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2014.12.30
晦日(みそか・三十日)

五千円札、樋口一葉である、二十四歳六ヶ月で死去とは紙幣偉人の最年少
一葉は明治五年東京生まれ、戸籍名は樋口奈津、両親は山梨出身
出世作「うもれ木」から次々に名作を発表、後に奇跡の十四か月と云われる
中に、「春日野しか子」という筆名で「経つくえ」という作品があるのは心が和む
代表作と云われる「大つごもり」という短編小説に、私は「物云わぬ情」を感じ取る
和暦でいう月の終いの日は三十日・みそか(晦日)、月籠り(つきごもり・つごもり)
その明くる日が新月、月立ち(つきたち)で転じて「ついたち」、つまり和暦に三十一日はない
その年の最後の晦日(三十日)が「大晦日・おおみそか」、つまり「大つごもり」である、
従って、新暦十二月三十一日を「大晦日・大つごもり」とは、言葉の具合が悪いような・・
小説「大つごもり」は、一葉が自身の貧乏を投影させた十八歳のお峰が主人公
親を亡くしたお峰は伯父のところに居たが、伯父は体を悪くして一家は貧困生活
お峰は山村家の奉公人となってしばらくした後、伯父一家の住む長屋へ帰宅する
そこで病気の伯父から、高利貸しから借りた十円の期限が迫っていると聞かされる
その返済期間延長のための金銭を、お峰は山村家から借りる約束をする
山村家の放蕩息子で先妻の子である石之助と継母のご新造は仲が悪い
石之助が家にいると、ご新造の機嫌が悪くなり、お峰はお金を借りる事ができない
大晦日の日、旦那もご新造も留守でお嬢達は庭、小僧も外、石之助は居間でゴロ寝
お峯は掛け硯の引き出しにある札束から一円札二枚盗んで裏口で待つ従弟に渡す
大晦日の有り金を全て封印する大勘定で、お峰が盗んだことが露見しそうになる
お峰は伯父に罪をかぶせないがために、発覚した場合には自殺をする覚悟でいた
ところが、残った札束ごと石之助が盗み取っていたのであった・・、お終い
まあ、こんな話で、以前は「バレずに済み、良かった良かった」で終わった
ところが最近思うのは、石之助はお峯が抜き取ったのを見ていたのでは、と
そして、お峯を庇う気持ちで自分が悪者になった、私にはそう思われるのである
あの山本周五郎の歴史小説「樅ノ木は残った」の主人公・原田甲斐と重なる
どうも、周五郎はん、一葉はんのフアンだったような気がしている
思いの程を自分の胸だけに納め、周囲の誤解や非難中傷を一身に受ける
眉間の皺(しわ)の渋味というか、男の「物云わぬ情」というものを感じる
先日の鳥取・米子までのトンボ返りのバスの中、私は「物云いたい情」が募った
2014.12.27
人生、理解に苦しむことあり

雪を被った鳥取の大山、高速バスの車窓から
今日十二時二〇分、ナンバから鳥取・米子行き高速バスに乗車、一五時一五分に米子着
その四十五後、一六時米子発京都行き高速バスに再乗車、二〇時に京都着
何かバカバカしくなり、京都駅界隈の居酒屋で独り酒
2014.12.26
本日、ダイエー消滅

ダイエーの旧マーク、平成十七年に亡くなった創業者・中内功氏には、このマークがダイエーだ
本日十二月二十六日を以って、ダイエーという名も企業も無くなることを新聞が伝えている
中内氏の死後、ダイエーがイオンの支配下に入り、本日吸収される
私は流通産業に身を置き、その中で送った人生であり、色んなことや人を見聞きした
今も思うのは、中内功氏の功績と偉大さである、ダイエーの追悼として前の記事を再掲したい
>流通革命の旗手・中内功氏のこと、再掲<
ダイエーの創業者、故中内功氏の続き話である
記事を書くにあたり、中内氏のことでネット検索をしてみて納得した
その量はイオンの岡田氏やイトーヨーカ堂の伊藤氏の倍以上である
故人故ということもあろうが、それだけ逸話や功績が多いというか大きかったのだろう
ダイエーの凋落は平成に入る頃から始まった、バブルの崩壊と重なる
ダイエーの基本戦略は、土地を取得して店舗展開を拡げるやり方であった
対してヨーカ堂は、土地物件は賃貸で店舗展開をするやり方であった
土地取得の展開方法はリスクが伴うが、店を出せば客が入った時代はリスクが少なかった
それと、土地は値上がりを続けていたので担保価値も上がり続け、出店資金を賄った
賃貸方法は出店費用が少なく済み、撤退リスクも少なく、身軽で安全な策である
リスクに挑戦する中内氏と安全慎重に事を進める伊藤氏との違いとも云える
土地の値上がりだけでなく、時代がインフレ傾向にあったこともダイエーの追い風となった
つまり、仕入れた商品が値上がりすれば、それだけ儲かり、リスクも軽減されるのである
しかし、バブル崩壊で土地は値下がり、時代もデフレ傾向になるとダイエーの凋落が始まった
その時代に最も適合した者は、時代が変化すると最も不適合者となる例えである
更に、平成七年の神戸大震災の発生は、ダイエーにとり大きな痛手となった
神戸が企業発祥の地であるダイエーは、傘下のローソンを含め百店以上が被災したのであった
中内氏は「店舗照明は消すな、スーパーはライフラインや客が来る限り店を開け」と号令
三日後に被災地に入り、国より早くフェリーやヘリコプターを使い、物資搬入の指揮をとった
後で聞くと、あの時のダイエーの社員は我が自身が被災したにも拘らず必死に働いたという
日本が大災害で暴動が発生しないことを世界は奇跡と伝えた、事実世界の常識では稀有だろう
その極限状態の中にあって、中内氏とダイエーは隠れた功績者と云える
その六年後「時代は変わった」と云って中内氏はダイエーの経営から身を引いた
後は、彼の私財を投じて設立された「流通科学大学」の理事長職だけに専念
平成一六年に芦屋と田園調布の自宅及び関連株式を全てを処分、翌一七年九月に神戸で死去
中内氏の遺体は戻る自宅がなく、中内家の墓がある寺に運ばれ密葬、享年八三歳
その年一二月に、イトーヨーカ堂創業者の伊藤氏がイオン創業者の岡田氏と「お別れ会」を開催
流通業界の先頭を走り続け、自社の凋落も見届け逝去した中内氏の霊に、皆が別れを告げた
>以上、再掲<
2014.12.25
二十歳の「チビ」

夜道の散歩で出会った二十歳の雄犬「チビ」、人間の年齢では百歳を超えている
「チビ」は、我が家の「ハナ」が仔犬の時から道で遊んでくれた犬だ
飼い主の話では、目と耳が悪くなって周囲を認識するのは嗅覚だけとかいうことだった
「ハナ」が近付いても分らない様子で、傍で臭いを嗅いで「犬」と知り、小さく唸る
「ハナ」はどうして良いか分らず離れて去ろうとする、互いに懐古の念は無いようだ
人と犬の違いはあれど、何か虚しい気持ちにさせられる
昨日、囲碁仇の同級生宅を酒粕片手に訪問した時、面白い話を聞いた
彼の家には、数年前に死んだが雄のゴールデンレトリバーが飼われていた
ある時、そのゴールデンがふらつき後ろ足がもつれているのを見つけたと云う
どうしたのかと心配している中に前足もよろけ、ポテンと倒れたので家族は仰天
皆が介抱しに近寄った時のこと、息子さんが云った、「コイツ、酒臭いで」
奥さんが玄関に戻ると、そこに置いてあった酒粕がすっかり無くなっていたらしい
下戸の同級生の彼曰く、「犬も酔うねんな、ホンマ、ビックリしたわ」
写真の「チビ」、尻尾も下がり後ろ足もふらついているが、酔っている訳ではない
寄る年波で体もままならないながら、大小便だけは外に出てしようとするらしい
健気である、もっと長生きしてもらいたいと願いながら、写真に撮った
2014.12.24
没四〇〇年古田織部展・その三

入塾一年八カ月の塾生の炉点前、昨日は三回目の炉稽古、様になって来た
今日はクリスマスイブとやらで、古田織部を語る第三弾にするつもりであった
勿論、写真は織部が密やかに十字架を象ったといわれている「織部灯篭」を考えた
しかし、その写真は昨年十月二八日に載せたことを思い出し、昨日の稽古写真とした、
織部の茶友には伴天連に惹かれる武将や、その妻子がが多くいた、利休もそうであった
面白いことに、伴天連の西洋人坊主は茶の湯に惹かれ、伴天連教会には茶室があった
茶には、後世云われる禅宗坊主の影響より、伴天連坊主の影響の方が大きかったようだ
伴天連信仰と武家茶精神が結びつき、それが多くの武将に広まるとなれば・・ヤバイ
秀吉が伴天連追放を決めた底流には、そういう潜在的恐怖感があったと思える
主だった伴天連大名や武将を下に挙げてみる
有馬義貞(アンドレ) - 肥前日野江(島原)領主
有馬直純(サンセズ) - 有馬晴信の子、棄教後は迫害者に転じる
池田教正 - 丹後守
一条兼定(ドン・パウロ) - 土佐中村一条家当主、大友宗麟の甥であり娘婿
宇久純尭(ドン=ルイス) - 五島島主、宇久純定の次男。
大友宗麟(ドン・フランシスコ) - 豊後領主
大村純忠(バルトロメオ) - 日本最初のキリシタン大名
大村喜前(サンチョ) - 大村純忠の子
織田有楽(ジョアン)-織田信長の末弟
織田秀信 - 三法師、織田信忠の嫡男、信長の嫡孫
織田秀則(パウロ) - 織田信忠の次男、信長の孫
蒲生氏郷(レオ) - 日野、会津を領す
木下勝俊(ペテロ) - 若狭小浜城主、北政所(ねね)の甥。
京極高吉 - 晩年に受洗するも急死
京極高次 - 秀吉、家康に仕えて近江大津、若狭小浜を領す
京極高知 - 秀吉、家康に仕えて信州伊奈、丹後宮津を領す
黒田長政(ダミアン) - 棄教後、迫害者に転じる
黒田孝高(シメオン) - 官兵衛の通称と如水の号で知られる
籠手田安一(ジェロニモ) - 籠手田安経の子
籠手田安経(アントニオ) - 平戸松浦氏重臣
小西行長(アウグスティノ) - 関ヶ原敗戦後、キリシタンであるため切腹を拒み刑死
小西隆佐(ジョウチン) - 小西行長の父
志賀親次(ドン=パウロ) - 大友義統家臣。島津軍の侵攻を何度も食い止めた
宗義智(ダリオ) - 対馬領主。小西行長の娘マリアを妻に迎えたときに受洗
高山友照(ダリオ) - 飛騨守、高山右近の父、畿内における最初期のキリシタン大名
高山右近(ドン・ジュスト) - 代表的なキリシタン大名、追放先のマニラで客死
筒井定次 - 筒井順慶の長男
津軽信建・ 信堅・信枚 - 津軽為信の長男・次男・三男
内藤如安(ジョアン) - 追放され、マニラで客死
畠山高政 - 河内国畠山氏の当主
細川興元 - 細川幽斎の次男
前田秀以(パウロ) - 前田玄以の長男
前田茂勝(コンスタンチノ) - 前田玄以の次男
牧村利貞 - 利休七哲の一人
松浦隆信 - 松浦氏28代当主
毛利高政 - 豊後佐伯領主。伊勢守
毛利秀包(シマオ) - 毛利元就の子
結城忠正(アンリケ) - 山城守
こうして挙げると、利休・織部と続く「切腹沙汰」の真相が薄っすらと浮かぶ
「古田織部とは何者か?」という今回の副題の意図とは・・、もしかすると穿ったかも?
ついで乍ら、昨年十月二八日のブログ記事、再掲させてもらう、クリスマスイブ故に
http://houan7010.blog.fc2.com/blog-entry-160.html
2014.12.23
没四〇〇年古田織部展・その二

四日市のORIBE美術館所蔵の織部焼
先の記事で古田 重然従五位下織部正の武将としての略歴を記した
最期を切腹としたが、そこに武将と茶人の古田織部が重なる
慶長二〇年(1615年)、大坂夏の陣の折りに織部の茶頭・木村宗喜が豊臣方に内通
そして京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられる
織部も徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたとの嫌疑で切腹を命じられる
重然は、これに一言も釈明せずに自害したといわれる、享年七三歳
同時に木村宗喜も処刑され、織部の息子達も織部の墓前で自害、古田家断絶
織部が茶の湯に入ったのは比較的新しく四〇歳を超えてからと云われている
利休の高弟の中でも新参者であったかと思われるが、何故に利休の後継者になったか
それは、利休が織部を称えることが多かったためかと思われるがどうであろうか
今一つは、徳川家康の頼みで二代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役に就いたこと
この二つが、織部をして利休亡き後の茶の湯天下第一の人とされた所以であろう
利休が織部を称えたのは、利休に無い感性と斬新な工夫によるものとされている
利休の茶を愚直に踏襲したのは、織部より、むしろ細川忠興であると云われる
利休には茶も然ること乍ら、織部に利休と通じる反骨思想を見て取ったのだろう
事実、切腹の命で京を離れる利休を見送ったのは、忠興と織部の二人だけである
秀吉の目を憚り、皆が利休を避ける中でのことである、忠興の愚直と織部の反骨
それに、利休・忠興・織部には薄っすらと伴天連の臭いが感じ取れる
織部の切腹には、どうも家康の織部抹殺の意向を汲んだものと思われる節がある
織部の自由闊達で斬新な気風は、現状秩序の維持・保全の気脈からみて危険である
それに仄かな伴天連の臭い、忠興は手懐けても織部はヤバイと家康はみたのだろう
恐らく、フリーダムとリベラルというものへ危険を感じた為政者の直観であろう
これ以上の検索は、私の妄想に近くなるので止める
織部切腹の後、いわゆる「織部好み」と云われた焼物が姿を消すのである
そして、再び「織部好み」の焼物が世に出るのは、明治以降のこととなる
織部の名を称する諸流も明治以降の流儀で、血筋・茶筋に織部の直系はない
織部死後の織部所縁の品々のことで、先日に当流宗家から興味ある話を聞いた
それは、殆どが織部の名を隠す様にされているとかで、研究者の指摘もあるようだ
宗家にある織部所縁の品も、古田重然のどこか一字が違えてあったり、送り主を違えたり
幕府の目を避けているのが明らかであるということであった、首肯する
東京・銀座の松屋百貨店・没四〇〇年古田織部展の副題は
「織部とは何者か?」とある、NHKにもそれなりの人が居るようだ
然し私は、NHKの支払いは拒否する
2014.12.22
朔旦冬至(さくたんとうじ)

柚子を半切りにして、風呂の湯に入れた我が家の柚子風呂
夕べは冬至の柚子風呂を孫娘と楽しみ、のぼせてしまった
最近、四方から柚子を頂いたので、この数日は柚子湯が続いた
柚子は血行を良くする成分を持つので湯冷めがしないとか、確かなようだ
柚子の芳香と肌への心地よい刺激で長湯して、湯船を出るとフラついた
冬至に柚子湯、調べると江戸時代の銭湯にその萌芽があったようである
寒い時の柚子湯は体に好い湯治、つまり冬至、駄洒落と銭湯の宣伝
確かに、栄養状態も悪く毎日風呂に入られない庶民には、湯治は体の功徳
冬至に柚子湯に入り、「一陽来復・いちようらいふく」を何度も唱えたとか
面白いことに、「柚子」は秋の季語ながら、「柚子湯」は冬の季語となっている
冬至は年の「陰」の極み、これから年の「陽」に向かう芽出度い日に福運を願った
それが、冬至の日に「南京・カボチャ」を食する習慣、「来復が来福」である
本来は南京でなくとも、「運・ん」の付くもの、ダイコン、ニンジン、レンコンでも良い
ただ、南京を特に好しとするのは、「北・陰」から「南・陽」ということらしい
この話は、ケルト民族や北欧のチェートン系の人々が持つ冬至を祝う習慣に似る
緯度が高い北欧にあっては、日照時間が回復してくる日は、福到来の嚆矢とも云える日
スコットランドやアイルランドのケルト人は、冬至の翌日を新年の始まりとしていた
故に、ケルト人の冬至祝いとは日本の正月祝いであろうと私は親近感を持つ、「マッサン」
スコットランドに始まるウィスキーの話、NHK朝ドラ「マッサン」、外人嫁が健気だ
今朝の「マッサン」にスコットランドの最高ウィスキー「ハイランド・ケルト」が出ていた
今年の冬至は、朔旦冬至(さくたんとうじ)という一九年に一度の冬至である
つまり、新月と冬至が重なるということで、「一陽来復」も一段と光りそうである
2014.12.21
没四〇〇年・古田織部展

古田織部像、京都・興聖寺秘蔵、「織部」の名は壮年期に官位に由来
この一二月三〇日(火)から翌一月一九日(日)の期間(一月一日は休業)
没後四〇〇年古田織部展が開催される、場所は東京・銀座の松屋百貨店八階
主催はNHK、特別協力・上田宗箇流、協賛・日本写真印刷である
入場料は、一般千円・高大生七百円・中学生五百円、小学生以下無料
前売り券では何故か、一般七百円・高大生五百円・中学生四百円、小学生以下無料
前売り券は、チケットぴぁ、ローソンチケット、セブンイレブンで一二月二九日まで販売
Pコード766-490、Lコード34160、セブンコード034-465・・・とか記されている
古田 重然(ふるた しげなり)従五位下織部正(じゅごいのげ・おりべのしょう)
美濃国の人、守護大名・土岐氏に仕え、織田信長の美濃侵攻後は信長に仕える
信長死後は豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は徳川家康から頼まれ徳川秀忠の茶の湯師範
関ヶ原の戦いでは東軍に付き、大阪の陣では徳川軍として出陣、内通の嫌疑で切腹
2014.12.20
吉野口駅を出た急行大和和歌山行

吉野口駅から勾配を上がり、和歌山線を走る「急行大和」、写真は昭和四二年
昭和三七年三月から、関西本線経由の東京~大阪(湊町)の急行大和が構成変更
王寺駅から車両を分割し、和歌山線経由で和歌山市駅行の列車を設定
写真の蒸気機関車と次の客車一両が東京からの急行寝台列車で、後は普通列車
今朝の産経新聞一面に「特急富士」の一日運転のことが写真入りで出ていた
何でも「東京駅百周年」の記念行事の一環としてのことと書かれていた
以前に記事にした、私の学生時代の懐かしの夜行列車「大和号」を想い起した
改めて調べると、学生時代の関西本線経由「大和号」の意外な事実を知り得た
私は奈良~東京間のため、和歌山線経由の一両があったとは知らなかった
「急行大和」の客車は王寺駅から一両だけ分れて和歌山線に入り
後は「各駅停車の急行列車」となって和歌山市駅まで行くという
列車標識が「急行」の各駅停車と云う列車は珍しいということであった
和歌山線と近鉄線が共同運営している駅がある、「吉野口駅」だ
南和鉄道と吉野鉄道という地元資本の鉄道会社の連結駅だったとか
南和鉄道は国鉄へ、吉野鉄道は大鉄(近鉄)へ合併され今に至る
この駅はJRと近鉄両方の駅員が駐在し、ホームで双方に乗り換えるという
そして、「みどりの窓口」がなくて駅弁販売所があるという日本唯一の駅
更にこの駅は明治二九年の開設、来年は一三〇周年、東京駅より古い
こんな山間の辺境地で百三十年以上前に鉄道を運営した先達に敬服する
因みに、吉野口駅の駅弁は一種類のみで、それはご存知「柿の葉寿司」
2014.12.19
旧制鞍山中学校ラグビー部

京都寺町にあるスター食堂・市場小路店の店頭風景
大正十四年創業のスター食堂は、京都を拠点に和・洋のレストラン十店舗を展開
和食文化の日本に本格的な”洋食”の道を切り拓いたという歴史をもつ
洛外の方には、JR京都駅・伊勢丹の上にある展望良好の「ジェイアール店」がお奨め
私が「スター食堂」云々とは、四代目社長が上田宗箇流の御弟子であり、料理が旨い故である
一昨日、昨日と忘年会が続いた
一昨日は宗家を迎え、写真のスター食堂・市場小路店で畿内の御弟子衆の納会
私も参加すると、私の前の席には古武道を嗜む当店四代目社長が和服姿で着席
酒席で塚原卜伝の伝書を広げ、弓をする宗家と四代目、私とで剣と茶の伝に話が咲く
私も和服姿であり、大正期の洋食屋の店内はこんな様子だったろうと、独り納得する
昨夕は囲碁教室の忘年会であった
私の席の周りの方たちは昭和の一桁世代、最長老は三年生まれの八十六歳
この長老、毎日五合の酒を飲んでいるとかで頭もお達者、私は押されっぱなし
皆さんが合意された話は、囲碁の棋風には打ち手の人柄や人生が出る云々
私は自然と背筋が延び、神妙に頷いた
長老の話に平成はない、「来年は昭和九十年やなぁ」という具合だ
長老の話を聞いていて、初めて知った興味深い話があった
長老は、満州生まれの満州育ちで、南満州鉄道経営の旧制鞍山中学出身
体格も身体能力もあり、ラグビー部に所属して全国大会にも出たとの話
「ワシの小学校の時、鞍山中学は台湾の台北中学と同校優勝やった」
「ワシらの時に、復当たったが今度は負け、台北が優勝しょった」云々
そんなことがあったのかと、家に帰りネットで調べると、あった
出場校が興味深いので掲載する
第二十三回全国中等学校蹴球大会
(現在全国高等学校ラグビーフットボール大会)
昭和十六年一月に兵庫県西宮市の甲子園南運動場で開催
<出場校>
札幌商業学校
秋田県立秋田工業学校
保善商業学校
三重県立松阪商業学校
大阪府立北野中学校
神戸村野工業学校
山口県立山口中学校
愛媛県師範学校
福岡県立福岡中学校
台北州立台北第一中学校
養正中学校
鞍山中学校
1回戦
愛媛師0-6台北一中
札幌商0-8村野工
松阪商8-14福岡中
秋田工3-3保善商(抽選で保善商が勝ち抜け)
2回戦
台北一中10-3村野工
北野中3-3鞍山中(抽選で鞍山中が勝ち抜け)
山口中3-6養正中
福岡中3-0保善商
準決勝
台北一中5-3鞍山中
養正中0-5福岡中
決勝
台北一中5-0福岡中
台北一中が6年ぶり2回目の優勝を果たした,
これ以降外地の学校の優勝はない
長老の云う小学校の時の話とは
昭和十年の第十七回全国中等学校蹴球大会
<出場校>
札幌商業学校
秋田県立秋田工業学校
早稲田実業中学校
京都府立京都第三中学校
兵庫県立神戸第二中学校
天理中学校
崇徳中学校
徳島県徳島中学校
福岡県立福岡中学校
台北州立台北第一中学校
京城師範学校
鞍山中学校[
決勝戦は、鞍山中3-3台北一中、引き分けにより同校優勝
どちらも初優勝で外地の旧制中学であった、台北一中は今も名門高校として残る
満州の鞍山中学は今は存在しない、[歴史の埋れ木」である、この違い含蓄がある
鞍山中学の同窓会幹事をしているというその長老
この前の同窓会は十人集まったと嬉しげに懐かしんでいた
元日銀総裁の三重野康は先輩だったと、これまた嬉しげに語った
2014.12.17
箸墓

箸墓(はしはか)古墳、奈良県桜井市の纏向遺跡にある前方後円墳。
宮内庁により第七代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定
三世紀中頃の築造とされ、邪馬台国女王・卑弥呼の墓と目されている
その名の由来は日本書紀・崇神天皇の条に、次の様に記されている
「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。」
忘年会の時期となって来た
最近は「宴会」型の席は流行らないようだが、私の脳裏には懐かしい宴会が残る
昭和三十年頃の話である、父親の職場で宴会があった夜は父親の帰りを待った
酒に酔って上機嫌で帰って来た父親は、家族に折詰めを渡してくれた
折には、家では口に出来ない「上等のおかず」が詰められていて嬉しかった
当時の宴会では持ち帰り用の折り箱を出すのが常であったようだ
参加者は自分の残したものを折りに詰めるのだが、ほとんどを持ち帰る人が多かった
漬物や汁だけで酒を飲んだようで、店も心得ていて、味噌や塩こぶを出していた
宴会では、皆は楽しそうに箸で小皿叩いて「チャンチキおけさ」や「お富さん」を歌った
そこでである、もうこの世から失せつつあるとは云え宴会の薀蓄、「箸」のこと
普通では、箸で皿を叩くと云うのは無作法千万、いわゆる「嫌い箸・忌み箸」とされる
その一覧を記載するので、今更ながら参考あれかし
(お箸の禁)
● まよい箸
どの料理から手をつけようかと迷い、料理の上であちこち動かすこと
● うつり箸
料理をいったん取りかけて、ほかのものに替えること
● ちぐり箸
汁物などのとき、椀の中をかきまぜて中身を探ること
● かき箸
茶碗や器のふちを直接口にあて、箸でかきこむこと
● よせ箸
箸で器を引き寄せること
● さし箸
箸で料理をつき刺して食べること
● よこ箸
2本の箸をそろえて、スプーンのようにすくいあげて料理をのせること
● なみだ箸
箸先から汁をたらすこと
● こみ箸
料理を箸で口に押し込むこと
● ねぶり箸
箸をなめること。あるいは、ロ中深く入れること
● たたき箸
箸で器をたたくこと、・・これがチャンチキおけさ
● にぎり箸
二本の箸をそろえて掌で握りしめること。器を取るときなどにしがち
箸の頭を親指で押さえると攻撃の意味になる
● ほじり箸
盛りつけを無視して、底のほうにある料理をほじくり出すこと
● すかし箸
骨つきの魚を食べるとき、中骨を通して下の身をつつくこと
● わたし箸
食事の途中で食器の上に箸(はし)を渡して置くこと
これをするともうご飯はいりませんという意味になる
おまけとして、合わせ箸がある
箸と箸が触れ合うことで、遺骨を拾う時の箸使いである
もう一つおまけとして、魚を食べる作法、魚は裏返してはいけない
片身半分を食べたら、箸で中骨を取って残りの片身を食べるのが作法
中骨を取る時は、指を魚に当てても良いとされているとか云々である
世界の食文化はイスラム・ヒンズー教圏等の手食四割、キリスト教圏等のナイフ食三割
そして東アジアの箸食三割の分かれるが、日本以外は箸と匙の併用である
つまり、箸だけの食文化は日本だけとされる
その箸文化の日本食は、世界文化遺産に指定されたとか巷の話がある
欧米人が判定する「世界文化遺産」がナンボのものかはよう知らんが・・
まま、茶事会席のこともあり、「箸」の扱いを取り上げた
卑弥呼の箸墓との繋がりや、如何
箸にも棒にも掛からん無駄口であったようだ
2014.12.16
未完の咲く丘

照り葉に侘助、開きかけだが許される範囲かと
茶花は満開の花より、咲きかけ、蕾(つぼみ)の色付きかけを好む
未完、未達、不完全の美という世界でも稀有な美の感覚である
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」・・
この藤原道長の歌に賛同する日本人は少ないようだ
壮大・豪華にキッチリ造られた西洋や印度・支那の庭園に圧倒されるが落ち着かない
それより、枯山水の庭園や坪庭の草花に心の安らぎを覚える日本人の感覚
珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」と云い、道長の望月とは違う感覚を説いた
恐らくは、生死観のあり方にまで行きそうな「未完・不完全の美」ということになろう
ソクラテスの時代から「今の若い者は」という言葉があったと云う
人は「未完・不完全」の輪廻転生を続けるのであろう
今回の総選挙、投票率五二%、戦後最低だとか
私の好きな童謡歌は、「ミカンの咲く丘」であるのだが・・
2014.12.15
仇花選挙

こんな時節に白鷺釣鐘草が一輪花を付け、寒風に揺れ動いていた
花と云っても、葉が白くなり花弁の役割りをするもの、半夏生と似た形態だ
時季外れに咲く花は「狂い咲き」とか「仇・アダ花」とか呼ばれている
「狂い咲き」とは時季の感覚が狂ったものということであろう
仇花とは、咲いても結実しない、実がならない花ということである
今回の総選挙、いったい何であったのか、投票率が戦後最低だという
実りのない仇花選挙と云われても、まま、仕方ないかも知れない
今日の産経新聞一面に、政治部長の記事で朝日新聞を皮肉っていた
投票日の朝日新聞の社説に記された文言
「民意は数の多寡だけで、はかられるものではない」とか
五年前の民主党が圧勝した総選挙での朝日新聞の社説には
「民意の雪崩を受け止めよ」とあったとか、気骨や矜持を失くした新聞は仇花だ
民主党は自由民主党に何故勝てないのか、答えは簡単である
名は人を表しす、民主党は民主だけで自由が無い、自由民主党にはある
自由の無い民主主義とは、多数決の横暴がまかり通る政治となる
北朝鮮や中共の人民民主主義では、全員賛成という光景をよく見る、オ・ト・ロ・シ
思うに、少数意見の尊重とは、あくまでも従であった主ではないと心得ることが肝要
今一つ、多数に対する少数という概念より、多数に対する多様という概念を持つこと
今回の総選挙で少数党は凹んだ、半数を占めた棄権者とは既存選択肢の拒否者
つまり、圧倒的多数である棄権者とは「多様者」であるのでは感じた次第
これからは多数と多様の折り合いになるのかもと、寝言を云う私
2014.12.14
投票日

カニサボテン、それともシャコバサボテン、葉にギザギザが見えるのでシャコかも
ブラジル原産、交配原種の違いでカニとシャコに区分しているとか何とか
クリスマス時期に開花するので「クリスマス・カクタス(サボテン)」とも云われるとか
さて、クリスマス前の十二月十四日、頃は三百十余年前の元禄十四年のこと
「元禄赤穂事件」、つまり「忠臣蔵討入り事件」があったのは舞台映画で知られる
その日(新暦一月三十日)は夜から雪となり深夜から未明には大雪が積もったという
青年将校の二・二六事件と赤穂事件、そしてクリスマスは雪の場面が象徴的である
この雪の深夜の決行事件、二つに共通するものは「義憤」であったように思われる
そして、もう一つ共通するのが、事件への挙を称える声が大きかったことである
だが最後は死罪となり、赤穂浪士は切腹、青年将校は銃殺となった
討入った赤穂浪士は「義士」と呼ばれ、幕府もその扱いに論を重ねたらしい
そして出された幕府評定は「義ではあるが、私闘」として断せられたとか聞く
赤穂事件の後日譚では、浅野内匠頭の実弟・長広は五百石の旗本に列される
大石内蔵助の三男・大三郎は広島の浅野宗家に千五百石で召抱えられた
青年将校のことは、吉永小百合と高倉健の共演映画「動乱」として世に残った
日本人の持つ「義」或いは「義挙」への法判断を超える「暗黙知」と云えるだろう
さて、本日は衆議院選挙、候補者も投票者も思想信条其々であろう
私は人の評価を「義」と「信」にあると思ってみている
「利他」より「自利」、烏合や野合を以って己の保身に走る外道は論外
手段であるハズの議員職そのものを己の「目的」と化する政治屋は不埒千万
その国のマスコミと政治家を見れば、その国民の程度が分るという格言(?)
投票を棄権するのは愚劣、白紙投票も立派な意思表示である
「自分に何をくれる」とだけ、上を向いて口を開けるのは、精神乞食と云えよう
そして、大衆政治家を標榜する輩ほど大衆を馬鹿にしているというのは真実
私は「大日本帝国共産党」に投票する
2014.12.13
逓信省

逓信省時代の郵便局の看板、こっちと指示するあたり、「お上」らしい
この「🏣」のこと、調べてみると云い方の区分があった
日本工業規格(JIS)において、「〒」は「郵便記号」(ゆうびんきごう)と呼称
「郵便マーク」は「〠」(顔郵便マーク)を指すとある、私は知らなかった
郵便が戻って来た、十円不足の貼り紙が付いていた
実は、書類送付の依頼人から八二円切手を貼った返信用の封筒を使ったのだ
「十円切手」なるものが家に無く、ついでもあったので近くの郵便局まで出掛けた
私が紙二枚の文を付けたのが重量オーバーしたようだった、五グラムほど・・
不足分十円の徴収に掛ける手間暇はと云い掛けたが止めた、ここは「お上」
そこは元特定郵便局、今は女ばかりの局で親しみもあったが、その日は違った
巡回員という御婦人が来駕されていたのだ、逓信省時代に入省されたような御方
表情は氷顔で、メガネの中の一重瞼から鋭い視線が周りに向けられている
他の局員はその御婦人と目を合わせないようにしているのが、私には感じ取れた
「十円の回収に何百円も掛けるとは、お役人感覚やな」と私は聞える独り言を呟く
不足分の切手を貼って手渡すと、その後婦人が私に向かって訓戒をタレなされた
曰く「封筒の形が歪んでいます、このままでは定形外の料金になります」
えっと思い封筒を見ると、テープで張ったため、二ミリほど筒の先が出て折れていたのだ
他の局員は押し黙っていた、復曰く「今回は認めますが、次から気を付けて下さい」
私は「ちょっとお待ち、今回は認める云々とは聞き捨てならん、そんな裁量とは何か」
と、突っ込みを入れようと思ったが、他の局員たちが申し訳なさそうにしている止めた
私は「相分かった、ところで逓信省が郵政省と電信電話省に分れた時のこと覚えてはる?」
その巡回員、「私は知りません」とメガネの中の一重瞳がキラリと私に向けられた
私は「律儀は律儀で通せば立派、自分の裁量で左右させるは以っての他」、とは云わず
「またな」と、皆の顔を見て静かに局を出た、巡回員の顔に笑みが無かった
私の頭には、終戦後の樺太・真岡郵便局で起きた悲劇が思い起こされた
ソ連軍に囲まれた郵便局で、律儀に、健気に、通信業務に殉じ、自決した乙女たちの話だ
2014.12.12
寝顔

我が家の愛犬「ハナ」の寝顔
ある本で、「寝顔にその人の本性が表れる」ということを読んだ記憶がある
その時は深く考えなかったが、ある時に気付いたのは「人の目」
これも他の本で読んだのだが、葭簀(よしず)の向うに居る人の仕草のことである
葭簀は立て簾(すだれ)とも云われ、日除けや目張りとして家の外に掛けるもの
部屋の内側からは外の景色や様子が透けて見えるが、外からは内側が見えない
外の人が誰も見ていないと思っても、実は内側の家人からは見られている
本では、拾ったものを懐に入れるのを、家中の皆は見ていたという話である
つまり、「人の目」を意識しない時の行動には、人の本性が表れるということ
最近目にした文句には、「寝顔と死に顔がその人の本性を表す」とあった
この話の受け止め方は如何なものであろうか
人目を意識している時の所作・行動と人目を意識していない時の所作・行動
それが同じものであろうとするのが、簡単に云えば精神修行というものであろう
茶祖・村田珠光が古市播磨法師に与えた一紙、「心の師の文」の意味かもしれない
「心の師とハなれ、心を師とせされ」、これは六波羅蜜経が原典とされている
「自分の心に惑わされず、己が自分の心を導け」とでも解釈するのであろうか
面白いことに、ある茶書には「独り稽古」を諌めたことが書かれている
独り稽古とは「人の目」が入らない、つまり自分の心だけで済ます稽古である
従って、自分の思う形や知らず知らずの癖が積もることを諌めたものである
私は時折、塾生の稽古に鏡を前へ置くようにする、独り稽古の効果はあるようだ
曰く「ガマの油稽古」、鏡で自分の姿を見たガマは自分の醜さに油を流す、あれだ
「心の師とハなれ」とは、自分の心を他人の目で見ることをいうのであろう
志学/而立/不惑/知命/耳順/従心と云う人生、「従心」があるのかどうか・・
男は、その寝顔まで責任を持つこと肝要、と勝手な理屈で〆る
2014.12.10
研ぎ

街路樹の下で日本水仙(にほんずいせん)、別名「寒中花」が一輪花を付けた、
「盾」の続き話になるが、「矛盾」という言葉の意味は日本では微妙である
どんな盾でも切り裂く矛と、どんな矛でも防ぐ盾、その矛でその盾の切り合わせ
日本では刃物の矛に軍配が上がる、そんな矛を防ぐ盾は手にすることが出来ない
何故なら、日本の刃物には世界に冠たる技術の文化があるということだ
砂鉄から取った「和ズク」に火入れし、叩き上げて鍛える日本の「鋼・刃金(はがね)」
その刃を天然砥石で波紋が出るまで研ぎ、各刃物に仕上げる日本の「研ぎの文化」
考えてみれば、日本刀を始め、日本建築の大工道具や工芸道具、日本料理の包丁
この日本の歴史・文化を支えて来たのは「刃物の研ぎ文化」であろうと思う次第
先日観たテレビに、外人達が日本文化への興味や関心を語る番組があった
その一つが日本人は背中を洗うが欧米では洗わないという話で、ここで紹介した
今一つが、包丁を研ぐということであった、日本以外に刃物を研ぐ習慣はないという
精々、肉屋で包丁の両刃をヤスリ棒で擦っている程度のものだろう
日本包丁は引き切りだが、洋包丁は押し切りということは良く知られている話である
然し、刃物を研ぐという習慣は彼等の日常生活にないという、これは考えさせられる
恐らく、彼等の「切る」とは「裂く・割く」というもので、打ち下し切り裂くものであろう
日本の包丁の引き切りは、日本刀にも云えることで、日本刀は突くか引き切りである
日本刀で一刀両断とは、手元近くで刃に当て、刀身全体で引き切るのが理想とされる
日本刀の斬り合いでは、相手の打ち込みを躱(かわ)し、相手の懐に入ることが技の真髄
故に盾は不要と云うより、剣技の究極では邪魔になったのであろうと類推する
昨日の続きとなるが、日本の戦技で防御を突き詰めると、「最大の防御は攻撃」となる所以
その思想を育んだものが「研ぎの文化」の刃物、「研ぎ師」なる職種は日本だけのものである
それともう一つ、「研ぎ」を仕上げる天然砥石は世界中で日本にしか産出しない代物だとか
なるほどに日本文化の特異性、文明は普遍へ文化は固有へということを示している
まま、残り少ない人生、シッカリ自分を研いでいきたいもの、ナマクラ包丁ながらも・・
2014.12.09
盾

表情の変化、五日の写真と比較あれ、エサを前に私の「ヨシ」を待つ愛犬「ハナ」
昭和一六年一二月二日に大本営発の「ヨシ」は、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」
そして、一二月八日未明の「ヨシ」とは、攻撃機からの「トラ・トラ・トラ」
「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」とは、「真珠湾攻撃は一二月八日」
「トラ・トラ・トラ」とは、「ワレ、真珠湾攻撃ニ成功セリ」、その時の攻撃機は
零式艦上戦闘機一二〇機、九九式艦上爆撃機一三五機、九七式艦上攻撃機一四四機
機種の頭の数字は皇紀の下二桁を表している、零式とは皇紀二六〇〇年制定機種
零式艦上戦闘機はレイ戦と呼ぶ、米軍呼称が「ゼロファイター」、「ゼロ戦」呼称は戦後のこと
よって、「ゼロ戦」で戦った日本の飛行兵はいない、この辺りキッチリと、百田はんは間違い
零戦の航続力・速度・旋回性・操縦性・攻撃力は当時の世界で頭抜けた戦闘機であった
但し反面、大きな弱点があった、それは操縦席・燃料タンク防御の脆弱性である、
大戦末期、米軍機の性能が向上すると零戦の防御の脆弱性が命取りとなり、敗色を深めた
実はこのこと、日本人の戦法として深い歴史があるように思われる
世界各地の刀剣・槍矛の戦闘に於いて、「盾」の発想が無かったのは日本の戦技だけだろう
欧州から支那まで、アフリカ・インドも盾を使った戦闘手法が普通であった
支那に「矛盾」という話があり、日本でも使われる言葉であるが、日本人には盾の発想はない
日本にあった盾とは、矢や弾を避ける「矢盾」や「竹柵」ぐらいである、あの隼人の盾も矢盾
日本では、片手で剣や槍を持ち、他方の手で盾を持って戦うことはなかったということだ
日本の戦技は相手の打ち込みを受け止めずに、躱(かわ)す姿勢をとるのが常のようだ
それと、日本の刀剣技は力より俊敏性を求め、刀剣の切れ味の良さは世界に比類がないとか
更に、欧州軍のように「集団戦」で隊を組み進むという発想も無く、個々の格闘を優先した
よって、日清・日露の戦いでは、日本刀と銃剣での白兵戦となると日本軍が圧勝した
元寇の役でも、鎌倉武士の刀剣格闘技が蒙古・支那・朝鮮兵を圧倒、上陸を許さなかった
零戦の開発思想の根には、日本人の持つ戦技思想が流れているように私は思う
今後の日本にとって、それを是とするか非とするか、黙考すべしであろう
2014.12.08
山崎

サントリーの「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013」
今、NHKの朝ドラ「マッサン」では山崎蒸溜所が完成した場面を放映している
時宜というか、三日発売の英ウイスキーガイドブック「ワールド・ウイスキー・バイブル2015」
サントリーの「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013」が世界最高のウイスキーとの評価
サントリーのウィスキー輸出も倍増しているらしいが、ニッカも六年で十八倍の輸出額とか
昨日の日曜組の稽古では、茶室・茶庭の歴史を少々座学、勿論「雪隠」の薀蓄も
然しと云うか、やはりと云うか話は糞尿処理の歴史と中世の欧州糞尿現実が話題となる
皆さんはハイヒールの薀蓄は耳にしていたが、落下傘スカートの所縁は初めて聞くとか
碾茶を石臼で挽き、芳香の漂いの中で糞尿歴史の話、皆さん頷きながら一服を喫す
次に話題は大河ドラマ「黒田官兵衛」の話に移り、俳優の立ち振る舞いが云々される
胡坐や安坐から直接立ち上がることが出来る俳優が多いのは何故だろうということ
我々の世代になると無理なものだが、俳優はやっているのは日頃の訓練かと感心しきり
私は籠城戦も要は「水の確保」と「糞尿の処理」にあることを云おうとしたが止めた
実際、会津若松城の降伏開城も、城内に排泄物が満ち溢れ、処理が出来なくなった所以
硫黄島の戦いで地下陣地の日本軍を苦しめたのも「水の確保」と「糞尿の処理」
米軍は軍用犬に臭いを嗅がせ、日本軍の居場所を見付け出す戦法をとった
最後に塾生が、これまた時宜か、歳暮にと「スコッチウイスキー」を取り出された
夕餉は広島から届いた牡蠣に舌鼓、早速に「スコッチウィスキー」を手にする、甘露
朝の「マッサン」が楽しみだ
2014.12.07
雪隠(せっちん)

茶庭の露地にある「雪隠・せっちん」、つまり便所・厠・東司・御不浄・はばかり、トイレ
外露地のものは「下腹雪隠・したばらせっちん」と云われ、実際の用の使われた
内路地のものは「砂雪隠・すなせっちん」と云われ、飾りとして観るだけとされた
将棋で云う「雪隠詰め」とは逃げ場を失う状況、まま、フンヅマリとは云わない
臭い話になるが、中世の欧州の家では便所がなかったということである
糞尿の用足しは桶(オマル)であった、その糞尿桶が溜まると外に捨てるだけ
一階二階もなく糞尿を窓から路上に投げ捨てたのである、いやはや
そのため、街路は何時も糞尿にまみれ、臭気芬々たる有り様であったらしい
フランスの貴婦人が糞尿を避けるために考えたのが「ハイヒール」であった
つまり、裾を引きずらぬように高く、糞を踏みつける踵部分を小さくということ
常時四千人が居たと云われるベルサイユ宮殿にも独立した便所は無かった
便器桶が二百余り有っただけだという、それで皆は部屋・廊下・庭のそこかしこで
あの落下傘形のスカート、女性が用を足す際にソレを隠すのに考えられたもの
婦人がハイヒールを履き、落下傘スカートで庭の花いじりをする姿は、用足し姿
まして、顔を洗っても体を洗う習慣が無かったという文化、真に臭い話の世界
桃山時代に日本に来た宣教師が驚いたのは、便所の文化であった
江戸時代の京・大坂・江戸という日本の大都会は糞尿処理が円滑に為されていた
云わば、有機物リサイクルとして、周りの農村へ有料で渡していたのである
代金もソコソコとかで、借家の糞尿は大家の取り分とされていたという
こんな一句が残っている
店中の尻で大家は餅をつき・・・(店中・たなじゅう=借家人)
現在の日本でも、外人が驚くものの一つに「お尻洗浄便器」がある
桃山時代の茶の湯に、「雪隠」の飾りがあったこと、正に日本文化の粋である
頭隠して尻隠さずの人には、努々(ゆめゆめ)投票しないこと
2014.12.06
校歌そのⅡ

川エビ、瓶の底にその姿が視認される、持つ指と比べると大きさが分る
先日、囲碁仇の同級生宅を訪問した時のことである
下の息子さんが東京から戻って来ることになり、奥さんが荷物の整理に行ったとか
その時に、川エビを入れた瓶を渡しされ、これは持って帰ってくれと頼まれたと云う
川エビの飼育が一種のブームとかで、一匹三百円すると聞かされた
そして、川エビの販売で数千万円稼いだ人もl居るとか何とか・・
云われてみれは、私も川エビを目にしたのは小学校以来かもしれない
小学校の頃の遊びは、半ば、おやつの食糧集めであったような気がする
山では、柿・栗・アケビ・グミ・銀杏・蜂の子・筍・山芋・サギの卵・畑のスイカ・ウリ等
時には「マツタケ」、親は何処で採ったか聞いたが、私は本能的の口をつぐんだ
川や池では、鮎・鰻・モロコ・アマゴ・沢カニ・鯉・鮒・ドジョウ・ドブ貝、タニシ・菱の実等
そして川エビであった、小川に入り晒の手拭いを広げてのすくい獲りである
手拭いの中のメダカやミズスマシ・ゲンゴロウは捨て、川エビはそのまま口にした
手網ならもっと多く獲れたが、遊びの途中では手拭いを代用していたものだ
川エビに懐かしい思いが蘇ったのも、「校歌」と題した先日の小学校同窓会の名残り、
その稿に、廃校となった自分の小学校の「校歌」をブログの書き留めておきたいとした
今日のニュースで、同じ思いの人達がいることを知った、「ハヤブサⅡ」の延長話である
「ハヤブサⅡ」と共に小型衛星三基が打ち上げられたとか、その一基の話である
>今年度で閉校になる長野県の中学校の校歌と全校生徒の名前が11月末、宇宙に旅立つ。小惑星探査機「はやぶさ2」とともにH2Aロケットで打ち上げられる超小型人工衛星「しんえん2」に、生徒が記したプレートが搭載される。母校の閉校を知った開発責任者の発案で実現した。<
>「学校がなくなって寂しく思ったら、宇宙をみてください。そこにみなさんの中学校がある」。長野県佐久穂町の八千穂(やちほ)中学校で9月にあった記念式典。しんえん2の開発責任者の九州工業大(北九州市)の奥山圭一教授(51)が全校生徒124人を前に語りかけた。<
「ハヤブサⅡ」のことで、陸軍戦闘機「隼」その後継機「鍾馗」の写真を掲載したが拍手無く
自分の「感性のズレ」に凹んでいたところでこのニュース、私の胸は熱くなった
「私の感性」、捨てたものでもないと気を取り直した次第(凸)
2014.12.05
感性のズレ

孫娘に耳飾りを付けられて、憮然としている我が家の愛犬「ハナ」
向うに見えるのは酒の空瓶、日本酒・焼酎・ウィスキーと私は拘らないタチ
でも、少々へこんだのはブログ記事に対する拍手の数
「ハヤブサⅡ」の打ち上げ成功に鑑み、糸川英夫氏と「隼・はやぶさ戦闘機」のこと
今一、知られていない「隼」の後継機・「鍾馗・しょうき戦闘機」のこと
時宜と心得、写真記事にしたのだが、四〇人余りの訪問者で拍手が三・四人
酒同様、拍手や風聞にも拘らないタチだが、「ハヤブサⅡ」ではへこんだ(凹)
自分の感性が、世の趨勢とこれほどズレがあったとは・・
前に、孫娘と愛犬「ハナ」の写真を載せると拍手が二桁あった。。。
2014.12.04
陸軍三式戦闘機「飛燕・ひえん」

陸軍三式戦闘機「飛燕・ひえん」、日本戦闘機初の水冷式エンジンを搭載
機体はスマートであったが、エンジントラブルが多かったとのこと
「飛燕」の設計者は糸川英夫技師ではない、故に「隼」の後継機とは云い難いかも
それでがどうか、「ハヤブサⅡ」の後継機は決まっていないことが杞憂されている
「ハヤブサⅢ」開発の早期着手が望まれる
2014.12.04
陸軍二式戦闘機「鍾馗・しょうき」、

陸軍二式戦闘機「鍾馗・しょうき」、設計者は「隼」と同じく糸川英夫、つまり「ハヤブサⅡ」
設計者の糸川英夫技師は、戦後の著書に次の様に記している
>『一式戦闘機「隼」は時宜を得て有名だが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である』<
云えば、速度は世界最高級で急降下性能と上昇力が傑出しているが
旋回力と操縦性に劣り、戦闘機搭乗員には不評であったとか
然し、米軍の日本機検査試乗では高い評価を得たと云われる
私の思うところ、糸川技師は当時から「ロケット志向」だったのだろう
さて、小惑星探査機「ハヤブサⅡ」は昨日種子島から発射され宇宙へ向かった
地球へ帰還するのは六年後の東京オリンピックの年だとか、無事を祈る
2014.12.04
陸軍一式戦闘機「隼・はやぶさ」
2014.12.03
校歌

近所の垣根から千両の赤い実が顔を出していた
日曜日の小学校同窓会でのこと、もうひとつ
最後に皆が起立し、校歌を記した紙切れを手に校歌を合唱した
校歌の字面を目で追うと、ポツポツとその文言と在りし日の記憶が蘇って来た
不思議であるが、曲も口が覚えていたように歌えた(^^)
この校歌、聞いた話では二〇年ぐらい前までは歌われていたという
廃校となってしまい、この校歌を知る人は年々減っていくことになる
ここに掲載しておきたくなった
大淀第三小学校 校歌
作詞・岸田定雄、 作曲・大西三市
(一)旭かがやく この丘に
高見の山を 仰ぎては
心は高く ゆるぎなく
よき町人と 生い立たん
よき町人と 生い立たん
(二)柳さやけき 美吉野の
六田の淀を 下に見て
若鮎のごと 軽やかに
すこやけな 身と鍛えなん
すこやけな 身と鍛えなん
(三)日は金剛に 沈みゆき
世尊寺の鐘 遠なれば
太子の教え 胸に秘め
良き家の子と 育たなん
良き家の子と 育たなん
2014.12.02
稽古後の論壇

昨日の稽古の床、花はトルコ桔梗
秋篠川の畔で適当な花が見つからず、花屋さんで買うたもの
昨日の稽古に、卒塾者が見学希望者を連れて来られた
折角故に、碾茶を石臼で挽き茶を点てて差し上げた
見学者は、「普通の抹茶とは違った味わいで、これも好い」とか
恐らく、パウダー状の市販の抹茶にない粒々とした舌の感触のことだろう
卒塾者、「碾茶そのものは見た目が海苔のようで、食べても海苔の味がする」
とか云いながら碾茶を手の平へ、そして取り口に運び日本酒に合うとツブヤク・・
塾生の稽古が稽古が終わってから、私は生駒の日本酒の一升瓶を出した
車座になると、私のブログの話になり、論壇風発
卒塾者は、「推敲不足が目立つ、誤字脱字で意味不明のこともある」云々
塾生諸氏は、「前後関係から意味は略推量できる」とか庇ってくれる(TT)
「確かに、推敲努力が足りないのは自覚する、今後気を付ける」と私・・
小学校の同窓会の新聞記事切り抜きのこと、奈良新聞で見たという話だった
私は産経なので知らなかったいうと、どの新聞がどうのこうのと喧々諤々・・
その後、茶碗の絵の大和三山の話になり、橿原に住む神官の塾生の曰く
「ブログにあった畝傍山と耳成山の位置関係は逆、記事修正をされたし」云々
奈良の塾生曰く「平城京から見たらブログの通りや、南の見方と逆」と庇ってくれる
私が「山の形からすれば、私の書いた通りやろ、どや作者?」と陶工の塾生に訊く
陶工の塾生、「山の形からすれば、井谷さんの云う通り、配列は気にしなかった・・」
あれよこれよで、一升瓶は空いた、ツマミは甘納豆・きんつば・黒砂糖餅
酒は「ごん狐」はんのコメントで知ったものと明かす、糖尿の私に親切な人ばかり
投稿四時間後にブログを開いて分ったミスは六箇所、私の推敲不足は略病気
2014.12.01
ハナへのメール

娘の赤子と共に眠る我が家の愛犬「ハナ」
これでも出自は由緒正しい日本犬保存会の柴犬、本名「竹姫号」
今朝、そのハナ宛にメールが入っていた
>竹姫号様
井谷直人氏のブログで、ご健勝ぶりを、拝見いたしております。
天敵?らしい井谷氏のお孫さんとも、関係御修復の様子、陰ながら喜んでおります。実のところ、イヌは狼以来の群を作る動物としての本能から、序列意識が非常に強く、飼い犬は、新たに飼い主家庭をも含めた成員の序列のどこに自分を位置付けるかで、不測の事故が起きやすいことは、良く知られていますが、万が一、噛みつき事故でも起こらないか?と少し心配しておりましたが、杞憂に終り、ほっとしています。<
ときどき、コメント投稿を頂く引退したと云う医師、御本人曰く「廃医師」はんからである
まま、私の畏敬する御仁で、その博覧強記ぶりと諧謔ぶりには、常々感服するところ
番外乍ら、一稿とす
2014.12.01
キズナ

蒲公英(たんぽぽ)の向うで、仏の座(ほとけのざ)が小さい花を付けている
十年ぶりぐらいになる吉野の小学校の同窓会へ参加、好い時間を持てた
今は廃校となったが、また存在すれば校歴が九十年近い小学校であった
前の同窓会は、残されていた校舎が無くなるという時に学校へ集まった
皆で学校跡を訪れ、校舎や運動場、樹木に懐かしく接した後、会食をした
一年生の夏から三年生の夏までしか居なかった私は、何となく会話の外であった
今回は会場に入ると、「やぁ、井谷君」と何人から声が掛かり、会話が弾んだ
二学級七十名で、死亡確認者十二名、今回出席は二八名、男女ほぼ半々
今回の同窓会で思ったのは、同窓会には二つの種類があるということだ
昔の話に興じるというか、今のことや卒業後の話が少ない同窓会、そして
「今何している、その後どうした」という、今の立ち位置に興味を示す同窓会
前者には小・中学校の同窓会、後者には高校・大学の同窓会が多いように思う
恐らく前者は、地域や家族・親戚まで一緒になった村社会の話になり、
後者は、個人関係の人生譚というか、立身が話題の共有軸となるためであろう
どちらがどうだと云うことでは無いが、私は小・中学校の同窓会に気の和みを覚える
今回、隣に座った女の子(?)から、ホッとする話を聞いた
彼女は、新聞切り抜きを大事そうに取り出し私に見せた、それは投稿記事であった
投稿主は、同じ小学校の先輩同窓生の女性であった、話は小学校の同窓会からだ
当時の小学校は弁当持参であったが、昼食時になると何人かは消えた、私も記憶する
弁当を持って来ていないというか、持たされていないのである、家が貧しいためだ
臨席の彼女の家も貧しかったが、女の子だから親が弁当を持たしてくれたと云う
しかし、彼女の従兄は弁当が無く、昼食時間になると運動場で水を飲んでいた
その従兄は、遠足の時にも弁当を持たずに行ったが、昼食の時のこと
一人の女の子が、自分が持って来たゆで玉子一個をそっと彼に渡したという
当時の玉子は、バナナと共に高級品で、普通では食べられなかったものだ
それから幾星霜というか何十年して、その従兄の学級でも同窓会が行われた
初めて出席した彼女の従兄は、その話を皆に披露し、ゆで卵のことに感謝の意を伝えた
そして、同級生全員を彼の経営する北海道の牧場へ招待をしたということである
彼はどういう人生を歩んだか知らないが、北海道で大きな牧場の経営者になっていた
その新聞切り抜きの投稿記事、投稿者は彼にゆで卵を渡した女の子、その人であった
その切り抜き記事を私に見せた彼女は、記事を仕舞った後、私にポツンと云った
「キヅナという馬、知ってはる?、あの馬、従弟の牧場の馬やねん」
私もボソッと言った、「うん、聞いたことある、・・・よかったな」
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