「悪党たちの中華帝国」(その2)
岡本隆司「悪党たちの中華帝国」の2回目。
本書でたびたび出てくるのは、日本の「悪党」との比較というか、日本だったら誰にあたるかというもの。
私も、読みながら、こういうところは、日本だったら〇〇みたいだなと思っていたが、それは著者も同様だし、いつの時代でもそういうなぞらえをしてきたようだ。
日本で最もよくとりあげられる悪党といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ということになろうし、同時代を生きた分、この三人が対比されて、人物像が造形されてきたと思う。
柴栄(さいえい)、すなわち後周の第2代皇帝、世宗は織田信長に擬えられている。
次に紹介するのは、家康、さらに秀忠や家光まで、まとめて引き合いにだしている部分。
宋の建国の「悪党」、太宗とその後継者真宗。
彼我の悪党を見比べると、なんとなく中国の悪党に対する人物イメージも湧いてくるような気がする。
世の移り変わるところ、同じような役割を果たした人物が現れるということだが、社会や文化の面でも異なる文化圏で似たような現象がみられるという。
それを代表する悪党として、宋の徽宗がとりあげられる。
日本では暗愚な将軍とされがちな足利義政だが、数々の文化事業(というより趣味)に投資し、幕府財政を窮迫させたわけだが、彼が作った銀閣をはじめ、多くの散財結果は、今日の文化遺産として多くの観光客を集めている。
あえて紹介はしないけれど、本書には高校世界史ではあまり触れられなかった経済の話なども多く盛り込まれ、それぞれの時代の社会の実相もうかがわれる。人物評伝のような体裁でありながら、中国史のキーポイントをついていると思う。
ところで、本書の文字使いは舊字になっている。例えば「芸」は「藝」、「没」は「歿」などである。また、「弁」で「辯」を代用するなども行わない。中国史家の矜持というものだろう。
文科省も合理性・組織性を欠く規則で漢字の世界を混乱させないのが良いのではないか。
本書でたびたび出てくるのは、日本の「悪党」との比較というか、日本だったら誰にあたるかというもの。
私も、読みながら、こういうところは、日本だったら〇〇みたいだなと思っていたが、それは著者も同様だし、いつの時代でもそういうなぞらえをしてきたようだ。
日本で最もよくとりあげられる悪党といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ということになろうし、同時代を生きた分、この三人が対比されて、人物像が造形されてきたと思う。
柴栄(さいえい)、すなわち後周の第2代皇帝、世宗は織田信長に擬えられている。
史書にいう世宗の生涯に対する論評である。「異朝」の記事ながら、その英邁明察・機略応変・苛烈殺伐は、「高平」を桶狭間に代えれば、まさに日本史の織田信長にそっくり。数々の苦難の戦争を勝ち抜き、仏教を弾圧し、事業の半ばにして倒れた本人の生涯ばかりか、その配下から後を継いで、統一をなしとげる武将がでてくるところまで同じである。 宮崎市定はしばしば両者を比擬した。
もちろん時も異なれば、所も同じではない。それでもこれほど似るのは、両者の時代相が相通じていたからである。
そこに気づいて新たな歴史像を構築したのが宮崎の師・内藤湖南だった。内藤は日本の変革の転機を応仁の乱、戦国時代に置いている。中国でそれに相当するのがいわゆる唐宋変革であり、いずれも 「中世」から「近世」への転換とみなした。
湖南のいう「近世」とは「平民発展の時代」である。応仁の乱が旧支配層を破推し、「日本全体の身代の入れ替わり」をもたらしたのと同じく、唐から宋への変革とは、「平民」を主軸とする中国社会の一変であった。王朝・君主そっちのけで、「人民のために尽くした」 馮道があらわれたゆえんである。
もちろん時も異なれば、所も同じではない。それでもこれほど似るのは、両者の時代相が相通じていたからである。
そこに気づいて新たな歴史像を構築したのが宮崎の師・内藤湖南だった。内藤は日本の変革の転機を応仁の乱、戦国時代に置いている。中国でそれに相当するのがいわゆる唐宋変革であり、いずれも 「中世」から「近世」への転換とみなした。
湖南のいう「近世」とは「平民発展の時代」である。応仁の乱が旧支配層を破推し、「日本全体の身代の入れ替わり」をもたらしたのと同じく、唐から宋への変革とは、「平民」を主軸とする中国社会の一変であった。王朝・君主そっちのけで、「人民のために尽くした」 馮道があらわれたゆえんである。
はじめに―「中華帝国」と「悪党たち」 | |
「中華帝国」とは何か/「中華帝国」の虚実/「列伝」の国/「悪党」とは何か/「中華帝国」の遍歴 | |
第Ⅰ章 「中華帝国」のあけぼの―大唐帝国 | |
1 唐の太宗―明君はつくられる | |
隋という政権/文帝の治世/生い立ち/稀代の暴君?/辯護/時代的な位置/大乱/登場/奪嫡/「貞観の治」/「悪党」とは/終末 | |
2 安禄山―「逆臣」か「聖人」か | |
帝国のかたち/後を継ぐ者/空前絶後/女傑の挑戦/玄宗の時代/節度使/安禄山の登場とその背景/長安から幽州へ/君寵/決起から敗亡まで/乱の意義/ひろがる展望/帝国のゆくえ | |
第Ⅱ章 カオスの帝国―五代 | |
3 馮道─無節操の時代 | |
生い立ちと時代/割拠する節度使/劉守光の即位/最初の蹉跌/張承業/革命/宰相/名君/転変/契丹/「打草穀」/終末/時代と評価/無節操とは | |
4 後周の世宗(柴栄)―最後の仏敵 | |
養父の威/後漢の滅亡/即位と残滓/外患と内憂/粛清の意味/崩御と継承/高平の戦い/軍隊と仏教/廃仏と「法難」/天下統一と「平辺策」/南唐の征討/君臣の早世/唐宋の変革 | |
第Ⅲ章 最強の最小帝国―宋 | |
5 王安石―「拗ね者宰相」 | |
宋の太祖/宋の太宗/転換と安定/「澶淵体制」/太平の御代/西夏の興起と危機の到来/「濮議」/王安石の登場/新法の挙行/新法とは何か/党争/分岐 | |
6 朱子―封建主義を招いた「道学者先生」 | |
「風流天子」/「姦臣」蔡京/宋の南渡/政権の安定/「東洋のルネサンス」/宋学の勃興/朱熹という人/政治より学問/朱子学とは何か/教学化/テキスト化/偽学の禁から道学の制覇へ/「閩学」の意義/「人の志を奪う」 | |
第Ⅳ章 再生した帝国・変貌する帝国―明 | |
7 永楽帝―甥殺しの簒奪者 | |
「天道は是か非か」/モンゴル帝国の「混一」/クビライと大都・北京/「危機」と破局/群雄割拠から明朝成立へ/初期条件と制度設計/「中華」の回復と「朝貢一元体制」/多元支配と統治機構/中書省の廃止と疑獄事件/天下の私物化/南北の一体化/遷都の挫折と方向転換/靖難の変と簒奪/政権交代の意味/雄武の大才?/構造矛盾 | |
8 万暦帝―亡国の暗君 | |
跋扈する宦官/駆けめぐる銀/銀の使用と海外貿易/貿易から危機へ/「北虜南倭」/安全辧/張居正とその改革/反動/浪費/「三大征」/「私物化」体制/「面白くない」 明朝史 | |
第Ⅴ章 挫折する近代―明 | |
9 王陽明―「異端」者の風景 | |
朱子学と「挙業」/士大夫の変貌/江南と郷紳/行動様式/前提としての朱子学/出自/前半生/転変/後半生/立場/心学/社会の動向/「読書」から「講学」へ/拡大の果てに | |
10 李卓吾─「儒教の叛逆者」 | |
陽明学の左派/泰州学派/李卓吾の履歴/著述生活/異端の姿勢/「童心」/権威主義との対決/過激な史論/迫害/「近代思惟」の挫折/顧炎武の漢学/後継 | |
第Ⅵ章 甦る近代の変革―清末民国 | |
11 康有為―不易の思想家 | |
明清交代/沈滞/漢学の堕落/公羊学/南海の秀才/变法/「国是の詔」/主従の焦慮/政变/独善の思想家/孔教の創始/終焉 | |
12 梁啓超─「彷徨模索」した知識人 | |
康有為への師事/窮地/日本への亡命/「思想が一変」/「中国」/「新民」の創出/アメリカでの転身/革命派との論戦/祖国への帰還/民国の追求/晩年の自己批判/歿後 | |
おわりに―あらためて 「中華帝国」と「悪党たち」 | |
輩出する「悪党たち」/「一国二制度」と「一つの中国」/「帝国」という多元社会/「帝国」と日本 | |
あとがき |
宋の建国の「悪党」、太宗とその後継者真宗。
もとよりそのねらいは、武人専横天下回り持ちの「五代」の遺風を一掃し、文治政治・官僚制を構築するにあり、一代でその道筋をつけた。以後の「中華帝国」のプロトタイプをなす宋の事実上の建設者は、この太宗なのである。
このようにみてくると、宋の太祖・太宗兄弟を秀吉と家康に比定した宮崎市定は、やはり慧眼であった。五代の乱世からの治世への体制変革をみた中国の政治史は、日本史でいえば、あたかも戦国から江戸、織豊から徳川への推移に近似しており、しかもそれは家康以後にも、おそらくあてはまるからである。
そうした観点からすれば、宋の太宗は徳川家康と秀忠の二人になぞらえるのがふさわしい。国制をととのえ、体制を安定に導いた、というだけではなく、対外的な関係の安定にまでは、なお至らなかったからでもある。その点は、次代の真宗の時代を待たねばならなかった。
「澶淵体制」
その真宗とは、いわゆる「鎖国」体制を完成させた三代将軍の家光にあたる。同じく三代目だったのみならず、史上の役割や個人的なキャラクターも近い。自身が凡庸で、官僚機構による組織的な統治行政を定着させたからである。対外的な体制を固めたことでも、類似した役回りだった。
このようにみてくると、宋の太祖・太宗兄弟を秀吉と家康に比定した宮崎市定は、やはり慧眼であった。五代の乱世からの治世への体制変革をみた中国の政治史は、日本史でいえば、あたかも戦国から江戸、織豊から徳川への推移に近似しており、しかもそれは家康以後にも、おそらくあてはまるからである。
そうした観点からすれば、宋の太宗は徳川家康と秀忠の二人になぞらえるのがふさわしい。国制をととのえ、体制を安定に導いた、というだけではなく、対外的な関係の安定にまでは、なお至らなかったからでもある。その点は、次代の真宗の時代を待たねばならなかった。
「澶淵体制」
その真宗とは、いわゆる「鎖国」体制を完成させた三代将軍の家光にあたる。同じく三代目だったのみならず、史上の役割や個人的なキャラクターも近い。自身が凡庸で、官僚機構による組織的な統治行政を定着させたからである。対外的な体制を固めたことでも、類似した役回りだった。
彼我の悪党を見比べると、なんとなく中国の悪党に対する人物イメージも湧いてくるような気がする。
世の移り変わるところ、同じような役割を果たした人物が現れるということだが、社会や文化の面でも異なる文化圏で似たような現象がみられるという。
「東洋のルネサンス」
宋は中国の数ある統一王朝としては、版図が最も小さく、軍事的にははなはだ栄えない時代だった。ここまで述べてきたように、契丹の侵攻を受け、新興の金に亡ぼされた北宋はもとより、中興を果たしたものの、黄河流域・中原を奪われたまま、回復できなかった南宋は、なおさらだろう。そのため宋は史上最小・最弱の王朝とみなされてきたし、今もそう見くびる向きは決して少なくあるまい。
しかし別の視角からみるなら、宋代は東アジア史上、最も重要な時期の一つである。軍事力の強弱だけではかれない。宮崎市定は宋代を「東洋のルネサンス」と断じた。その文化を「世界一」とまで言いつのり、数百年後のルネサンスは「東洋のルネサンス」の影響で起こったと主張している。
ルネサンス下のイタリアは、宋のような統一的な政権すら存在しなかった。しかも軍事でほとんど無力だったにもかかわらず、以後の西洋文明の出発点になっている。「再生」の名のもと、新しい政治・経済・思想・文学・藝術の様式・枠組みを与えたのが「ルネサンス」だとすれば、宋代もまさしくしかり。外交上に強くなりうるエネルギーをほかに注いでいた、そのために盟約による共存の関係を選択した、とみることもでき、これまた西洋の外交制度・国際関係の雛型が、イタリア・ルネサンスにあったのと近似する。そうした点を考えあわせれば、宋は数ある分野で当時「世界一」、最強の「中華帝国」だったといってもよい。
宋は中国の数ある統一王朝としては、版図が最も小さく、軍事的にははなはだ栄えない時代だった。ここまで述べてきたように、契丹の侵攻を受け、新興の金に亡ぼされた北宋はもとより、中興を果たしたものの、黄河流域・中原を奪われたまま、回復できなかった南宋は、なおさらだろう。そのため宋は史上最小・最弱の王朝とみなされてきたし、今もそう見くびる向きは決して少なくあるまい。
しかし別の視角からみるなら、宋代は東アジア史上、最も重要な時期の一つである。軍事力の強弱だけではかれない。宮崎市定は宋代を「東洋のルネサンス」と断じた。その文化を「世界一」とまで言いつのり、数百年後のルネサンスは「東洋のルネサンス」の影響で起こったと主張している。
ルネサンス下のイタリアは、宋のような統一的な政権すら存在しなかった。しかも軍事でほとんど無力だったにもかかわらず、以後の西洋文明の出発点になっている。「再生」の名のもと、新しい政治・経済・思想・文学・藝術の様式・枠組みを与えたのが「ルネサンス」だとすれば、宋代もまさしくしかり。外交上に強くなりうるエネルギーをほかに注いでいた、そのために盟約による共存の関係を選択した、とみることもでき、これまた西洋の外交制度・国際関係の雛型が、イタリア・ルネサンスにあったのと近似する。そうした点を考えあわせれば、宋は数ある分野で当時「世界一」、最強の「中華帝国」だったといってもよい。
それを代表する悪党として、宋の徽宗がとりあげられる。
「風流天子」
王安石の歿後、いよいよ激しさを増した新法・旧法の党派争いは、宋の哲宗の一代・十五年間つづいたのち、後を継いだ弟の徽宗の時になって、ひとまず収束した。その即位は西暦で一一〇〇年、奇しくも一二世紀が幕を開ける時期にあたる。
宋の徽宗といえば、中国史上でも屈指の、著名な皇帝である。 悪名高いといったほうがよい。『水滸伝』という中国有数の小説にも登場するこの天子は、希代の暗君であり、亡国の君主である。
亡国の暗君といえば、五百年の昔・隋の煬帝と同じ、しかしながらこちらは正真正銘、ホンモノの暗君で辯護の余地はない。中国史もここまで下ってくると、史料も豊富になり、いわば「ごまかし」や一方的な情報操作は、すぐ露顕して通用しなくなるからである。たとえば『水滸伝』の描く徽宗は、もちろん巷間の風説口伝による誇張はあっても、実像から大きく逸脱してはいない。
「風流天子」とも称せられるこの徽宗皇帝、おそらく中国史上屈指の藝術家ではあった。その手になる書画の名作が多く後世に残る。しかし本職の天子としては、まったくの落第失格、そもそも即位前から「浪子」、つまり道楽者といわれていた。
風流・藝術で世は治まらない。徽宗の場合はそれどころか、藝術に凝りすぎて贅沢三昧、その趣味道楽のために本職の政務を怠るばかりか、庶民に重税労役を課す結果になったという。内政は治まらず、そのあげくに外政も破綻し、外敵の侵攻を招いて亡国の憂き目に遭い、自身も異郷に客死するという悲惨な末路をたどった。その君臨のもと、辛酸を嘗めた庶民の身からすれば、因果応報・自業自得といったところ。『水滸伝』の徽宗像はそうした怨嗟の反映だったのかもしれない。
王安石の歿後、いよいよ激しさを増した新法・旧法の党派争いは、宋の哲宗の一代・十五年間つづいたのち、後を継いだ弟の徽宗の時になって、ひとまず収束した。その即位は西暦で一一〇〇年、奇しくも一二世紀が幕を開ける時期にあたる。
宋の徽宗といえば、中国史上でも屈指の、著名な皇帝である。 悪名高いといったほうがよい。『水滸伝』という中国有数の小説にも登場するこの天子は、希代の暗君であり、亡国の君主である。
亡国の暗君といえば、五百年の昔・隋の煬帝と同じ、しかしながらこちらは正真正銘、ホンモノの暗君で辯護の余地はない。中国史もここまで下ってくると、史料も豊富になり、いわば「ごまかし」や一方的な情報操作は、すぐ露顕して通用しなくなるからである。たとえば『水滸伝』の描く徽宗は、もちろん巷間の風説口伝による誇張はあっても、実像から大きく逸脱してはいない。
「風流天子」とも称せられるこの徽宗皇帝、おそらく中国史上屈指の藝術家ではあった。その手になる書画の名作が多く後世に残る。しかし本職の天子としては、まったくの落第失格、そもそも即位前から「浪子」、つまり道楽者といわれていた。
風流・藝術で世は治まらない。徽宗の場合はそれどころか、藝術に凝りすぎて贅沢三昧、その趣味道楽のために本職の政務を怠るばかりか、庶民に重税労役を課す結果になったという。内政は治まらず、そのあげくに外政も破綻し、外敵の侵攻を招いて亡国の憂き目に遭い、自身も異郷に客死するという悲惨な末路をたどった。その君臨のもと、辛酸を嘗めた庶民の身からすれば、因果応報・自業自得といったところ。『水滸伝』の徽宗像はそうした怨嗟の反映だったのかもしれない。
日本では暗愚な将軍とされがちな足利義政だが、数々の文化事業(というより趣味)に投資し、幕府財政を窮迫させたわけだが、彼が作った銀閣をはじめ、多くの散財結果は、今日の文化遺産として多くの観光客を集めている。
NHKの「知恵泉」で、聖武天皇がとりあげられていた。それによると、奈良でも大仏が多くの観光客(信者?)を集めるが、大仏造立に要した費用は、当時の国家予算の3年分にあたるという話もある。数々の災厄で困窮する国民を救いたいという思いでの大仏建立だが、現代の我々からすれば、それで救われるかといえばはなはだ疑問。ではあるけれど、それで恩恵を受けているのは現代の我々である。
あえて紹介はしないけれど、本書には高校世界史ではあまり触れられなかった経済の話なども多く盛り込まれ、それぞれの時代の社会の実相もうかがわれる。人物評伝のような体裁でありながら、中国史のキーポイントをついていると思う。
ところで、本書の文字使いは舊字になっている。例えば「芸」は「藝」、「没」は「歿」などである。また、「弁」で「辯」を代用するなども行わない。中国史家の矜持というものだろう。
文科省も合理性・組織性を欠く規則で漢字の世界を混乱させないのが良いのではないか。