「戦国の村を行く」(その2)

藤木久志「戦国の村を行く」(解説・校訂 清水克行)の2回目。

81qJeDip3L.jpg 目次で分かる通り、この本は大きく3部、
 Ⅰ 村の戦争、Ⅱ 村の平和、Ⅲ 中世都市鎌倉
の構成となっている。
昨日は主にⅠに関するところをとりあげたが、今日はⅡをとりあげようと思う。

Ⅲの部分は、鎌倉という土地を私は知らない(2度行ったことはあるが)ので、今回は記事にとりあげない。


Ⅰでは、村がどのように領主と関わり、どのように外敵に対したか、また自衛のための「城」の話などが中心となっているが、Ⅱは村の中のしきたりといったものについて論じられている。
村のしきたりについて、四季の行事や暮らしについて、民俗学的な記述がなされていて、今にもつながる行事のいわれが推測されて興味深い。歳時記みたいだが、そういう風流な話ではなくて、むしろ血と汗がにじむようないわれもある。

そして歳時記風のものを離れて、ショッキングな話が紹介されている。村の因習が息苦しくて都会生活にあこがれるというドラマはよくあるようだが、単純に人間関係の濃密さとかいうのとは違う、村のシステムは、今では考えられないような面も持っていたとされる。

はしがき―「村の城」によせて
「自力の村」の発見/戦争論が見おとしていたもの/戦場は乱取りに満ちていた/平和を守るのは村の実力/村の城・領主の城――山籠りと城籠り/本書のねらいと構成
 
I 村の戦争
1 戦場の荘園の日々―和泉国日根荘
戦争の惨禍
中世の人質取り/奴隷狩りの脅威
村の城
村の城に籠る/草のなびくようなる御百姓/出合え、出合え/踊り交わす村々/戦力の中心は若衆
村から地域へ
隠物の習俗/安全保障を金で買う/連帯と対立の中で/クミの郷―地域の互助システム/生命の山野
 
2 村人たちの戦場
荘園の城
悪党の城/政所と村人/戦費は領主が負担した/百姓も城をもつ
武装する村
「村の武力」とは何か/村どうしも合戦をした/犠牲と身代わり
戦国大名と村の動員
村の徴兵台帳がほしい/動員の予行演習/徴兵の現実/領域の城とつきあう/戦火の中の「かけこみ寺」/耕作をいかに守るか/制札=安全保障のコスト
戦いの後に
村をどう復興するか/天下一統=惣無事令=秀吉の平和/刀狩りの意味するもの/非武装への軌跡
 
3 戦場の商人たち
作られた飢餓情報/戦場はいつも飢えていた/商人がひしめく陣中/大坂陣の兵根事情/高騰する米価/商人なくして戦なし
 
II 村の平和
4 荘園の四季
節分と吉書始め/村の歳時記を読み解く
春 一月~三月
年頭の互礼の酒/山の口明け/若菜・七種・初祈禱/三毬打の竹/タナヤキ米
夏 四月~六月
夏祭り・節供・田植え納め/茅輪くぐり
秋 七月~九月
七夕から盆まで/八朔・栗名月・年貢請文/秋祭り・栗年貢
冬 十月~十二月
内検の酒・収納の酒、そして年貢納め/ホタキの神事と成人の祝/歳暮・算用・餅つき
 
5 村からみた領主
領主はいつも悪玉か/御成敗の不足/『庭訓往来』の世界から――期待される領主像/領主と百姓の「契約」/指出をめぐる駆け引き/種子・農料を貸す/湖岸の村の裁判記録から/領主の替わり目は徳政の時/文書群は世直しの記念碑/新領主のパフォーマンス/徳政に向けて村が動く/代替わり徳政の流れ
6 村の入札
入札群の発見/入札袋を開く/盗難入札と村の制裁/村人どうしの視線/共同体の自浄作用
 
Ⅲ 中世都市鎌倉
7 鎌倉の祇園会と町衆
公方館の夏の日
水無月の風景/飯盛山の富士/厄除けの祈り/神幸と神楽ではじまる祭/四つの神輿のナゾ/「祇園会の船共」はどこから来たか
祇園会探索
祇園会異見/八雲神社の由緒から/天王さんの川流れ伝承/戦国時代の祇園祭
中世大町の面影
近世の大町から/中世の大町へ/大町を歩く
八幡宮門前の町衆
町大鉾と町神輿/町を支えた自力のエネルギー
 
あとがき
初出一覧
 
解説 清水克行
本書でも指摘されているが、御伽草子の「ものくさ太郎」は、村の中で最下層でありながら何もせずに暮らしているわけだが、これは村に課された役目を果たしたり、罪人として処罰される者を差し出す場合の備えとして村が飼っている者らしい。現代の法で考えればなんともひどい話なのだが、御伽草子に収録されているぐらい、当時の習俗として普通に行われていたことらしい。

もしそうした者を飼っていない場合はどうするのか。あるいは、対外的な問題ではなく、村内での犯人不明の犯罪に対して、村内でしめしをつけるにはどうするのか。それが、投票で対象者や罪人を決めるというやりかたなのだそうだ。
 いったい村で泥棒を働いたのは誰なのか。誰を次の村役人にするか。それを村人たちの自主的な投票によって決めてしまう。そんな江戸時代の「村の入札」の習俗が、最近ではよく知られるようになっている。
 新潟県長岡市の古文書調査の過程で、山沿いの旧村松村の庄屋だった金子家の蔵から、紙袋に密封された江戸末期(十九世紀中ごろ)の入札の実物(投票済みの用紙)が、何種類も大量に発見された。
 その札には「とうそく(盗賊)△△」とか「のすと(盗人) ××」などとあり、紙袋の一つは、中に「盗難入札」と記されているから、どうやら盗人を決めた投票結果を納めたものらしい。
 盗みの入札といえば、すぐ隣の見附市域のある村では、明治のころにも、

  盗難の節、地獄札を入れ、三枚札をかずきたる者を、処分すること。

と村の「惣集会」で申し合わせ、二十世紀のはじめごろまでは、実際にやっていた、という。


 これらの情報を耳にして、私は驚いた。
 中世の村々には、鎌倉時代末の十四世紀はじめごろから、盗みや放火や人殺しなどの大事件が起きると、「落書」といって、村人が集まって投票で犯人を決めたり、「高札」といって、村が公開で懸賞をつけて犯人を捜したりする習俗があった。私もかつてそのナゾ解きに熱中したが、そっくり密封された投票済みの札など、みたこともなかった。
 中世の「落書」、近世の「入札」、明治の「地獄札」と、時代によって呼び名こそ違うものの、村の泥棒や事件の犯人を村人の投票で決める習俗は、中世から近代にいたるまで、村社会ではずっと続いていたらしい。この話を聞いて、自分にも経験があると語ってくれた友人もいたほどだから、もっと近年までひそかに続いた、根強い習わしであったのかもしれない。

こうなると村の暮らしは息苦しいどころではない。今までこうした「入札」で罪人にされた人の話を小説やドラマにしたものは、寡聞にして知らないが、経験があると語った著者の友人もあるとのことだから、はるか昔の理不尽な習俗と割り切るわけにもゆかない。

こうした入札を正当化する理屈なのだろうか、著者はここに神仏も持ち出しながら、村の自衛措置だったのだろうと説明する。
…無記名で神に誓って、犯人を指名し、あるいは知らないことを証言するもので、一般に寺社の発行する護符=牛玉宝印の裏に書くことが多かったという。十七世紀末の下絵の村でも、「神文の上、入札つかまつり候」といって、やはり神に誓って投票していた。
 中世の「落書」というのは、書いたものを落とすこと、つまり投票を意味し、いったん落としたものは、もう誰のものでもなく、それは神の意思である、と信じられていたのだという。
 落書や入札の起請文は、その信義をあらかじめ神に誓っておいたのである。投票の公正は、神や仏が保証したのであった。
 神意といっても、現実の村社会では、古代ギリシャで異端者や危険人物を国外に追放したあのオストラキスモス(陶片追放)という、公衆の投票制度がそうだったように、当面の村の危険人物(体内の異物)を共同体の外に追放(体外に排出)する、村の自浄作用にその本質があった。そして、その効用ゆえに、この習俗は村社会に長く続いた、とみられている。
 また「村人個人の罪は村全体の責任」とされた中世以来の村社会では、罪ある者を村の外へ追放してしまう中世の「逐電」や、戸籍(人別帳)から削除してしまう近世の「帳外れ」などの措置と同じように、村全体の災いの種となる者は、村の手でいち早く取り除かなければならない、という深刻な事情もあった。

村のたくましい生き様だけではなく、そうした厳しい面もあわせて紹介するところなど、民衆こそ主人公というような思想的に偏向しない歴史の現実に向き合っているわけだ。

seven-samurais20220312.png ところで、前に「中世民衆の世界」の記事で、

また近世の村というのは「七人の侍」のように思ってしまうが、実際は村というのはある意味戦う集団でもあったらしい。
「七人の侍」でも結局は闘うのだが、浪人たちが戦闘訓練をするなど、それまでは武器を持ったことがないように描かれている。

と書いているが、清水克行氏の解説によると、本書が出たとき、
『七人の侍』が描く「戦国の村」
 本書は、一九九七年六月に刊行されたとき、新聞書評などで「まったく新しい戦国時代像」を描いた著作として大々的に取り上げられ、著者の代表的ヒット作となった。しかし、そのさい、かなり多くの媒体で「『七人の侍』の描く『戦国の村』は間違っていた!」というたぐいの紹介がされたことに、当時、藤木氏はすこし戸惑っておられた。黒澤明監督の時代劇『七人の侍』(一九五四年公開)は、日本映画史上、屈指の名作として知られる作品だが、すでにその時点で公開から半世紀近くの歳月が流れていたからである。
とあり、私と同じように「七人の侍」の村と、史実は違うと考えた人が多かったようだ。

ただし、清水氏はこのことで「七人の侍」の価値が減じるものではないと評価する一方、真実の戦国の村については、次のように総括されている。

『戦国の村』の真実
 刀の持ち方ひとつ知らず、侍を雇うことでしか自分たちの村を守ることができない、みじめな村人たち――。本書の「I 村の戦争」をすでに読まれた読者には、この『七人の侍』の物語設定が史実と乖離していることは、すぐに気がつくことだろう。当時の村人たちは普通に腰に刀を指していたし、それは秀吉の刀狩り後であっても、ほとんど変わらなかった。それどころか、彼らは村を日常的に「要害」化したり、村の裏山に「城」を構えて、いざというときに生命・財産を守るためのシェルターを確保していた。そして、万一、外敵が襲来したならば、「出合え!」の掛け声ひとつで、村人たちは郷土防衛のための戦士に変貌する。そこに「七人の侍」の出る幕はなかった。
 そして、藤木氏も本書七六頁で「文字通り『七人の侍』」と紹介しているように、そもそも当時の村は純粋な農民だけで構成されていたわけではなく、すでに村のなかには侍身分の家が複数存在していて、彼らは村の危機に際しては応分の働きをしていた。映画が描くような村人と侍との身分的な厳しい垣根やわだかまりも、現実にはなかなか想定しづらい。
 また、そうした村人たち自身も、戦争になれば、その貧しさゆえに他領で略奪に精を出す傭兵や、戦場の商人として暗躍する一面を併せ持っていた。村人たちは「みじめな被害者」どころか「侍」にもなれば、村を襲撃する「野武士」や「死の商人」になることすらあったのである。現実は、映画のように単純な善悪で割り切れるものではなかった。

領主は村を、村は領主を無視しては治まらない。決して一方的な関係ではなく、どこまでも双務的な関係だったと理解しなければならない、そう思う。

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