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2018.11.29
イネ科穀類の栽培種

よく垂れた稲穂である。しかし実というか種はこぼれ落ちない。
種子が成熟にともなって、穂や莢(さや)から自然に離れ落ちるのを脱粒性、
イネ科穀類の栽培種のように種子が落ちないのを非脱粒性というらしい。
つまり今の人類の主食として農栽培されている米や麦である。
米麦の栽培とは野生種の種子を採集し、さらにそれを播種→収穫を繰り返す。
その過程で野生種の中から非脱粒性のものを選択栽培し続けた結果だという。
この話は植物栽培を趣味とする知人の南都塗師から聞いて私は初めて知った。
日本の漆芸は縄文遺跡から約9000年前の漆芸品が出ているとか。
揚子江下流の河姆渡遺跡で発掘された漆椀(約6200年前)よりも古いという。
彼我の漆のDNAが違っており日本の漆芸は日本列島独自のもので渡来でないとも。
縄文遺跡の周辺には漆木の栽培や漆液を取る道具や工房の後があるとか。
最近の植物学会では縄文早期の1万年前のイネのプラントオパールが発見された云々。
つまり、世界最古の土器と磨製石器、それに米の栽培と漆芸品、縄文文明はすごい云々。
彼のその話を聞いて、縄文人の米の栽培への執念とは飢餓への恐怖かとも思えた。
今の米は種もみ1粒から500粒の収穫が計れるという。もみ5粒でお椀一杯である。
縄文人と縄文文明の恩恵に感謝である。もちろん塗師の彼も感謝の念は大。
2018.11.26
監獄ホテルだとか・・
この23日に「監獄ホテル」の着工式典があった。
山下貴司法相の式辞「旧奈良監獄は随所に工夫を凝らした設計や意匠性の高さから、監獄の近代化の集大成だったと言われている。地域の皆さまに親しまれる施設を目指して事業を進める」と述べた。
明治28年に国際水準の監獄として煉瓦造りの東京巣鴨監獄が完成。
明治32年に五大監獄(千葉・長崎・金沢・鹿児島・奈良)の改修計画が決定される。
明治41年に煉瓦造りの奈良監獄が完成。監獄法公布。
二次大戦後の奈良監獄は少年刑務所として運営される。
そして平成28年3月、その108年の歴史を閉じた。
29年2月、煉瓦造りを中心とする建築物が重要文化財に指定される。
東京駅丸の内駅舎や旧富山製糸工場を超える我が国最大の煉瓦建築面積を持つ。
実はこの監獄、少年刑務所は私の母校・若草中学のすぐ近くにあった。
悪ガキが多いことで有名だった我が母校の教師のブラック冗句。
「中学卒業して、すぐに隣へ行くことはないぞ」とか何とか笑えぬ話。
23・24・25日は一般見学会が開かれたので、私も行って見た。

奈良監獄入口。見学者で賑わっていた。

いわゆる塀の内側である。時々刑務所工房の作品販売会を開催していた。

少年刑務所時代の講堂のカーテン。

独房の覗き窓と飯の差し入れ口。便所の始末はどうしていたのかと考えた。

奈良監獄クラフトビールというのがあって、見ていると説明者から酎ハイをもらった。
中学の恩師をホスピスに見舞った後のこと、ついついアレコレと昔を思った次第。
山下貴司法相の式辞「旧奈良監獄は随所に工夫を凝らした設計や意匠性の高さから、監獄の近代化の集大成だったと言われている。地域の皆さまに親しまれる施設を目指して事業を進める」と述べた。
明治28年に国際水準の監獄として煉瓦造りの東京巣鴨監獄が完成。
明治32年に五大監獄(千葉・長崎・金沢・鹿児島・奈良)の改修計画が決定される。
明治41年に煉瓦造りの奈良監獄が完成。監獄法公布。
二次大戦後の奈良監獄は少年刑務所として運営される。
そして平成28年3月、その108年の歴史を閉じた。
29年2月、煉瓦造りを中心とする建築物が重要文化財に指定される。
東京駅丸の内駅舎や旧富山製糸工場を超える我が国最大の煉瓦建築面積を持つ。
実はこの監獄、少年刑務所は私の母校・若草中学のすぐ近くにあった。
悪ガキが多いことで有名だった我が母校の教師のブラック冗句。
「中学卒業して、すぐに隣へ行くことはないぞ」とか何とか笑えぬ話。
23・24・25日は一般見学会が開かれたので、私も行って見た。

奈良監獄入口。見学者で賑わっていた。

いわゆる塀の内側である。時々刑務所工房の作品販売会を開催していた。

少年刑務所時代の講堂のカーテン。

独房の覗き窓と飯の差し入れ口。便所の始末はどうしていたのかと考えた。

奈良監獄クラフトビールというのがあって、見ていると説明者から酎ハイをもらった。
中学の恩師をホスピスに見舞った後のこと、ついついアレコレと昔を思った次第。
2018.11.25
神仏合体

チョコレートコスモス。メキシコ原産ながら野生種は絶滅したという。
この23日、チョコレートコスモスの花束を持ってホスピス病院を同級生3人で訪問した。
そこに入院されている恩師の90歳の誕生日祝いと見舞いを兼ねていた。
我々の同窓会は「コスモスのように」という先生の言葉から「コスモス会」と称している。
私には中学1年2年3年の三年間の担任の女先生で、前にも記事にしたことがあった。
私は先生から一枚の便箋を渡された。そこには、
「死ぬ病 えて安心(あんじん)や 草の花
安心立命(あんじんりゅうめい)
八月に死を覚悟して『野の花』の歌
今落ちついています」、とあった。
居られた70前のご子息から180首の和歌集を見せてもらった。
ご子息の話では余命2週間と云われて此処に入ったが、和歌を詠む執念が命を延ばした気がします・・とのこと。
その和歌集から二首。
野の花に囲まれ辿り来し一世(ひとよ)思いてたそがれの中
悲しみの極まる刻もゆれていし野の花ありぬさきわいのごと
<
敬虔なクリスチャンである先生が入っておられる病院は仏教系施設。
広い広い庭にある親鸞聖人像を遠望される先生は聖書を手にされている。
その手に97歳の御主人が自分の手を重ねておられた。
あれこれの思い込めたるコスモスの花に託して帰り道ゆく
2018.11.20
柿食えば・・ゴ~ン

女房に果物を持って行ってやろうと御所柿の皮をむいた。
正岡子規は明治28年10月26日、大阪より奈良へ到着。
市街、興福寺、若草山遠望、東大寺、春日大社を訪ね對山樓(たいざんろう)に宿泊。
翌27日には奈良坂、般若寺興福寺、東大寺周辺を散策。
28日には法華寺、西大寺、垂仁天皇陵、薬師寺、唐招提寺、興福寺を巡り、
29日に法隆寺、竜田川を訪れている。子規の生涯最後の旅であった。
子規が宿泊した對山樓は江戸末期から明治、大正期にあった名旅館。
子規は對山樓での様子を『ホトトギス』の中の随筆「御所柿を食ひし事」で発表。
夜に對山樓の少女(女中)に「柿は食べられないか」と訪ねたところ、
少女が鉢に山のように柿を盛ってきて、柿を包丁で剥いてくれたと回想。
少女は16か17歳ぐらいで、その美しさに子規は見とれたという。
少女が奈良の梅の名所である月ヶ瀬の出身であることから、梅の精霊かと思ったとある。
剥いてくれた柿を口に運び、柿の旨さと場所の心地良さに子規がうっとりしている中に、
東大寺の鐘楼の「初夜の鐘」(午後8時)が聞こえてきたと回想している。
つまり、鐘の音は東大寺のもので法隆寺のものではない。
その鐘の音に、子規はその日に訪れた法隆寺の想いを重ねた一句。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。この話は前にも記事にした。
ゴ~ン・・・鐘の音の余韻に浸りながら大和の御所柿を口に運ぶ子規。
ゴ~ン・・・毛頭のガキ一匹に好きなようにされて来て、今になって頭ゴ~ンの日産自動車。
理工学部で流体力学を専攻していた私の友人は「技術の日産」を就職志望したが落ちた。
日本中から優秀な人材を集めていた日産が何故に毛頭一匹の不正を見逃して来たのか。
「兵・下士官は日本人、将校はドイツ人、将軍はアメリカ人が最良」という言葉を昔に聞いた。
日本のエリートとは、所詮は兵・下士官養成所の優等生。日本社会にゴ~ンと響きわたる。
2018.11.18
学級同窓会の追記

玄関先の鉢植え紫紺野牡丹(しこんのぼたん)に蕾が付いて来た。
耐寒性が弱い野牡丹の花期は7月から11月と比較的長いものという。
然りながら11月半ば過ぎて蕾を付けるのはどうしたことだろうか。
さて、学級同窓会の追記である。
案内状の返信にある近況報告の欄を見ていて気付いたことがあった。
前には大体は二行三行の記述で済まされていたものである。
それが今回は筒一杯ギッシリ書かれているのが殆どであった。
それに同窓会の席上での輪番の自己報告は皆夫々に長く語った。
三分スピーチで終えた者は居ず、途中ストップが入った者も居たぐらいであった。
各自の語りには皆が耳を貸し、訊き直したり質問したりと話が盛り上がった。
70も超え、泉下に入った仲間も増えた中での人生報告である。
それなりにシッカリ生きて来て、同級生仲間に笑顔で人生報告が出来たのだろう。
同窓会へ来ていない者が半数以上いることが少々気になった。
2018.11.17
学級同窓会

同級生が「たけのこ芋」と記して送信してくれたので調べると「京芋」のこと。
この17日に私の高校の学級同窓会をした。
私の高校はオリンピックの年に幹事学級持ち回りで学年同窓会を催す。
その間に学級同窓会があり、学年同窓会の前日にも前夜祭の学級同窓会をする。
今回の学級同窓会は泉下に入った者や住所不明者を外し40人近くに案内した。
出席者は15人、いつもよりやや少ない状況である。
出席希望であった関東に住む現役デザイナーから伝言と上の画が送られて来た。
彼は今回初めて同窓会に出席予定であった。彼の伝言を少々端折って転記。
「大変、大変ご無沙汰しております。参加の方々会えなくて残念デス
迷ったり、反抗したり時代を一緒にすごしたあの日から、
あっと言うまに、半世紀以上たってしまいました。
16で奈良をでる決断をしたのが、僕なりの故郷へのこだわりでもありました。
それから50年以上たち、やっと?この三月で、会社人を引退することになりました。
陸上部で鍛えた足と、耐久力のある心臓はいまだに健在、普通に元気でやっています。
高校の美術部の時代に絵筆を折りながらも、愛知県立の芸大に進み、
以来、デザインを生業にしてきました。
4年程前に、ひょんなコトで、絵筆を取る機会があり
自分にとって絵を描くことの意味を、今ごろ、かみ締めております。
(50年の道草みたいな感じでしょうか)
そんなこんなで、やっと、奈良にも帰ってみたいと素直に言えるようになりました。
今回、やんごとなき所用のため出席できませんが、次回ぜひご案内いただけると嬉しいです。
皆様の、ご健康を神奈川からお祈りしております。」
2018.11.15
未知と無知

関東風関東煮とサラダ、生姜の煮付、煮凝りパック二個、私の足も写っている。
病院帰りに散歩中の近隣の茶友に出会い、女房の様子と私の膝を気遣って頂いた。
そして御仁は夕方に我が家へ上の写真の各品を届けに来られた。
御仁は東京出身なので正に関東風の関東煮、本物の「おでん」である。
生姜の煮付なるものは初めて食したが、これが旨い。奥さんは流石に料理上手。
丸いパックは饅頭かと思ったが、何と「煮凝り」である。これも初めて見た。
人生、いつまでも未知との遭遇であると知った。否、無知を知った云うべきか。
2018.11.14
いいヒザの日

11月13日は語呂合わせで「一汁三菜の日」「いいヒザの日」という。
一汁三菜は茶会席の定番となっている様だが、私は一汁二菜を良しとする。
流儀によっては一汁三菜に加え「壺」だとか「強肴」とかアレコレ出すところもある。
茶会席を茶懐石とか名付ける割には「料理屋もどき」の茶事をやりなさる。
まま、人それぞれ、茶人らしい風情がなくなり茶人臭い人が多くなったようだ。
私は「素うどん一杯」の茶事が好きで、花も二種までとしている。
さて、私の膝(ひざ)、靭帯(じんたい)損傷は一向に傷みがとれないでいる。
女房の居る病院へ電動三輪車で通うので回復が遅れているのであろう。
これまでの女房は「しんどい」「体が重い」「家に帰りたい」と訴えることが多かった。
それが最近、私の帰り際にはベッドに坐って「ありがとう」「また来て下さいね」と口にする。
諦観なのであろう、私に対し静かに手を振る姿と表情に私は胸が痛む。
2018.11.13
照葉

軸は平井 楳仙(ひらい ばいせん、明治22年生、昭和44年没)の「紅葉」。
一升徳利に白の山茶花(さざんか)と照葉(てりは)を挿してみた。
山茶花は茶花に用いないという茶人が多い、まま、それなりの理屈をつけているが私は用いる。
この時期のに重宝な白花・茶の木の花も用いないとか云々だが私は用いる。私の勝手である。
それにしても照葉、色付いた「枯葉」である。
枯葉を花入に挿すとは日本人だけの感性であろうか。
もしかすると、この感性はフランス人には分かるかも・・と思った。
イブモンタンが歌ったシャンソンの名曲に「枯葉」というのがある。
私も若い頃にEP版のレコードの「枯葉」を持っていて、一人で聞いていた。
解説によると、
>若いころお互いに愛し合っていたふたりが別れざるを得ず、それぞれの人生を送ったあと、再び出会った時には北風に吹かれて舞う枯葉のようだったと慨嘆し、海岸の砂浜を歩くふたりの足跡も波が静かに消し去っていくという余情の溢れるもの .< とか。
やはりフランス人、男女の情が絡まないと人生の語りにならないのであろう。
枯葉である「照葉」を花入に挿す日本人の情、他民族には理解不能かも。
2018.11.11
ホットコーヒー茶碗

日本茶ではない。ホットコーヒーである。
今日、昼前に娘一家が来た。
この前に私のミカン狩りの収穫を分けてやったのだがミカンが欲しいとまた来た。
要は、子供たちにミカン柿は柿取りの経験させてやりたいということであった。
畑地の管理者にその旨伝えると快諾してもらえ、レジ袋三杯のミカンと柿を収穫。
料金は一杯分の500円だけとまあ、お気遣い頂いてしまったのであった。
昼飯を食べるため、娘の案内で行ったレストランが、まあ、それなりの処。
調度品や食器もそれなりに「ドヤ顔」、そんな店に私は「シブ顔」。
旨くもない料理に焼酎を頼むと焼酎は置いてないとかノタマウ。
ままよとビールで飲んだ後、ホットコーヒーを頼んだのだが出て来たのが上の写真。
回しても手持ち取ってが見当たらない、まるで湯呑茶碗である。
湯呑茶碗にしたら陶器の肉厚が薄いので手の平にホットコーヒーの熱が伝わり熱い。
抹茶飲み手法の扱いでも熱く、茶托に乗せたままで口元へ運んだ。
高台茶托(天目台)で飲む抹茶作法は一口目を高台のまま口に運ぶのが茶の仕来り。
然しながら、ホットコーヒーを茶托のまま口に運ぶとは何だろうと思った次第。
まま、茶托は大きくて使い易かったが、こだわりの主張もそこそこが奥ゆかしい。
2018.11.08
大津島

有人魚雷「回天」の上で軍刀を振り、別れを告げる特攻隊員たち。
昭和19年の今日11月8日、回天特別攻撃隊「菊水隊」が大津島を出航。
潜水艦伊36・伊37・伊47は、回天を4基ずつ搭載し初の出撃を果たす。
先日のケーブルテレビで映画「ああ、回天特別攻撃隊」を観た。
回天提唱者の黒木博司中尉と仁科関夫少尉を鶴田浩二と松方弘樹が演じていた。
回天の試作機へ搭乗した黒木は水没し殉死、彼は事故記録と改良点を記して残した。
仁科は黒木の遺骨を胸に改良された回天で初出撃する。実話である。
鶴田浩二自身も学徒出陣令で海軍に入っていることもあり演技場面が自然に見えた。
戦時中、山口県徳山港沖にある大津島は回天の基地であり訓練地であった。
私の小学校の時に大津島で回天特別攻撃隊の記念碑の除幕式があり父親に同行。
招待された生き残りの父親達は徳山港から潜水艦「くろしお」で大津島へ向かった。
甲板の上に乗ったままでの洋上航海だが海上自衛隊員は父親達に敬意を示した。
その時に再開した生き残り仲間が後日奈良の我が家まで来た話は前に書いた。
回天とは、「天を回らし戦局を逆転させる」との意味 で命名されたという。
その特攻兵器「回天」を発案企画し、死んでいった二十一・ニ歳の青年の思い。
飛行機であろうが潜水艦であろうが、特攻隊員は日本刀を持って乗り組んでいる。
軍刀を振って別れを告げる「菊水隊」、やはり「菊と刀」ということか。
回天特別攻撃隊が大津島から初出撃した今日11月8日、彼等の冥福を祈りたい。
2018.11.07
むかご(零余子)

吉野・十津川の土産として貰った自然薯の「むかご」。
「むかご」は長芋や自然薯などのヤマノイモ属の蔓になる肉芽のこと。
茹でるか揚げて塩をふるだけで結構な酒のつまみになる。私は揚げた。
米と一緒に炊けば「むかご飯」になり、晩秋の季語であるそうな。
縄文人女性も好んで採取し、猟から帰った亭主に喰わせたであろうと思った。
縄文人は縄文土器で煮て食したであろう、油料理は無理であったろうと推測。
それとも猪の脂で揚げたであろうかと亦つらつら思いを馳せる晩秋の夜咄。
2018.11.06
近所のミカン狩り

たわわに生ったミカン。日当たりの良し悪しで実りと味も違うようだ。
我が家の前は竹藪と梅林であったが、今は開発されて十軒余りの住宅が建っている。
その下側には畑地が残されていて、ミカンや柿の木が植わっている。
その畑地の管理者からミカンや柿を大きなレジ袋一杯500円の話があった。
そこで、向こう三軒両隣が誘い合って出掛けた次第。
まま、ここの町内班は昔の村付き合いの雰囲気が保たれた地域である。
2018.11.04
菊と刀
大学武道部の後輩である赤膚焼の窯元が金沢で開催する作陶展の話をしに来てくれた。
彼は居合道にも通じており、来たついでに私の日本刀を手入れしてくれた。

大刀。拭い紙で棟方(刃がついてない方)から古い油を拭きとる。

小刀。打粉(うちこ)で刀身を軽くポンポン打ち、別の拭い紙でその粉を拭(ぬぐ)う。
高校時代に「菊と刀」という本を読んだ。
米国の文化人類学者ルース・ベネディクト女史による日本文化を研究した著作である。
驚いたのは ベネディクト女史が一度も日本へ行ったことも無しに著したということであった。
彼女は二次大戦中に日系人と日本兵捕虜からの調査報告書を基に出版、ベストセラーになった。
彼女は日本人の行動規範を「恥の文化」として捉えてまとめている。
平成17年に出版の数学者の藤原正彦の「国家の品格」という著書はミリオンセラーとなった。
藤原はグローバリズムなどを否定、自国の伝統や美意識などを重んじることを説く。
世界で唯一の「情緒と形の文明」を持つ日本の“国家の品格”を取り戻すことを主張。
藤原は日本人の矜持を「恥を知ること」とした。何かベネディクトと共通するものがある。
思うに、亦もと思わされる「朝鮮人徴用工判決」のこと。国家の品格に欠けるものだろう。
狭い対馬海峡を隔てただけの日本列島と朝鮮半島、そこに住む日本人と朝鮮人。
朝鮮人・朝鮮民族に「恥の文化」が生まれなかったのは何故かと考えてしまう昨今である。
文化人類学者・ベネディクトはんに朝鮮人・朝鮮民族はどう写るであろうか。
戦時中は朝鮮人は日本人とされていたが、彼我の精神文化の違いは絶望的である。
彼は居合道にも通じており、来たついでに私の日本刀を手入れしてくれた。

大刀。拭い紙で棟方(刃がついてない方)から古い油を拭きとる。

小刀。打粉(うちこ)で刀身を軽くポンポン打ち、別の拭い紙でその粉を拭(ぬぐ)う。
高校時代に「菊と刀」という本を読んだ。
米国の文化人類学者ルース・ベネディクト女史による日本文化を研究した著作である。
驚いたのは ベネディクト女史が一度も日本へ行ったことも無しに著したということであった。
彼女は二次大戦中に日系人と日本兵捕虜からの調査報告書を基に出版、ベストセラーになった。
彼女は日本人の行動規範を「恥の文化」として捉えてまとめている。
平成17年に出版の数学者の藤原正彦の「国家の品格」という著書はミリオンセラーとなった。
藤原はグローバリズムなどを否定、自国の伝統や美意識などを重んじることを説く。
世界で唯一の「情緒と形の文明」を持つ日本の“国家の品格”を取り戻すことを主張。
藤原は日本人の矜持を「恥を知ること」とした。何かベネディクトと共通するものがある。
思うに、亦もと思わされる「朝鮮人徴用工判決」のこと。国家の品格に欠けるものだろう。
狭い対馬海峡を隔てただけの日本列島と朝鮮半島、そこに住む日本人と朝鮮人。
朝鮮人・朝鮮民族に「恥の文化」が生まれなかったのは何故かと考えてしまう昨今である。
文化人類学者・ベネディクトはんに朝鮮人・朝鮮民族はどう写るであろうか。
戦時中は朝鮮人は日本人とされていたが、彼我の精神文化の違いは絶望的である。
2018.11.01
寛解

もちの木の実が赤く色付いてるが、最近は小鳥が来なくなった。
台湾百合(高砂百合)が種を付けている。
台湾の高砂族と何らかの繋がりがあるのだろうかと気になった。
昨日、友人の病気見舞いに行って来た。
そこで初めて聞いた言葉「寛解・かんかい」。
完治・治癒・寛解とガン治療の段階を使い分けている言葉だという。
ガンの手術を行って、ガンを残さず取り去ったという意味で「治癒」。
治癒切除だけでは「完治」、つまり「完全に治った」とは云えないらしい。
しばらく後に再発する可能性もゼロではないからだという。
そのため、ガンでは術後5年間再発しなければ「完治」と見做すことになっているとか。
(乳がんの場合は、5年以上経っても再発することがあるので、10年が完治の目安)。
これが、治療成績を示すのに「5年生存率」が使われる理由らしい。
「寛解」は完全に治ったとは云い切れないが、病気を抑えることができている状態とか。
二人に一人はガンになるという昨今、無知な私には勉強になった。
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