media:九州電力は何が怖くてフリー記者の質問を断るのか?
私はさほどフリーランスのジャーナリスト達にシンパシーを感じている方ではないが、それにつけても政権交代以来の口だけオープン化の臆病ぶりはみっともないと思う。みっともない対応の典型がまたまた九州電力について現れた。
寺澤有さんの「九州電力の記者会見、あくまでもフリーランスには質問を認めず - 有村眞由美」という記事を読むと、何が怖いのかと思わざるをえない。
一方当事者の話であるから、そのような取り扱いをした九州電力には、それなりの言い分があるのかもしれないが、最大限想像力を働かせてみても、記者会見にフリージャーナリストの質問を受け付けてもどんな弊害があるのかと不可解だ。
むしろ、九州電力が自分たちの立場・主張・言い分を世間に知らしめよう、分かってもらおう、正当性を主張したいという積りが全くないのではないかという疑いが募る一方である。
要するに、隠蔽体質の流れというわけだ。
他方で、フリージャーナリストの江川紹子さんが、裁判所に記者と同様の傍聴席確保をお願いして断られたという話がある。正確なところはよく知らないので間違いがあったら指摘して欲しいが、彼女のツイートを読む限り、1月10日の記者席での傍聴を願い出たところ、にべもなく断られ、理由も告げられず、これに対する即時抗告をするらしい。
裁判所が記者席を設けて、いわゆるマスコミに取材の機会を与えていることは、憲法21条の表現の自由を保障する一環として、国民の知る権利を現実化するための手段と位置づけられる。国民の知る権利は表現の自由だけでなく、参政権や幸福追求権からも派生する憲法的価値を有するが、その知る権利を保障するのには報道機関が重要な役割を果たすので、その報道機関に取材の自由と権利を認め、かつ取材の自由にマイナスとなるような取材源の秘匿も権利として認め、あるいは報道内容を国民の「知る」ということ以外の目的で利用すること(例えば裁判の証拠とすること)は認められないと言うところまで、憲法上の保障が及ぶと、これが教科書的な説明だ。
従って、報道機関(=マスコミ)に裁判の傍聴席を確保するのは憲法上の義務でもあると、そういうところである。
しかし、これはインターネットが普及する前に、いわば昭和の憲法論であって、平成の憲法論としては報道機関やジャーナリストのあり方についてのきちんとした認識を欠いた考え方と言わざるをえない。
報道機関の表現行為を、その受け手である国民の知る権利に寄与するがゆえに手厚く保護するのであれば、国民の知る権利に寄与できるようなジャーナリズム機能の担い手が拡大すれば、手厚く保護すべき対象もまた拡大するというのが道理である。
現状では、国民の知る権利を最大限保障するために設けた報道機関のための手厚い保護(報道機関専用の記者席とか記者会見参加権・質問権とか)が、かえって国民の知る権利を不当に制約する盾として機能している。
裁判所の頑なな態度はいつものことで、あえて隠蔽体質だとは言えない気もするが、九電の頑なな態度は隠蔽体質のなせる業で、隠すために報道機関優遇ルールを盾にとっている姿に見える。そして裁判所の頑なな態度も、結果的にはそういう機能を実現しているわけである。すなわち、本来は国民の知る権利を最大限保障するために設けたルールを、知る権利を制約する方向で適用してしまっているのだ。これは憲法の守り神としての裁判所にそぐわない態度であり、全くもって不当な態度だ。
そんなことを言えば単なるブロガーで自称ジャーナリストが大挙として押し寄せてきたらどうすると、管理者的な立場からすれば心配になりそうだが、それはそういう事態が起こった時に考えればよい。現状は国民の知る権利を蔑ろにする方向でルールを適用してしまっているのだから、そちらを改善する方が先だ。
一応の参考文献としては、松井茂記先生の魅力的な書名の文献がある。やや古くなったが、今なお参照される価値がある、というか世の中がまだここまで追いついていない。
ただ、松井先生の問題関心は、放送規制にあって、上記の問題意識とはすれ違っているように思う。その点がやや残念ではある。
それはともかくとして、ここで述べたことはマスコミと呼ばれる巨大資本の報道機関の役割を否定するものではない。記者クラブ制度だって、国民の知る権利を最大限実現するための効用というのはそれなりにあるだろう。マスコミに情報を流したいという時の手がかりでもある。
フリージャーナリストだけでは、日本全国・世界のニュースを漏れなく取材して比較的重要なものをできるだけ即時的に報じることはできない。組織を備えた大小の報道機関や通信社が入り交じって存在する必要がある。
しかしデメリットがある。御用組合ならぬ御用報道機関化し、談合組織として突出した報道はできない枷となり、特ダネはあるが、情報をくれる機関の意に沿わない報道は自粛する傾向を助長し、勢い弱い者の問題には徹底追及するくせに権力に対する追及は及び腰となる。水に落ちた犬(前経産大臣とか)は伝聞でも徹底的に叩く。これがさらにクロスオーナーシップの弊害が重なり、言論・表現の閉塞状況がもたらされている。
この状況が、政府その他の国家権力、大企業などに都合が良いことは火を見るより明らかであろう。それがあの九電の対応や裁判所の対応を導いているというのは考え過ぎではあるまい。
2012年は、こうした言論・表現の閉塞状況が打開される方向に進むだろうか?
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