arret:航空管制官の刑事責任を認めた最高裁決定
平成13年1月31日に発生したJAL便同士のニアミス事件において、管制官A(訓練生)が巡航中の958便に降下を指示するつもりで上昇中の907便に降下を指示してしまい、907便の副操縦士の復唱にも間違いに気付かず、横にいた管制官B(訓練監督者)も言い間違いに気が付かなかったという事案である。
907便は誤った指示に従って降下を準備したところ、航空機衝突防止装置TCASは907便に上昇を、958便に下降を指示した。
そして907便は管制官の指示に従って降下を続けたところ、958便はTCASに従って降下を始めた。
これによってますます接近したので、907便の機長が急降下による衝突回避を余儀なくされ、乗客が57人も負傷するという事態となった。
最高裁は、業務上過失傷害罪を認めた。上記言い間違いは過失であり、過失とニアミスとの因果関係があるというシンプルなものである。
過失や因果関係との判断は比較的単純だが、宮川裁判官の補足意見と桜井裁判官の反対意見が指摘している政策論、すなわち刑事責任を問わないで事故調査を進めることがシステムの安全性向上に資するという見解の当否が最も問題である。
宮川裁判官は、こうした見解により免責することが「政策論・立法論としても、現代社会における国民の常識に適うものであるとは考え難く、相当とは思われない」と述べている。
これに対して桜井裁判官は、言い間違いが過失であることを否定しないとしつつも、TCASが両機に降下と上昇の指示を出して後ニアミスに至ることの予見可能性があったとはいえないとし、因果関係としてもC機長が間違った管制指示に従って降下を続けることを選択したのが客観的に間違った知識や不十分な情報に基づく判断だったから、降下指示との因果関係があるとはいえないとし、結局過失責任を問うことはできないと反対意見を述べている。
桜井裁判官のこの反対意見は、その文言だけを見てもかなり無理がありそうな判断だ。
管制官が、TCASの機能と具体的にどう指示するかを予見できなかったというのだが、AB両管制官はまさにTCASが出した指示と同様の指示をしようとしていたのであって、それが通常の管制指示だと認識していたわけである。それでもTCASがどのように指示するか分からなかったというのでは、将来の事象について予見可能だったと言える場面はなくなりそうである。また、管制官の指示とTCASの指示(RA)とが食い違った場合にRAに従わないことは予見できないというのだが、それでは自らの指示に従うだろうとは予見できないというわけで、そもそも指示することの前提がなくなってしまう。
こうしたかなり無理だと思われる解釈を桜井裁判官がしたのは、結局、「本件のようなミスについて刑事責任を問うことになると,将来の刑事責任の追及をおそれてミスやその原因を隠ぺいするという萎縮効果が生じ,システム全体の安全性の向上に支障を来す」という弁護側の主張に説得されたというところがあるのだろうと思われる。
あるいはその前の、管制官のヒューマンエラーにもかかわらず安全性を確保するためのシステム全体を構築する必要があったという指摘で、もし刑事責任を問うとしても管制官個人よりもシステム全体の責任を問う方が筋であるという考え方が示唆されている。これはこれで説得力がある。
裁判所が、航空安全確保という大目標を踏まえてどのような場合に刑事責任を問うか判断せよというのは、いささか荷が重すぎるように思う。これは行政的政策的な判断であり、要件が満たされれば効果発生を認めるという判断をおこなうべき裁判所には原理的に馴染まない。むしろ、行政庁たる検察庁が起訴に当たって考慮すべき事項のように思われる。
裁判所がそのような法政策的な判断を迫られる場面がないとはいわないが、それによって過失や因果関係の認定を左右するというのは、特に今回の場合に適当なのかどうか桜井裁判官の意見を読んでも疑問を覚えるのは上記の通りである。
本件のようなケースで上記の政策論を反映させるには、管制官の「過失」について別異の解釈基準を建てることが考えられる。そしてそうでなければ、政策的な考慮から刑事責任を科すのが相当でないとの判断を下す仕組みとして、公訴権濫用か、あるいは正当業務行為の範囲を過失行為にも拡大する方向が馴染みやすいと思う。
なお、この事例は、医療事故の過失責任の事例と共通する課題を抱えているので、その点でも興味深いものである。
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コメント
3年半超ぶりに書き込ませて頂きます。主に民事医療訴訟に関心を寄せている者です。本当に基本的なことですが,気になるところがあります。
このニアミス事件では,言い間違いの過失と,ニアミスの間に,907便機長の判断が介在していて,その機長判断は上昇,下降のどちらもあり得た状況であったと思われます。このような場合でも,原因がなければ結果が無かったということで,どうやら責任ありという判断が妥当というのが法律家の多数意見のようですが,これを無責とする判断には無理がある,という理解で宜しいのでしょうか。安全のために置かれたシステムの不備が事故に関与していたことを汲むと,無責という判断も強ち無理に過ぎるとまでは言えないのではないかと思ったのですが如何でしょうか。
私のブログでも感想を書いたのですが,ちょっと認識が甘かったかと考え直しているところです。
投稿: 峰村健司 | 2010/11/07 21:31
峰村さん、コメント有難うございます。
確かにある過失行為と結果発生の間に第三者の行為が介在した場合に、過失行為からの因果関係が切断される場合がありうることは否定しませんし、論理的でもあるように思います。
しかし本件では、機長の判断が介在したというだけでなく、管制官の言い間違いが機長の判断を導いたものです。管制官が間違って降下と言わなければ機長も降下はしなかったわけで、正しく間違えた結果が機長の判断につながってそれがニアミスにつながったものです。
これを、因果関係がないというのはあまりに無理ではないでしょうか。
投稿: 町村 | 2010/11/08 22:53
お返事ありがとうございます。お忙しいところすみません。
無理と言われるとそうなのでしょうね…この事件に関しては。
それにしてもこの判決が何とも腑に落ちないのは,結局のところ,言い間違いという誰しもが日常生活で犯しうるちょっとした間違いが犯罪に付されたということでしょうかね。宮川裁判官は「緊張感をもって,意識を集中して仕事をしていれば,起こり得なかった事態である。」と判示していますが,いくら緊張感をもって仕事をしたって,言い間違いは起こり得るんですよね。むしろ,緊張感を持っている時こそ却って言い間違いに気づかない可能性だってありますね。普通に考えれば。それはもう人間の限界なのであって,そのような危険を低減すべく対策を講じたところ,それが却って仇となったというのが,今回の事件ですね。ともあれ,言い間違いなど,日常誰もが起こしうるミスに対して,結果が悪ければ刑罰を与えるというシステムは,恐怖政治なのではないかと考えます。百歩譲って,そのようにすることが安全向上に資するという確証があるのであれば,首肯せざるを得ないのかも知れませんが,単なる言い間違いを罰することが安全向上に資するとも思えませんし。言い間違いを犯す瞬間というのは,一種の心神喪失状態であると考えれば(そうでなければ言い間違いなどしないでしょう),それを罰することは却って人権侵害とすら言えるのではないかと思います。
業過罪に意義を唱える人がほとんどいない日本の法曹は,総じて人権意識が希薄であるかのように映ります。
↓ご参考までに
http://www.orcaland.gr.jp/kaleido/iryosaiban/essay06.html
投稿: 峰村健司 | 2010/11/09 22:54
この事件は確定してしまいましたが、強い関心を持って引き続き確認をしています。ようやく地裁判決と高裁判決を読みましたが(判例時報2008号)、地裁判決が一番素直に読めました。要は、907便が管制官の間違った指示に従って降下を続けた際に、もしTCASが作動していなければ、一応の安全な高度差で通過できていたので、言い間違った指示そのものが危険な指示であったとは言えない、というものですね。システムの問題とか、あるいは私が主張するような「言い間違いしたことを刑罰に処すことの是非」という問題に触れるのではなく、非常にシンプルに「結果的には、そもそも危険性があった指示ではなかった」ということで、謙抑的であるべきと言わている刑事司法(ですよね?)の判断としては妥当なのではないかなぁ、と思ったのですが…
一方で、高裁判決は一度読みましたが何を言いたいのかよくわかりませんでした。もう一度読んでみますが、地裁判決には立法政策的な説示は無いことは読めば容易にわかるところ、高裁判決が「原判決の上記説示が一種の立法政策を現行法の解釈に取り入れようとするものであるとすれば、到底左袒できない。」などと説示しているところを見ると、却って高裁判決のほうが、結果責任を負わせるべしの色眼鏡を通してみているのではないかと、私には感じられました。
かなり問題が大きい事件のように思われます。
投稿: 峰村健司 | 2010/12/26 22:43
個人的には、桜井龍子裁判官の発言にもっとも妥当性があると感じました。
なぜならば、「過失」は「罪」ではない、というのが常識的大前提だからです。これは、現在の日本の法体系で、「過失は罪である」としているのを承知の上で申し上げているのですが、ここが日本の疱概念中で国際標準からもっともかけ離れている点ではないでしょうか。
「過失」を罰してやりたい、という処罰感情は、日本独特の文化と感じています。
誰にでも過失を犯す可能性はあるのですから、自然人が過失を犯した場合は、民事で解決するのが筋であり、刑事が介入するのはおかしいのではないでしょうか。
「緊張感をもって,意識を集中して仕事をしていれば,起こり得なかった事態である」!!!
こんな文言を判決に加えるなんて、世界中の笑いものでは?と危惧いたします。
こんな考え方で裁判をする裁判官がいるなんて。
櫻井龍子裁判官の反論は、「RAがTCASより優位にある、という、もとの米国のマニュアルにあるルールが日本に導入するときに抜け落ちていたために起こった事故ではないか」というもので、これぞ『根本原因』。Root Cause Analysis (根本原因分析)という、危機管理の基本的考え方です。
このルールが徹底していれば、このような事態にはならなかったのです。今後、類似の事故を防止できるのも、この「RA>TCAS」という単純なルールを徹底することによってのみ、可能です。いくら「注意しなさい」と言っても、不注意は必ず起こるのですから。
精神論では事故は防げません。より安全なシステムによってのみ、事故防止は可能であり、
「緊張感をもって,意識を集中して仕事をしていれば,起こり得なかった事態である」
などというコメントを最高裁裁判官が出すという民度に絶望を感じます。
投稿: 田中まゆみ | 2011/11/20 09:10