ワンカップ大関

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ワンカップ大関(-おおぜき)とは、成績の芳しくない大関以上の力士を指す蔑称の一つ。公式なものではなく、観客の間でのいわゆる隠語にあたる。

概要[編集]

大相撲では年6回の本場所を始め、花相撲など様々な「場所」が取り行われる。そこで優勝を果たした力士には、名誉と共に賞状や金一封そしてが贈られる[1]。他の正賞/副賞と異なり杯は相撲界を代表する栄誉であり、力士にとって杯の数はそのまま格の上下に繋がるのである[要出典]

各場所で杯を受ける力士は一人だが、実力さえあれば天運も味方していつかは杯を戴く日が来るのが相撲界の常識である。しかし様々な理由で、大関以上の位についておきながら一度しか最高優勝出来ないままズルズルと二番手三番手に燻る力士も中にはいる。彼らは観客から「勝負に出て怪我をするより現役時代を長くしたいのではないか」と邪推され、いつしかその手に持った杯が一つしかない事をからかわれ「ワンカップ大関」と小馬鹿にされるようになったのである[2]

歴史[編集]

千代大海龍二も看板大関の一人。

元々大関とは相撲界の最上位であり[3]実力も人気も兼ね揃えていなければならなかったが、江戸時代には既に「看板大関」という呼び名が使われていた記録がある[要出典]。これは「人気取りの為に形だけ置かれた、名ばかり大関」という意味合いであるが、同じく江戸の時期に「なはまわし(=縄廻し)」と書かれた相撲取りの錦絵が流行している。「(当時居酒屋を「縄のれん」と呼んでいた事から)縄を廻しにした、酒びたりのボンクラ力士」と馬鹿にした言い回しであり、彼らは三枚目キャラクター[4]としては人気だったようだが相撲取りとしては格下扱いになっていた。

このように江戸時代の力士はパフォーマー的な人気を得る道もあったのだが、時代が下って精神性を重視されるようになるとこういったお笑い要素は消えていき、このようなフレーズは単に蔑称としてのみ使われるようになった。ちなみにワンカップ大関という呼び名は戦後に入ってからのものだが、戦前からこういった力士を「十合酒大関(とござけおおぜき)[5]」と呼んでいたという記録がある。

脚注[編集]

  1. ^ 天皇賜杯や内閣総理大臣杯など。
  2. ^ 一度も優勝していない力士の場合はまだ「晩成型」「まだ先がある」と応援を受けるものの、なまじ優勝経験があると「盛りを過ぎた」「手抜きを覚えた」などとマイナスのイメージが付きまとう。
  3. ^ かつて横綱は名誉階級で、現役力士が就くものではなかった。
  4. ^ 当時の相撲はショー的な意味合いも強く、さほど強く無くても観客に支持されていた。江戸川柳には「一年を 二十日で暮らす いい男」など彼らが支持者のポケットマネーで生活を保証されていた事を思わせる物がいくつもある。
  5. ^ 十合とは一升、つまり「一勝しか出来ない」という意味。

関連項目[編集]