「世界史の実験」
柄谷行人「世界史の実験」について。
タイトルから想像した内容は、世界史上で起こった実験的行為を挙げたものということだが、そうではないことは目次を一瞥しただけでもわかる。
さて、本書タイトルの「実験」であるが、通常、社会科学といわれるような分野では、実験はできないと言われている。自然科学で行われるような、観察者のコントロールと操作によって、現象の背後にあるメカニズムや法則を明らかにするという意味での実験である。
だが、似たような条件の2つの場所があって、その場所で1つだけ異なる要素があったとしたら、「その似たような」がコントロールであり、1つの異なる要素がケースとコントロールであると解釈し、これを自然科学の実験になぞらえることができるのではないか、というのがタイトルの「実験」の意味である。
ジャレド・ダイヤモンドは、こうした探求方法を明示的に「実験」と呼んでいるという。
まあ、そういう見方もあると思う。
しかしそういう見方の有効性は、やはりそれで解明されることがあるからこそであり、そうでなければただの言葉の遊びになってしまうだろう。ジャレド・ダイヤモンドはそれを成功させたと言えるだろう。
これをわざわざ実験と表現する必要があるかどうかは措いて、「比較〇〇学」といわれる領域では、ある意味常套的な方法である。本書でも、そういう考察が有効な事例として、ハイチとドミニカなどの例が挙げられている。
こうした「実験」についての説明が一通り終わると(はじめの十数ページ)、続くのは、ほとんどが柳田国男にまつわる話で、もちろん柳田が「実験」という言葉を使ったわけではないが、比較文化、比較民俗などといえるような取り組みをしただろうことが主張されているものの、注目領域においてそれがどれほどの理論構築に役立ったとかは、私には読み取れなかった。
ちょっとついていけないなと思ったのは、平田篤胤の話で、平田神道は国粋主義的とされるが、本書によると、平田神道では、通常の本地垂迹説を逆転させ、本地は日本であり、その垂迹がキリストであったり、ブッダであったりしており、これは「国際主義」であるという。
これはいくらなんでも「国際主義」という言葉に、全く異なる、わがままな意味を当てはめたものとしか言えないだろう。これでは「国際主義」=「中華思想」だ。言葉の遊びにしても悪すぎる。
全然話は変わるが、さすがにこういう博識な著者だからだと思うが、私がなんとなくもやもや思っていたことがすっきりした。それはデカルトの「我思う、故に我あり」である。「方法序説」はフランス語で書かれているのだが、この有名な言葉はフランス語ではなく、ラテン語で "Cogito, ergo sum" として引用・言及されることが多い。"Je pense, donc je suis" で引用される例はまれである。
この一節だけでも読んだかいがあるというものだ。
ただ、本全体を通しては、私にはまとまった理解というものは得られなかった。それは柳田国男や島崎藤村についての知識が不足していることも大きいのだろう。そういう知識のある人にとっては、腑に落ちる解説になっているのかもしれない。
タイトルから想像した内容は、世界史上で起こった実験的行為を挙げたものということだが、そうではないことは目次を一瞥しただけでもわかる。
こういう数行しかないような目次の本は苦手である。目次からはその本の構造が読み解けないから。
さて、本書タイトルの「実験」であるが、通常、社会科学といわれるような分野では、実験はできないと言われている。自然科学で行われるような、観察者のコントロールと操作によって、現象の背後にあるメカニズムや法則を明らかにするという意味での実験である。
だが、似たような条件の2つの場所があって、その場所で1つだけ異なる要素があったとしたら、「その似たような」がコントロールであり、1つの異なる要素がケースとコントロールであると解釈し、これを自然科学の実験になぞらえることができるのではないか、というのがタイトルの「実験」の意味である。
ジャレド・ダイヤモンドは、こうした探求方法を明示的に「実験」と呼んでいるという。
第一部 実験の史学をめぐって | |
Ⅰ 柳田国男論と私 | |
Ⅱ 実験の文学批評 | |
第二部 山人から見る世界史 | |
あとがき |
しかしそういう見方の有効性は、やはりそれで解明されることがあるからこそであり、そうでなければただの言葉の遊びになってしまうだろう。ジャレド・ダイヤモンドはそれを成功させたと言えるだろう。
これをわざわざ実験と表現する必要があるかどうかは措いて、「比較〇〇学」といわれる領域では、ある意味常套的な方法である。本書でも、そういう考察が有効な事例として、ハイチとドミニカなどの例が挙げられている。
『歴史は実験できるのか』(歴史の自然実験)は、ダイアモンドがその友人らとともに書いた共
著で、歴史学、考古学、経済学、経済史、地理学、政治学などの多岐にわたる領域を対象にし
ています。共通するのは、それらがそれぞれ、「自然実験」という方法によって行われている
ことです。
自然実験がどういうものかを説明するために、その一つとして、ダイアモンド自身がこの本 で示した例を見てみます。それは、カリブ海のイスパニョーラ島にある二つの社会、ハイチと ドミニカの比較研究です。現在は、経済的に見て、ハイチが際立って貧しいのに、ドミニカは まだ途上国であるとはいえ、相対的に豊かです。しかし、一九世紀まではその逆であった。こ の逆転がなぜ生じたかを見るのが、ダイアモンドによる「自然実験」です。
彼の観察によれば、この違いは、ハイチがフランスの植民地となり、ドミニカがスペインの 植民地になったことに発しています。ハイチでは早くからフランスによる開発が進んだ。原住 民がいなくなったので、アフリカから奴隷が連れて来られ、その帰りの船で、ハイチの材木が フランスに運ばれた。その結果、一つの現象が生じました。一つは、森林がなくなったことで あり、もう一つは、互いに言語が通じない人たちが集まったので、クレオール語、つまり、多 くの言語が入り交じった新言語が形成されたことです。それに対して、ドミニカには森林が残 り、先住民の文化が残った。また人々はスペイン語を話すので、中南米諸国とのつながりがあ ります。自然環境の島なのに。このような違いが生じたのです。
つぎに、私にとって最も興味深かった例として、パトリック・V・カーチによる、太平洋の ポリネシア諸島の間に生じた整史的変異の比較分析について話しておきます。太平洋の島々は、 メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアに分けられます。ポリネシアはその中で最も範囲が広 く、多数の島からなっています。ただ、ポリネシアの人々の故郷は、トンガやサモアであり、 そこに紀元前に、中国南部・東南アジアから台湾を経て渡来したと想定されています。近年の 遺伝子解析によって、ポリネシア人と台湾の山地民が同一起源であることが判明したからです。 トンガやサモアにいたポリネシア人は、紀元一〇〇〇年ごろに、周辺の諸島に移住を開始し、 最果ての地、ハワイまで進出した。そのことは、彼らの言語がさまざまに変容しつつもポリネ シア祖語にもとづいていることからも明らかです。しかし、これらの諸島の間には、社会的組 織の点で著しい差異があるのです。たとえば、ハワイでは一七世紀に王国が生まれたのに、他 の島々は基本的に首長制社会です。
では、五〇〇年ほどの間に、なぜ、いかにして、そのような差異が生じたのか。それらの島 を比較考察することによって解明するのが「歴史の自然実験」です。このような実験をすれば、 人類史・世界史において、政治社会的組織の変異がいかに生じたかを見ることができるかもし れない。というより、それ以外には、結局、文献や遺跡・遺物をもとに推測するしか方法があ りません。その場合でも、他の地域との「比較」が必要になります。その変化が外からの影響 によるかもしれないからです。その点で、アンデス山脈の地域が絶好の参照例となっています。 ここには、狩猟採集民からインカ帝国にいたる歴史的変化が、外部からの影響なしに生じた跡 が残っているからです。
であるが、本書ではそうした事例を紹介はするが、そこからどんな知見が得られたのかまでは解説されない。他の条件が同じなのに、一つの要素が違うと全く違う社会になるというだけでは、ただ比較しただけではないだろうか。実験結果は記されているが、それでどういう知見が得られたかまで突っ込んだ記述はないように思う。自然実験がどういうものかを説明するために、その一つとして、ダイアモンド自身がこの本 で示した例を見てみます。それは、カリブ海のイスパニョーラ島にある二つの社会、ハイチと ドミニカの比較研究です。現在は、経済的に見て、ハイチが際立って貧しいのに、ドミニカは まだ途上国であるとはいえ、相対的に豊かです。しかし、一九世紀まではその逆であった。こ の逆転がなぜ生じたかを見るのが、ダイアモンドによる「自然実験」です。
彼の観察によれば、この違いは、ハイチがフランスの植民地となり、ドミニカがスペインの 植民地になったことに発しています。ハイチでは早くからフランスによる開発が進んだ。原住 民がいなくなったので、アフリカから奴隷が連れて来られ、その帰りの船で、ハイチの材木が フランスに運ばれた。その結果、一つの現象が生じました。一つは、森林がなくなったことで あり、もう一つは、互いに言語が通じない人たちが集まったので、クレオール語、つまり、多 くの言語が入り交じった新言語が形成されたことです。それに対して、ドミニカには森林が残 り、先住民の文化が残った。また人々はスペイン語を話すので、中南米諸国とのつながりがあ ります。自然環境の島なのに。このような違いが生じたのです。
つぎに、私にとって最も興味深かった例として、パトリック・V・カーチによる、太平洋の ポリネシア諸島の間に生じた整史的変異の比較分析について話しておきます。太平洋の島々は、 メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアに分けられます。ポリネシアはその中で最も範囲が広 く、多数の島からなっています。ただ、ポリネシアの人々の故郷は、トンガやサモアであり、 そこに紀元前に、中国南部・東南アジアから台湾を経て渡来したと想定されています。近年の 遺伝子解析によって、ポリネシア人と台湾の山地民が同一起源であることが判明したからです。 トンガやサモアにいたポリネシア人は、紀元一〇〇〇年ごろに、周辺の諸島に移住を開始し、 最果ての地、ハワイまで進出した。そのことは、彼らの言語がさまざまに変容しつつもポリネ シア祖語にもとづいていることからも明らかです。しかし、これらの諸島の間には、社会的組 織の点で著しい差異があるのです。たとえば、ハワイでは一七世紀に王国が生まれたのに、他 の島々は基本的に首長制社会です。
では、五〇〇年ほどの間に、なぜ、いかにして、そのような差異が生じたのか。それらの島 を比較考察することによって解明するのが「歴史の自然実験」です。このような実験をすれば、 人類史・世界史において、政治社会的組織の変異がいかに生じたかを見ることができるかもし れない。というより、それ以外には、結局、文献や遺跡・遺物をもとに推測するしか方法があ りません。その場合でも、他の地域との「比較」が必要になります。その変化が外からの影響 によるかもしれないからです。その点で、アンデス山脈の地域が絶好の参照例となっています。 ここには、狩猟採集民からインカ帝国にいたる歴史的変化が、外部からの影響なしに生じた跡 が残っているからです。
こうした「実験」についての説明が一通り終わると(はじめの十数ページ)、続くのは、ほとんどが柳田国男にまつわる話で、もちろん柳田が「実験」という言葉を使ったわけではないが、比較文化、比較民俗などといえるような取り組みをしただろうことが主張されているものの、注目領域においてそれがどれほどの理論構築に役立ったとかは、私には読み取れなかった。
ちょっとついていけないなと思ったのは、平田篤胤の話で、平田神道は国粋主義的とされるが、本書によると、平田神道では、通常の本地垂迹説を逆転させ、本地は日本であり、その垂迹がキリストであったり、ブッダであったりしており、これは「国際主義」であるという。
これはいくらなんでも「国際主義」という言葉に、全く異なる、わがままな意味を当てはめたものとしか言えないだろう。これでは「国際主義」=「中華思想」だ。言葉の遊びにしても悪すぎる。
通常使われる「国際主義」の語義は、国際的に管理する、多くの国が関与するということである。
また、globalとinternational も違う概念である。
全然話は変わるが、さすがにこういう博識な著者だからだと思うが、私がなんとなくもやもや思っていたことがすっきりした。それはデカルトの「我思う、故に我あり」である。「方法序説」はフランス語で書かれているのだが、この有名な言葉はフランス語ではなく、ラテン語で "Cogito, ergo sum" として引用・言及されることが多い。"Je pense, donc je suis" で引用される例はまれである。
日本語の文献や会話ではという話。フランス語文献とかなら "Je pense, donc je suis" もあるのだろう。
つぎに私の気になった、もう一つの問題がある。それは、彼がこの論文をフランス語で書い
ていたのに、なぜ最後に、突然ラテン語で Cogito ergo sum と書いたのか、ということである。
これはむしろ、なぜデカルトがそもそもフランス語で書いたのか、と問うべきことかもしれな
い。当時、学術的な論文はラテン語で書くのが普通であったからだ。そして、彼がこれをフラ
ンス語で書いたことによって、フランス語は哲学を論じられるような言語となった、といえる
だろう。実際、これは哲学だけでなく、その後のフランス語に大きな影響を与えた。そのおか
げで、フランス語の文章が「明晰かつ判明」を指標とするようになった、ともいわれている。
では、彼がこれをフランス語で書き、最後にラテン語に戻ったのはなぜなのか。それは論考 を学術的に見せるためだとは思えない。近年になって、私はこう考えるようになった。デカル トは、フランス語でje(われ)として顕在しているものを、ラテン語にすることによって打ち消 そうとしたのではないか、と。
フランス語はラテン語から派生したロマンス語の中に数えられているけれども、ゲルマン語 に近いところが少なくない。例えば、一人称の主格はラテン語では ego, スペイン語では yo, イタリア語では io であるが、一般に省略される。動詞の語尾から人称や単数・複数がわかる からだ。ところが、フランス語では、ドイツ語や英語と同様に人称が明示される。
デカルトが主観(思惟主体)をもってきたのは、フランス語でJe pense, donc je suis と考えた からである。それをラテン語でいうと、je は動詞の語尾変化の中に隠れてしまう。このことは イタリア語やスペイン語でも同様である。だから、主観(思惟主体)の存在を強調しようとする と、フランス語でなければならない。であれば、彼が最後に、その部分だけをラテン語にした のはなぜか。当初私は、これは論考を学術的に見せるための気取りではないのか、と思った。 が、哲学の勉強をするうちに、そうではないということに気づいた。
デカルトがいう主観(主体)は、われ(自己)とは別であり、一人称で指示されるようなもので はない。ところが、フランス語でいうと、あたかも主観が経験的に存在するかのような誤解が 生じる。経験的な自己と同一視されるといってもよい。のちに、カントはデカルトが見出した 主観を、そのような経験的な自己と区別して「超越論的主観」と呼んだ。これは一人称で指示 されるような自己とは異なるものだ。だから、ラテン語のように、それが動詞の語尾変化の中 に潜んでいるほうが、誤解が生じにくいのである。
これはなるほどと思わせる指摘だと思う。では、彼がこれをフランス語で書き、最後にラテン語に戻ったのはなぜなのか。それは論考 を学術的に見せるためだとは思えない。近年になって、私はこう考えるようになった。デカル トは、フランス語でje(われ)として顕在しているものを、ラテン語にすることによって打ち消 そうとしたのではないか、と。
フランス語はラテン語から派生したロマンス語の中に数えられているけれども、ゲルマン語 に近いところが少なくない。例えば、一人称の主格はラテン語では ego, スペイン語では yo, イタリア語では io であるが、一般に省略される。動詞の語尾から人称や単数・複数がわかる からだ。ところが、フランス語では、ドイツ語や英語と同様に人称が明示される。
デカルトが主観(思惟主体)をもってきたのは、フランス語でJe pense, donc je suis と考えた からである。それをラテン語でいうと、je は動詞の語尾変化の中に隠れてしまう。このことは イタリア語やスペイン語でも同様である。だから、主観(思惟主体)の存在を強調しようとする と、フランス語でなければならない。であれば、彼が最後に、その部分だけをラテン語にした のはなぜか。当初私は、これは論考を学術的に見せるための気取りではないのか、と思った。 が、哲学の勉強をするうちに、そうではないということに気づいた。
デカルトがいう主観(主体)は、われ(自己)とは別であり、一人称で指示されるようなもので はない。ところが、フランス語でいうと、あたかも主観が経験的に存在するかのような誤解が 生じる。経験的な自己と同一視されるといってもよい。のちに、カントはデカルトが見出した 主観を、そのような経験的な自己と区別して「超越論的主観」と呼んだ。これは一人称で指示 されるような自己とは異なるものだ。だから、ラテン語のように、それが動詞の語尾変化の中 に潜んでいるほうが、誤解が生じにくいのである。
この一節だけでも読んだかいがあるというものだ。
ただ、本全体を通しては、私にはまとまった理解というものは得られなかった。それは柳田国男や島崎藤村についての知識が不足していることも大きいのだろう。そういう知識のある人にとっては、腑に落ちる解説になっているのかもしれない。