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名畑政治写真集「佐渡人の風景」

名畑政治写真集「佐渡人の風景」

 佐渡の郷土写真家、名畑政治さんの写真集「佐渡人の風景」。昭和50年代の佐渡の風景、風俗、郷土芸能を54冊の冊子に纏めた写真集です。

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名畑政治写真集

№55 佐渡人の風景(14.1.05号)
相川町の海岸から①(二見より戸中まで) 二見県道脇で藁仕事中のおばあさん、元村の浜で大謀網作り、米郷、新田で船揚げ中の老夫婦、紙飛行機で遊ぶ子供たち、稲鯨の大謀網準備風景、橘、長手美咲沖の若布の口開けの朝、高瀬猫岩の大時化、銀葉草干し、大浦海岸の若布干し、宮ノ下の海岸から眺めた大浦、大間港の釣り人、春日崎から眺めた相川市街と割戸、千畳敷の岩ノリ採り、大間海岸の石垣、大間海岸の石垣に吹き上げる波の花、達者・新年の祈祷念仏、浜のとうろや、姫津のかたせ干し、魚の行商から帰る主婦、冬は漁船を浜に揚げる、戸地・精霊流し、海岸道路建設以前の風景、戸中の道路で遊ぶ子供たち、戸中の集落

№88 佐渡人の風景(16.10.10号)
湊の祭り、佐和田、羽茂、真野の風景 湊八幡神社の祭り、佐和田中原神社茅の輪くぐり、羽茂上山田十王堂、羽茂本郷大谷北島敬司家、畑野多田菊地家、羽茂亀脇の民屋
№89 佐渡人の風景(16.11.10号)(昭和54年のネガから) 赤泊真浦曽利地観音、両津大川海岸のおばあちゃん釣り大会、畑野丸山堀切不動念仏、小木岬江積の風景、真野金山真野四日町大願寺の縁日、真野西三川金山

№90 佐渡人の風景(16.12.10号)
相川塩釜神社の神楽、金の道の行列、年の瀬の河原田市、真野下黒山の臼杵春治家、徳和大椋神社迎獅子、羽茂、相川、小泊の祈禱念仏

№91 佐渡人の風景(17.1.10号)
畑野大久保白山神社の田遊び神事、月布施胴上げ、達者・小泊・五十里田中町のとうらや、五十里宮田家の正月風景、両津市場鰤大漁、千畳敷のり採り、真野大倉谷大草履下げ、沢根かご町凧あげ、姫津港はちめ漁、潟端牡蠣作業、深浦と宿根木の風景

№92 佐渡人の風景(17.2.10号)
明治の末から大正年間の写真(羽茂大崎の葛原五栄氏撮影) 小木小比叡神社の田遊び神事、下川茂五和神社のお田植神事、浦川文殊院の七度半の占い、羽茂大崎〆張り、新穂西巻草履下げ、鷲崎岩脇家住宅、片辺民話の里会館文弥人形、木綿染めの展示、小木三崎海苔採り、青野山田殿内家のおまえ

№93 佐渡人の風景(17.3.10号)
昭和5年のネガ、明治から大正時代のネガ、 折紙の雛人形(昭和5年のネガ)、明治から大正時代の教育、寒鮒採り、北狄の砂利拾い、早春の旧落合橋、下校中の子供、羽茂村山の気比神社能舞台、雪中の屋敷林、小川の烏賊漁漁火、水津助宗漁の頃

№94 佐渡人の風景(17.4.10号)
田切須・佐々木農園、中興の野焼き風景、佐和田五十里の苗床作り、下相川の畑打ち、畑野町西ヶ床の子供達、田ノ浦の花笠踊り、両津川内の堀内神社祭礼(鬼太鼓)、舟下日吉神社の鬼太鼓、大川津島神社の祭礼、相川万照寺大塚部屋供養塔、相川選鉱場、木製の万代橋、渡津神社、松ヶ崎か赤泊の船乗り場、羽茂の味噌会社、河原田本町・林本店、大正初期のマラソン大会(河原田十字路)、噂の人おいとさん(ごんざ屋の芸妓)、赤泊の築港工事、両津の埠頭、宿根木の風景、子供たちの調髪風景、沢根湾全景(明治中期か)、佐和田西二宮・山本(上保田)家、加茂湖の風景、両津・願の波

№95 佐渡人の風景(17.5.10号)
相川戸地の田植え(s56)、長谷寺の祭礼、赤泊杉野浦の祭礼、北小浦の若布干し、羽茂平野の馬耕講習会、寺子屋、明治紀念堂、鷹匠、弘仁寺の品評会、羽茂本郷の自転車屋、沢根七場川の素魚採り、松ヶ崎入江の地蔵、蛸を吊るした風景、春の田打ち(真木)、大間港の釣り人、賽の河原

№96 佐渡人の風景(17.7.10号)
姫津祭り「薬師大師の日、真野豊田善宝寺の祭礼、新穂熊野神社能舞台、漁港が出来る前の稲鯨s42、指輪の岩ノリ干し、白木の海岸風景

№97 佐渡人の風景(17.11.10号)
潟上牛尾神社の祭り、金北山神社の秘宝、佐和田萩田家、沢根・長安寺の寺宝、投網、真野遭難した小型タンカー、笹川集落、経塚山の歌碑、経塚山の歌碑、平の雨中モトクロス

№101 佐渡人の風景(H17.12月号)
相川・関薄が原、小野見・大榎の村s57、相川新地・回船問屋市野家、石屋根の村・戸中、小泊と滝原の分水嶺に立つ鎮魂碑

№102 佐渡人の風景(H18.1月号)
米郷子供たちの道祖神、両津宇賀神さんの初詣、北狄の生貫観音お籠念仏、平清水の毘沙門天の二年参り、真更川の西方庵祈祷百万遍念仏、戸地千体仏と閻魔さん、多田黒子の石塚半次邸、鷲崎の岩脇英樹邸、赤玉の小玉良邦邸、馬首の斎藤禮吉邸、馬首の山崎一郎邸

№103 佐渡人の風景(H18.2月号)
佐渡島の波濤、笹井兎子の回顧展、大黒天と子育て地蔵、沢根白山神社の絵馬、八幡の砂垣、寛延の農民一揆のこと、沢根下町の田舎浪曲師木島家さん、大川姫埼荘にて馬が出る嫁送り

№104 佐渡人の風景(H18.3月号)
小木の風景、琴浦の入江、竹のトンネル、元小木の船小屋、宿根木、西三川、小木岬を洗う波濤、観音岩、宮川御食神社の山之神祭り、泉・当ノ木堂の地獄絵、やせ馬念仏、田ノ沢のしだれ杉、小倉のお梅堂、沢根田上新三郎の能舞台m13頃

№105 佐渡人の風景(H18.4月号)
雪の割戸と鉱山労働者の長屋s53、相川の小六町(遊女の町)、大間港、早春の草履作り、岩首・学生たちの馬追い、金北山神社の祭礼、ハーレーのサイドカーに乗った猿田彦、大野亀・二つ亀・願、相川高瀬海岸の風景

№106 佐渡人の風景(H18.5月号)
春耕H18頃、北田野浦の花笠踊り、真野・豊田音頭、小倉峠の異人文字の碑、相川河内入口の六地蔵、松ヶ崎入口の六地蔵、小木・とんちぼの踊り場、江積・立野分校、小木・小流で牛の世話をするおばあさん、相川大浦・出崎家、内海府の地蔵、椿上人堂、稲鯨新田・籬の村の子供たち、相川鉱山下の安倉宗の護摩法要

№107 佐渡人の風景(H18.6月号)
赤玉・杉井家祭り、真光寺・村上神社の祭礼、貝塚・白山神社と三島神社の祭礼h18.4.6、畑野町武井の能舞台s53、二宮神社と能舞台、潟上・牛尾神社と能舞台、真野四日町・若宮神社と能舞台、赤泊上川茂・白山社と能舞台、畑野栗野江・加茂神社と能舞台、北鵜島・車田の田植(北村家)、相川戸中・苗取り風景、佐和田町五十里東野の養蚕農家

№108 佐渡人の風景(H18.7月号)
佐渡ムジナの大番附表、二ツ岩大明神、別火(べっぴ)、こしき落とし、羽茂・草刈社の祭礼、鷲崎・鶯山荘の歌碑、金の道行列、真野・静山小学校の運動会練習風景、真野竹田・大前神社と能舞台、相川大間の発電所、真野新町・円照寺の浄行地蔵、小木沢崎・入り江の風景、小木白木・浜の麦こき

№109 佐渡人の風景(H18.8月号)
住吉・県道脇の堂念仏、小木琴浦の精霊船送り、萱草が咲く大野亀、小木城山下・観光客のサザエ採り、鎮目市左衛門の墓、沢根戻屋町・納涼会でのスイカ割り、相川二見・二見神社の祭礼、佐和田町長木・妙照寺、元河原田女子高、旧相川税務署、畑野下畑・中川雅治家、羽茂亀脇の民家、佐和田八幡の後藤家、鷲崎・鶯山荘の歌碑

№110 佐渡人の風景(H18.9月号)
東海岸(東立島・立間など)の精霊船送り、新穂瓜生屋・善光寺の念仏と門前市、春日崎下の海岸でモトクロス、二宮神社の祭礼、八幡新町・村岡氏の残した句碑、ひらかな盛衰記(常盤会館)、羽茂上山田特産の十二が柿、国府川の投網

№111 佐渡人の風景(H18.10月号)
夷祭り、中興神社の祭礼、本間四郎座衛門尉泰秀の墓、新穂天満宮の祭礼、水津・誓願寺と常心上人堂、真野豊田・諏訪神社の能舞台、鷲崎・鶯山荘の歌碑、大正時代の民家、西三川椿尾の不動と石地蔵、真更川・諏訪社の風切鎌、畑野丸山西寺の俳句会

№112 佐渡人の風景(H18.11月号)
徳和大椋神社の祭礼、江積の不動さん、沢根五十里鶴子の伊藤家(萱葺屋根)、上横山の屋敷林h18.9月の記録、川崎(河崎)の五郎平堂、黒木御所の歌碑、上川茂の農婦、下川茂の農婦、相川関の風景、宿根木の路地、相川河内入口の地蔵

№113 佐渡人の風景(H18.12月号)
久知河内の能舞台、両津の魚河岸(鰤大漁)、沢根入江の帆船(明治初期)、稲鯨と橘の交差点に立つ道標、相川河内・牛市での光景、真野の市、相川の漁火、柿の木のある風景、東野小滝の秋祭り、真野背合の大根干し、内海府の祠、青野・殿内家の障子

№114 佐渡人の風景(H19.4月号)
相川北田野浦・御禮知神社の祭礼(花笠踊り)、高下・熊野神社の祭礼(鬼太鼓)

№115 佐渡人の風景(H19.4月号)
相川大倉大幡神社の祭礼、大倉わしり(走り)、石名清水寺の木食行道作仏像

№116 佐渡人の風景(H19.5月号)
相川小田・夷神社の祭礼、相川入川・文楽座の文弥人形「山椒大夫」、相川北河内の鬼太鼓、相川後尾の鬼太鼓、相川石花の鬼太鼓、鹿ノ浦のダッタン塚、片辺・白山神社の祭礼

№117 佐渡人の風景(H19.6月号)
相川戸地・熊野神社の祭礼、古式武道、千仏堂、佐渡初の発電所、尖閣湾揚島観光、姫津港の祭り

№118 佐渡人の風景(H19.7月号)
赤泊杉野浦の祭り、赤泊真浦・曽利地観音のまつり、小獅子舞、海上相撲大会、禅長寺、長谷川海太郎の母の生家

№119 佐渡人の風景(H19.9月号)
赤泊三川・春日神社と能舞台、三川山田の盆踊り風景、筵場・白山神社の祭礼、おさすりさん

№120 佐渡人の風景(H19.10月号)
万福寺址、野竹田・大膳神社の能舞台、真野吉岡・総社神社の能舞台、牛尾神社の能舞台、西三川金山・大山祇神社の能舞台、安養寺・羽黒神社の能舞台、二宮神社の能舞台、潟端・諏訪神社での稽古風景、豊田・諏訪神社の舞台、武井・熊野社の舞台、潟上・牛尾神社の舞台、潟上・牛尾神社の薪能、野村蘭作師、武井・熊野社の舞台

№121 佐渡人の風景(H19.11月号)
浜河内・諏訪神社の祭礼、多田黒根の祭礼、多田黒根・諏訪神社、畑野丸山・堀切不動、畑野丸山・平泉寺、畑野丸山・平泉寺の作神祭り、松ヶ崎・松前神社の祭礼

№122 佐渡人の風景(H19.12月号)
赤玉杉池祭り、豊岡・小田原神社の祭礼、岩首・熊野神社の祭礼

№123 佐渡人の風景(H20.1月号)
月布施・毘沙門堂の胴上げ、片野尾の風景、片野尾子供歌舞伎、姫埼灯台、誓願寺

№124 佐渡人の風景(H20.1月号)
羽二生の魚霊塔、大川繁盛記、灯台、大川の鬼太鼓、とうろや、釣り大会、両尾の福島太郎右衛門家、椎泊の本間隆芳家

№125 佐渡人の風景(H20.2月号)
長安寺の銅鐘、長安寺、阿弥陀如来像、金剛力士像、阿弥陀四大菩薩像図、馬坂城二の堀跡、城ノ腰不動尊、塩街道、花笠踊り、下久知八幡若宮神社刀刀の舞、流鏑馬、鬼太鼓、小獅子舞

№126 佐渡人の風景(H20.3月号)
ドンデン山より両津と新潟を遠望、能の里のモニュメント像、八幡若宮神社の祭礼、両津欄干橋の由来、おおさど丸、湊の妙法寺、北一輝、村雨の松、鰤大漁、夷諏訪神社の祭礼、えびす神社、川内堀内神社の祭礼、熱串神社、赤井神社の狛犬、歌代の部右衛門地蔵

№127 佐渡人の風景(H20.4月号)
潟上牛尾神社のお供え開き、新穂村大野・根本時秋の大法要、新穂村大野・清水寺、金北山と山下清の碑、新穂山王社の祭礼、新穂大野の鬼太鼓、新穂・天満宮の祭礼、新穂中央青年会の鬼太鼓、新穂井内・八王寺の祭礼、新穂舟下の鬼太鼓、新穂瓜生屋・善光寺の念仏と門前市、青木堂の風さん念仏、牛尾神社の本能、のろま人形、吾潟・本間家の能舞台

№128 佐渡人の風景(H20.5月号)
羽吉・羽黒神社の祭礼、羽吉の鬼太鼓、流鏑馬、北五十里の大杉、玉崎の鬼太鼓、馬首・気比神社の祭礼、馬首の鬼太鼓、馬首北山の田地、黒姫の田植風景、浦川の台地上の水田、浦川文殊院・七度半のお迎え風習、内海府の樹木のトンネル(北小浦)、鷲崎の祭礼、鷲崎観音寺、鷲崎の鬼太鼓、鷲崎鶯山荘の歌碑

№129 佐渡人の風景(H20.6月号)
長谷寺の秘宝、畑野町宮川・御食神社「山ノ神祭り」、宮川の鬼太鼓、小倉・物部神社の祭礼、小倉の鬼太鼓、大久保・白山神社の田遊び神事、小倉の風景、小倉の千枚田、小倉西ヶ原の千枚田、小倉・峠の茶屋(矢部商店)、小倉の旧道に立つ異人文字の碑

№130 佐渡人の風景(H20.7月号)
宮田蘭堂邸、お母さんの思い出、藤川忠治の碑、宮田家伝統の美、製作中の宮田蘭堂、紙人形、真野湾

№131 佐渡人の風景(H20.8月号)
真野合沢山中の馬頭観音堂の念仏、真野合沢山中の馬頭観音堂、真野町豊田大光寺、真野町豊田音頭、真野静山小学校のたった一人の入学式、経塚山の縁日と吉井勇の歌碑、真野豊田・梨ノ木地蔵の縁日、真野豊田・諏訪神社の神楽、真野豊田・善宝寺の祭礼、新田・二つの落合橋、北向き地蔵の縁日、新町大神宮の祭礼、新町まつりの太市と佐渡相撲

№132 佐渡人の風景(H20.12月号)
真野滝脇・人面岩、西三川浜通りの大根干し、真野滝脇・田植風景、真野背合、真野大倉谷の白山神社、白山神社の能舞台、西三川大立の家形墓地、大倉谷の大わらじ、智光坊の山門、椿尾集落の椿の古木、小布施神社の御神体、能舞台の前の獅子、佐々木農園の椿の古木、西三川弁天岩の波の花、笹川砂金山の物資搬入港、西三川笹川十八枚村

№133 佐渡人の風景(H21.1月号)
長塚節「佐渡ヶ島」の碑、羽茂亀脇の砂丘、小泊の窯址、小泊・白山神社、小泊・白山神社能舞台、白山神社の石臼塚、如意輪寺の春祈祷念仏、如意輪寺の龍の天井画、弘法大師像、参道の石仏、羽茂村山気比神社、羽茂の一里塚、気比神社能舞台、羽茂上山田、上山田の十二が柿、羽茂本郷・草刈神社の祭礼、草刈神社、草刈神社能舞台、羽茂大運寺の五百羅漢、羽茂大崎村、悪魔除けの神馬を作る村、羽茂小泊・岡崎文銭翁

№134 佐渡人の風景(H21.4月号)
木崎神社の祭礼「神輿の出発」、小獅子舞、鬼剣舞、小木・喜八屋旅館旧館、小木上野・諏訪神社の大神楽チトチンチン、強清水の入江、台地に建つ海音寺、小木沢崎の風土、小木岬白木の海岸、宿根木開田新田・白山神社の祭礼、田ノ浦・漁船で病人を運ぶ、開田新田の洞窟念仏、琴浦・羽子板で遊ぶ子供たち、小比叡神社のお田植え神事、深浦の入江で麦の脱穀作業、深浦集落から山の畑仕事に向かう農婦、江積・立野分校、小木大浦の子守ばあさん、小木小流の牛の世話をするばあさん、羽茂弘仁寺で談笑する住職と同級生

№135 佐渡人の風景(H21.5月号)
昭和天皇が皇太子時代に軍艦から上陸した地、真野湾の風景、河原田の市、佐和田諏訪町十王堂、道祖神と子供たち、本町通り・よさこいおけさパレード、河原田の浜で大学生が空手の稽古、佐渡で初めてのトライアスロン、中原・本田寺の山門、新潟万代橋、河原田のマラソン大会、河原田・林本店、諏訪神社の境内、神子たちの舞、戎大黒の神輿、樽神輿、婦人会のおけさ流し、大坂町のパレード、羽茂村山のつぶろさし、旅芸人の踊り、沢根白山社の鬼太鼓、大獅子頭のパレード、大提灯のパレード、八幡の三叉路・道祖神の道しるべ、八幡神社の祭礼、十二ヶ村で造った八幡の砂垣、順徳天皇腰掛の松、八幡新町・道祖神の子供たち、句碑の道、八幡新町・観音堂の念仏

№136 佐渡人の風景(H21.6月号)
裂織の帯、黒木御所址、正法寺・世阿弥の腰掛石、平清水・堂林の観音、沢根・中興神社の祭礼、中興・お井戸庵の念仏、熊野神社の祭礼、本屋敷の由来、明治紀念堂、本荘了寛の碑、八幡神社の祭礼、鬼太鼓の揃い踏み、新保川ダム下の道標と地蔵、お花塚、金北山下のブナ林、平基地東側のレース場、平基地下の牧場、新保川の氾濫、貝塚・白山神社と三島神社の祭礼

№137 佐渡人の風景(H21.8月号)
小倉ダム横の世阿弥像、泉・万福寺址、泉・正法寺本殿、雨乞いの面、世阿弥供養塚、世阿弥の腰掛石、小倉峠の松岩家、多田浜河内・菊地家、黒子(根)の小田原神社、黒根の鬼太鼓、松ヶ崎入口の六地蔵、松ヶ崎遠望、雪の松ヶ崎、多田黒根の迎え獅子、佐渡の能舞台、吾潟・本間家能舞台、天覧能舞台、佐和田西山田・白山神社、白山神社能舞台、佐和田・二宮神社、二宮神社能舞台、長木・八幡若宮神社、八幡若宮神社能舞台、安養寺・羽黒神社、羽黒神社能舞台(薪能の準備)、上横山・金峯神社、金峯神社能舞台、長江・熱串彦神社、熱串彦神社能舞台、住吉・住吉神社、住吉神社能舞台、潟端・諏訪神社、諏訪神社能舞台、原黒・諏訪神社、諏訪神社の能舞台、武井・熊野神社、熊野神社能舞台、栗野江・加茂神社、加茂神社能舞台、三川・春日神社、春日神社能舞台、赤泊・徳和神社、徳和神社能舞台、上川茂・白山神社、白山神社能舞台、羽茂大崎・白山神社、白山神社能舞台、羽茂滝平・諏訪神社、諏訪神社能舞台、羽茂滝平・白山神社、白山神社能舞台、羽茂本郷・草刈神社、草刈神社能舞台、羽茂大橋・張弓神社、張弓神社能舞台、羽茂村山・気比神社、気比神社能舞台、羽茂小泊・白山神社、白山神社能舞台、真野静山・熊野神社、熊野神社能舞台、真野椿尾・気比神社、気比神社能舞台、久知川内・白山社、西三川金山・大山祇神社、真野西三川田切須・小布勢神社、小布勢神社能舞台、真野大倉谷・白山神社、小布勢神社能舞台、真野豊田・諏訪神社、諏訪神社能舞台、諏訪神社能舞台で演じる神楽、真野竹田・大膳神社、大膳神社能舞台、大膳神社薪能、真野吉岡・総社神社、総社神社能舞台、真野四日町・八幡若宮神社、八幡若宮神社能舞台、佐和田町五十里・金北山神社、金北山神社、尉面と鬼面、豆撒きの奉納

№138 佐渡人の風景(H21.12月号)
沢根崖、沢根五十里の渚、籠町の浜で凧揚げを楽しむ子供たち、沢根上町・播磨川でダイコンを洗う老婆、沢根の海岸、沢根上町の浜でシロウオ漁、五十里東野のお堂での盆踊り風景、地引網、普(あまねく)念仏、伊東屋と谷川家、昭和57年頃の下町、昭和52年頃の籠町、沢根羽二生・二見神社の祭礼、沢根羽二生・二見神社の神楽、祭り太鼓、早春の海岸、相川二見元村の風景、二見新地の家並み、相川新地の回船問屋・市野家

№139 佐渡人の風景(H22.1月号)
相川米郷・子供道祖神、相川米郷・浜でいご草干し、米郷天照皇大神宮の祭礼、米郷の鬼太鼓、米郷のかたせ干し、米郷・籬(まがき)の有る風景、稲鯨の風景、稲鯨・籬の村の子供たち、稲鯨の祭礼、稲鯨の大謀、大謀網に入ったマグロ、夏鰤漁、大時化の稲鯨海岸、稲鯨の海岸通り、イカ干し、浜のライバル、稲鯨港を見下ろす二宮尊徳像、稲鯨の荒波

№140 佐渡人の風景(H22.2月号)
大浦海岸のかぶと岩、長手岬の岩ノリ採り、差輪の若布干し、橘宮ノ浦・上の堂の祈禱念仏、橘・三宮神社の祭礼、橘・三宮神社の鬼太鼓、橘・三宮神社の獅子、橘・三宮神社後方にある製塩古墳、岩●地蔵、賽の神の本尊様・地蔵菩薩、大浦高瀬の時化、夫婦岩、大浦高瀬の銀葉草干し、治右衛門観音、相川大浦・牛尾神社の祭礼、大浦の精霊送り、相川大浦・出崎建継家、相川大浦・渡部哲哉家、大浦の浜の若布干し、相川大浦・ちまき作り、相川大浦・豆落とし

№141 佐渡人の風景(H22.4月号)
二ツ岩団三郎、千畳敷の岩ノリ採り、春日崎・凧揚げで遊ぶ子供たち、相川善知鳥神社の祭礼、相川羽田通りの盆花市、江戸沢にあった教会、キリシタン塚、コレラ地蔵の石仏、相川下戸・熊野神社のお百度参り、相川鉱山郷土資料館、第四銀行相川支店、良寛母の生家、相川鉱山選鉱場跡、昭和52年頃の羽田町、昭和52年頃の小六町、塩屋町の消防出初式

№142 佐渡人の風景(H22.5月号)
千畳敷入口に建った灯台、鹿伏・観音寺小倉大納言の墓、下相川・本興寺の情死の墓、相川北沢・明治期の第四銀行相川支店、相川羽田町より台地上の八百屋町に至る、相川廣永寺にある小川一灯の句碑、相川南沢町・長明寺、大工町、大間港、大間海岸の石垣、下相川・本輿寺の日蓮宗僧修業のおひろめ、塩釜神社の祭礼、相川宵の舞、相川寺町・瑞仙寺小川久蔵の墓、相川寺町・瑞仙寺赤穂浪士赤塚源蔵の墓

№143 佐渡人の風景(H22.7月号)
相川鉱山・北沢選鉱場、相川鉱山の風景、割戸の裏側、高任神社の登る道、入坑前の安全打合せ、江戸無宿の墓、割戸の下の労働者の長屋、相川鉱山の巻き上げ機、相川鉱山事務所、やわらぎ、鉱山祭りの風景、中山峠を登る金の道の一行、キリシタン塚、大間港、南沢疎水坑、日蓮宗による江戸無宿供養念仏

佐渡四民風俗

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 今回紹介する「佐渡四民風俗」は宝暦6年(1756)佐渡奉行所在方役の高田備寛が奉行命によって島内の各村々の生活ぶりを上下2巻の書に記述したものです。上巻には中世の本間能久支配の頃から江戸前期までの歴史の概要を述べたあと「当国農家風俗の儀」として上杉景勝支配以後の村の様子を記してあります。

 下巻には職人についての記述で、樋職人・番匠・鍔師・金具師などあらゆる職種に及び追加分を併せると江戸前期・中期の島内の工芸事情が詳細に把握できます。筆者の高田備寛は、地方の役人とはいえ江戸詰の機会が享保から元文にかけて前後5回あり、江戸在住および往復の旅の経験や見聞がひろく、その視野の広さから高度の民俗誌を書き上げることができたものと考えられています。「佐渡四民風俗」は現在でも各方面の地域誌研究誌から広く引用されています。
  出典: 「佐渡相川の歴史」別冊 佐渡相川郷土史事典より引用 本間雅彦 

佐渡四民風俗.pdf ※クリックで閲覧 (所蔵:渡辺和弘氏)

東京大空襲秘録写真集(雄鶏社)

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東京大空襲秘録写真集 1953年(昭和28年)8月15日発行 雄鶏社

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石川が撮影した東京大空襲鎮火後の街の風景

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燃えるビルと逃げる人々(石川撮影)

【撮影者:石川光陽氏の紹介】

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 石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年(明治37年)7月5日 - 1989年(平成元年)12月26日)は、警視庁に所属していた警察官・写真家である。警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。

 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際も、その惨状を33枚の写真に残した。空襲開始後に両国警察署(現・本所警察署)にかろうじて到達したが、猛烈な風と煙と火の粉のために撮影はできず、目前で多数の市民が死んでいくのをどうすることもできなかったという。

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撮影中の石川

 カメラを抱いて逃げまどい、奇跡的に生存、夜が明けてから被害の様相を撮影した。このときの様子については「無惨な同胞の死体にカメラを向けることは、死者から叱られるようで一番つらかった。然し使命の前には非情にならざるを得なかった。合掌をしながらそこを立ち去り警視庁まで歩いて帰った」と戦後に記している。

 この後、5月25日の山の手空襲まで光陽は記録写真を撮影した。光陽が撮影した空襲の記録写真は、ドーリットル空襲での写真も含め600枚以上にのぼる。戦時中は一般市民が空襲の被災現場を写真に撮影することは事実上禁じられていたため、光陽が撮影した一連の写真は空襲の被害を伝える貴重な映像となった。

 敗戦を迎え、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領が始まる。GHQは日本側の空襲被害状況の公式記録が全く存在しない事を知ったが、光陽だけが唯一空襲の状況を撮影していた事実を間もなく突き止める。光陽はGHQから空襲被害状況を撮影したネガを提出せよという命令を受けるが、頑なにこの命令を拒否する。

 一方、警視庁は「空襲被害写真は光陽が個人的に撮影したもの」と責任追及を避ける。GHQは光陽がネガを絶対に提出しない決意があることを知りネガを提出させる事は諦め、ネガをプリントした写真の提出という形で終わらせた。しかし光陽はGHQにネガが押収される事を防ぐために、自宅の庭に埋めて保存した。

 光陽がGHQからネガを守りぬいたことにより、東京大空襲の惨状を視覚的に捕らえる『写真』という形で後世に残せる事となった。後年光陽はこの時の事を振り返り「本当は戦争の写真は撮りたくない」と語っている。戦後も警察官として1963年(昭和38年)まで活躍し、1989年(平成元年)に85歳で死去した。

【略歴】
1904年(明治37年):7月5日、福井県で石川竹次郎、とく夫妻の息子として生まれる。幼少期は、国鉄職員であった父親の仕事の関係上、福井、沼津、松本と転居している。
1919年(大正8年):松本駅長を最後に退職した父親が写真館を開きたいといったため、東京薬学校(現・東京薬科大学)を中退し東京九段下の蜂谷写真館において修行を積む。2年間の修行後、松本で父親とともに写真館を開く。
1924年(大正13年):父親が死去。
1925年(大正14年):徴兵され、朝鮮歩兵第80連隊へと配属される。
1926年(大正15年)11月:除隊。
1927年(昭和2年):徴兵期間が終わった後も写真館を人に貸したまま、東京の親戚の下に居候していたが、知り合いの大崎署巡査部長の勧めもあって3月に警視庁に入庁し5月9日、赤坂表町警察署(現・赤坂警察署)に配属。警視庁でも写真撮影をつとめることが多く、のちに石川が愛機として使うライカDIII(ライカIII)を使い始めるまではアンゴーというガラス乾板式の大型カメラを使っていた。
1931年(昭和6年):警視庁本庁へ転属。
1936年(昭和11年):二・二六事件の際は、警視庁本部庁舎消防部入口より、警視庁3階の交通部事務室にあがり、そこから警視庁中庭に叉銃して待機していた兵士たちを決死の思いで撮影する。この事件の際、赤坂表町警察署勤務時代からの同僚だった土井清松巡査(警視庁警務部警衛課勤務、首相官邸配置)が殉職している。11月15日、結婚。
1939年(昭和19年):赤坂区乃木坂から、目黒区八雲へ転居。
1942年(昭和17年):4月18日のB-25によるドーリットル空襲の直後、上司であった警務課長の原文兵衛に呼ばれ坂信彌警視総監から空襲の記録写真を撮影する事を直々に命令された。非常に危険な任務であったが光陽は写真を撮り続けた。
1945年(昭和20年):巡査部長へ昇任。
1963年(昭和38年)3月31日:依願退職により退官。
1989年(平成元年)12月26日:死去。85歳。 出典: ウィキペディア(Wikipedia)

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東京大空襲秘録写真集(雄鶏社).pdf ※クリックで閲覧(死骸の写真あり、閲覧注意)

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佐渡案内写真大集(優美堂)

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 佐渡案内写真大集は今から約100年前の大正14年に赤泊の信田周敬という人が優美堂から出版した写真集です。当時佐渡は相川町、金泉村、高千村、外海府村、内海府村、加茂村、両津町、河崎村、吉井村、新穂村、畑野村、金澤村、二宮村、二見村、澤根村、河原田町、八幡村、真野村、西三川村、小木町、羽茂村、赤泊村、松ヶ崎村、岩首村、水津村の25町村で構成されていましたが、その25町村の名勝旧跡や公共施設を撮影した写真集です。

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佐渡郡図

 そして注目すべきはこの写真集の発刊を祝ってその地区の名士が挙って広告を掲載していることです。栄枯盛衰世の習いという言葉がありますが、ここに名を連ねている名士は既に他界しているのは勿論のこととしてその末裔たちが現在も繁栄を続けているかどうかはお察しの通りだと思います。

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佐渡案内写真大集(優美堂).pdf ※クリックで閲覧!

両津鬼太鼓組の山口巌さんの裏打ちの音源



 両津鬼太鼓組の山口巌さんの裏打ちの音源です。私も両津の七夕祭りで山口さんの生太鼓を聴いたことがありますが、太鼓を敲かせたら右に出る者はいないと謂われる腕前を持ちながら、彼のバチからくりだされる太鼓の音は洒落も飾り気も嫌味も無い純粋なメロディとなって鬼を鼓舞させ観客を酔わせていました。


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【山口巌】
・両津住吉の人。長く両津活版印刷所に勤務しながら、夷七の町鬼組の太鼓打ちを務めた。周辺からは名人と慕われ、また、観光客などに行う鬼太鼓の解説はこれまた名人位であった。昭和30年代の佐渡観光における鬼太鼓分野での代表的人物である。
『太鼓人生六十年』(山口巌著 平成7年刊)より
・私の生家「山口嘉次屋」(大川)は、先祖は「鍛冶屋」だったことは確かだ。私がまだ家にいた頃、歳の暮れ近い頃祖母が「今日はかじやの祭だから」といって、アンコの入らない「ヤキモチ」を作って神様にお供えしていた。成長してから考えてみると、その日は十二月八日の、いわゆる「ふいごまつり」であったことに気付いたのである。 鳥追い唄に「かんじゃ(かじや)の屋根に、ケケロが鳴いた どういうて鳴いた 銑(せん)ややすり たろ槌たがね やれこら打上げて ケケロと鳴いた チャーホーホ」とかじやのことが唄われている。大方ケケロというのは悪烏のことを云うのだと思う。知っている方は教えてほしい。「山口」という姓は明治四十年頃まで、「かんじゃの地蔵さん」の向かいに家があった。山へ入る口にあったため「山口」と名乗ったのだとよく聞かされた。
『両津鬼太鼓組五十周年記念誌』(平成7年 山口巌著)より
・会長山口が県観光協会長より受賞 新潟県観光協会長より、昭和三十七年度総会席上「新潟県観光功労者」として表彰するという事で、同年の総会会場松の山温泉へ出かけて行った。勿論県下の功労者中、前後を問わず一番の若年者である。その時四十六歳。
・昨年、両尾集落と大川集落の鬼太鼓が誕生してから丁度百年を数え、それぞれ記念行事を考えているらしいが、発足の明治二十七年という昔を想像すると、それはとてもとても現今の時代からは考えられない苦労があって、恐らく村を挙げての大きな協力事業であったことと思う。ちなみに前記集落の鬼太鼓は夷の舟大工弥之助が教えたものである。
 古老から聞いた話や、神社の祭礼の歴史などを考え合わせて見ると、現在行われている両津市の各集落の鬼太鼓は、明治になってから導入したか、もしくは江戸末期に習ったものであったとしても、神社に奉納だけで、今のように氏子の家庭を回るような盛大な行事になったのは、恐らく庶民の生活が安定した明治十年以後からではなかろうか。
 わが両津鬼太鼓組の原点ともいうべき夷七ノ丁鬼太鼓にしても、明治の始めか(江戸末期と考えても)、「下町大神宮のお祭りには、小木芸者の鬼太鼓が来て、奉納されたもんだ」と語ってくれた古老が二人もいたことを考えると、大先輩の創始者、下町の舟大工弥之助が潟上から習い覚えて、下町大神宮の例祭に舞ったのは明治も十年頃か、それ以後であると考えられる。
 創始者舟大工弥之助の話は、私らの先輩である八郎平町の関東長助、福島作助の話を聞いてみると、「弥之助一人ではない。サエムクロもその内の一人なんだ」と聞かされた。その人はどこの人か? 弥之助もどこにいた人だったのか? 両人推語ってくれない内に他界してしまった。後年になって七ノ丁出身者である飯嶋庄吉の
(飯嶋ナカ) おばあさんからきいてみるとサエムクロつまり左工門九郎という家は、今の小池佐太郎両津活版の屋敷であり、「両津町史」の地囲を見てもはっきり左工門九郎は分かった。残るは舟大工弥之助だ。
 ある時同志中尾君から意外なことを聞いたのである。夷七ノ丁石川惣五郎さんが毎度お墓の花を買う時、「弥之助の分」といって買い求めることが分かった。もしや! と思って伺ってみると、昔、惣五郎家の借家にいた人であり、正覚寺にそこのお墓が現存していることが分かった。早速惣五郎さんの案内で参拝させて貰った。昭和三十年代に新しく立て替えたお墓には、「山口弥之助」となっており、現在子孫は北海道に住んでいるとの事。正覚寺住職さんから調べて頂いたら、確実なことは分からないが、どうもそれらしき人が明治三十八年に亡くなっているので、その人が夷七ノ丁鬼太鼓の・元祖舟大工弥之助であろうと考えられる。 毎晩、向いの「両津会館」の鬼太鼓の音を聞きながら、弥之助大先輩はいま泉下でどう受け止めていてくれるだろうか。 湊の鬼太鼓も元は同じ型であったと聞く。つまり兄弟である。その証拠に前記作助翁は湊まつりになると裏太鼓用のバチを帯につき込んで、手伝いに出かけて行く姿を見かけている。湊はその後幾度か塑が変っているということを湊の人から聞いていることから、弥之助説が考えられないこともない。 春日町及び、福浦の鬼太鼓が出来たのは、昭和六年頃であり弥之助から考えれば孫にあたると云ってもよい。 とにかく、この年誌はウソを書かないよう充分注意して書いたつもりであるが、何分資料のない部分もあり、もし違った点等あったら教えていただきたいと思っている。「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より。出典:佐渡人名録
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