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2022.08.29
こんな女に誰がした
https://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7ag
戦地従軍看護婦だった女が、帰国後「夜の女」として生きるわが身を嘆いた歌。
題名「こんな女に誰がした」にGHQがクレーム、「星の流れに」となった。

日本民族の母系遺伝子ミトコンドリアdnaは16種とその他6%余り多様である。
日本人の父系遺伝子Y染色体dnaはD1a2a(縄文系・約35%)、O1b2(渡来系倭人・約30%)、O2(渡来系漢族・約20%)、C1a1(縄文系・約5%)の4系統で90%、他にC2(モンゴル系)、N(ウラル系)、O1a(台湾南洋系)、O1b1(東南アジア系)等。
日本人男性の持つy染色体遺伝子の多様性も世界的に珍しいとか。
父系遺伝子が多様とは男の皆殺しが少なく夫々が子孫を残せたことである。
世界的には優勢種族の父系遺伝子だけが拡がり劣勢種族の父系遺伝子は残らない。
南米では先住民の父系遺伝子は略失われ、欧州人の父系遺伝子で占められる。
欧州人の子種を受けることで生きた先住民女性の母系遺伝子は各地に残される。
そう意味で日本列島の先住民・縄文人は許容性があり、渡来人男女を受け入れた。
それでも、男が消えて女が残された跡が上の円グラフから見て取れる。
父系y遺伝子の倍を超える母系mt遺伝子の種類である。
遺伝子検査の資料を参考に各母系の故地を調べてみると以下の通り。
遺伝子Dは、35%以上で日本人最大のグループで支那中部が起源とされる。
東アジア集団を特徴づけるグループで「稲作の民」として 弥生時代に到来。
遺伝子Dの当初合い方(夫)のy遺伝子はO1b2(渡来系倭人・約30%)であろう。
遺伝子Bは、支那南部が起源とされ日本人の約13%が該当。私の母系。
ハワイや太平洋の島々からマダガスカル島、南米大陸まで分布する。
日本列島には縄文時代に南方からやってきて縄文人遺伝子になった。
Bの当初合い方のy遺伝子はO1a(台湾南洋系)。母系は繁栄するが父系は激減。
遺伝子Mは、海底に沈んだ「スンダランド」起源とされ、日本人の約13%が該当。
M7a(7%強)は日本人独特の集団で、3万年位前に南方から日本へ来て縄文人に。
M7aの当初合い方のy遺伝子はC1a1(縄文系・約5%)。
M8aは、日本人の約1%が該当、大陸で歴史を築いた「漢民族」のグループだとか。
漢族系のy遺伝子はO2で約20%、M8aの十倍。漢族男はしっかり女M8aよりD女を好んだか。
遺伝子Gは、日本人の約7%が該当し満洲辺りが起源でシベリアなど北部地域に多い。
日本には支那経由で弥生人になったのとシベリア方面からやってきた集団があるようだ。
当初合い方のy遺伝子はN(ウラル系)か縄文人・アイヌ人(D1a2a)。
遺伝子Aは、シベリアが起源とされ日本人の約7%が該当。シベリアのマンモスハンター。
東アジアからアメリカ大陸まで広く分布、日本には比較的古い時代に来たようだ。
当初合い方のy遺伝子はC2(モンゴル系、3%)かD1a2a(縄文人)、それとも消えたか。
遺伝子N9は、ユーラシア北部が起源でカムチャツカ半島や北東アジアに分布。
日本人の約7%が該当。日本には古い時代にやってきて縄文人になったグループと、
比較的新しい時代にやってきてオホーツク文化を形成したグループがいるという。
N9a遺伝子の当初合い方は縄文人かNかCか、他は消えたようだ。
遺伝子N9b(2,2%)は日本独自の女性遺伝子、縄文男性の当初妻だが何故か少ない。
遺伝子Fは、東南アジアが起源とされ日本人の約5%が該当。
東南アジアで最も多いが、それ以外にはあまり拡がっていないのが特徴。
当初合い方のy遺伝子は恐らく東南アジアに多いO1b1と想定も日本では殆ど消えた。
遺伝子Zは、満州北部が起源とされ日本人の約1%が該当、シベリア各地へ分布。
北欧の一部にも拡がるアジアでは珍しいグループ。ロシア軍のZとは無関係。
当初合い方のy遺伝子はN(ウラル系、2%)、フィンランド人y遺伝子の多くがN。
父系と母系の割合のミスマッチに気付く、父系が消え母系だけ残る遺伝子が半数。
部族の男を失くした女は他族の男へ、しかし他族にも他族の女がいた。つらい話。
言葉も仕来りも他族のそれに従い、それを自分が産んだ自族の子にも教える。
もちろん他族の男の子種で産んだ子は他族の言葉仕来りで子育てをする。
自分の夫や父であった自族男の言葉や仕来りは孫娘には伝わらない。
自分の部族の言葉や生活は部族の男と共に忘れられて歴史から消えていく。
縄文文化と倭語は縄文人のD1a2aとC1a1がつくり、渡来系O1b2が同化したようだ。
列島で当初の合い方を失くした女は暮らしの場を見つけて倭族に収斂してゆく。
「こんな女に誰がした」という女の思いも歴史の奥に埋もれていったのであろう。

上の図は遺伝子の研究で人類の母系遺伝子が分析・系列化されたもの。
日本人の母系遺伝子はアジア集団のM系と欧州集団へ向かうN・R系が混在。
下の図はその経路、地図上で白い部分の海は2万年前までは陸地であった部分。
黄海や東シナ海は陸地で、日本列島はあっても朝鮮半島というものはなかった。

私の母系はB4型、広い海洋を渡った酋長の娘、日本列島で部族の男は絶えても娘は残った。
娘たちは4・5千年前頃に縄文男の女になり娘を産み、私の母妹までB4女の母系の血を繋いだ。
私の母・妹は死去、妹の子は男二人だったので数千年繋いだ女の血は途絶えた。
それにしても母系B4と父系O1aの男女比率に私は太平洋のロマンが目に浮かぶ。
戦地従軍看護婦だった女が、帰国後「夜の女」として生きるわが身を嘆いた歌。
題名「こんな女に誰がした」にGHQがクレーム、「星の流れに」となった。

日本民族の母系遺伝子ミトコンドリアdnaは16種とその他6%余り多様である。
日本人の父系遺伝子Y染色体dnaはD1a2a(縄文系・約35%)、O1b2(渡来系倭人・約30%)、O2(渡来系漢族・約20%)、C1a1(縄文系・約5%)の4系統で90%、他にC2(モンゴル系)、N(ウラル系)、O1a(台湾南洋系)、O1b1(東南アジア系)等。
日本人男性の持つy染色体遺伝子の多様性も世界的に珍しいとか。
父系遺伝子が多様とは男の皆殺しが少なく夫々が子孫を残せたことである。
世界的には優勢種族の父系遺伝子だけが拡がり劣勢種族の父系遺伝子は残らない。
南米では先住民の父系遺伝子は略失われ、欧州人の父系遺伝子で占められる。
欧州人の子種を受けることで生きた先住民女性の母系遺伝子は各地に残される。
そう意味で日本列島の先住民・縄文人は許容性があり、渡来人男女を受け入れた。
それでも、男が消えて女が残された跡が上の円グラフから見て取れる。
父系y遺伝子の倍を超える母系mt遺伝子の種類である。
遺伝子検査の資料を参考に各母系の故地を調べてみると以下の通り。
遺伝子Dは、35%以上で日本人最大のグループで支那中部が起源とされる。
東アジア集団を特徴づけるグループで「稲作の民」として 弥生時代に到来。
遺伝子Dの当初合い方(夫)のy遺伝子はO1b2(渡来系倭人・約30%)であろう。
遺伝子Bは、支那南部が起源とされ日本人の約13%が該当。私の母系。
ハワイや太平洋の島々からマダガスカル島、南米大陸まで分布する。
日本列島には縄文時代に南方からやってきて縄文人遺伝子になった。
Bの当初合い方のy遺伝子はO1a(台湾南洋系)。母系は繁栄するが父系は激減。
遺伝子Mは、海底に沈んだ「スンダランド」起源とされ、日本人の約13%が該当。
M7a(7%強)は日本人独特の集団で、3万年位前に南方から日本へ来て縄文人に。
M7aの当初合い方のy遺伝子はC1a1(縄文系・約5%)。
M8aは、日本人の約1%が該当、大陸で歴史を築いた「漢民族」のグループだとか。
漢族系のy遺伝子はO2で約20%、M8aの十倍。漢族男はしっかり女M8aよりD女を好んだか。
遺伝子Gは、日本人の約7%が該当し満洲辺りが起源でシベリアなど北部地域に多い。
日本には支那経由で弥生人になったのとシベリア方面からやってきた集団があるようだ。
当初合い方のy遺伝子はN(ウラル系)か縄文人・アイヌ人(D1a2a)。
遺伝子Aは、シベリアが起源とされ日本人の約7%が該当。シベリアのマンモスハンター。
東アジアからアメリカ大陸まで広く分布、日本には比較的古い時代に来たようだ。
当初合い方のy遺伝子はC2(モンゴル系、3%)かD1a2a(縄文人)、それとも消えたか。
遺伝子N9は、ユーラシア北部が起源でカムチャツカ半島や北東アジアに分布。
日本人の約7%が該当。日本には古い時代にやってきて縄文人になったグループと、
比較的新しい時代にやってきてオホーツク文化を形成したグループがいるという。
N9a遺伝子の当初合い方は縄文人かNかCか、他は消えたようだ。
遺伝子N9b(2,2%)は日本独自の女性遺伝子、縄文男性の当初妻だが何故か少ない。
遺伝子Fは、東南アジアが起源とされ日本人の約5%が該当。
東南アジアで最も多いが、それ以外にはあまり拡がっていないのが特徴。
当初合い方のy遺伝子は恐らく東南アジアに多いO1b1と想定も日本では殆ど消えた。
遺伝子Zは、満州北部が起源とされ日本人の約1%が該当、シベリア各地へ分布。
北欧の一部にも拡がるアジアでは珍しいグループ。ロシア軍のZとは無関係。
当初合い方のy遺伝子はN(ウラル系、2%)、フィンランド人y遺伝子の多くがN。
父系と母系の割合のミスマッチに気付く、父系が消え母系だけ残る遺伝子が半数。
部族の男を失くした女は他族の男へ、しかし他族にも他族の女がいた。つらい話。
言葉も仕来りも他族のそれに従い、それを自分が産んだ自族の子にも教える。
もちろん他族の男の子種で産んだ子は他族の言葉仕来りで子育てをする。
自分の夫や父であった自族男の言葉や仕来りは孫娘には伝わらない。
自分の部族の言葉や生活は部族の男と共に忘れられて歴史から消えていく。
縄文文化と倭語は縄文人のD1a2aとC1a1がつくり、渡来系O1b2が同化したようだ。
列島で当初の合い方を失くした女は暮らしの場を見つけて倭族に収斂してゆく。
「こんな女に誰がした」という女の思いも歴史の奥に埋もれていったのであろう。

上の図は遺伝子の研究で人類の母系遺伝子が分析・系列化されたもの。
日本人の母系遺伝子はアジア集団のM系と欧州集団へ向かうN・R系が混在。
下の図はその経路、地図上で白い部分の海は2万年前までは陸地であった部分。
黄海や東シナ海は陸地で、日本列島はあっても朝鮮半島というものはなかった。

私の母系はB4型、広い海洋を渡った酋長の娘、日本列島で部族の男は絶えても娘は残った。
娘たちは4・5千年前頃に縄文男の女になり娘を産み、私の母妹までB4女の母系の血を繋いだ。
私の母・妹は死去、妹の子は男二人だったので数千年繋いだ女の血は途絶えた。
それにしても母系B4と父系O1aの男女比率に私は太平洋のロマンが目に浮かぶ。
2022.08.28
ヘイト・ナオト

沖縄伊江島にある伊江島守備隊長・井川正少佐の墓(戦後二階級特進で大佐)。享年39歳。
昭和20年4月16日、伊江島に上陸した米軍6千と日本軍守備隊350応集兵300の戦い。
>米軍の戦史はいう。「伊江島では慶良間の場合と違って、日本軍は多くの民間人をも戦闘に投入した。それらのなかには乳飲み子を背負ったままの婦人も含まれていた。住民たちは、死ぬと知りながらも斬り込み隊員となり、竹ヤリ、手投げ弾、爆薬箱をかかえて米軍陣地に突入し、同島防衛の一翼をになった」と。だが、その犠牲は大きかった。米軍は、死体を点検してはじめて軍人とばかり思っていたのが、じつは非戦闘員が日本の軍服を着ていたのだとわかった。中には、米軍の軍服を着た者までいたという。<
これは琉球新報の記事、日本軍と日本のことを悪く云うのが使命と心得る人たちの記事である。
私が女の竹ヤリ突撃の史実を知ったのは伊江島の戦い。2月にウクライナがらみで記事に。
http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-2005.html
そしてもう一つ知ったのは、島民が建てたという井川守備隊長の墓の存在である。
この墓は伊江島の観光案内にも載せられている。島民は井川隊長を恨まず敬愛している証。
千島列島の占守島の戦いと琉球列島の伊江島の戦いは私の頭の中で連結している。
民族の女と男の在り方。民族の男は民族の女を守り、女は民族の男の子供を産み育てる。
民族の女を守るために命を懸けた占守島の日本軍守備隊の男たち。
民族の男と共に米軍へ竹槍や地雷で肉弾突撃をした伊江島の女たち。
今日8月25日は沖縄知事選の告知日、現職で「オール沖縄」の玉城デニー氏が立候補。
彼の父は米兵で母は伊江島の女、母が付けた「デニー」という通名で日本を悪く云うのが売り。
彼の経歴や話ぶりからは優れた見識の持ち主とは思えないが沖縄人からは人気者とか。
実は沖縄人の遺伝子は男女共に日本で最も多くの縄文遺伝子を受け継いでいる。
男系y遺伝子D1a2a、女系mt遺伝子M7aは日本人独特遺伝子で男女共に沖縄が最高値。
私は伊江島の女、デニーの母親が自らの意思で米兵の子種を受けたことに違和感を持つ。
彼女は、伊江島で日本を守るために米軍と戦い死んだ日本兵や島民を何と思っているのか。
彼女が付けた「デニー」の名を好む沖縄人なら、いっそ独立してほしい。もう日本人ではない。
私が偏見を持つ選挙地があと二つある。岡山の参院選挙地と東京杉並区長選。
外人の子種を受けた日本の女が生んだ「合いの子」を参議院議員にした岡山県。
外人の子種で産んだ「合いの子」と外人亭主を持つ女を区長に選んだ杉並区。
「デニー」を知事に選んだ沖縄住民と同じく、この二つの地の住民は訳ワカメ。
私の姓名は「イタニナオト」。ヘイトではなく、ナオトの主観である。
2022.08.27
差別語

「合鴨・アイガモ」を使った水田農法。雑草や虫を駆除するとか。
鴨とアヒルの「合いの子」、「合いの子・混血児」が悪く「ハーフ子」なら良いとは意味不明。
前職場「イズミ」の会長は二年前に亡くなった。潜水空母といわれた伊400の乗組員だった。
ウルシーで敗戦を迎え、8月30日横須賀港に帰港。9月15日に会長は横須賀で除隊。
横須賀の街の光景に会長は愕然としたという。米兵と腕を組んで歩く日本女性を見たのだ。
会長は「この時、日本が負けたと知った」と語る。敗戦一か月で米兵と日本の女がである。
奈良にも進駐軍のパンパン宿が出現し、私が中学の頃には小学校に「合いの子」がいた。
「パン助の子」は差別語。日本の女が「パン助」になったのは日本の男が負けた所為。
「合いの子・混血児」は「ハーフ」と呼ばれ芸能界やテレビ、今や政界でも持て囃される。
私には「合いの子」を持て囃す日本人の神経が分からない。日本が負けた証なのに。
人類史上、民族と民族の遭遇では女を得た方が上位で女を渡した方が下位。
例外は縄文期の日本列島だけ。戦闘の跡がなく男女の遺伝子がそれなりに今に残る。

「黒人差別」と騒がれたカルピスの宣伝広告。アホラシ。
これが白肌の金髪碧眼少女だったら「白人差別」と騒ぐのであろうか。
私は碧眼の黒人は見たことがないが「抱っこちゃん」も差別騒ぎになった。
「大坂なおみ」のCM画像、肌の色が黒いとの差別騒ぎ。ある連中たちのアホ騒ぎだ。

韓国最大発行部数の新聞「朝鮮日報」。日本へは「朝鮮」は差別語と騒ぐのだが・・。
「朝鮮」は国名にも地名にも使用される語と私は認知。「朝鮮」を差別語と認識していない。
「朝鮮人」にも差別意識はない。私の弟の女房は在日だったし、私の仕事の合い方も在日。
小学校の頃からも在日の子と仲よく遊んでいたし、彼らが北鮮へ帰るのを悲しく見送った。
但し、半島や在日の人には差別ではないが注意が必要と私はみている。
それは「嘘と裏切り」、私の友人も半島や在日の人に嘘や裏切りにあったりしている。
「恨・はん」の思想が根付いたのが民族性・民族意識であれば気の毒である。

「支那そば」に載っている「竹」という意味で「シナチク」と呼ぶとは俗説。
支那の麻竹なので支那竹(しなちく)が本来語。支那が差別用語とかでメンマに。
麺(メン)に載せる麻竹(マチク)というトンチ、日本人は「中華ちく」と呼ばなかった。
日本人のいう「支那」とは歴史を刻んだ東亜地域のことで、国名や王朝名ではない。
文明の「華」の中にいる漢民族が歴史的に果たす使命との思い込みが「中華思想」。
憐れな周辺蛮族に施しを恵んでやる「華夷の別」を持つ有意語で明快な差別用語。
私が中学高校で習ったのは「支那事変」であり「朝鮮戦争」であった。何処がおかしい?
差別用語とは「他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、
侮蔑・抹殺する暴力性のある言葉」云々は正しいが差別批判の一人歩きは間違い。
「差別語」とまくしたて、無条件で相手を威嚇し、自利行為へ繋ぐ連中は許しがたい。
まま、今夜は合鴨鍋に支那チクと朝鮮漬け、そして黒ビールとするか。
2022.08.23
女を守る

母船式独航船とは母船ともに出漁して漁獲を行い、それを母船に売り渡す小型漁船。
北洋のサケ・マス漁業、カニ漁業などでみられる。捕鯨船団ではキャッチボート。
昭和20年8月、千島列島最北端の占守島では日魯漁業の缶詰工場が稼動していた。
漁業関係者の総数は2,000人を超え、そしてその中に女子工員4百人余りがいた。
8月18日午前2時過ぎにソ連軍が占守島を攻撃、海岸へ上陸して来た。
日本は8月15日に連合軍のポツダム宣言を受諾し降伏した後の話である。
ソ連は日ソ不可侵条約を反故、原爆投下3日後の8月9日に満洲へ侵攻、日本婦人を凌辱。
それを知る北方軍91師団の参謀長は決意した。
「このままでは、女子工員たちは必ずソ連軍に陵辱され被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返さなければならない。」
占守島には第五方面軍91師団の8千5百の守備隊、満洲から転進した戦車十一連隊もいた。
後に士魂戦車隊と呼ばれたその戦いぶりは池田末男戦車連隊長の名と共に有名である。
反撃を決意した91師団占守島守備隊はソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰める。
戦闘での日本軍死者256名、負傷者762名、ソ連軍死者約2,000名、負傷者約1,000名。
第91師団は18日16時半、女子工員全員を23隻の30tの小さな独航船で脱出させる。
第91師団のもとに、女子工員たちが北海道へ無事に着いたと連絡が届いたのは22日。
91師団の将兵は喜んだが、8月21日に第五方面軍司令部から停戦命令が届く。
武装解除された師団の将兵と日露漁業や民間人男性2万5千人がシベリア抑留に。
そして移動や抑留の果てに死んだ(殺された)のは1万人を超えたという。
彼らは民族の女を守るために命を賭して戦うのがその民族の男であると教えてくれた。

8月18日16時半、4百名余りの女子工員を乗せた23隻の独航船(30t)が占守島を出港。
迫りくるソ連軍からの避航、途中一隻が難破し20名の女子工員がソ連軍に拿捕される。
22隻の独航船は8月22日に北海道へ着く、4百人余りの女子工員の安堵や喜びは如何に。
2022.08.19
東大筑波大の学者はん

日経サイエンス編集部発表2021年6月23日の記事から。
東大筑波大の都道府県別ゲノムデータを解析したとして解説する研究者の弁。
>大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと思われるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく,近畿地方や四国地方に,より多くの割合の渡来人が流入したのかもしれない。本研究によって,47都道府県間の遺伝的な近縁関係が明らかとなった。しかし,大きな疑問が残っている。渡来人との混血時、8万人程度の縄文人が日本列島に住んでおり,その居住域は日本列島全域にわたっていた。海を渡ってきた渡来人が優勢になることなどあるのであろうか?日本人の集団史に興味は尽きない。<
私は思う、この研究者たち解析結果に泡を食ったのであろう、狼狽えた解説の弁である。
彼等は弥生人と稲作文化は朝鮮半島から日本列島に入ったという旧来学説への執着。
稲米の遺伝子研究では支那から日本そして朝鮮へ伝わったことが解明されているのに。
人のy遺伝子研究でも先のブログで紹介した通りO1b2の移動経路は日本列島から朝鮮へ。
日経の資料では避難者は支那東岸から朝鮮半島経由で九州へとなっている。違うであろう。
満洲や朝鮮半島は低温乾燥地。稲作文化の民は稲作に適した場所を求めたハズ。
大陸と九州が近かった2万年前と違って、沿岸の海流に乗って四国・紀伊半島へも。
似た緯度の西日本梅雨地帯に稲作民が広がるのは道理、先住民とも融合したであろう。
まま、神武東征神話の原型として記紀に伝えられたとは思い過ぎか・・。
南九州の縄文人・熊襲は古来よそ者を受け付けない気性を持つ。江戸時代の薩摩藩同様。
稲米と人は朝鮮半島経由と思い込んだ学者には解析データの結果が意味不明で困惑しきり。
「大きな疑問が残っている・・略・・日本人の集団史に興味は尽きない。」とか話をそらす。
データ解析の解説にはなっていない。
2022.08.18
我がルーツ

刻目突帯文(きざみめとったいもん)土器。縄文式から弥生式へ移行する縄文時代最後の土器。
最古の刻目突帯文土器の出現場所は沿海州南部で担い手はy染色体遺伝子O1b2の人々だとか。
次の図はO1b2の分布、満州南東部と日本列島そして朝鮮半島東部と南部の分布密度が濃い。

日本人のY染色体はD1a2a(縄文系・約35%)、O1b2(渡来倭人系・約30%)、O2(渡来漢族系・約20%)の3系統で85%、他にC1a1(縄文系)、C2(モンゴル系)、N(ウラル系)、O1a(台湾南洋系)、O1b1(東南アジア系)等、日本人のy染色体遺伝子の多様さは世界的にも珍しいという。(異種男性を殺さず受け入れて来た証)
私の遺伝子検査結果はO1b2、揚子江辺りから稲作文化と共に渡来した弥生系倭人と記される。
一説では満州東部沿海州南部辺りが故地で刻目突帯文土器と共に朝鮮半島や日本列島へとも。
この説は土器形態と分布密度からの推定であろうが、稲作文化の担い手とするには無理筋。
私が思うにO1b2の日本列島への渡来は二度に亘ってあったのではということ。
O1b2の発生は3万年位前の東アジアという。この時期の黄海・東シナ海には陸地が伸びる。
沖縄・九州と支那大陸との距離は今より随分と近くなっており、渡り易かったのである。
故にO1b2の一部は日本列島へも渡ったであろう。先住の縄文人とも交流があったはず。
O1b2の多くは支那大陸の東部に住み、やがて揚子江流域で稲作文化を生み出した。
そこへO2漢族集団が進出して来てO1b2集団を駆逐、O1b2は日本列島へ避難。(緯度が近い)
縄文人に溶け込んでいた先発集団は避難民を受容、これが稲作文化を伝えた弥生系倭人。
避難時期は3・4千年位前の頃で列島先住者縄文人の言葉に添い倭語を形成した。
東大の都道府県資料に弥生系倭人の遺伝子が最も多いのは九州でなく奈良県とあった。
下はウキペディアのO1b2の列島渡来の図式、恐らくは一次渡来を示すものであろう。
朝鮮半島には2万年前から8千年前位まで人のいない空白の歴史があったという。
図の他にも朝鮮半島の北や西から人が入ったろうが、y遺伝子はN,O2,C2の人と思う。

家伝・家系図とは何であろうか。我が家は宇多天皇に繋がる佐々木源氏と聞いていた。
であれば、y染色体遺伝子ハプログループは皇統の血筋に繋がるD1a2aであるはず。
何処かで養子、或いは母系の不義密通とも考えさせられる私の遺伝子検査の結果。
誤魔化しの効かぬ我が母系mt遺伝子は南洋系のB4c、懐かしい歌声が聞こえる。
♪私のラバさん、酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人 踊れおどれ どぶろく呑んで♪
どうも 貞節ではなさそう・・。
2022.08.14
クンタ・キンテ

アメリカという国家の黒人奴隷の問題を真っ正面から描いたテレビドラマ「ルーツ」。
西アフリカのガンビアで生まれた黒人少年クンタ・キンテ親子三代の黒人奴隷の物語。
昭和52年(1977)8日連続の放映で全米視聴率45%、社会現象と言える大反響を呼ぶ。
同年に日本でも放映され、瀬戸内海放送では36.8%とネット局中で最高視聴率を記録。
日本語版が放送された際は、トヨタ自動車と日産自動車が同時にスポンサーになる。
そして日本でも「ルーツ」が流行語となり自分のルーツ探しが流行った。私もその一人。
最近は遺伝子研究が進み、遺伝子検査によってルーツが判るとか。私も検査をした。
先日その検査結果を見た。父系Y染色体遺伝子O1b2、母系ミトコンドリア遺伝子B4c。
母型遺伝子B4cは台湾から南下しマレー人種やポリネシア人種になった女性たち。
この女性たちは4・5千年前の縄文人にその遺伝子を残している。つまり何処かで通婚。
父系遺伝子の話は次に置き、ドラマ「ルーツ」に戻る。
私はこのドラマで初めて知り得たのは「自由」という概念である。
つまり英語でいうフリーダム(freedom)とリバティ(liberty)の違いである。
自分の行動は自分が決める自由・フリーダムと不自由から解放される自由・リバティ。
我が好き勝手にする自由の概念は判るが、束縛からの自由や掴み取る自由と云われても・・。
とくに宗教からの内面の自由とか云われるとその感覚が理解出来なかった。
調べて知ったのはフリーダムは古ゲルマン語でリバティはラテン語という語源の違い。
それが「ルーツ」を観て束縛からの自由・掴み取る自由の何たるかが教えられた気がした。
まま、今の日本のリベラル派を称する人たちの顔には「クンタ・キンテ」の顔が被さらない。
2022.08.13
大石先生

すもも。名前は確か「大石早生」であったと思う。福島県の大石俊雄氏の改良品種。
6月20日のブログ「すもももももももも」を書いた時にイオンで購入し写したもの。
映画「二十四の瞳」のことを記事にしてから「すもも」の写真を思い出した。
「大石早生」の品種発表は昭和27年、同年には壷井栄が小説「二十四の瞳」を発表。
私が感じた奇遇は「大石」、「二十四の瞳」の主人公である女先生の名は「大石久子」。
つまり、大石先生。私の恩師は保育園から高校1年まで略全て女先生であった。
私は走馬灯を巡らし恩師の名と顔を思い出してみた。
宇陀の保育園・梅田先生、綺麗なお姉さんであった。
小学校入学時は久保先生、眼鏡をした男先生だったが一学期だけで私は吉野へ。
吉野大淀第三小学校、1年2学期から3年1学期まで中村先生、やさしい女先生だった。
奈良の小学校3年2学期から3学期が八代先生、おばちゃん先生だったが今思うと50歳位。
小学校4.5.6年は龍見先生、私は忘れ物が一番多くていつも叱られ立たされた。
中学校は10学級で女先生は一人、私の学級で木枝先生。なぜか私は3年間持ち上がり。
木枝先生は3年の夏にご主人と米国へ、2.3学期は男の学年主任が兼務。名前が出ない。
高校は13学級あり1学級だけが女先生で私はその学級、独身で数学担当だった治田先生。
治田先生はヤンチャの多い学校へ転勤になると、早速に少林寺拳法を習い始めた豪の人。
私が教えを受けた女先生は全て「大石先生」であった。もう皆さんは泉下の人。
私を叱ってくれたり、褒めてくれたりする人はもうこの世に居ないということ。
「仰げば尊し」を口ずさみ、感謝と共に冥福を祈る。忘れないように先生の名前を記した。
2022.08.11
仰げば尊し

先日の早朝映画は「二十四の瞳」。高峰秀子が女先生役、映画音楽は「仰げば尊し」。
昭和29年の公開映画。国民の感動を集め何度も上映され、私も親に連れられて観た。
最初は今一つ意味が分からなかったが、中学高校そして成人して作品が理解出来て来た。
近代日本の音楽教育者だった伊沢修二の編纂した「小学校唱歌」に明治17年発表された歌。
長らく作曲者不明とされていたが研究者が、その原曲らしき楽曲を見つけたという。
明治4年(1871)に米国で出版された楽譜「Song for the Close of School」という楽曲。
米国ではこの曲を歌うことも演奏することなく、埋もれたままになっているとか。
そういう意味では、楽曲を米国で目にして日本に持ち帰り編集した伊沢の作。
つまり日本の唱歌である。それが最近では日本の卒業式では歌われなくなっている。
理由は「言葉が古風」「教師賛美は時代に合わない」云々とか先生や教育団体の弁。
代りに「旅立ちの日」「贈る言葉」「さくら」「夢待列車」等々、楽しく前を向く歌だとか。
私は違うと思う。楽しく前を向くのは入学式、静かに回想し感謝するのが卒業式。
違和感を覚えていたが、台湾の卒業式では「仰げば尊し」が歌われていると知る。
YouTubeで調べるとあった。昔の日本が台湾に残されていた。
今も台湾で歌い継がれる「仰げば尊し」の歌曲「青青校樹」。
https://www.youtube.com/watch?v=pWi93tYxXz4
https://www.youtube.com/watch?v=z5GPnvVEDzU&t=48s
2022.08.09
ミャンマー国軍の歌
https://www.youtube.com/watch?v=GAMKGw5g3L8
今お騒がせのミャンマー国軍、国軍の歌は日本の「軍艦マーチ」の曲。
陶芸家の後輩らが低血糖で倒れた私をブログで知り見舞いに来てくれた。
低血糖対策として中元に貰った酒・焼酎や東郷ビールを飲むことにした。
まま、後輩らも一緒に飲んでくれて最近の世の中談義となった。
終戦日が近付き、早朝の映画番組は「戦場に架ける橋」だったことを話題にした。
タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道建設に日本軍と英軍捕虜・タイ人・ビルマ人が労務。
映画は日本軍の低能ぶりや土木技術の未熟ぶりを強調し小馬鹿する話である。
続編ともいえる「猿の惑星」では日本軍がゴリラ・チンパンジー・オランウータンに描かれる。
「将軍」や「ラストサムライ」では武士の妻が白人男に身を任すという有得ない場面を描く。
それらの映画が日本で人気を得ることへの不思議、違和感を話す。
私が欧米の映画に日本映画が及ばないところは「音楽」であると云うと後輩らは同感。
音楽で私が思い出したのは中学3年の運動会。私は放送部だったので曲の選定をしていた。
入場行進曲に軍艦行進曲を選定、部長先生にそれを云うと先生は「軍歌はアカン」。
教師が選定したのは「錨を上げて」。私は云う「錨を上げてはアメリカ海軍の軍歌や」。
部長先生は30歳位の独身英語教師で私の話を無視。それから私は英語が嫌いになった。
東郷ビールの酔いもあって思い出した話だが、ついでに思い出したのがミャンマー国軍の歌。
ミャンマー国軍はビルマ独立義勇軍が元、先の戦争で日本軍と共にビルマ戦線で英軍と戦った。
日本軍が劣勢になると英軍側に立ち日本軍を攻撃、攻撃日の3月27日はミャンマー国軍記念日。
そして「ミャンマー国軍の歌」は日本の軍艦行進曲・軍艦マーチの曲。訳分らん。
今お騒がせのミャンマー国軍、国軍の歌は日本の「軍艦マーチ」の曲。
陶芸家の後輩らが低血糖で倒れた私をブログで知り見舞いに来てくれた。
低血糖対策として中元に貰った酒・焼酎や東郷ビールを飲むことにした。
まま、後輩らも一緒に飲んでくれて最近の世の中談義となった。
終戦日が近付き、早朝の映画番組は「戦場に架ける橋」だったことを話題にした。
タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道建設に日本軍と英軍捕虜・タイ人・ビルマ人が労務。
映画は日本軍の低能ぶりや土木技術の未熟ぶりを強調し小馬鹿する話である。
続編ともいえる「猿の惑星」では日本軍がゴリラ・チンパンジー・オランウータンに描かれる。
「将軍」や「ラストサムライ」では武士の妻が白人男に身を任すという有得ない場面を描く。
それらの映画が日本で人気を得ることへの不思議、違和感を話す。
私が欧米の映画に日本映画が及ばないところは「音楽」であると云うと後輩らは同感。
音楽で私が思い出したのは中学3年の運動会。私は放送部だったので曲の選定をしていた。
入場行進曲に軍艦行進曲を選定、部長先生にそれを云うと先生は「軍歌はアカン」。
教師が選定したのは「錨を上げて」。私は云う「錨を上げてはアメリカ海軍の軍歌や」。
部長先生は30歳位の独身英語教師で私の話を無視。それから私は英語が嫌いになった。
東郷ビールの酔いもあって思い出した話だが、ついでに思い出したのがミャンマー国軍の歌。
ミャンマー国軍はビルマ独立義勇軍が元、先の戦争で日本軍と共にビルマ戦線で英軍と戦った。
日本軍が劣勢になると英軍側に立ち日本軍を攻撃、攻撃日の3月27日はミャンマー国軍記念日。
そして「ミャンマー国軍の歌」は日本の軍艦行進曲・軍艦マーチの曲。訳分らん。
2022.08.02
手拭で汗を拭った時代

孫息子が通う保育園の雑巾掛けの場景。半分ぐらいの園児は帰宅しており少人数。
昨日11時過ぎのこと、娘から電話が入り保育園へ孫を迎えに行ってほしいと云う。
午後一番で行くと云うと、コロナで休園になり給食も無しと云うのですぐ出掛けた。
即対応出来ない親もあり、残っている園児が掃き掃除と雑巾掛けをしていた。
学童が教室の掃除をする姿は日本では一般的だが世界的には珍しいという。
思うに、日々の掃除や給食係、遠足・運動会や吹奏会なんぞは日本独特の子供教育かと。
私は日本国民の民度育成の土壌と思っているが、反日を信条とする教育者は反対らしい。
孫を娘宅へ連れ帰る途中で私は体に変調を覚える。汗をかき出し痺れが来た、低血糖症状。
来る前にインシュリン注射をしていたことを忘れていた、食べ掛けた稲荷を食べずに来たのだ。
娘宅でバナナを食しジュースを飲み横たわる。孫に「手拭いを水に濡らしてきて」と頼む。
孫「テヌグイってなに」、私「大きなフキンや」、孫「タオルやけど」、私「それでエエ」。
タオル地である。腰に木綿地手拭いをぶら下げて汗を拭ったのは、「サイダーの泡の向こう」。
床の「雑巾掛け」は消えずに欲しい。床の「モップ掛け」では床への愛着が薄れるだろう。
2022.08.01
辞世

吉野十津川村の上野地と谷瀬を繋ぐ「谷瀬のつり橋」。
昭和29年に架けられた、長さ297m、高さ54mの生活用としては日本一長い吊り橋。
以前は谷を下り、丸木橋を渡って対岸の斜面を這い上がらなければならなかった。
丸木橋は洪水の度に流され、その都度谷瀬の人は架け直した。
教員の初任給が7800円の時代に谷瀬の人々が1戸当たり20~30万円を出し合う。
住民が工費の8割を担って800万円もの大つり橋を完成させた。悲願の「村道」だった。
全村民が士族となる十津川郷は日本初の共和制を生み出した自力自助の村である。
明治22年に大水害が発生し、被災者は北海道へ渡り新十津川村を開拓した話は有名。
平成23年にも十津川村は豪雨で大きな被害を受け、新十津川町がいち早く「母村」支援。
その翌年、故人と前ブログの我々の四人は神武東征路を巡るため熊野から吉野へ入る。
熊野川は吉野で西は十津川、東は北山川に分かれるが神武の道は北山川沿いである。
それが十津川村経由という皆の意向で雨の山道を駆けたが土砂崩れで通行止めだった。
仕方なく十津川沿いへ引き返し吉野川で出て、北山川へ向かう逆神武東征路巡りとなった。
三年前に亡くなった御仁はあちこちの歴史巡りを楽しむ和歌山医大出身の開業医だった。
御仁は患者を大切にする郷土愛の強い医師で休みにはバス停のペンキ塗りなんぞをした。
その御仁が残したという、五七七の辞世の言葉を昨日教えられた。
「 サイダーの 泡の向こうの 少年時代 」。
この言葉、私は知っていた。
メールの遣り取りをしていた故人の文中にあり、故人と話をした記憶が残る。
その人の人生はその人が今際の際に何を思うかで判るという。
御仁の今際の際に浮かんだのはこの言葉通りの光景だったのであろう。
改めて故人の冥福を祈る。故人は「谷瀬のつり橋」に感動を覚えていた。
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