金融政策を反省・分析して論証される。
もちろん日本のバブル崩壊時の反省も、そして、欧米は日本のようにはならないと言い切っていたのに、全く同じ轍を踏んだことが解説される。
経済学には、さまざまな学説があり、何が正しいか理論的に判断することは難しい。経済学を専門とする人でさえそうだから、素人にはまったく理解できない。
そして理論的に何が正しいかが判定できない以上、経済学そのものが存立する意義及び必要性、どの理論を採用すべきかの判定基準は、その理論に基づく施策の帰結が、国民が幸福に暮らせる社会に資するもの(経世済民)かどうかという、経済学の体系の外から評価されるべきものなのではないだろうか。それが学者の良心というものではないのだろうか。
法には慈悲がなくてはならぬ。
ならば、経済学には博愛がなくてはならないだろう。
世界的な金融危機、経済停滞を分析し、新自由主義の理論がそれらを防止するどころか、促進してきたという主張である。こうした主張をする本は今までも読んでいて、新自由主義というのは信用できないものだという感じを持っているが、それがさらに強化される。
本書は要するに次のようなことが書いてある。
新自由主義とは、強者がルールを決めて競争する、そしてそれがうまくいかなくなると強者が滅びるのではなく、強者が滅んでは困るだろうという理屈で、政治、つまり弱者から搾り取った税金を投入して助けるという思想・行動規範である。
そしてこの思想・行動規範を正しいものとして言い続けているのが、主流派(新自由主義)経済学者である。
彼らの理論は「危機が来るまでは危機は来ない」という確実な真実に基づいている。
つまり、新自由主義の世界では、政治と経済は非対称なのである。
経済がうまくいっていれば政治が邪魔をするなと言い、うまくいかなくなれば政治が助けざるをえなくなるというのがこの世界の本質である。
そしてうまくいっているときは、1%の人に富を集中させ、それが他の人にも益をもたらす=トリクル・ダウンは起きることもなく(というか困っている人は後回しが前提ということ)、これが新自由主義の帰結である。
こうしたことが、大恐慌以来の長い歴史上のさまざまな経済・金融政策を反省・分析して論証される。
もちろん日本のバブル崩壊時の反省も、そして、欧米は日本のようにはならないと言い切っていたのに、全く同じ轍を踏んだことが解説される。
経済学には、さまざまな学説があり、何が正しいか理論的に判断することは難しい。経済学を専門とする人でさえそうだから、素人にはまったく理解できない。
そもそも経済学はできそこないで、科学ではない。科学としての体裁があるのかさえ疑わしい。
人工知能によってなくなる職業が話題になったが、エコノミストという職業はなくならないそうだ。そりゃそうだろう、知能の働く余地がない職業だから。
そして理論的に何が正しいかが判定できない以上、経済学そのものが存立する意義及び必要性、どの理論を採用すべきかの判定基準は、その理論に基づく施策の帰結が、国民が幸福に暮らせる社会に資するもの(経世済民)かどうかという、経済学の体系の外から評価されるべきものなのではないだろうか。それが学者の良心というものではないのだろうか。
破綻した銀行、しかも経営陣の報酬にも手を付けず救済するのは社会的に不公正だという意見が出るのなら、なぜそうせざるをえなくなる経済理論に正当性があると言えるのか。
危機が来るまで危機にはならない、その間は有効な理論というのではただの詐欺だろう。
結果的に間違った政策を指導したとしても、言い抜ける方法はいろいろあることも本書で触れられている。しかし、結果の成否はともかく、良心に照らして間違ったことをしていないという信念はあるのだろうか。
法には慈悲がなくてはならぬ。
ならば、経済学には博愛がなくてはならないだろう。