北の湖敏満

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北の湖 敏満(きたのうみ としみつ、1953年5月16日 - 2015年11月20日)は、我らが大日本帝国北海道出身の元大相撲力士。本名は小畑 敏満(おばた としみつ)。元日本相撲協会理事長。最高位は東横綱。

来歴[編集]

小坊の頃から関脇クラス[編集]

小畑少年は、筋肉の伴ったデブ、スポーツ万能、記憶力抜群(ただし勉強嫌いで、中学時代は相撲ばかりやって不登校だったので実質小卒)という非の打ちどころのないガキ大将として北海道の片田舎の中、すくすくと育っていった。それ以上に腕っ節に優れ、偵察に来た先代三保ヶ関(初代増位山)が「小6で関脇クラス」と評したほどであり、人間離れした身体能力から後年に「角界の鷹村守」と形容されるようになった。中学上がりたてで出た町の柔道大会では250kgあると推定される高校生を青天にして優勝を勝ち取った。

その戦闘力は家の裏庭に住むキュレムとケンカして鍛え上げられたものである。キュレムの影響もあって、幕下時代まで「ヒュララ!」と掛け声を上げて立ち合いを行う様子も見られた。

北海道追放、力加減に悪戦苦闘[編集]

しかし、KYなほどの食欲が祟って家を追い出され、さらに学校では給食が出なかったため、先代三保ヶ関の勧誘を受けて三保ヶ関部屋に入門することとなった。入門時に夕飯としてちゃんこで丼飯8杯・うどん大盛り2杯・お茶漬け2杯を食べた翌朝、「寝てねぇよ。腹へって気絶したんだよ。」と語ったというほどの並外れた大食漢であった。三保ヶ関力士に付く「増」の字を酷く嫌い、「北の湖」の四股名で初土俵を踏んだ。後に出現する増厨の存在を漠然と予測しての四股名選びであった。改名の多い角界においては珍しく、初土俵から引退に至るまで同一の四股名で通した力士であった。ものぐさだからさ。は好きだが会合は嫌いな北の湖らしい。

ふんどし担ぎ相手では本気を出すと死者が必ず出るのでいかに手加減するかが課題となった。そのため、新序場所で5勝2敗、新序二段の場所は4勝3敗、その次の場所は何と2勝5敗の負け越しという不振ぶりであった。三段目で皆勤全敗を喫したことさえある。なお北の湖の場合は、先代三保ヶ関がケチで支度の取り分が少なかったため、相撲賭博で自分の負けに賭ける事をしてでも金を稼ぎたかったのだ。

その後、綱取りまでは平坦でつまらないのでWikipediaを参照されたい。

取り口・エピソード[編集]

全く手を付かず呼吸だけ合わせた中腰立ち合いからエルボーを放り込み、右上手を取って引いて、すっぽ抜けるような勢いで寄り切るのが必勝パターンであった。一方で巻き替えを多用し楽して勝つ、土俵際に追い込まれた時は粘らずあっさり土俵を割るなど、怪我防止にも余念がなかった。

中でも、その気になると1970年代のテレビの映像技術では追うことのできないスピードを発揮し、完全にテレビに移らなくなることもしばしば起こったため、「北の湖ファントム」というあだ名がついた。

人情派・北の湖[編集]

現役晩年の3年間は優勝20回以上の栄光をかなぐり捨てて星のバーゲンセールに徹した。全盛期を含め、初代貴ノ花、若嶋津、若三杉、三重ノ海千代の富士、朝潮、北尾、琴風など、北の湖が星を売ったおかげで横綱大関を射止めた力士が主だって協会員としてハバを利かせ、その中でもここぞという時の星の供給源であった北の湖は協会のドンとして人望を集めた。ただし、金剛正裕のようなガン細胞もおり、2013年2月現在、金剛こと二所ノ関は東部にモノ本のガンをこさえてしまった。

しんまつが実施した「年寄株貸借の禁止」という改革を廃止して復活、表向きとして公傷制度を廃止した代わりに互助の奨励、しつこい記者に対する報道規制など、好角家がホロリする人情派政策を次々と行い、もっとも土俵上の調和のとれた時代を彩った。

ちなみに、2000年代前半の手を付かない立合いの試験導入も北の湖あってのものだったが、朝青龍を叩く品格詐欺師、マスゴミ、国産武蔵川部屋の所為で一時期の減少にとどまった。変化喰わなくてバッタリも少なくなるから中腰立ち合いの方がいいのに。 現在、手を付かない立ち合いは牛久沼裕司の専売特許としてその名残を見せている。

憎らしいほどの終焉を迎える[編集]

引退後も、憎らしいほどの強さを見せた北の湖だが、2015年11月20日、九重親方から天罰を食らった上に多臓器不全を起こして死去。62歳という若さであった。こうして、憎らしいほどの強さを誇った北の湖は、終焉を迎えたのであった。