「百人一首―編纂がひらく小宇宙」

71IvvCCq5IL1500_.jpg 田渕句美子「百人一首―編纂がひらく小宇宙」について。

『百人一首』は藤原定家撰と言われてきたが、本書はそれをきわめて論理的・実証的に否定する。

この問題については、既に吉海直人「百人一首の正体」の書評の中でも定家撰とは言えないというやや控えめな形で紹介しているけれど、本書は、『明月記』の記述、小倉山荘がどのようなものだったか、またよく言われるような障子に歌が貼られた云々についても100首は(物理的に)困難と指摘するなど、反論の余地がないほどである。

また昭和26年に発見され、『百人一首』研究を根本的に見直すこととなった『百人秀歌』のほうを『明月記』との関連も交えて定家撰は疑いないこと、また『百人秀歌』が幕府有力御家人だった蓮生に向けて撰歌されていることから、蓮生がどういう人物であるかにも目を向けて、撰歌の方針がどのようなものだったかを推論し、その結論として『百人秀歌』には、『百人一首』にある後鳥羽院、順徳院歌は撰ばれなかったと結論する。

この蓮生に目を向けたという点は私には新鮮で、このように見ることで時代状況が浮かび上がり、状況証拠といってしまえばそれまでだが、『百人一首』と『百人秀歌』の関係性が明確になる。その蓮生という人物について書かれている部分を引用しよう。

序 章 『百人一首』とは何か―その始原へ
 
第一章 『百人一首』に至る道
1 勅撰和歌集というアンソロジー
    ―撰歌と編纂の魔術
2 八代集という基盤
    ―「私」から複数の人格へ
3 『三十六人撰』から『百人一首』へ
    ―〈三十六〉と〈百〉の意味
 
第二章 『百人一首』の成立を解きほぐす
1 アンソロジスト藤原定家の登場
    ―編纂される和歌と物語
2 『百人秀歌』と『百人一首』
    ―二つの差異から見えるもの
3 贈与品としての『百人秀歌』
    ―権力と血縁の中に置き直す
4 定家『明月記』を丹念に読む
    ―事実のピースを集めて
 
第三章 『百人一首』編纂の構図
1 『百人一首』とその編者
    ―定家からの離陸
2 配列構成の仕掛け
    ―対照と連鎖の形成
3 歴史を紡ぐ物語
    ―舞台での変貌
4 和歌を読み解く
    ―更新される解釈
5 『時代不同歌合』との併走
    ―後鳥羽院と定家
 
第四章 時代の中で担ったもの
1 歌仙絵と小倉色紙
    ―積み重なる虚実の伝説
2 和歌の規範となる
    ―『百人一首』の価値の拡大
3 異種百人一首の編纂
    ―世界を入れる箱として
4 『百人一首』の浸透
    ―江戸から現代まで
 
終 章 変貌する『百人一首』―普遍と多様と
 
『百人秀歌』『百人一首』所収和歌一覧
図版出典一覧
主要参考文献
あとがき
  3 贈与品としての『百人秀歌』
     ―権力と血縁の中に置き直す

 定家・為家を支えた蓮生の一族
 ではその蓮生の一族と、定家・為家との関係について述べていこう。蓮生一族とはどのような人々なのだろうか。蓮生は為家の妻の父、つまり為家の岳父である。蓮生とその一族の動向や地位は、従来の『百人一首』成立論ではあまり重視されていないが、『百人一首』の性格を考える上で重要である。なお七三頁に系図を掲げているのでご参照頂きたい。
 蓮生の俗名は宇都宮頼綱である。頼綱は宇都宮を本拠として幕府に仕えた御家人で、北条時政とその後妻牧の方の間に生まれた娘を妻(妾ともされる)とした。つまり時政の娘婿である。そのため、元久二年(一二〇五)、平賀朝雅事件(牧の方が娘婿朝雅を将軍に擁立しようとしたもの)の時に謀反を疑われ、一族郎党出家して幕府に恭順の意を示し、頼綱自身若くして出家、蓮生と名乗った。嫌疑が晴れた後には京・鎌倉を往復して生活しており、出家後は幕府に公的な出仕はしていないが、出家後も有力な在京御家人の位置にあった。また承久三年(一二二一)五月の承久の乱時には「宿老」の一人として、北条義時、大江広元、三善康信らとともに鎌倉に留まり、後方支援した(『吾妻鏡』)。蓮生の子である頼業は、幕府側の将の一人として出陣し、武功をたてた(『承久兵乱記』『古今著聞集』)。なお、蓮生の娘と為家との結婚は、承久三年中のことであったとみられる。
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 北条氏と宇都宮氏・ 定家の親近
 蓮生一族と幕府執権北条氏との関係は、極めて近いものである。頼綱(蓮生)以降、宇都宮氏は代々当主かその兄弟が北条氏一族の女性と結婚し、北条氏と密接な関係を保ち、評定衆、引付衆などを歴任しており、御家人の中で特別な地位にあった。蓮生の嫡男泰綱は幕府の重臣として十八年間にわたり評定衆を務めており、北条朝時の娘を妻としている。さらに嘉禄二年(一二二六)七月には、執権北条泰時が、自身の孫にあたる経時(泰時の子時氏の嫡男)と、泰綱の娘(この時まだ二、三歳)との結婚を約諾したと、定家は『明月記』に書いている。北条時氏は泰時の後継者として嘱望されていたが、寛喜二年(一二三〇)に二十八歳で病死したため、経時が仁治三年(一二四二)に、祖父泰時の後を継いで十九歳で第四代執権に就任した。しかし経時妻(蓮生孫・泰綱娘)は寛元三年(一二四五)に十五歳で没し(『吾妻鏡』)、その翌年には経時も、弟の時頼に執権職を譲って病死してしまったので、結局は蓮生の曽孫が執権となることはなかった。が、当時において、蓮生の孫娘が北条経時妻になったことは、蓮生・泰綱ら宇都宮一族の権勢や北条氏との紐帯を、都の人々にもありありと見せていたに違いない。それはすなわち定家、為家一族の繁栄を支えるものでもあった。

いかがだろう。蓮生というと、京都にいた(京都と鎌倉を頻繁に行き来)ことで鎌倉との関係も特に注意しなかったし、定家と行き来がある文化人の僧侶ぐらいに思っていたが、かなり有力な鎌倉御家人だったようだ。
本書が指摘しているが、定家自身は色紙形を書くのは能筆家の仕事で自分はやらないと考えていたのに、蓮生すなわち有力御家人の依頼とあっては断りにくかったと推定できるし、そもそも蓮生が軽い人だったら、彼に向けて撰歌の労をとったりはしなかっただろう。
そしてそういう相手であれば、幕府に睨まれるような歌人の歌を撰ぶということは喧嘩をうるようなものになる。定家にそんなマネはできそうにない。

詳細な論拠は本書を読んでいただくとして、次のようにまとめられている。

 また、『明月記』文暦二年(一二三五)五月二十七日条を『百人秀歌』成立を語るものと見た上で、数年後に定家自身が『百人秀歌』を改訂して『百人一首』を作ったと推測する説もあるが、『百人一首』が定家が生きている間に成立したことを示す当時の資料は、現在のところ見出されないのである。
 このような矛盾や疑問がありながらも、長い間多くの論著で『百人一首』は定家撰の可能性が高いとされてきたのは、『百人一首』のみにある「人もをし……」(後鳥羽院)と「ももしきや……」(順徳院)の小倉色紙が伝存しており、特に前者は古来から定家真筆とされたことが大きな理由であった。しかし現在の書誌学研究では、この二枚が定家真筆という見方は否定されている[名児耶明、一九九四など]。つまり『百人一首』を定家の時代の成立とする最大の根拠が失われている。しかし、その後もなぜ『百人一首』が定家撰という見方が受け継がれてきたのだろうか。その理由の一つとしては、定家と後鳥羽院との関わり合いを重く見て、この二首の出し入れについて、定家の後鳥羽院への心情のあらわれであると解釈することがずっと行われてきたということがある。
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 このように『明月記』などの資料を時系列で整理し、証跡のないことを排して考えていくと、資料の力によって曇りが消え、『百人秀歌』は文暦二年五月二十七日以前の成立で定家撰、『百人一首』は鎌倉中期以降に後人の誰かが手を加えて改編したものであろうことが、鮮やかに浮かび上がってくる。

なお、専門家ではない人が、小倉山荘の障子に貼られた歌の配置を論じ、そこから『百人一首』の謎を解くというような著作が一時流行したことに言及し、そうしたものは成立する余地は全くない(小倉山荘という名前は定家存命時には使われていない、障子に貼れる歌の数はどんなに多くても20首程度)と断じている。

私も以前、その種の話を聞いたことがある。
また「心あてに折らばや折らん初霜の置きまどはせる白菊の花」の歌について、「置き」は隠岐に通じ、菊は天皇を意味するもので、定家が後鳥羽院に思いをはせた歌だという説明を聴いたことがある。

歴史学の常として、新しい史料が出ればまた違った説が出るのかもしれないが、こと『百人一首』に関しては、本書の結論を強化する史料なら出るかもしれないが、否定する史料は出ないのではないだろうか。
そう思うぐらい見事に論証されていると思う。

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