「超訳百人一首 うた恋い。」
杉田圭「超訳百人一首 うた恋い。」について。
田渕句美子「百人一首―編纂がひらく小宇宙」で、
第1巻の最後20ページに百首全部の「超訳」が載せられ、そこで「おしまい」となっているから、この1巻だけで完結のつもりだったのかもしれないが、続編が3巻でている。
本書は「雅美女(みやびじょ)に捧ぐ」とあって、今放送中の「光る君へ」の雅な世界とも通ずるところがあるように思う。
「光る君へ」はよくできたドラマでおもしろく見させてもらっているけれど、史実がどうとかいう話ではない。
この「超訳百人一首 うた恋い。」も秀逸と評されていても、百人一首の研究の現在地から、正確に歌を開設しているようなものではない。
どちらももとになった古典作品をオマージュしながら、独自に想像を膨らませたものといえる。
というわけで、このまんがで百人一首を鑑賞しようとか、勉強しようとかしてもしかたがないと思う。
ところで「超訳」というのは作者が独自に解釈・想像して口語訳したものということらしいが、情景はたしかにいろいろ想像を交えているようだが、ほぼ言葉どおりの意味で解釈されていて、新しい解釈が入り込んでいるというわけではないようだ。だから、たとえば、
この歌については、田渕句美子「百人一首―編纂がひらく小宇宙」では、
もう一首あげよう。
正直に言うと、私はずっと会ったあとの別れだと思っていたので、田中貴子氏の本を読んで、そういう解釈もあるのかと驚いた。
会ってから帰るのか、会えずに帰るのか、どちらがぐっとくるだろう。
ところで、百人一首の成立について、本まんがでは、百人一首は小倉山荘の障子に貼られたとしているが、田渕句美子「百人一首―編纂がひらく小宇宙」は否定していることである。
なお、百人一首は後世に編纂されたものという論については、少し触れられてはいる。
もっとも本まんがは百人一首の研究書でもなんでもないわけで、田渕先生が「編纂がひらく小宇宙」とされたように、どの歌をどう配列するかというところが百人一首の妙味であって、元の歌をそれが読まれた時空・人物に基づいて「正確に」解釈する必要性はない。
本まんがは、百人秀歌をもとにさらに編纂された百人一首、それをもとにさらに編纂した、ということで良いだろう。
つまり素直にまんがを楽しむ、それが本作品に向き合う態度としてふさわしいだろう。
田渕句美子「百人一首―編纂がひらく小宇宙」で、
"歌と歌を、さらには場面と場面を結びつけて物語を展開させていく方法と手腕が秀逸で、エポックメイキングな作品である"
第1巻の最後20ページに百首全部の「超訳」が載せられ、そこで「おしまい」となっているから、この1巻だけで完結のつもりだったのかもしれないが、続編が3巻でている。
第1巻は「超訳百人一首 うた恋い。」と巻次は付いていない。続編は、2、3、4と巻次が付く。また、第1巻には超訳が掲載されているが、続編3巻は百人一首の歌をそのまま載せていて超訳は付いていない。
なお内容は知らないが、このまんがのスピンオフみたいな「超訳百人一首 うた恋い。【異聞】 うた変。」というのもある。
超訳百人一首 うた恋い。 | ||
【マンガ】 | 百人一首事始 | 藤原定家&宇都宮頼綱 |
和歌物語 一 | 在原業平&藤原高子 | |
和歌物語 二 | 陽成院(貞明)&綏子 | |
和歌物語 三 | 藤原義孝&源保光の娘 | |
和歌物語 四 | 紫式部(香子)&藤子 | |
和歌物語 五 | 藤原道雅&当子 | |
和歌物語 六 | 藤原定家&式子 | |
【ショートショート】 | 業平と貞明 | |
その後の綏子と貞明 | ||
その後の道隆 | ||
【超訳】 | 超訳百人一首 | |
【ていかメモ】 | 色好み | |
後朝の文 | ||
末法の世 | ||
漢字とひらがな/愛人妻 | ||
荒三位 | ||
百人一首 | ||
超訳百人一首 うた恋い。2 | ||
【マンガ】 | 百人一首事始 | 藤原定家&宇都宮頼綱 |
プロローグ | 喜撰法師&紀貫之 | |
和歌物語 一 | 文屋康秀&在原業平 | |
和歌物語 二 | 僧正遍昭(良岑宗貞)&吉子 | |
和歌物語 三 | 在原行平&弘子 | |
和歌物語 四 | 小野小町 | |
和歌物語 五 | 喜撰法師&紀貫之 | |
【ショートショート】 | 大友黑主 | |
あれから25年 | ||
遍昭と小町 | ||
東下り三人衆 | ||
【和歌】 | 百人一首 | |
【ていかメモ】 | 六歌仙 | |
恋愛から結婚まで | ||
平安の子供事情 | ||
小町の物語 | ||
ひらがな | ||
【DVD収録内容】 | 絵巻物語「筑波嶺の想ひ出」 | |
『超訳百人一首 うた恋い。』PV | ||
超訳百人一首 うた恋い。3 | ||
【マンガ】 | 百人一首事始 | 藤原定家&宇都宮頼綱 |
プロローグ | 藤原行成、藤原斉信、清少納言 | |
和歌物語 一 | 清原元輔(清原致信&末の松山) | |
和歌物語 二 | 儀同三司母(高階貴子)&藤原道隆 | |
和歌物語 三 | 藤原実方&清少納言(諾子) | |
和歌物語 四 | 清少納言&藤原行成 | |
和歌物語 五 | 藤原公任 | |
エピローグ | 藤原行成&清少納言 | |
【ショートショート】 | 男の真価 | |
道隆と行成 | ||
彼と彼女の和歌 | ||
我等友情永久不滅 | ||
【和歌】 | 百人一首 | |
【ていかメモ】 | 恋歌の代作 | |
大切な本名 | ||
平安時代の離婚 | ||
葳人頭 | ||
枕草子 | ||
【DVD収録内容】 | 絵巻物語「うき世の月」 | |
『超訳百人一首 うた恋い。2』PV | ||
超訳百人一首 うた恋い。4 | ||
【マンガ】 | 百人一首事始 | 藤原定家&宇都宮頼綱 |
プロローグ | 阿古久曾&椿 | |
和歌物語 一 | 阿倍仲麻呂(安倍仲麿)&藤原清河 | |
和歌物語 二 | 小野篁&小野比右子 | |
和歌物語 三 | 壬生忠岑&藤原満子 | |
モノローグ | 在原業平 | |
和歌物語 四 | 紀貫之&椿 | |
和歌物語 五 | 菅原道真 | |
【ショートショート】 | お兄さまと私 | |
古今集組① | ||
古今集組② | ||
貫之と定家 | ||
【和歌】 | 百人一首 | |
【ていかメモ】 | 遣唐使 | |
篁の伝説 | ||
歌の力 | ||
大学寮 | ||
最後に残ったもの |
「光る君へ」はよくできたドラマでおもしろく見させてもらっているけれど、史実がどうとかいう話ではない。
この「超訳百人一首 うた恋い。」も秀逸と評されていても、百人一首の研究の現在地から、正確に歌を開設しているようなものではない。
どちらももとになった古典作品をオマージュしながら、独自に想像を膨らませたものといえる。
「光る君へ」では、紫式部は「まひろ」という名だが、本まんがでは「香子」となっている。
また、清少納言は「ききょう」ではなく、「諾子」である。
というわけで、このまんがで百人一首を鑑賞しようとか、勉強しようとかしてもしかたがないと思う。
ところで「超訳」というのは作者が独自に解釈・想像して口語訳したものということらしいが、情景はたしかにいろいろ想像を交えているようだが、ほぼ言葉どおりの意味で解釈されていて、新しい解釈が入り込んでいるというわけではないようだ。だから、たとえば、
心あてに折らばや折らん初霜の
置きまどはせる白菊の花
には、置きまどはせる白菊の花
庭一面に 真っ白な初霜がおりた
咲いていた白菊を摘もうとしても
霜と見分けがつかないな
という超訳がついている。咲いていた白菊を摘もうとしても
霜と見分けがつかないな
この歌については、田渕句美子「百人一首―編纂がひらく小宇宙」では、
初霜が置くなか、いっそう白さを際立たせて咲く白菊。ぜひにも折り取りたいが、その凜としたこの世ならぬ美しさは、どうしても手を触れるのをためらわせる。その美を、錯視とためらいの身振りの表現によってかろうじて我が物にして見せたのである。
という渡部泰明氏の解釈が紹介されているが、本まんがはそうした解釈を踏まえているわけではなく、田渕先生が秀逸と評されるのは、そうした歌論に基づくものではないわけだ。もう一首あげよう。
有明のつれなく見えし別れより
暁ばかり憂きものはなし
の超訳は、暁ばかり憂きものはなし
君と別れた朝 やけに冷たく見える白い月が空にあった 今も明け方の時間は 君を思い出してせつないよ
なのだが、この歌については田中貴子「いちにち」の記事でこう書いている。
それはともかく、季節にもよるだろうが、曙より前の暁時は、まだ真っ暗だろう。
百人一首の「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」(壬生忠岑)は、明るくなる前に帰るのであり、そのときは有明の月が煌々と輝いていて、かえってつれなく見える、と解したい。
曙の頃に帰るのでは、既に思いは遂げていて、明るくなってきたから帰らなければという印象にもなりそうで、やはり暁は真っ暗な時分が良いのではないだろうか。
つまり、本まんがでは、会ったあとの別れがせつないのだが、こちらの解釈では、会えずに帰るので暁が憂きものになる。百人一首の「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」(壬生忠岑)は、明るくなる前に帰るのであり、そのときは有明の月が煌々と輝いていて、かえってつれなく見える、と解したい。
曙の頃に帰るのでは、既に思いは遂げていて、明るくなってきたから帰らなければという印象にもなりそうで、やはり暁は真っ暗な時分が良いのではないだろうか。
正直に言うと、私はずっと会ったあとの別れだと思っていたので、田中貴子氏の本を読んで、そういう解釈もあるのかと驚いた。
会ってから帰るのか、会えずに帰るのか、どちらがぐっとくるだろう。
ところで、百人一首の成立について、本まんがでは、百人一首は小倉山荘の障子に貼られたとしているが、田渕句美子「百人一首―編纂がひらく小宇宙」は否定していることである。
なお、百人一首は後世に編纂されたものという論については、少し触れられてはいる。
もっとも本まんがは百人一首の研究書でもなんでもないわけで、田渕先生が「編纂がひらく小宇宙」とされたように、どの歌をどう配列するかというところが百人一首の妙味であって、元の歌をそれが読まれた時空・人物に基づいて「正確に」解釈する必要性はない。
本まんがは、百人秀歌をもとにさらに編纂された百人一首、それをもとにさらに編纂した、ということで良いだろう。
つまり素直にまんがを楽しむ、それが本作品に向き合う態度としてふさわしいだろう。