fc2ブログ
2024.12.22 鴨なんば
DSC_1633.jpg
下仁田葱(ネギ)と合鴨肉それと平茸、金曜日は鴨鍋にした。
「今、難波(ナンバ)駅、これから奈良へ向かう」。元鮨職人の友人から電話が入る。
私が21歳、彼は17歳の頃に大阪の難波・ミナミの歓楽街で板前見習いをした仲間。
70を超え、糖尿悪化で目と足を悪くした彼が杖を手に私の顔を見に来ると云う。
ナンバ、鴨なんば、私は百貨店の食品売場で合鴨と下仁田葱を買い求めた。
 
明治の昔。今の南海難波駅周辺には50町歩余りの葱畑が広がっていた。
難波葱の名は鴨肉と葱を使った「鴨なんば」の由来になったことで知られる。
難波葱も昭和の終わりに市場から姿を消すが、浪速の伝統野菜としてまた復活とか。
和銅4年(西暦711年)頃に伏見稲荷創建で浪波から京都に移入した葱が九条葱の祖。
また、大阪城落城の際に関東地方へ移住した人たちが伝えた葱が千住葱・下仁田葱に。
葱の原産地はシベリア南部からアルタイ地方だとか、まま、騎馬遊牧民の故地である。
成る程にタタールステーキ、生の馬肉に葱とニンニクを加えて食す。納得である。

 鴨鍋には私の幼馴染みも参加、元鮨職人とも60年を超える知己の間柄でる。
「奈良でナンバとはトウモロコシや」という話になり、調べてみた。
モロコシは唐土(もろこし)から伝来したことに由来、最も似ている植物がキビであった。
海道から関東までの地域では「とうきび」、西日本では「なんばんきび」と云うとか。
関西では南蛮黍(なんばんきび)の略称で「なんば」と云うとあった。奈良だけでなかった。
大阪で葱を「なんばん」ではなく「なんば」と云うのは「なんばん」が訛ったものとする説、
江戸時代に大阪・難波が葱の産地であったことに由来する説とか云々。

ふと思い出したのは、先に亡くなった中学校の同級生が私に教えてくれた笑いネタ。
同級生「宴会の隠し芸、舞台で直立して真面目顔で大きく口を開いて云うんやで」。
彼は直立して云う「うとんやの、かんはんを、たくてんなくして、よむならは」、で一息入。
続いて「うとんてんとんてんふらそは、なへやきしっほくかもなんは」真面目顔で口をつぐむ。
オモロイ。ワロタ。
うどん屋の看板を濁点無くして読むならば、うどん天丼天ぷらそば、鍋焼きしっぽく鴨なんば。
2024.12.20 喫茶去
DSC_1631.jpg
昨日、マンションの室内に手摺りを取り付けてもらった。
実は去年のこと、夜中に夢見が悪くて目が覚めた。しかし目に映る景色はお化け鏡の如し。
夢も訳の分かん場面や状況が続いた。小便に起きようとしたが無理だった。不甲斐ない。
何とか手首が動いたので匍匐(ほふく)前進。一寸刻みに床を這いずり便器にすがって用足し。
救急車を頼んで病院搬送となり。娘やケアマネジャーに面倒を掛けたことがあった。
この夏にも似た症状が起こったので手摺りの取り付けをしてもらうことにしたのだ。
作業は職人一人で半日仕事。手擦りは廊下と玄関それに風呂場に付けてもらった。
便所は入用な時に専用のリース器具がよいとか。介護のケアマネージャーの勧めである。
費用は10万円余り、介護保険で一割負担となり私の払いは1万円少々。わだかまりが残る。

 初老のその職人に私が云った「材料費は1万円位やろ」、職人「Totoやから高いでっせ」。
私「ふ=ん」、職人「ワシの日当や業者の取り分に介護施設の費用もおますさかいな」。
私「ホンマやな、ワシは一割負担やけど、残りは今の若い者が負担するんやな、気の毒に」。
職人「ホンマだっせ。高齢者と若い者の人数が逆転するのに可哀そうなもんだっせ」。
私「あと50年もすれば孫たちも還暦を超える。どんな社会で暮らしてんのかな」。
職人「先のことを考えたら申し訳おまへん。早よ死んでやらんとあきまへんな。あはは」。
帰り支度をする職人に私は云う「まま喫茶去、お茶飲んでから去になはれ」。

DSC_1630.jpg
今朝、ブログを開くとアクセス・ランキングが久方ぶりの二桁数値。拍手は少ないが。
56b0d8d3ee01374750480dd49c199dd6.jpg
奈良春日大社のおん祭り。今年は第889回で12月15日から18日に開催された。
思うのは日本の行事の歴史の長さ。奈良に生まれ育った所為か、つくづく感じる。
おん祭りは行列が有名で、最近では外人観光客にも人気の行事だという。
私には春日大社参道の奉納相撲の想い出が残る。師走の寒風の中でフンドシ一丁。
近くでは能の奉納、薪能(たきぎのう)が為されており、その薪の火が羨ましかった。
高校一年の時の話、違う高校に行った中学の同級生も奉納相撲に参加していた。
私は一回戦で負けたが、彼は強豪天理高校の選手をつり出しで破って二回戦へ。
まま、彼も二回戦で敗れたが、今も記憶に残る懐かしい春日おん祭りの奉納相撲。
ネットで今年も奉納相撲があったと知り、見て懐かしく思った次第。↓
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A5%88%E8%89%AF+%E3%81%8A%E3%82%93%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%80%81%E5%A5%89%E7%B4%8D%E7%9B%B8%E6%92%B2&sca_esv=0573dc2bfced2380&sxsrf=ADLYWIJEJZCcbsoF58VvzCiHM6p9uYVqdg%3A1734564046964&ei=zlhjZ7bIOt7d2roP5t61uAg&ved=0ahUKEwi25-_OurKKAxXerlYBHWZvDYcQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E5%A5%88%E8%89%AF+%E3%81%8A%E3%82%93%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%80%81%E5%A5%89%E7%B4%8D%E7%9B%B8%E6%92%B2&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiIuWliOiJryDjgYrjgpPnpa3jgorjgIHlpYnntI3nm7jmkrIyCBAAGIAEGKIEMggQABiABBiiBDIIEAAYgAQYogQyCBAAGIAEGKIEMggQABiABBiiBEj9gQFQvBxYxW5wAXgBkAEAmAFyoAG4CaoBBDEyLjG4AQPIAQD4AQGYAg6gAtwJwgIHECMYsAMYJ8ICChAAGLADGNYEGEfCAgUQIRigAZgDAIgGAZAGCpIHBDEyLjKgB4oa&sclient=gws-wiz-serp#fpstate=ive&vld=cid:55aed8aa,vid:0kE7yM3PhRo,st:0
2024.12.18 無と死
m41384091619_1.jpg
茶室には無・無一物・本来無一物あるいは〇円を書いた軸をよく目にする。
まるで牛みたいに、む~む・む~む。茶人や坊さんは丑年の人が多いのかも。
茶友に学生時代から剣道と禅を、武家茶には私より数か月早く入門した御仁がいる。
爾来50年、彼は茶の皆伝、禅道場も持った。その彼から拍手が入り思い出した「無」。
彼の紹介で私は30代後半頃に京都の禅道場の摂心会・参禅会に一年間通った。
参禅最初の設問が解けずままの一年。当時の老師に愛想を尽かされた。
その後は時折り大阪や広島の禅道場で参禅せず坐禅だけに参加、まま、特別許可。
次の老師は話が通じる御仁で嬉しく思った。このブログにも偶に老師の拍手が入る。

 「無」はBC5世紀頃に春秋時代の支那で道教の始祖・老子が説いたとされている。
禅宗はペルシャ人の達磨が印度からAC6世紀に南北朝時代の支那へ行き布教した。
老子・達磨はともかく50年前頃の話、私は量販店で鮮魚部門の設立に励んでいた。
ミスドで学んだマニュアル化宜しく、新入社員8名だけで開店することにした。「無謀」。
開店後は毎月赤字続き、それも莫大はロス(欠減)を出した。商材を「無」にし続けた。
私「努力は無になったが、学んで活かせば無やない。活かなんだら努力もホンマに無や」。
その時、変わり者だった新人が云った「無やない死じゃ、無では生きる。全ては死じゃ」。
話の絡脈は意味不明ながら私は何となく腑に落ちた。そうか、無では無くならん、死か・・と。
そんなこんなで、私は禅でいう「無」が解らず、参禅で答えられなかった。今も答えられない。
11月半ばから喪中が届く、確かに死は人生の終わり。残るのは記憶だけ。まま、悟りも無に。

i-img900x1200-1647850186stt4fi5052.jpg
「死」の軸。私が参加した茶席・茶会の床ではこれ迄見たことがない。
DSC_1628.jpg
昨日の昼餉は明石の玉子焼き、曰く「明石焼き」。
マンションから百貨店へ向かう小路に広島出身の女性店主が営むタコ焼き屋があった。
広島のアゴ(トビウオ)出汁で作る大粒のタコ焼きは旨く食したが、この春に店を閉じた。
原因はタコの値上り、小さく切るのは嫌だと6個400円を450円したが無理だったかも。
昨日、百貨店のタコ焼き屋の前を通ると「いもたこなんきん・たこ喰いなはれ」。
「明石焼き」を焼いていた、出汁付きで8個800円。12時を過ぎていたので買う。
焼き待ち時間に店主が話す「明石では、玉子焼きと云いまんねん」、私「知ってる」。

 昼餉の膳と云うても「明石の玉子焼き」とウィスキーにミカンとバナナ。テレビを点けた。
大阪番組「そこまで言って委員会」。元明石市長の泉 房穂と元大阪市長の橋下徹が討論中。
泉が明石のタコを自慢すると。橋下は泉州のタコの方が旨いと反論、まま、日本は平和。
私は明石焼のタコを食しながら、アフリカの国を貧困から救った一人の日本人を思った。

 独立間もないアフリカのモーリタニアへ一人で行った26歳の日本人・中村正明氏である。
氏が海外漁業協力財団から派遣された1978年当時のモーリタニアで唯一の日本人だった。
タコを食する習慣がなかった国でタコ漁業をタコ壺造りから指導、国家産業にまで仕上げた。
今や日本のタコの35%がモーリタニア産。モーリタニアは氏に国家功労賞を授与した。
人口300万、月収7千円弱だった国民が東日本大震災時に4570万円を日本に寄付。
いもたこなんきん、きんは金、タコは金になると教えたのだ。来年のお題は金。マンセー!

https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/200902-41colonia.html