〝戦国「おんな家長」の群像〟
黒田基樹〝戦国「おんな家長」の群像〟について。
女性が一国の実権を持ったという話は、数は少ないにしろ著名な例はいくつかある。
なんといっても名実ともに国を動かしたのは持統天皇だろうと思う。伝承的には卑弥呼をあげることもできる。北条政子は実権をもったかどうかは別として、御家人を束ねる大演説で幕府を救ったし、日野富子は放漫財政の義政を見放してか幕府権力を使って蓄財に励んだという。
本書はタイトルどおり、戦国時代に大名や国衆家で、当主のような働きをした女性の紹介である。
今川家の寿桂尼は、大河ドラマ(「おんな城主 直虎」など)でも重要人物として描かれたこともあってポピュラーだろう。
ただし「おんな城主 直虎」の井伊直虎については、著者は男性説をとっているそうで、本書ではとりあげられていない。
他に、戸次(立花)誾千代も有名な女性武将だけれど、本書では誾千代が当主であったのは7歳から13歳までとのことで、当主としての働きはなかっただろうとする。なお、その後の武将としての誾千代伝説については特に触れられていない。
ちょっと意外に思ったのは、浅井茶々、すなわち淀殿を最後の「おんな家長」としてとりあげていること。
本書ではこうした事例を紹介したあと、最後に「おんな家長」が登場する背景や役割を総括している。
ところで眼を外国に転じると、一国の権力を握り、統治した女王の例がすぐに思いつく。中国の武側天、エジプトのクレオパトラ、パルミラ帝国のゼノビア、新しいところではイギリスのエリザベス1世、オーストリア帝国のマリア・テレジア、ロシア帝国のエカチェリーナ2世など、錚々たる面々が居るのだけれど、日本でそれに匹敵する存在は、持統天皇まで遡る必要がある。
このことに関連して、本書では最後の(戦国にかぎらず日本史上の)「おんな家長」として浅井茶々をあげ、次のように述べている。
たしかに江戸幕府以降「おんな家長」は見られなくなったのだろうが、著者がいうようなジェンダー・ギャップが茶々のときに始まったわけではないだろう。著者自身が述べているように、「おんな家長」は、当主であった夫や父を失い、世継ぎの男子が幼いときにのみ登場するもので、自身に備わったレジティマシーではないと考えられる。
女性が一国の実権を持ったという話は、数は少ないにしろ著名な例はいくつかある。
なんといっても名実ともに国を動かしたのは持統天皇だろうと思う。伝承的には卑弥呼をあげることもできる。北条政子は実権をもったかどうかは別として、御家人を束ねる大演説で幕府を救ったし、日野富子は放漫財政の義政を見放してか幕府権力を使って蓄財に励んだという。
本書はタイトルどおり、戦国時代に大名や国衆家で、当主のような働きをした女性の紹介である。
今川家の寿桂尼は、大河ドラマ(「おんな城主 直虎」など)でも重要人物として描かれたこともあってポピュラーだろう。
ただし「おんな城主 直虎」の井伊直虎については、著者は男性説をとっているそうで、本書ではとりあげられていない。
(直虎男性説については⇒「おんな城主 直虎」スタート)
序 章 なぜ「おんな家長」に注目するのか | |
「おんな家長」とは/戦国大名・国衆家の「家構造」/「おんな家長」への視点 | |
第一章 戦国最初の「おんな家長」 洞松院(赤松政則後室) | |
洞松院の出自/赤松政則との結婚/政則後室となる/洞松院黒印状の登場/黒印状の内容/義村の成人と春政の相続/その後の洞松院/洞松院の歴史的性格 | |
第二章 最も活躍した「おんな家長」 寿桂尼(今川氏親後室) | |
寿桂尼の出自と結婚/北川殿のこと/当主代行のはじまり/「おんな家長」になる/「おんな家長」としての政務/「おんな家長」としての性格/「家」妻としての活躍/「家」妻への復帰と引退/「家」妻からの引退と死去/寿桂尼の歴史的性格 | |
第三章 古河公方家の「おんな家長」 芳春院殿(足利晴氏後室)・ 古河姫君(足利義氏嫡女) | |
古河公方家とは/芳春院殿の結婚/晴氏との別居/芳春院殿の公文書発給/古河公方家の「御台様」として/芳春院殿の政務の内容/芳春院殿の死去/古河姫君の登場/古河公方家「おんな家長」として/古河公方家滅亡後の動向/芳春院殿と古河姫君の歴史的性格 | |
第四章 関東の「おんな家長」 | |
関東国衆家の「おんな家長」たち/小山秀綱後室登場の経緯/小山秀綱後室の政務の内容/葛山氏広後室/山木大方(堀越六郎後室)の登場/山木大方の印判状/妙印尼(由良成繁後室) | |
第五章 陸奥の「おんな家長」 | |
たくさんいた陸奥国衆家の「おんな家長」たち/岩城親隆妻(桂寿院)/二階堂盛義後室(大乗院)/芦名盛隆後室/田村清顕後室(深山院)/田村隆顕後室(小宰相)/八戸直政後室(清心尼) | |
第六章 著名な「おんな家長」の実像 | |
著名だが実像が不明の「おんな家長」たち/戸次誾千代(戸次道雪嫡女)/遠山景任後室/飯尾連竜後室/ | |
第七章 最後の「おんな家長」 浅井茶々(羽柴秀吉後室) | |
浅井茶々の立場/羽柴家の「おんな家長」になる/片桐且元の追放/茶々の最期/浅井茶々の歴史的性格 | |
終 章 「おんな家長」が活躍した時代 | |
「おんな家長」登場の背景/「おんな家長」の役割/「おんな家長」の消滅 | |
あとがき |
<本書でとりあげる「おんな家長」> |
洞松院(赤松政則後室) |
寿桂尼(今川氏親後室) |
芳春院殿(足利晴氏後室) |
古河姫君(足利義氏嫡女) |
小山秀綱後室 |
葛山氏広後室 |
山木大方(堀越六郎後室) |
妙印尼(由良成繁後室) |
岩城親隆妻(桂寿院) |
二階堂盛義後室(大乗院) |
芦名盛隆後室 |
田村清顕後室(深山院) |
田村隆顕後室(小宰相) |
八戸直政後室(清心尼) |
戸次誾千代(戸次道雪嫡女) |
遠山景任後室 |
飯尾連竜後室 |
浅井茶々(羽柴秀吉後室) |
ちょっと意外に思ったのは、浅井茶々、すなわち淀殿を最後の「おんな家長」としてとりあげていること。
本書によれば、淀の方などと呼ばれたのは淀城主のときであって、大坂では北の方とか北政所、御台様と呼ばれていたから、本名の浅井茶々で記述とのこと。なお、茶々は側室ではなく、複数いた正妻の一人で(だから前述のような呼び方がなされた)、子を産んでからはお寧に次ぐナンバー2になる。
「家」妻は本来お寧が果たすべきだったはずだが、なぜ茶々になったか私は不思議だった。本書では、秀頼後見として茶々が本丸に、お寧は西の丸にとすみ分けたこと、さらに後にはお寧は大坂を出て京へ移り、豊臣家と朝廷とのとりもちなどをする役割分担をしたためとしている。さらに私が思うに、そうなったのは、やはり秀頼を主と仰ぐ家臣団がいて、それの実母である茶々を立てた、またお寧が秀頼を茶々から引き離せなかったのは茶々も正妻であったこと、茶々には織田家の血が流れていることに遠慮したからではないだろうか。
本書ではこうした事例を紹介したあと、最後に「おんな家長」が登場する背景や役割を総括している。
では「おんな家長」はどのような場合に、登場したのであろうか。十八人の事例からみると、基本的には、当主であった夫の死後に、新たな当主が年少であったり、政務を執るのが難しい状況にあったりと、当主が当主の役割を果たせない状況にあった場合、あるいは当主そのものが不在であった場合に、前当主の正妻で「家」妻の立場にあったものが、前当主の「後室」「後家」として当主の代行を務め、あるいは当主そのものとして政務を執った、というものであった。
ただしそうしたなかでも、清心尼(八戸直政後室)の場合にあったように、前々代の当主(いわゆる「大殿」)が健在であった場合に、その前々代当主が家長権を行使しており、また洞松院(赤松政則後室)の場合にあったように、家宰が存在していれば、家宰が政務を代行しており、「おんな家長」は登場していない。その場合、「おんな家長」が登場するのは、そうした前々代当主や家宰までもが不在となった場合であった。また「家」妻も存在していなかった場合は、古河姫君(足利義氏嫡女)の場合のように、前当主の嫡女が「おんな家長」を務めた。
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(略)
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これらのことから、「おんな家長」が登場する場合というのは、男性当主あるいは家長権を保持した男性の前代当主なとが不在となり、さらに家庭のなかで当主の政務代行を務める家宰や執政までもが不在、という状況でのことであった、と認識できる。家父長制社会であったため、男性の当主もしくはそれに匹敵する存在、さらには当主の政務代行を務める存在があれば、攻務はそれらが執ったが、それらが全くみられなくなると、「家」妻が、それもが不在の場合には、前当主の婚女が、当主の政務を執り仕切ることになったのであった。
その意味では、「おんな家長」の登場は、かなり限定された状況でのことであったといえる。しかし逆に、その事例が十八人も存在したということは、戦国大名・国衆家では、かなりの頻度で、そのように男性の執政者不在という状態がみられ、そのために「おんな家長」がそれかの頻度で登場するものとなった、と認識できる。
ただしそうしたなかでも、清心尼(八戸直政後室)の場合にあったように、前々代の当主(いわゆる「大殿」)が健在であった場合に、その前々代当主が家長権を行使しており、また洞松院(赤松政則後室)の場合にあったように、家宰が存在していれば、家宰が政務を代行しており、「おんな家長」は登場していない。その場合、「おんな家長」が登場するのは、そうした前々代当主や家宰までもが不在となった場合であった。また「家」妻も存在していなかった場合は、古河姫君(足利義氏嫡女)の場合のように、前当主の嫡女が「おんな家長」を務めた。
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(略)
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これらのことから、「おんな家長」が登場する場合というのは、男性当主あるいは家長権を保持した男性の前代当主なとが不在となり、さらに家庭のなかで当主の政務代行を務める家宰や執政までもが不在、という状況でのことであった、と認識できる。家父長制社会であったため、男性の当主もしくはそれに匹敵する存在、さらには当主の政務代行を務める存在があれば、攻務はそれらが執ったが、それらが全くみられなくなると、「家」妻が、それもが不在の場合には、前当主の婚女が、当主の政務を執り仕切ることになったのであった。
その意味では、「おんな家長」の登場は、かなり限定された状況でのことであったといえる。しかし逆に、その事例が十八人も存在したということは、戦国大名・国衆家では、かなりの頻度で、そのように男性の執政者不在という状態がみられ、そのために「おんな家長」がそれかの頻度で登場するものとなった、と認識できる。
ところで眼を外国に転じると、一国の権力を握り、統治した女王の例がすぐに思いつく。中国の武側天、エジプトのクレオパトラ、パルミラ帝国のゼノビア、新しいところではイギリスのエリザベス1世、オーストリア帝国のマリア・テレジア、ロシア帝国のエカチェリーナ2世など、錚々たる面々が居るのだけれど、日本でそれに匹敵する存在は、持統天皇まで遡る必要がある。
このことに関連して、本書では最後の(戦国にかぎらず日本史上の)「おんな家長」として浅井茶々をあげ、次のように述べている。
その一方で、気になる点は、浅井茶々の場合にみられた、女性が政治・軍事に関わることについての否定的な風潮の登場である。天下一統が成立する直前の天正年間末、南陸奥では多くの「おんな家長」がみられていた。そこでは芦名家・二階堂家・田村家は、いずれも伊達政宗によって経略されたが、政宗は、それらについて「後家持ち」といいながらも、そのことに否定的な認識を全く示してはいなかった。ところが大坂の陣前後になると、浅井茶々の行為は、羽柴家家臣からも否定的に認識されるようになっており、そこに社会における認識の変化をうかがうことができる。
それが統一政権の成立にともなうものとすると、そこには統一政権の成立がもたらした、ジェンダーへの影響が認識されよう。統一政権の成立とその継続は、社会における自力救済を抑制し、それに代わって、政権を中核にした新たな社会秩序を生成し、それを固定化していくものであった。その過程で、女性の政治・軍事からの排除が進行した可能性がうかがわれる。現在の日本は、女性の社会参加、とりわけ政治参加について、ジェンダー・ギャップ指数が世界各国のなかでも最低ランクにある。そのことからすると、統一政権成立にともなって生じた、ジェンダー・ギャップをいまだに引きずっているともいえる。あらためて現代に引き継がれているジェンダー認識が、どのような歴史的経緯によって形成されたかの解明が必要であると思われる。
それが統一政権の成立にともなうものとすると、そこには統一政権の成立がもたらした、ジェンダーへの影響が認識されよう。統一政権の成立とその継続は、社会における自力救済を抑制し、それに代わって、政権を中核にした新たな社会秩序を生成し、それを固定化していくものであった。その過程で、女性の政治・軍事からの排除が進行した可能性がうかがわれる。現在の日本は、女性の社会参加、とりわけ政治参加について、ジェンダー・ギャップ指数が世界各国のなかでも最低ランクにある。そのことからすると、統一政権成立にともなって生じた、ジェンダー・ギャップをいまだに引きずっているともいえる。あらためて現代に引き継がれているジェンダー認識が、どのような歴史的経緯によって形成されたかの解明が必要であると思われる。
たしかに江戸幕府以降「おんな家長」は見られなくなったのだろうが、著者がいうようなジェンダー・ギャップが茶々のときに始まったわけではないだろう。著者自身が述べているように、「おんな家長」は、当主であった夫や父を失い、世継ぎの男子が幼いときにのみ登場するもので、自身に備わったレジティマシーではないと考えられる。
ただ室町時代までは、女性も財産を持ち、領地を支配する例は珍しくなかったともいう。
外国の例も多くは夫亡き後(エカチェリーナ2世のようにクーデターで夫を廃位というのもあるが)統治するというものだから、ジェンダー・ギャップは江戸以降の日本のものというわけにはゆかないようにも思う。ではあるけれど、日本は世界の中でジェンダー・ギャップが大きい国であることは間違いない。やはり多くの女王の実績がある国では、女にはできないというような感覚は日本ほどではないということだろうか。