挑戦「仏巌の生涯」を読んで
親松仏巌は今から150年も前、安政6年(1859)4月20日に羽二生に生まれました。本名は太郎といって、彼の生家は名主株の農家で農業のかたわら廻船宿を営んでいました。仏巌の名は木端仏の円空、微笑仏の木食と並び賞されるほど高い評価を得ており、仏巌の作仏を鑑賞すれば誰しも信仰の有無に係わらず、多くの人がその深い発願と素朴な手法に親しみを感じるといいます。
実際、私も住吉むら展に並べられた仏巌の小さな仏像を見せてもらいましたが、それは仏像というよりアフリカや東南アジアあたりの木彫りの民芸品といった趣きに近く、私のような信仰心が無い人間でも部屋に飾っておけるんじゃないかと思いました。仏厳作の仏像は小さいものは2尺5寸から大きいものは16尺にも及ぶ仏像が島の内外のお寺やなんかに展示してあるとのこと。
雅号の「仏巌」は隣村大川との境にある「仏岩」にちなんだものといわれており、これも仏巌の信仰心が高い水準にあったことを示しています。親松仏巌は向学の精神に燃え、明治10年(1877)に19歳で上京し「みそぎ社」で皇漢学を修め、また同14年(1881)には警視庁の巡査となりましたが、故郷の父親の強い希望があり、数年後にやむなく帰郷します。
郷里の羽二生に帰ってからは、同志と「三遊会」を結成して、来迎寺を会場に討論会を開催したといわれています。ちなみに「三遊」というのは「雨降りの日・風の強い日・縁日」と三つの休日を利用するという意味だとのこと。明治20年(西暦1888年)、28歳のときに、当時の稲作肥料でもあった鰊(にしん)の孵化を思い立って北海道へ渡ります。
その結果は失敗に終わりましたが、また翌年も果敢に挑戦をし、大川・羽二生から北五十里・和木の沖合に鰊の稚魚を放流します。それから数年後に島の沿岸にホッケ(ドモシジュウ)が釣り上げられ、その当時は『親松のニシンがホッケに化けた』という噂で持ち切りだったとのこと。
養殖事業に失敗した後は、佐渡の豊富な漁獲高に目をつけて加工品製造を始めますが、販路の問題でこれも失敗してしまいます。また明治26年(1893)7月には、佐渡で最初の台網操業をし、イカの大漁はあったものの、台網自体が大掛かりで経費がかかることや粗悪な材質の漁具のために、この事業も成功したとはいえなかったそうです。
そのほかにも、木綿織物工場などにも挑戦しますが、同じように失敗に終わりました。こうした仏巌の生涯は事業失敗の連続だったのです。これだけ事業を失敗すれば当然社会的信用も失い、資産も底を尽き自暴自棄になってしまうところですが、幸いなことに彼には素晴らしい仲間たちと、信仰への強い心があったので挑戦し続けることが出来たのかもしれません。
親松東一さんの著書にも「世間で伝えられている仏巌自身の言動からは、どこか颯爽としてあか抜けた感がある」と書いてありましたが、それは仏巌の人徳だったのではないかと確信しました。
「仏巌の盟友」 挑戦より
そんな苦労続きの人生を送った仏巌も昭和7年(西暦1932年)に72歳でその生涯を閉じましたが、仏巌の心は幸福感で満たされていたのではないかと思います。「死にざまは生きざまだ!」という言葉がありますが、私も仏巌のように生きられたらなあと、この本を読んで思った次第です。仏巌も今魔訶般若波羅密多 皆さまさらば御さらば
この記事は2009年12月19日付の佐渡カケスの瓦版に掲載したものです。
挑戦「親松仏巌の生涯」親松東一著.pdf ※クリックで閲覧