「戦国の村を行く」
藤木久志「戦国の村を行く」(解説・校訂 清水克行)について。
はしがきの副題に「村の城」によせて、とあるように、戦国時代の村の様子を、今までとは全く違う視点で、新鮮に描いている。
「村の城」だが、本書には次のような記述がある。
最後に「仮説」と書いてあるが、城を領主のものとする固定観念から自由になれば、村の百姓たちが「城」(とも言えないような砦かもしれないが)を築いて、身を守るということは、十分ありそうなことに思える。
本書では、領主と領民の関係について、多くの史料を使って解き明かしているが、たとえば、戦のときに武将が村に対して出す制札で村への乱暴狼藉を許さないとされても、それが行われたときに制止するのは村の自力によるもので、武将が直接守ってくれるわけではないという。言い換えれば、村へ乱暴狼藉を働いた武将の部下に対して、村人が危害を加えても敵対行為とはしないという程度のものである。
また、思うに、築城には村人たちも駆り出されているわけで、それなりの砦作りのノウハウも村人たちが持っていたに違いない。
つまり、村にはそれだけの自力があり、自力防衛のニーズがあったということだろう。であるなら、砦の一つや二つ、自分たちで作ることは何ら不思議ではないと思う。
「村の城」は、藤木氏が注目するまで、歴史学界では議論されていなかったようだが、本書にはそれ以外にも、学界の通説を覆す記述がいろいろある。
その一つは、戦に駆り出される村人たちは、食料も武器も自弁したという通説である。この説については、最近でもテレビの歴史番組では、あたりまえのようにそう解説され、百姓たちは重い負担にあえいでいたとするものがちらほらある。
しかし、本書では、武器についてはともかく、食料は領主が用意するものだという。
百姓が持つ武器については、兵農分離が進んでいない戦国期はともかく、秀吉の「刀狩り」で武器はとりあげられたという話があるが、これも違う。
これについては、同じ著者による「刀狩り: 武器を封印した民衆」という岩波新書に詳しく書かれていたことを思い出すが、村から武器という武器がなくなったというわけではなく、百姓たちも刀は持っていたし、商人なども自衛のため腰に刀を挿すのも普通のことだったという。
本書では、家康による武器統制、さらには明治政府の廃刀令まで、次のように実態を明らかにしている。
本書では、戦と商人の関係もとりあげている。
以前、西股総生「戦国の軍隊」をとりあげたとき、
以前、同じ著者による「中世民衆の世界」を取り上げているが、藤木氏は、歴史学に大きな足跡と、そして衝撃を残されたようだ。
そのことは解説・校訂を行われた清水克行氏が解説に書かれている。
こうした村、百姓の暮らしは大河ドラマにはならないだろうが、それを描くときに、時代の雰囲気やドラマの背景として取り入れたとしても、ドラマの感興を削ぐとは思えない。むしろ歴史学の最新の成果を視聴者に伝えることで、ドラマの厚みやリアリティを増すことができるのではないかと思う。
はしがきの副題に「村の城」によせて、とあるように、戦国時代の村の様子を、今までとは全く違う視点で、新鮮に描いている。
「村の城」だが、本書には次のような記述がある。
明らかに領主とは別に、村人は自分たちの「村の城」や山小屋、つまり拠点や避難所を、自前で造りあげ、「村の武力」を備え、同心・合力して、警固の順番を作り、自力で荘園や村を守った。
「村の城」といえば、最近は、地域ごとの中世城郭研究者たちの、文字通り地をはう努力によって、藪林に埋もれた山城の調べが、大きく進んだ。ただ「城」とだけ呼ばれて、文献もなく、いい伝えさえもない、小さな中世の山城の群が、村や町ごとに、次々に姿を現してきている。
だが、そうした「名もない」山城の城主を探しあぐねると、無理に名のある武将の事跡に結びつけるか、さもなくば、有力な大名の支城群、つまり城郭による領国支配のネットワークの末端、とみてしまうのがふつうである。
しかし、もしそれが村人の手になる「村の城」であったら、城の名や城主の名など伝わらないのが、むしろ自然ではないか。名のある英雄に憧れて、無理に「大名の城」に仕立て上げるよりは、むしろ地域からの目で、数多くの小さな山城は、村人が自力で造りあげた、村のナワバリや地域の生活を守る、「村の武力」の拠りどころだった、と構想してみようではないか。
少なくともそうする方が、中世の地域の活力を探りあてる、楽しい仮説となるに違いない。
「村の城」といえば、最近は、地域ごとの中世城郭研究者たちの、文字通り地をはう努力によって、藪林に埋もれた山城の調べが、大きく進んだ。ただ「城」とだけ呼ばれて、文献もなく、いい伝えさえもない、小さな中世の山城の群が、村や町ごとに、次々に姿を現してきている。
だが、そうした「名もない」山城の城主を探しあぐねると、無理に名のある武将の事跡に結びつけるか、さもなくば、有力な大名の支城群、つまり城郭による領国支配のネットワークの末端、とみてしまうのがふつうである。
しかし、もしそれが村人の手になる「村の城」であったら、城の名や城主の名など伝わらないのが、むしろ自然ではないか。名のある英雄に憧れて、無理に「大名の城」に仕立て上げるよりは、むしろ地域からの目で、数多くの小さな山城は、村人が自力で造りあげた、村のナワバリや地域の生活を守る、「村の武力」の拠りどころだった、と構想してみようではないか。
少なくともそうする方が、中世の地域の活力を探りあてる、楽しい仮説となるに違いない。
はしがき―「村の城」によせて | ||
「自力の村」の発見/戦争論が見おとしていたもの/戦場は乱取りに満ちていた/平和を守るのは村の実力/村の城・領主の城――山籠りと城籠り/本書のねらいと構成 | ||
I 村の戦争 | ||
1 戦場の荘園の日々―和泉国日根荘 | ||
戦争の惨禍 | ||
中世の人質取り/奴隷狩りの脅威 | ||
村の城 | ||
村の城に籠る/草のなびくようなる御百姓/出合え、出合え/踊り交わす村々/戦力の中心は若衆 | ||
村から地域へ | ||
隠物の習俗/安全保障を金で買う/連帯と対立の中で/クミの郷―地域の互助システム/生命の山野 | ||
2 村人たちの戦場 | ||
荘園の城 | ||
悪党の城/政所と村人/戦費は領主が負担した/百姓も城をもつ | ||
武装する村 | ||
「村の武力」とは何か/村どうしも合戦をした/犠牲と身代わり | ||
戦国大名と村の動員 | ||
村の徴兵台帳がほしい/動員の予行演習/徴兵の現実/領域の城とつきあう/戦火の中の「かけこみ寺」/耕作をいかに守るか/制札=安全保障のコスト | ||
戦いの後に | ||
村をどう復興するか/天下一統=惣無事令=秀吉の平和/刀狩りの意味するもの/非武装への軌跡 | ||
3 戦場の商人たち | ||
作られた飢餓情報/戦場はいつも飢えていた/商人がひしめく陣中/大坂陣の兵根事情/高騰する米価/商人なくして戦なし | ||
II 村の平和 | ||
4 荘園の四季 | ||
節分と吉書始め/村の歳時記を読み解く | ||
春 一月~三月 | ||
年頭の互礼の酒/山の口明け/若菜・七種・初祈禱/三毬打の竹/タナヤキ米 | ||
夏 四月~六月 | ||
夏祭り・節供・田植え納め/茅輪くぐり | ||
秋 七月~九月 | ||
七夕から盆まで/八朔・栗名月・年貢請文/秋祭り・栗年貢 | ||
冬 十月~十二月 | ||
内検の酒・収納の酒、そして年貢納め/ホタキの神事と成人の祝/歳暮・算用・餅つき | ||
5 村からみた領主 | ||
領主はいつも悪玉か/御成敗の不足/『庭訓往来』の世界から――期待される領主像/領主と百姓の「契約」/指出をめぐる駆け引き/種子・農料を貸す/湖岸の村の裁判記録から/領主の替わり目は徳政の時/文書群は世直しの記念碑/新領主のパフォーマンス/徳政に向けて村が動く/代替わり徳政の流れ | ||
6 村の入札 | ||
入札群の発見/入札袋を開く/盗難入札と村の制裁/村人どうしの視線/共同体の自浄作用 | ||
Ⅲ 中世都市鎌倉 | ||
7 鎌倉の祇園会と町衆 | ||
公方館の夏の日 | ||
水無月の風景/飯盛山の富士/厄除けの祈り/神幸と神楽ではじまる祭/四つの神輿のナゾ/「祇園会の船共」はどこから来たか | ||
祇園会探索 | ||
祇園会異見/八雲神社の由緒から/天王さんの川流れ伝承/戦国時代の祇園祭 | ||
中世大町の面影 | ||
近世の大町から/中世の大町へ/大町を歩く | ||
八幡宮門前の町衆 | ||
町大鉾と町神輿/町を支えた自力のエネルギー | ||
あとがき | ||
初出一覧 | ||
解説 清水克行 |
本書では、領主と領民の関係について、多くの史料を使って解き明かしているが、たとえば、戦のときに武将が村に対して出す制札で村への乱暴狼藉を許さないとされても、それが行われたときに制止するのは村の自力によるもので、武将が直接守ってくれるわけではないという。言い換えれば、村へ乱暴狼藉を働いた武将の部下に対して、村人が危害を加えても敵対行為とはしないという程度のものである。
また、思うに、築城には村人たちも駆り出されているわけで、それなりの砦作りのノウハウも村人たちが持っていたに違いない。
つまり、村にはそれだけの自力があり、自力防衛のニーズがあったということだろう。であるなら、砦の一つや二つ、自分たちで作ることは何ら不思議ではないと思う。
「村の城」は、藤木氏が注目するまで、歴史学界では議論されていなかったようだが、本書にはそれ以外にも、学界の通説を覆す記述がいろいろある。
その一つは、戦に駆り出される村人たちは、食料も武器も自弁したという通説である。この説については、最近でもテレビの歴史番組では、あたりまえのようにそう解説され、百姓たちは重い負担にあえいでいたとするものがちらほらある。
しかし、本書では、武器についてはともかく、食料は領主が用意するものだという。
武器や装備だけは百姓の自弁(手弁当)だが、合戦の時の兵粮も城の建設費も、人夫にふるまう酒や有も、つまり危機管理にかかる費用はいっさい、領主が負担すべきもの、というのが中世の人々の通念であった。荘園の平和、住民の命や財産を守るのは、もともと領主の責務とされていた。
ところが従来の歴史の学界では、中世の百姓は兵粮自弁の軍隊といわれ、領主に強制的に駆り出されて、みな手弁当で戦ったと信じられてきた。だが、この荘園の現実は、通説とまったく違う。
さらに、この時代の通念として追い打ちをかけ、百姓に強制できることは限られており、動員期間も限定的とするる。ところが従来の歴史の学界では、中世の百姓は兵粮自弁の軍隊といわれ、領主に強制的に駆り出されて、みな手弁当で戦ったと信じられてきた。だが、この荘園の現実は、通説とまったく違う。
それどころか、大名から領地も与えられていない、大名に何の義理もない村人を、村や地域の防衛ならともかく、大名の戦争に駆り出すなど、とんでもないことだというのが、この時代の通念だったらしい。だからこそ大名は、「御国の御大事」とか、「第一に御国(大名)のため、第二に私(村人)のため」などといって、けんめいに危機を強調し、ていねいな説得につとめた。
つまり、大名が村人を兵として動員できるのは、よほどの危機だけに限られたらしい。しかも、それには、村人を動かせるだけの、十分な説得力とたしかな合意が必要だった。動員はわずか二十日間、それも安全な後方の城の留守番だけ、もちろん兵粮も恩賞も出す……と。
おやおや、今まで領主の暴力に泣いていた領民という姿とはずいぶん違う。つまり、大名が村人を兵として動員できるのは、よほどの危機だけに限られたらしい。しかも、それには、村人を動かせるだけの、十分な説得力とたしかな合意が必要だった。動員はわずか二十日間、それも安全な後方の城の留守番だけ、もちろん兵粮も恩賞も出す……と。
百姓が持つ武器については、兵農分離が進んでいない戦国期はともかく、秀吉の「刀狩り」で武器はとりあげられたという話があるが、これも違う。
これについては、同じ著者による「刀狩り: 武器を封印した民衆」という岩波新書に詳しく書かれていたことを思い出すが、村から武器という武器がなくなったというわけではなく、百姓たちも刀は持っていたし、商人なども自衛のため腰に刀を挿すのも普通のことだったという。
本書では、家康による武器統制、さらには明治政府の廃刀令まで、次のように実態を明らかにしている。
秀吉の後をうけた徳川幕府の武器統制は、じつはもっと緩やかで、武器の没収はその痕跡すらない。民衆の帯刀(二本差)も、わずかに長さ・鍔の形・鞘の色など、みかけだけの制限にすぎなかった。その後の規制も、脇差(一本差)だけは、所定の長さ(一尺八寸=約五十五センチ)ならお構いなしであった。そればかりか、近世の後期になれば、帯刀は金で買えるようにさえなっていく。
一方、村々の鉄炮だけは、生類あわれみ令に伴って行われた「鉄炮改め」によって、村ごとに厳しい免許制とされた。だが、害獣の駆除や狩猟や山仕事など、生業のための村々の鉄炮は、村の開発が進むにつれて、むしろ大きく増加の一途をたどった、という。
のちの維新政府も、旧幕府の例をそっくり踏襲し、鉄炮は明治五年(一八七二)の銃砲取締規則で、あらためて登録制とした。一方、刀剣は同九年に廃刀令を出して、帯刀は官吏・軍人・警官だけに限るが、庶民でも、包んで携帯する限りはいっさいお構いなし、とした。廃刀令もまた、ねらいは、新たに明治国家の支配層となった官・軍・警の身分の標識として、刀剣を帯びる権利を独占することにあり、やはり武装解除ではなかった。
一方、村々の鉄炮だけは、生類あわれみ令に伴って行われた「鉄炮改め」によって、村ごとに厳しい免許制とされた。だが、害獣の駆除や狩猟や山仕事など、生業のための村々の鉄炮は、村の開発が進むにつれて、むしろ大きく増加の一途をたどった、という。
のちの維新政府も、旧幕府の例をそっくり踏襲し、鉄炮は明治五年(一八七二)の銃砲取締規則で、あらためて登録制とした。一方、刀剣は同九年に廃刀令を出して、帯刀は官吏・軍人・警官だけに限るが、庶民でも、包んで携帯する限りはいっさいお構いなし、とした。廃刀令もまた、ねらいは、新たに明治国家の支配層となった官・軍・警の身分の標識として、刀剣を帯びる権利を独占することにあり、やはり武装解除ではなかった。
本書では、戦と商人の関係もとりあげている。
以前、西股総生「戦国の軍隊」をとりあげたとき、
当時の軍隊は兵粮自弁が原則だったけれど、それでは長期の戦闘は戦えない。当然、兵粮の現地調達(略奪)ということになるのだけれど、享徳の乱のように、同じ地域に並立する勢力の争いでは、それが難しい。そうした状況で、兵站を商人に頼っていたという。
と書いているが、享徳の乱の頃はともかく、戦国が進むと、本書によれば、兵站はもとより、陣地での将兵の娯楽まで、戦地には多くの商人が入り込み、食料、酒、娯楽を提供しているという。
商人がひしめく陣中
じつは、戦場には商人がひしめいていたらしい。北条氏の軍記『北条五代記』は、戦場の商人たちの姿をこう活写する。天正十八年(一五九〇)、秀吉が大軍をもって小田原城を取り囲んだ時のことである。 まず北条氏の陣中の様子である。
また、これは豊臣方の陣の光景である。
この小田原攻めでの状況を皮切りに、三方ヶ原合戦での清州の商人(具足屋玉越三十郎)の活躍、毛利元就の大友義鎮攻め、尼子晴久と毛利元就の石見銀山山吹城の戦い、大坂冬の陣などでの、戦場での商人の活躍、諸物価の様子などが紹介されている。じつは、戦場には商人がひしめいていたらしい。北条氏の軍記『北条五代記』は、戦場の商人たちの姿をこう活写する。天正十八年(一五九〇)、秀吉が大軍をもって小田原城を取り囲んだ時のことである。 まず北条氏の陣中の様子である。
①松原大明神の宮のまえ、通町十町ほどは、毎日市立ちて、(商人衆が)七座の棚をかまえ、与力する物、手買、振り売りとて、百の売物に千の買物ありて群衆す。
②氏直公高札(掲示板)を立て給いぬ。万民、年中ばかりの粮米……あまる所これあるにおいては、市にて売るべし。
③これ(高札の呼びかけ)によて、二年、三年の支度(穀物の備蓄)あるものは、五穀を市へ取り出して売り、もたざるものは、珍宝(家財)にかえて用意をなす。
また、これは豊臣方の陣の光景である。
④「人は小屋をかけ、諸国の津々浦々の名物を持ち来りて、売買市をなす。
⑤あるいは見世棚をかまえ、唐土、高麗の珍物、京、堺の絹布を売るもあり。あるいは五穀、塩、肴、干物をつみかさね、生魚をつかねおき、何にでも売買せずという事なし。
以前、同じ著者による「中世民衆の世界」を取り上げているが、藤木氏は、歴史学に大きな足跡と、そして衝撃を残されたようだ。
そのことは解説・校訂を行われた清水克行氏が解説に書かれている。
本書の著者、藤木久志氏(一九三三~二〇一九)は、戦国時代研究の第一人者として、半世紀にわたって日本中世史研究を主導してきた。その研究生活は一九五〇年代末からの戦国大名研究に始まるが、この時期に藤木氏が個別論文の主題として扱った大名だけでも、上杉・伊達・佐竹・北条・本願寺・織田・豊臣など、きわめて多岐にわたる。個別の大名研究に一生を捧げる研究者も少なくないなか、戦後の研究草創期とはいえ、これだけの大名について横断的に専論をまとめた研究者は、きわめて珍しい。また、そのいずれの論文も、それぞれの大名研究において、現在にいたる通説の土台をなしている点でも、稀有な存在といえる。守護職、貫高制、撰銭令、楽市令、天皇権威との相剋など、現在、私たちが見聞きする戦国大名・織豊政権に関する知見は、すべてなんらかの形で藤木氏の研究成果が反映されていると言っても過言ではない。とくに豊臣政権の発した停戦命令である惣無事令の「発見」は、学界に大きな衝撃をあたえ、その評価をめぐっては、現在も論争が続いている。
そうした大名研究の時代を経た後、藤木氏は、一九八〇年代に社会史研究が隆盛するのと軌を一にして、五十代頃から「村」の自律性を追究する独自の研究に着手する。その研究は、後述するとおり、二十年以上の大名研究を通じて全国の古文書を渉猟した蓄積や、生まれ育った新潟県の山村での体験、恩師井上鋭夫氏(一九二三~七四)より受け継いだ民俗調査の技法を活かして縦横無尽に展開され、他の追随を許さない域に達していた。この時期に発表された、藤木氏が「村シリーズ」と自称する、「村の××」というタイトルを冠する研究論文は二十本近くにのぼり、当時の学界はまさに藤木氏の「自力の村」論に席捲されたかの様相を呈した。
本書は、そうした時期に書かれた、「村」を主題とする一般向けの文章をまとめた著作である。研究者として最も円熟していた時期に書かれただけに、本書は『新版 雑兵たちの戦場』(朝日選書)や『刀狩り』(岩波新書)と並び、藤木氏の研究のエッセンスをうかがい知ることのできる、最良の一般向け著作といえるだろう。
そうした大名研究の時代を経た後、藤木氏は、一九八〇年代に社会史研究が隆盛するのと軌を一にして、五十代頃から「村」の自律性を追究する独自の研究に着手する。その研究は、後述するとおり、二十年以上の大名研究を通じて全国の古文書を渉猟した蓄積や、生まれ育った新潟県の山村での体験、恩師井上鋭夫氏(一九二三~七四)より受け継いだ民俗調査の技法を活かして縦横無尽に展開され、他の追随を許さない域に達していた。この時期に発表された、藤木氏が「村シリーズ」と自称する、「村の××」というタイトルを冠する研究論文は二十本近くにのぼり、当時の学界はまさに藤木氏の「自力の村」論に席捲されたかの様相を呈した。
本書は、そうした時期に書かれた、「村」を主題とする一般向けの文章をまとめた著作である。研究者として最も円熟していた時期に書かれただけに、本書は『新版 雑兵たちの戦場』(朝日選書)や『刀狩り』(岩波新書)と並び、藤木氏の研究のエッセンスをうかがい知ることのできる、最良の一般向け著作といえるだろう。
こうした村、百姓の暮らしは大河ドラマにはならないだろうが、それを描くときに、時代の雰囲気やドラマの背景として取り入れたとしても、ドラマの感興を削ぐとは思えない。むしろ歴史学の最新の成果を視聴者に伝えることで、ドラマの厚みやリアリティを増すことができるのではないかと思う。