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昭和42年の全日本柔道選手権で中量級の岡野功が一本背負いで優勝。
岡野は昭和39年東京オリンピックの柔道中量級で金メタルを獲得している。
東京オリンピックには柔道が採用され軽量・中量・重量・無差別の四階級制であった。
軽中重の三階級は日本選手が順当に優勝、しかし日本人の関心は無差別級にあった。
無差別級は179㌢102㌔の神永昭夫が198㌢120㌔のオランダのヘーシンクに負けた。
日本中はショックを受け、他の三階級で金の日本選手も涙。この時の光景は私も記憶する。
「小よく大を制す、柔よく剛を制すが柔道」と信じる岡野は無差別級への挑戦意欲をもった。
三年後の42年、全日本柔道選手権大会に出場し重量級選手達を倒して優勝。私は感動した。
今日の13時半からBSで全日本柔道選手権大会の放映がある。焼酎と肴を置いて待つ。
なんせ、60kg級金メダリストの高藤直寿、73kg級で2連覇の大野将平が出場する。
私は保育園の頃から自分の体が小さいことに劣等感を持っていた。
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地図にあるモスクワの上(北)サンクトペテルブルクとストックホルムの間がフィンランド。
イスタンブールの字がウクライナ。ロシアを挟み日本と最も近い欧州がこの二国と分かる。
プーチンはウクライナのNATO加入を阻止するつもりがフィンランドのNATO加入を招いた。
私は朝餉が4時、昼餉が10時、夕餉が16時、自然就眠が19時前後という日常である。
折々投稿がある廃医師はんは夜行性、時たま20時頃に電話があり22時過ぎまで雑談。
先日はフィンランド人の話、欧州にあって言語とY染色体遺伝子が東北アジアに源流をもつ。
民族間の接触、征服や同化では言語とY染色体(男性遺伝子)は優位民族のものが残る。
支配的立場の民族が被支配的立場の民族の女と食物を得て自分の遺伝子と言語を残す。
フィンランド人は金髪碧眼が多く、女性のミトコンドリア遺伝子は周囲の欧州人と同様。
フィンランド人のY染色体遺伝子Nは2万年位前にNOから分化したNでシベリア民族と同様。
シベリア民族も言語はウラル語系だが、近来はロシア語に侵食されウラル語系話者は激減。
分化したOはシナから東南アジアに分布、言語はシナチベット語系で話者数は世界最大級。
ウラル語系に似るアルタイ語系の話者は蒙古人トルコ人満州人等でY染色体はC、Nとは別系。
朝鮮人の遺伝子はOが多数でCが少数だが言語はCのアルタイ系に近い、つまり支配者はC。
さて日本人、Y染色体はホモサピエンス出アフリカ以来のDが主体で縄文人の遺伝子を継ぐ。
縄文人が伊豆神津島で黒曜石をとったのが三万八千年前、列島へ4万年前には来ている。
縄文人の遺伝子にはCが少々あるが、弥生以降にはシナや朝鮮からOも入って来ている。
そんな日本人の遺伝子にNが見つかり青森では7,7%を占める。三内丸山縄文遺跡がある。
とか何とか、博覧強記の廃医師はんは夜行型で益々冴えるが早寝早起き型の私は頭が霞む。

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東郷ビール。フィンランドでの発売は1970年。今は(株)日本ビールが製造販売している。
よって日露戦争とは無関係、だが親日フィンランドの証と誤解する日本人が多い。
ロシアがフィンランドに侵攻すると、東郷ビールが売れるであろう。
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.ボルシチを煮た。イタリアンパセリ・ビーツ・紅黄パブリカ・キャベツ・人参・ジャガイモ。
牛尻尾や鶏肉は鍋底、私には味が今一、孫の好みでニンニクも唐辛子も入れていない。
「まった負けたか8連隊」は大阪第8連隊の揶揄、それが上方の男は弱い例えとなる。
私の母親は山口の軍港・徳山の人、大戦時に二十代であった母は空襲警報の誘導員。
丈夫な男は戦地という今のウクライナ同様、女子供や老人を避難させるのが任務。
ある時、避難させた防空壕の一番奥に兵隊さんが先に入っていた。話しを聞いて啞然。
「怖おますな、えらいことだす、どないしまひょ」、母はそれ以来上方男を軽蔑した。
その母が海軍の特攻隊であった奈良出身の父と一緒になり私を産むのだから話はエエ加減。
湾岸戦争、クウェート開放に約130億ドル(約1兆5500億円)の破格の資金を支援した日本。
しかし、クウェートが世界に向け掲載した感謝広告の感謝国30国に日本は入ってなかった。
そして先日のウクライナが出した支援国31国への感謝広告にも日本の名はなかった。
更に、ウクライナ政府は昭和天皇とヒトラー・ムッソリーニの顔写真を並べた動画を出した。
それを1ヶ月間放置したのは日本の外務省。外交センスというか外交の基本概念がおかしい。
「まった負けたか8連隊」とは、ド付き合いの戦いを知らない日本の政治家や外務官僚をいう。
やはり、ニンニク・唐辛子を入れないボルシチはコサックや騎馬民族の戦いの味が出ない。
2022.04.26 ボルシチ
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ビーツの缶詰と牛の尻尾肉。政造はんの「ボルシチ」を作るためである。
ビーツを赤カブと思っていた私は青果売り場で探して店員に聞くと違っていた。
実はホウレン草と同じ科に属するもので、和名では火焔菜(カエンサイ)と云うとか。
そして生野菜では売ってないが輸入缶詰なら売っているというので買うて来た。
孫たちのコロナ寛解でボルシチを作ってやろうとレシピを調べたのである。
確かにウクライナ発祥の料理ではあるが東欧各地の郷土料理でもあるという。
思い出したのがハンガリーの旅、名物スープの味が記憶に残る。
「ヨーロッパ旅日記Ⅻ」。http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-484.html
モンゴル軍が伝えた料理と聞いたが確かに旨かった。ボルシチの一種だったのであろう。
食べるのは明日だが、今から牛尻尾を煮込むことにする。子供の為に香辛料は控えめで。

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ついでに果物売り場に行くと、色々なリンゴの種類が並んでいたが紅玉や国光は無かった。
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木曜日に糖尿医院へ行く途中でミモザが咲き誇っていた。国際婦人日のシンボル花という。
東向き商店街の骨董屋の隣は何時からか「ダイソー」という百円ショップになっている。
奈良市内にも単独店やテナント店として何店舗か出店しているのを見かけるようになった。
「ダイソー」の社名は「大創産業」で未上場企業、上場企業の「ダイソー」は大阪の化学会社。
ややこしいので大創、本社は広島で創業社長は矢野 博丈、旧姓・栗原五郎、昭和18年生。
大創はご存じ百円ショップのトップ企業として国内三千店余り海外二千店余りを展開する。
百円ショップとは量販店の催事名で六尺売台を数本並べて行う百円均一販売の百均が原点。
百均の売台販売が固定のコーナー販売・ショップ販売となって百円ショップ業態が確立した。
私が広島の量販店企業「イズミ」にいた頃の想い出に「矢野さん夫婦」がある。
私が店長や階長をしていた店に矢野さん夫婦が百均商品を軽トラックに積んで運んでいた。
店の売台を貸すのだが私も手伝ってセットすると次に夫婦二人で商品を売台に並べた。
百均だから値札の必要がないしレジも不要、そこそこに売れたというか百均ファンがいた。
閉店前には残った商品を段ボールに詰め軽トラに積んで帰るというパターンであった。
旦那は律儀な働き者という人で、奥さんもコマめによく動き旦那を助けていた。
イズミを退職して私は夫婦のことを忘れていたが、十数年前から百円ショップの名を耳にした。
その「ダイソー」の社長があの矢野さんと知ったのは数年前、次男がイズミにいるとも聞いた。
更に、あの奥さんとは離婚したと聞き複雑な思いになった。先般、次男が二代目社長に就任。
長男は今奈良県立医大の微生物感染症学教授だとか。
まま、個人情報云々の昨今ではあるが、あの奥さんの姿がミモザの花に重なる。
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近鉄奈良駅近くの東向き商店街にある骨董屋と百円ショップ「ダイソー」。
私には懐かしい想い出が浮かんだ。
骨董屋の店主は十年近く前に他界されている。独特の雰囲気をもった人だった。
入っても店内には人が居らす、客の気配で奥の部屋から顔を出し帳場に座る。
帳場に座っても客を見ようともせず声もかけない。
時々行っていた私は品のことを聞くと的確に答えてくれて奥にある物も見せてくれた。
そして「これ要るか」と裏から使われた跡のある消耗品の露地草履を出して来た。
骨董品は消耗品とは違う、最近は誰の作と柄杓や茶筅に能書きを云う者が居る云々。
道理である。私は茶人が亡くなって引き取ったという草履や柄杓・和傘なんかを貰った。
この骨董屋は外人客が多く、「彼らには能書き不要、値段だけ」と笑った店主が想い出。
ダイソーの想い出は続編とする。

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高畑から元興寺界隈への通りは公納堂(くのうどう)という奈良最初の商店街だった。
地名の由来は元興寺禅定院の公納所がこの辺りにあったことに因むらしい。
南都七大寺でも最も古く飛鳥から移されて来たのが元興寺。境内は商業の中心地になっていた。
高畑は春日大社の神職が住む場所であったが同時に奈良・東山中との出入口でもあった。
祖父が子供の頃に聞いたという話では、山中から高畑に出て来て物品の売り買い交換云々。
高畑には市が立ったらしい。故に高畑から元興寺境内までの街区は今でいう場外市場。
今も古びた店舗や佇みが残るので隠れた観光スポットになっているらしい。

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公納堂へ向かう通りにある今西清兵衛商店。造り酒屋は三輪の杉玉を吊るす。
店の隣は重要文化財指定の今西家書院、数年前に此処で茶会を催したのが想い出。

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元興寺から三条通りへの街区は餅飯殿(もちいどの)町と呼ばれ奈良一番の商店街であった。
元興寺境内の界隈は最近「奈良町」と呼ばれ観光化しているが正式地名でなく観光俗称。
奈良町奉行は奈良町の奉行ではなく、奈良の町奉行。「奈良町」にムカついた想い出がある。
新幹線の車内掲示に「行こう奈良町、奈良の小京都」、私は「こ奴等らアホか」と呟いた。

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三条通りから近鉄奈良駅までは東向き町と呼び今は餅飯殿町を凌ぐ商店街になっている。
通りの東側は興福寺境内であって建物不可、よって建物は東向きの通りだったとか云々。
近鉄奈良駅から奈良女子大(奉行所跡)へ向かう通りを花芝商店街と云ったが今は東向北町。
そこに婦人服店があり店主は日本犬保存会の人で私に白黒の斑の紀州犬を呉れた。
紀州犬は白か黒でないと品評されないので持て余した子犬を血統書付きで私が貰ったのだ。
高校一年の時、婦人服店は餅飯殿町へ支店を出すことになり私は準備の手伝いに行った。
何と、裸体のマネキンを花芝商店街から東向き商店街を通り餅飯殿商店街まで運ばされた。
マネキンと云えども女性の裸体。それをそのまま抱いて三つの商店街を三往復であった。
人目が集まり視線が痛い、私は知り合いに出会わないようにマネキンに顔を隠して歩いた。
男子にならまだしも、女子に出会うのは最悪と焦って歩いたのが商店街の私の想い出。
今日は看板の上に居たツバクロと視線が合った。

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昨日も西大寺駅南口から百円均一バスの「ぐるっとバス」に乗り春日大社まで出た。
今回の想い出巡りは「ささやきの小径」から「高畑町」、それから近鉄奈良駅への順路。
春日大社正殿から二の鳥居へ出ると若い雌鹿が石碑でたむろ。様になっていた。

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二の鳥居から「飛び火野」の東を高畑町まで抜ける禰宜道は春日原始林の佇まい。
高畑町は春日大社の神職(禰宜)の住まいがあった処で、禰宜道は云わば通勤路。
禰宜道は三通りあり、山手側から「上の禰宜道」、「中の禰宜道」、「下の禰宜道」である。
緩やかな「下の禰宜道」は「ささやきの小径」との通名があり、男女がささやき歩く小径。
云わばデートコース、私の想い出は高校二年生の時、残念ながら女の子とのデートではない。
我が校の男女二人がこの小径で他校の男子たちからカツアゲを受けたという話である。
被害者の男子生徒は私も顔見知りで、犯人たちの高校には私の中学の悪仲間もいた。
悪仲間に云うと犯人を特定、悪仲間が「始末をつけるから教師に云わんでやってくれ」。
我が校の男子被害者は了解。悪仲間に締められた犯人たちは詫びを入れ返金、和睦。
今、小径を歩き私は思う、教師に伝えて学校問題にするより、生徒間解決で良かったと。
更に思う、私には女子とデートという高校時代の想い出を残せなかったのが悔やまれると。

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「ささやきの小径」を高畑に抜けるところで「志賀直哉旧居」との矢印がある。

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「志賀直哉旧居」。大正時代に奈良に居た志賀直哉は高畑に自ら設計した邸宅を持った。
彼の本を読み旧居も訪れたが志賀は敗戦後に日本の国語をフランス語にと主張したとか。
その話を聞いてから志賀への熱は冷めた。
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クリミア半島アゾフ海の都市マリウポリでロシア軍は抵抗勢力に最後通牒を突き付けた。
抵抗勢力の多くは元義勇兵の国家親衛隊・アゾフ大隊であり、ロシアの最後通牒を拒否。
ウクライナ首相もウクライナは降伏をしないと言明、これはアゾフ大隊に死ねというもの
アゾフ大隊隊長の死守言明なら兎も角、国の首相が死守言明するのは如何なものか。
マリウポリ陥落後のロシア軍は工業都市・ドニプロ(ドニエプロペトロフスク)攻略へ向かう。
親日家のドニプロ市長が日本の取材に応じ語った。「覚悟していたので準備は出来ている」。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000250059.html
ドニプロには二次大戦後に日本軍捕虜が抑留されていた。その元捕虜の池田清治さんの話。
・・・製鉄工場は、ウクライナ人の男女も働いていた。独ソ戦で戦ったドイツ兵捕虜には厳しかったが、日本人には好意的に接してくれた。
・・・悲惨な戦争を許すことはできない。対日戦争に参加したソ連当局やソ連兵に恨みや憎しみはある。だがウクライナ人には一切ない。

マリウポリの市民には、日本から何も出来ないが生き延びてもらい度。
先のブログで書いた殺害された飼い主を待ち続けるウクライナの秋田犬。
気になっていたが、保護されたとのネットニュースがありホッとした。
秋田犬をウクライナに送ったという人も心配していたようだがひとまず安心。
ウクライナの「ハチ公」、新しい保護者に赤いチャンチャンコを着せられていた。
渋谷の「忠犬ハチ公」の話は世界的に知られているようでその恩恵であろう。
まま良かった。
https://youtu.be/n4w4QDzxQcM?t=184
2022.04.16 豚まん
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西大寺近鉄百貨店開店5分後の551蓬莱の売場。もう行列ができていた。
昨日は保育園へ通う下の孫を迎えに行く予定だったが朝に娘から電話があった。
小学生の上の孫娘がコロナになり孫三人とも休ませて自宅待機という。
曰く、娘も含めて「濃厚接触者」は外出も自粛とかであった。
食事は冷蔵庫にあるもので適当に済ますと云うので孫を電話に呼び食べたいものを訊く。
すると、孫の曰く「豚まんと餃子」。前に持って行ったのを覚えていたらしい。
早速に10時の開店を待ち百貨店へ行ったのだが、すでに行列が出来ていたという次第。
順番待ちの間に20年前の東京での場面を思い出した。「豚まん肉まん」の話である。
私が「豚まん」と云うと「肉まんのことですね」と聞き返す社員がいたので私は云うた。
「豚肉は豚まん、牛肉なら肉まん、すき肉というたら牛、豚肉をすき肉とは云わんやろ」。
するとその社員「こっちではすき焼きで豚肉もあります」周りに居た他の社員も肯いている。
私は社員を集め云った「目をつむって聞け、人の家ですき焼きをご馳走になると想像せい」。
続けた「出る肉は牛か豚か、牛が出た方がええと思う者は挙手」、すると全員手を挙げた。
最初に云い出した社員も手を挙げたので、私「ほら見ろ、肉云うたら牛や、豚は肉と云わん」。
社員皆が何とも言えぬ顔で私を見ていたことを思い出した。論理に難があったかもしれんが・・
娘宅へ行くと下の孫娘が玄関に出て来て云う「豚まんの臭いがする」、健全に育っている。
私は家の中に入らずに、玄関で豚まん・餃子・焼売・甘酢団子・ちまきを渡して帰った。


2022.04.14 逃亡者
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百貨店の植え込みの躑躅(ツツジ)。蕾みが開き出している。
躑躅と書くのは難解な漢字であるが漢語は「てきちょく」と読むらしい。
躑躅(てきちょく)には、「行っては止まる」や「躊躇」などの意味があるという。
ウクライナから日本へ来る避難民がテレビでも放映され話題となっている。
今朝のニュースでみた避難民の30代夫婦に私は違和感を覚えた。
知り合った日本人夫婦に救援を求め支援を受けて来日したという。
その30代の男性は糖尿病なので国防軍に入隊せずに済んだらしい。
その彼曰く「日本に来て安心した」「静かで安全で嬉しい」云々であった。
私も父親から継いだ由緒正しい遺伝性糖尿患者で。40年余り治療を続けている。
糖尿病で運動に差し障ることや自覚症状とかはない。相撲や野球等の運動選手も多い。
つまり、兵士として国防軍に参加できる体だ。十分に国と家族・民族を守り戦える。
女房と日本に逃げて「安心じゃ嬉しいじゃ」と云う前に「祖国に申し訳ない」と云うのが先。
日本人はお人好しの世話好きが多いが、祖国防衛から逃げ出した男は本国送還すべし。
躑躅(てきちょく)、戦場へ向かうのを躊躇し逃げた男はロシア兵に殺された女子供を見よ。
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国鉄奈良駅から近鉄油坂駅のあった処を歩いてみた。
奈良市総合観光案内所、建物は二代目旧国鉄奈良駅舎で昭和9年の建築物。
平成16年に今の「JR奈良駅」の場所から北東18mへ曳家(建築物を解体せず移動)。
私は今のJR奈良駅には愛着がない。私の国鉄奈良駅は旧駅舎である。残こされて嬉しい。

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昭和40年頃の写真。同級生は国鉄関西線や桜井線から国鉄奈良駅へ来ての徒歩登校。
私の家は近かったが、下校時は友人と奈良駅まで一緒に歩き見送ることが多かった。
当時の国鉄奈良駅は奈良県の交通の要所で県内のバス路線は国鉄奈良駅が起点。

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近鉄線との連結は油坂駅、今回歩いてみると300歩だが油坂駅はなくなりホテルがあった。
油坂駅は近鉄利用者が下車、国鉄組と共に商店街を歩くが他校生も多く緊張感を覚えた。
下の写真は私が知る昔の油坂駅。近鉄奈良駅から路面電車が通り油坂駅で高架線となる。

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路面電車が通っていた場所の今の風景である。今はこの道の地下を近鉄線が通っている。
https://www.youtube.com/watch?v=tC9Z8axcoMs
今日のネットニュースでキーウ州マカリウの「ウクライナの忠犬ハチ公」が報道された。
ロシヤ兵に暴行され殺害された女性飼い主の帰りを一か月待ち続ける秋田犬である。
日本犬は飼い主に忠誠を尽くす故に、それが仇になるかもという私の懸念であった。
3月23日の私の記事「忠犬の不幸」、ウクライナのオデーサに行った秋田犬が被る。
占領地でのロシア兵の婦女への暴行凌辱は「慟哭の満州」として日本人に知られている。
ロシア兵に占領され降伏すればどうなるか、橋下徹は解っていないようだ。
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雪消しの沢。春日大社一の鳥居の横から飛び火野へ入る処にある「水溜まり」である。
奈良観光で誰もが目する処ながら名所として記憶されない名所であろう。
雪景色の飛び火野でここだけが伏流水で水溜まりとなり雪を消しているという。
「春くれば 雪消の澤に 袖たれて まだうらわかき 若菜をそつむ」と古歌に詠われる。
私も高校生の頃まで単なる「水溜まり」としての記憶しかなかった。
その高校生の頃の想い出は、ここから参道を少し上がった処で相撲をとったこと。
12月18日の春日御祭りの奉納相撲である。その頃の冬は今より寒く雪も降る。
焚火にあたるなんぞ許されなかった。褌一本の裸で寒さに耐えた記憶が残る。

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雪消しの沢の反対、一の鳥居の北側にある公衆便所。昔は此処に車屋の小屋があった。
この便所と同じような設いで外壁には人力車の大きな車輪が飾られていた。
今の観光人力車ではない、一の鳥居から国鉄奈良駅までの三条通りをむすぶ実用の足。
実は春日の参道は一の鳥居からではなく、国鉄奈良駅からの三条通りを含めた参道である。
云えば「三条通り」ならぬ「参道通り」、まま、解説説明が入用な笑えん洒落である。
実用の人力車が無くなって数十年、近頃は東大寺南大門辺りに観光人力車が屯している。
そこには「無法松の一生」の姿は無い。車夫も客も観光気分の世界。実用は便所になった。
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大仏殿の裏から正倉院へ向かう道筋。小中学の写生会でよく来たがイノシシは見なんだ。
西大寺駅北口より先に出来た南口広場から運行する「ぐるっとパス」を知った。
西大寺駅から朱雀門広場・市庁・県庁・東大寺・春日大社を巡回する百円バスである。
昨日早速に乗ってみた。半時間で東大寺南大門へ到着。暫し漫歩と下車した。

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大仏殿裏手から二月堂へ向かう道。一番好きな奈良の道を聞かれると私は此処と答える。

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二月堂へ上がった奥手にある二月堂茶所、無料休憩所となっているが昔は茶やうどんが出た。
中はひんやりとした無人の伽藍堂となっており、その日はご婦人一人が休憩中だった。

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二月堂の回廊から大仏殿越しに見る奈良の町と生駒山。お水取りで松明が駆け巡る場所である。
昔思った、「日本沈没」が現実となれば私は奈良の最後をここで見納め運命を共にしたいと。

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南大門と大仏殿の間にある東大寺総合文化センター。一階は「金鐘ホール」。
「金鐘」の名に私は苦い思い出がある。私の小学生の頃は此処に「青々中学」があった。
「青々中学」の前身は東大寺の前身・金鐘寺の名をとった「金鐘中学」で私の父親の母校。
父親の勧めもあり私はこの場所で中学受験、落ちた。苦い思いが残る場所である。
後日「青々中学」は高校を併設し「東大寺学園」と校名を変えて郊外へ移転した。
2022.04.10 想い出巡り
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奈良女子高等師範であった奈良女子大学の正門。奈良奉行所の跡にある。
愛犬ハナが死んでもうすぐ二年。ハナとの朝夕の散歩が私の唯一の運動であった。
運動不足の私に医者から「歩け」と云われ、奈良の想い出巡りを一念発起。
昨日はバスで小中学校の校区へ向かい「法連中町」で下車、奈良女子大界隈を歩いた。
子どもの頃に奈良女子大は才女が集まると聞かされ、羨望の目で見ていた思いが残る。
旧制高等師範学校は全国で男女2校づつあり、日本の教育を担う最高学府であった。
男子は東京と広島、今の筑波大学と広島大学で今は男女共学の一般大学になっている。
女子の最高学府であった御茶の水女子大学と奈良女子大学は今も女子大学である。
防衛大学も女子学生を受け入れているが国立のこの両女子大は男子禁制。
吉野の霊峰・大峰山は今も女人禁制を続けており、多くの女性から非難を受けている。
ジェンダーフリーを叫ぶ女性が女子大の男子禁制に反対運動をしている話は聞かない。

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女子大の南通りにある「豊住書店」。奈良の歴史や謂れの本を集めた書店で有名。
此処の三男坊が私と同い歳で、大阪芸大からフランス留学を経て陶芸家として活躍。
創業が1867年創業とされるが、実際は1816年から出版業をしていた日本最古の書店。
それが店主が亡くなり去年の10月末で閉店したという。享年85歳。陶芸家の長兄である。
長兄は有楽流の茶人で、その師匠はお会いしてないが私が心の師としている御仁であった。


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「MY TAKO」、裏道にあるタコ焼き屋。タコ風船がぶら下がっている。
表通りから殆ど見えない。私は買い物にこの裏道を通るので時々寄る。
広島出身の女性が一人でやっており、前の経営者から引き継いで二年とか。
広島と云うことで話をするようになったが、ここにもウクライナ戦争が影響する。
粉と油が値上りし、タコも高くなったのでタコ焼きの原価が上がったという。
確かにロシアとウクライナは小麦の供給元、しかし食用油は石油とは違う。
ましてタコの値上りとは何?調べると東京豊洲市場のタコ相場急騰とあった。
輸入冷凍煮ダコの価格・2020年12月: 1,922円/1kg⇒2021年12月: 2,867円/1kg。
国産 活タコの価格・2020年12月: 1,432円1kg⇒2021年12月: 2,287円1kg。
原因の根本は不漁で品不足だが輸入冷凍物が国産生物より高いのは珍しい。
米中摩擦とコロナによる港湾作業員不足で滞留コンテナ運送費急騰でタコも急騰。
女性店主は云う「粉は減らすことが出来ないのでタコを小さくして原価を抑えようか」。
私は思った「タコ味を落して原価を抑えるより、タコ味を維持して価格を上げる方が良い」。
タコ味こそタコ焼きである。私はそれを云うことは出来なかった。経営者は彼女。
昨日、店を覗くと一割値上げになっていた(^^)。
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教育委員会の一言で近鉄西大寺駅北口の駅前広場拡張工事が止まった。
昭和63年4月に都市計画決定、紆余曲折を経て本年度末に完成予定であった。
奈良は何処を掘っても遺跡が出る。特に予算編成時期には遺跡発見が多い。
学者先生と工事関係者、そして政治家の思惑が錯綜して落し処が決まる。
まま、私の生きている間に完成広場を見せてもらいたいもの。
近鉄大和西大寺駅北口駅前広場の完成予想図(市提供)↓
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2022.04.04 しょんがえ節
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梅の名所・月ケ瀬の桃香野(ももがの)。写真左が梅の花で上が桜の花。
ここの梅の実は桃のように美味とかで名付けられた地名が「桃香野」。紛らわしい。
茶で使う香に梅香というのがあり、比較的安価でよく使われているのにと思う次第。
明治期に流行ったお座敷小唄、江戸端唄(はうた)の「しょんがえ節」が口に出た。
♪梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳ャなよなよ風次第 山吹や浮気で 色ばっかり♪

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昨日、娘から花見がてら墓参りに行こうと連絡が入ったので朝風呂に入って待った。
小雨そぼ降る道を娘の車で柳生へ向ったが山中に入ると桜は未だ7分咲ぐらいであった。
孫たちと共に墓参を終えると娘が「お父さんの誕生祝いにこの先の月ケ瀬温泉へ行こう」。
私は朝風呂にしっかり浸かって来たとも云えず、老いては子に従えと付いて行った。
免許を無くしてから月ケ瀬へ来ることはなかったが、今回は梅と桜の花見となった次第。
孫息子と共に着替え室へ行くと壁に大きな張り紙があり「沐浴」ならぬ「黙浴」、初耳である。
まま、室内・露天・展望温泉と浸かってゆっくり鼻歌気分で孫に聞かす♪梅は咲いたか~。
孫息子が云う「声出したらアカン」、黙って浸かり上ると朝風呂もあり私はふらつく始末。
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風呂屋の横から見た裏手の煙突。この風呂屋は二年ほど前に廃業したらしい。
奈良三条通りのそば処「かえる庵」に入る横道を抜けた一筋南側の通りにある。
前に大阪の座禅会に来ていた広島の友人とこの風呂屋で汗を流して「かえる庵」へ行った。
富士山が描かれた昔ながらの風呂場で湯は少し熱めだがその分湯上りが心地よかった。
番台横には冷えたラムネやミルクセーキが置いてあり扇風機の風を受けながら味わった。
懐かしい昭和レトロを残す場所だったのにと茶友であると「かえる庵」の庵主に話した。
庵主が云うには、煙突の煙が風向きによって臭いを漂わせ近隣から苦情が出ていたとか。
思うにその風呂屋、歴史は半世紀以上はあろうに、今更のような近隣の苦情である。
思い起こしたのは私の小学校の同級生の家、養豚場をやっていて周りは田畑であった。
時の流れでその田畑は住宅地に替わり、新興住宅民から臭いの苦情が出て養豚場は廃業。
まま、養豚場の用地は住宅地として売れて同級生の家は収支決算が良かったと聞く。
ところが、お寺を継いだ同級生が話した地域住民の苦情には首を傾げた。
除夜の鐘がうるさいという苦情である。確かに除夜の鐘は深夜0時が相場、ずらせない。
これまた寺の方が先住だが後からの住民が寺の鐘に騒音苦情を云うとは。
幼稚園の近くに越して来た老人が園児の声が騒がしいと苦情を云い出た話も聞いた。
台湾の蔡英文総統が就任後に台湾憲法に「原住民族の権利」を明記したという。
台湾では先住民は差別用語、原住民なら可とか云々、余計な話まで思い出した次第。