JA佐渡の12月号で農産物クイズの答え合わせ
お寺の土間で音楽ライブ
晴れのち曇り時々雪の金井中興まち歩き(夕虹会)
掘記念能楽堂
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晴れのち曇り時々雪の金井中興まち歩き(夕虹会) ※クリックで再生
夕虹会の令和6年度を締めくくりは金井中興まち歩きでした。この日はタイトルのとおり晴れのち曇り時々雪の空模様でしたが、ダン渡辺氏の機知に富んだガイドで時々滑りそうになりながらも楽しく充実したまち歩きとなりました。
★印の解説および資料は渡辺和弘氏から提供頂きました。
★堀治部・愛子夫妻顕彰碑
明治39年生。新穂本間医院次男、堀家の養子。東京で耳鼻科医院開業。子供なく、東京の医院、金井の所有地等全財産を金井町に寄贈、後者は堀記念金井能楽堂。
★金井町名誉町民顕彰碑
掘夫妻・桑原義泰・浅島誠・秋山庄太郎碑
★浅島誠
昭和19年、金井千種生。生物学者。東京大学名誉教授。一貫して生物発生学研究、アクチビンを世界初同定。この研究はノーベル賞受賞となった山中伸弥教授のiPS細胞が発見の布石。
★桑原義泰
大正2年、金井新保生。日本画家、晩年は白梅紅葉を描く。作品は国内のみならず海外でも褒章。長く東北電力に勤め、37歳で恩田耕作の弟子。耕作は土田麦僊の弟子筋。平成20年没、96歳。
★秋山庄太郎
近藤福雄賞の審査委員長を長きに亘って務められた。
御井戸庵入口
★御井戸庵
日蓮支援者の中興入道の遺跡。日蓮の霊験により掘られ、この水で墨をすり「勧心本尊抄」を書いた。日蓮が経文を唱える時、蛙がうるさいので「うるさい・だまれ」と叱った後、蛙は鳴かなくなった。「蛙不鳴の澤の石碑有。
★妙経寺
塚原問答で入信した中興入道が自身の邸に建立した法華堂が起源。その後、佐和田に移転、妙経寺に。
・日蓮門弟、大和坊の法華堂跡で、中興入道御廟所(墓)がある。
・現御堂は平成9年、信者の寄進で建て替え。
・井戸水で目を洗うと眼病が治るおtの伝承有。
長嶋俊介氏と渡辺和弘氏
★筆塚
書家藤村中堂の薫陶を受けた愛弟子達が、昭和61年、藤村書道塾の庭に建立。
★藤村中堂
県展で無鑑査第一号、その後、県展参与。若い頃には日展連続入選、県展連続8回入選等を果たす。教員として島内の学校で教鞭をとり、42歳で佐渡病院勤務。書道に精励し、書道指導者として島内各地やハワイ大学でも指導した。
★西蓮寺
・真宗大谷派
・本願寺第三代覚如上人より法流を受けた地頭本間有綱が元亨3年(1323年)に開基、後に西蓮寺の寺号。
佐渡の真宗寺院では兄弟寺といわれる立蓮寺と並び最古の由緒ある寺院。現在の本堂は平成13年に火災で焼失、平成16年に再建。
・本願寺派 西本願寺 京都市 約10,500寺 龍谷大学
・大谷派 東本願寺 京都市 約 8,900 大谷大学
・他に8派:内、最大が640寺
・浄土宗 大正大学
・日蓮宗 立正大学
・曹洞宗 駒澤大学
・真言宗 専修大学
・創価学会 創価大学
興源院
★興源院
天正17年(1589)、上杉景勝佐渡攻めの時、上杉に内通して佐渡の本間家を滅ぼした本間左馬之助の建てた城跡にある寺。左馬之助の子永州は上杉家家臣となり会津、米沢に移住。左馬之助は中興台地の多くを水田化。子孫が本間権左衛門、本間権右衛門家。前者は東京理科大名誉教授、後者は国立天文台教授でブラックホール撮影に世界で初めて撮影した本間希樹。
★鈴木白鶴
御古流生け花や加賀宝生流宗匠。本名、鈴木惣次右衛門。
★御古流
京都桂の宮家花務職の白竜(藤原吉宣)が相川で指導。家元死後、白鶴が継ぎ、荒貴隆快-才快(もとよし 白晶)と繋がり、その死後家元が決まらぬまま。生花を活花と呼ぶ。御古流の特徴は「花材を矯める技術」で水引を結ぶ技となる。
※矯める:悪いものをよくする。矯正する。木・竹などをあぶったり濡らしたりして、曲がっているのをのばし、また、まっすぐなのを曲げて、形を整える。
★本間芳和
応用物理学者(ナノテクノロジー)、東京理科大名誉教授。金井中-佐渡高-東北大。
本間権左衛門子孫。権左衛門家は天正17年の上杉景勝佐渡攻めの時に、上杉に味方した沢根本間氏の子孫で中興に領地を得た。曹洞宗興源院は本間家が建立。
★本間希樹
世界で初めてブラックホール撮影に成功。水沢の国立天文台所長。1971年アメリカ生、神奈川県育ち。東京大博士課程修了博士。中興、本間権右衛門家の人。
★中興神社
佐渡狛犬を含む二対の狛犬と一体のライオンが棲息。
境内社:弁財天社、更正殿
由緒:天長元年(824)の勧請、江戸時代までは北山権現。明治維新後、中興神社と改称。古代、島内第一峰の金北山(古称・北山)が自然信仰の対象。金北山麓の村には里宮が数社。
★植田五之八顕彰碑
安政元年(1854)-明治44年(1911)。上矢馳の佐々木家五男に生まれ、中興村植田六右衛門に養われ、娘と結婚し独立。近代農法の研究と普及に努めた。その後佐渡農会の設立に奔走し、深井郡長らと協力し佐渡郡農会堂を設立。ここを佐渡全島の農業技術改良の中心とした。この外、佐渡牧畜会社設立発起人、県会議員に当選、金沢村信用組合を創設し初代組合長に就任。佐渡の農業発展の中心となって活躍した。
★更生殿
元は農業試験場に。
農村不況から更生する精神的支柱。農村更生の守り本尊。
★農民道場
・農民魂に徹した農村の中堅青年育成を目指す。
・昭和17年、佐渡修練農場。
新潟県の草分けで、全国の先駆的農場の一つ。
世尊院
★植田旅館
植田六右衛門家。文化年間(1804~)より旅人宿。その後、六十郎が酒造業、郵便事業、運送業などに手を伸ばす。その後、分家の上田五之八家が引き継ぐ。上田五一郎は両津で植田病院。新潟市の植田旅館(中川苗字)は中興植田旅館の番頭さんが新潟でのれん分け。
★taneCREATIVE株式会社
佐渡市で2012年に起業したIT企業。WEBサイトの制作・管理・運営。業務最先端の技術を武器に日本一のWEB制作会社を目指している。
(会社概要)
代表取締役 榎崇斗
従業員数(金井+佐和田) 37名
業務内容 SEOコンサルティング、WEBサイトの制作・管理・運営業務、業務用基幹システムの構築、サーバの運営及び管理、インターネットのホームページでの広告、WEBサービスの販売・運営、デザインに関係する各種制作業務
★川辺時三碑
1862(文久2)、千種西方村生。川辺家は河原田で薬店・津の国屋を営み、西方村に。以後は医師を業。最初は植田医院の一角。時三は、明治15年、新潟医学校卒。同20年に眼科医となり、中興で開業。医術の他、芸能・美術・造園に造詣、設計の庭園は村内にみられる。大正9年、柳田国男の訪問、その翌年民謡団体「あらなみ会」結成、佐渡を全国に紹介。野卑な歌詞にかわる新作民謡の募集、土産物の研究・加茂湖の売り込みに尽力。今日耳にする佐渡おけさの多くの歌詞は、そのときの応募作。時三は薬局を手伝っていた山崎直吉を、妹ヤスとめあわせ医師にし、直吉はのちに相川で、妹ヤスの夫は相川で婦人科医川辺医院を開業。時三の四男は父業を継ぎ、子孫は栃木県在住。山路屋旅館前の顕彰碑は昭和32年建立。
昼食は佐和田のいわみ亭で祝い鶴の折り方を教わりながら天ぷら蕎麦を戴きました。
昭和58年当時のバスの旅(両津~スカイライン~相川)
昭和58年当時のバスの旅(両津~スカイライン~相川) ※クリックで再生
昭和58年当時のバスガイドの音源に、これまで撮りためた両津から大佐渡スカイラインを経由して相川(佐渡金山)写真を載せてスライドショーにしてみました。
佐渡カケスの瓦版「妙見山の遭難の記録」2021.3.23 ※クリックで閲覧