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2015.12.31 年号
最も短い日本の法律は「元号法」
第1項: 元号は、政令で定める。
第2項: 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める(一世一元の制)。
昭和54年6月6日に国会で元号法が成立、同月12日に公布・即日施行

この法律では、元号の使用に強制はない
朝日新聞が1976年(昭和51年)1月1日に、毎日新聞が1978年(昭和53年)1月1日に、読売新聞が1988年(昭和63年)1月1日に、日本経済新聞が1988年(昭和63年)9月23日に、中日新聞・東京新聞が1988年(昭和63年)12月1日に、日付欄の表記を「元号(西暦)」から「西暦(元号)」に改めた
産経新聞や一部の地方紙、およびNHKのニュースのように本文中は原則元号記載、日付欄は「平成22年(2010年)」の様に「元号(西暦)」という順番の記載を行っている

元来、元号は支那王朝の政治的支配の正統性を象徴するという観念を表すもの
支那皇帝が空間と共に時間まで支配するという思想に基づく
「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件
よって、支那大陸では時の王朝に反逆するものが立てた元号を「私年号」と云った
支那周辺国で、支那帝国の元号を使用せず、独自の元号を続けたのは日本とベトナム
然し、支那そのものもベトナムも元号を使用しなくなり、今では日本だけのものとなった

世界には年を数える紀年法が三通りあるとされている
一つは、紀元から経過念年だけで終わりがないもの
西暦(キリスト暦)、イスラム歴、仏暦、インド暦等だが、これも面白い話がある
インド暦以外は零年がない、つまり数え年、インド人は零を知っていたのだ
キリスト暦は誕生、仏暦は入滅から数えている

二つ目は先述の元号だが、今では日本だけ
三つ目が干支、十干十二支の循環年法である
今年は乙未(きのとひつじ、いつび)、来年は丙申(ひのえさる、へいしん)

この三つとも使用する国は日本だけである
私の年賀状は元号でなく、干支にした
この二日ほど「朝鮮人慰安婦問題の合意」が喧しい、合意文書はないという
どうせ動くゴールコートであろうが・・、つい思い出すのが「拉孟守備隊の娼技」
昭和十九年六月二日から九月十四日までビルマ奥地と雲南を繋ぐ戦場の秘話
そのことを示す記事を二・三抜粋してみた

「拉孟(ラモウ)に散った花」。これは、中国の雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近「拉孟」で、五万人もの敵兵を相手に、僅か千三百名の将兵で百日余りも戦い、玉砕した「拉孟守備隊」の戦記であるとともに、「慰安婦」の物語でもある。実は玉砕した守備隊には、二十名の「慰安婦」も含まれていたのであった。
この地が激戦となる前に、彼女たちを脱出させようと苦慮した守備隊長・金光恵次郎(野砲兵第五十六連隊第三大隊長)に、「私たちは拉孟守備隊の母であり、妻である」として、脱出を拒んだ彼女たちは、守備隊の一員として戦い、五名の朝鮮人慰安婦だけを逃がし、全員が拉孟の花と散ったと言われている。

少しでも敵を釘付けにすることが目的の戦いであり、武器も無く、傷痍の中で日本兵の戦い抜いた、ただ「死」のみが戦闘の終結を意味していた。この日本軍の戦いぶりは、敵の総司令官であった蒋介石をして「諸子はビルマの日本軍を模範とせよ」と言わしめ、これが敵将からの「逆感状」と呼ばれたのである。そして、「拉孟守備隊」は強いだけではなかった。「慰安婦」たちをどうにかして助けたかった男たち。その男たちを見捨てることは出来ないと、軍服に着替え、看護や物資の運搬に奔走した女たち。また、五人の「朝鮮人慰安婦」を脱出させたことも見逃せない事実だ。

玉砕したのは、いずれも日本人「従軍慰安婦だ」ったが、彼女らは死ぬ直前
「あなた達は何も日本に義理だてすることないよ」と「朝鮮人従軍慰安婦」に投降をうながし、
ある者は自ら(※原文は「自から」)死ぬ勇気がないからと将校に拳銃で射殺してもらい、
ある者はわざと敵弾の中に身をさらして自決していった。

投降した中の一人が、あの悪名高き「女性国際戦犯法廷」において「日本兵の自決の巻き添えになるのを恐れ、逃げ出した」「私たちは置き去りにされた」と証言している。「逃げた」のか「逃がした」のか、その論議はあまりにも虚しい。ただ、彼女たちを死なせなかった「日本人慰安婦」を含む守備隊兵士たちの「優しさ」に敬意を表するのみであり、また彼等の慈悲を踏みにじるような所業には、怒りを通り越し、憐れみすら感じてしまう。しかし、そんなことよりむしろ、守備隊と共に戦い、玉砕した女性たちは、その時すでに「慰安婦」としてではなく、まさに「兵士」として最期を迎えたのであり、彼女たちは靖國に祀られたいと願ったのではないか、という思いが頭をよぎる

雲南で玉砕・散華した朝鮮人「慰安婦」について言えば、今や無言の彼女たちと、いつまでも「恨」に囚われ、叫び続ける元「慰安婦」との対比では、その評価を歴史が下すことになる。
儒教と科挙の歴史で形成された文化は、修辞が発展しすぎ、舌先三寸のずる賢さを賢さと見なし、正直者がバカを見る偽善を助長した(アジア的停滞)。愚直で騙されたが、その運命を受けとめて実直に頑張った純情で一途な生き方を省みず、恨みつらみを言い続ける者を殊更に取り上げ、政治や外交に利用・悪用することは、「恨」というコンプレクスを歴史や伝統にして、民族を傷つけ不幸にするだけである。

拉孟陣地内で自決した日本軍守備隊(米軍撮影)、中に二人の女性の死体があったとか、労しい
(写真は元旦未明に削除したが、近日再掲載する)
2015.12.28 母猫に感動
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母猫「スカーレット」のことを初めて知り、胸を打たれた
炎の中に五回も飛び込み、全身を焼かれながら子猫を救ったとか

http://grapee.jp/14646

この話に、私はアメリカ先住民の「子育て四訓」を思い起した

一、乳児はしっかり肌を離すな
一、幼児は肌を離せ手を離すな
一、少年は手を離せ目を離すな
一、青年は目を離せ心を離すな

納得する訓示である

とか思いながらPCを覗いていた昨夜のこと
実は、NHK番組「DNAから探る日本人の祖先」というのを見るつもりでいた
然し、女房殿は「フィギュアスケート全日本選手権」を観るとテレビ前に陣取っている
「フィギュア選手権」は七時からで、「日本人の祖先」は七時半からである
私は、「ほんならワシはタブレットで観るわ」、と寝床に入ってタブレットを点けた

気が付くと翌朝の五時半、タブレットは付いたまま、私の辛抱は半時間もたなかった
確かに私は昔から寝付きが良い、それを健康的と云うか能天気と云うかは微妙
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舟木一夫の「高校三年生」、昭和三十八年の大ヒット曲である
丁度その当時のバリバリの高校生の私達は来年には「学年同窓会」を開催する予定
私は、元旦配達の期限である一昨日に学級の同窓生宛に賀状を兼ねた案内状を出した

以前の学級同窓会とは、連絡が取れる者同士の親睦会的な集まりであった
然し、学年同窓会という「公けな会合」となり、各学級に召集責任が生まれると話になった
最初の学年同窓会では、大広間に十数人掛けの円卓を並べたが、学級毎の人数が違った
五人ぐらいが坐った学級、三十人近くが円卓二つをくっ付けている学級という状況が生まれた

学年同窓会での良さはある、一年時や二年時に同じだった連中と会える懐かしさである
ただ、会全体の進行に気が取られ、学級の「仲間内の会話」が疎かなになる物足りなさもある
そこで今回、遠方者の前泊を以って自分達の学級だけで前夜祭をする企画を立てた
依って、その通知と迎春の慶賀を兼ねた葉書を出すことになったと云う次第

同窓会での話題、年を経ると共に変遷があるように、つと思うことがある
三十歳前後では、「おまえ今何してんねん、あいつ何しとんねん」という近況探索が定番話題
そして、話題の主になるのが当時のマドンナと優等生、それと悪ガキと教師の噂であった
四十歳前後となると、職場での仕事や女房子供という家庭のことが話題の中心になった
五十歳前後となると、其々が得た立場や社会的評価という少々誇りや妬みが混ざる
還暦にもなると、病気と年金、孫の話が主流になったが、そこに互いの人生の決算が見えた

我々は芋洗いの団塊競争世代としてこれまでの人生過ごし、ようやく暮れなずんで来た
あのことも、このことも皆免罪、虚心坦懐で自分の人生・想い出に向き合える年齢になった
競争も比較も対立もない、皆と「人生ノーサイド」の同窓会を迎えたい
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七面鳥、アメリカ原産、この数日は世界中で大量殺戮の憂き目にあったであろう
まことクリスマスとは七面鳥の厄日と云える、

調べてみると、クリスマスに七面鳥を食べる習慣を持ったのは、当初のアメリカ移民だとか
アメリカ大陸に辿り着いた当初の移民は、食糧難で餓死寸前の状態だったという
見かねたアメリカ先住民から七面鳥を与えられ、移民たちは命を繋いだそうである
後に、先住民へ七面鳥の返礼をして、クリスマスに自分達も七面鳥を食べたが始まり
このアメリカ移民の風習が欧州にも伝わり、クリスマスの定番食材になったらしい
ターキーとは、アフリカからトルコを通ってヨーロッパに紹介されたホロホロ鳥を指す言葉
つまり、七面鳥とホロホロ鳥の呼称が混乱したままで今に至っていると云う話

ところで、世界の大多数の国でクリスマスは休日ということらしいのだが
驚いたのは、ヒンズー教大国のインド、イスラム国家のパキスタン、仏教国のスリランカ
という旧英国植民地や、支那赤色帝国もクリスマスが休日である、勿論キリスト教国・韓国も
更にびっくりポンは、イスラム国(ISIS)の割拠するシリアやイラクもクリスマスが休日
アジアのイスラム国家のインドネシアやマレーシアもクリスマスが休日である、ビックリ

実は、我が日本も昭和二年から昭和二十一年まで十二月二十五日は休日であった
勿論、キリスト誕生の祝日ではなく、大正天皇の崩御の祭日、つまり先帝祭の国忌である
飛鳥時代に制定された大宝令における規定では国忌の日は主上廃務、斎戒が行なわれた
明治維新の後、これに替わって神武天皇祭と先帝祭とが特に国家の祭日とされた
キリスト教国家に於いては、クリスマスは祭日とされているのだろう
戦前の日本には祝日と祭日の区分があったが、今は祭日がなくなり祝日の休日だけである

日本のクリスマス催事は、横浜の「明治屋」が明治三十三年に東京出店で行ったの嚆矢
そのクリスマス催事も国民の間で一般化するのは先の大戦後のことである
昭和の三十年代初めは、精々靴下にサンタの贈り物が入っている日という程度であった
ケーキを手に下げたオッサン連中がイブの街中でドンチャカ騒いでいたのは四十年代以降
今は、バカ騒ぎも見かけなくなり、日本の真面な日々に戻りつつある
そう云えば昔、私は「明治屋」の御曹司社長・磯野はんとひと悶着の想い出を持つ
その老舗商店「明治屋」も、今は三菱食品へ実質的に吸収合併された、まま、過去皆善
2015.12.24 喪服の色
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寒さに耐えながら申(猿)の年明けを待つ猿夫婦(?)

先日のNHK朝ドラ「あさが来た」の大旦那の葬儀シーン
未亡人となった奥方や嫁の「あさ」が着ていたのは白の喪服だった
そして北の湖理事長の葬儀では奥方は黒の喪服であった、
どちらが当を得た服装かと、昔は喪服は白が日本の常識であった
では何故、今の日本では黒の喪服が主流というか一般化したのか
それは、明治大帝崩御に殉じた乃木希典大将の葬儀からと云われる

本来、日本の葬儀に於ける基調の色とは「白」であった
服装も葬台も、囲われる幕も全て「白色」とされていた
それが乃木の葬儀には列国の要人が多く、皆が黒の喪服で参列
以後、日本の上流階級では洋装時の喪服は黒とするのが定着する
大正四年の皇室令では宮中参内の喪服として「きものは黒無地紋付
帯は黒の丸帯、帯留(帯〆)は丸ぐけの白※、帯揚げは白※、足袋は白
履物は黒草履」と指定される、(※二次大戦後、黒に統一)
これにより、国民の風習も黒色の喪服が一般化して定着することになった

そもそも論的云えば、未亡人となった婦人の喪服は「白」が本来となる
白無垢の結婚衣装で嫁いで、亭主が死ねばその袖を詰めて喪服とする
それは「貞女二夫に見えず」、即ち「再婚はしない」という意思を示すもの
そして、自分が死ぬ時には死装束とにて着用するようにしたのであった
最近では、中村勘三郎の夫人が白喪服を着用し、話題になったとか
まま、話題になること自体、その慣習が絶滅寸前にあることを示すが・・

下は昔の法事の写真、学生服以外は白の喪服を着用している
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2015.12.23 「ハナ」失禁
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昨晩は夫婦で大阪に出掛け、冷えて帰って来たので柚子風呂で温もった

我々夫婦が夜遅く帰って来たので、愛犬「ハナ」が私の寝床に来た
私が寝ようとすると、女房殿が「あれッ」と待ったを掛けた
「ハナ」が私の掛け布団の上で小便を漏らしたのである
成犬になってからの「ハナ」は、家で小便をすることは一度も無かった
やはり、「ハナ」も歳かと哀しくなった
掛け布団と毛布を外すと、「ハナ」は傍で申し訳なさそうに横たわった

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知人から届いた京漬物「すぐき」

すぐき(酸茎)は酸茎漬け(すぐきづけ)とも呼ばれる京都の伝統的な漬物
蕪(かぶ)の別種・酸茎菜(すぐきな、別名・酸茎蕪)の葉とかぶらが原材料
現代の日本では数の少ない本格的な乳酸発酵漬物、澄んだ酸味が特徴
「柴漬」、「千枚漬け」と合わせて京都の三大漬物と呼ばれている

会席稽古では、この「すぐき」を香の物にするつもりでいた
さぁ、炒り米粥の湯桶を出す段になって、この「すぐき」が見当たらない
炊事場を探し回ったが見つからない、ままと自家製の千枚漬けを出した
ぶぶ漬けに千枚漬けは合わないが、仕方ないとあきらめてもらった

会席稽古が終わり、皆を送り出してから、残り酒で一杯飲もうと思ったその時
冷蔵庫の奥からこの「すぐき」が出て来たので、切って独り酒のツマミにする
最近、物忘れがひどくなった、ものを何処に置いたかなんぞ常に忘れる
何かするつもりで立っても、立った瞬間に何か分らないことがシバシバ
「さて、どちらさまで」、と女房殿に云ってみよう
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有頭エビの背ワタを抜く塾生、前掛け姿がぎこちない

塾生の稽古は和服姿が原則、この日は、着物にタスキと前掛けとしていた
塾生の前掛けが腰下エプロンだったので、私の古い胸元前掛けを貸した
その古い前掛けを付けた塾生(手前)がポケットに手を入れると、ゴキブリのフン
併せて冬眠中(?)の生きたゴキブリも起きて出て来た、数匹連れもって
サスガにその塾生、私の古い前掛けを外し、手を洗って奥方の前掛けを付けた
普段着に前掛けという姿のままでの茶事会席稽古と、ついなってしまった

昨日は会席の調理稽古をした、献立は
「菜飯と汁」
大根の葉と松山揚げをゴマ油で炒めてダシ醤油で味付けし、炊いた飯に混ぜる
味噌汁は最初は冬瓜、次にナメコ汁で汁替え、汁味も変えるのが原則だが省力
向う皿はブリの造りと菜の花の芥子の実和え、の予定だったが・・
ブリの身が無残に崩れたので、茎ワサビと醤油漬けにして掻き混ぜる
塾生は骨付きブリを捌いたが、骨と身と皮が略同量に分解、身はボロボロ
私が柚子を買い足しに出掛けた半時間の隙の出来事だった
出刃包丁で皮から身を削ぎ取ったとかで、皮にはタップリ身が付いていた
勿論、骨も身がシッカリ残っている、塾生曰く「アラ煮にすれば旨い」云々

「煮物」は柚子釜蒸し
柚子の中身を取り出し昆布を敷いた柚子釜にエビ・ホタテ貝と野菜を入れる
野菜は、下味を付けた椎茸と春菊・銀杏、出し汁は吉野葛仕立てとした
その具の入った柚子釜を蒸し器で八分ぐらい蒸して、柚子汁を掛ける

「焼物」は、ボロ身になったブリを塩焼き、柚子の中身を被せ、見た目ゴマかす
次には、出し汁に薄く塩味を付けで梅アラレを落として箸洗いの小吸い物
箸洗いとは、箸に付いた生臭ものを洗い落すための汁である
最後は湯桶、洗い米を狐色に炒り、湯を入れて粥状に炊いて香の物と出す
今回は「取り肴」、千流でいう「八寸」は取り止め、というより忘れた
「取り肴」とは、山の物と海の物を八寸の木地盆に載せて出す「おつまみ」
酒と共に出すもので、乾き物、つまり手でつまむことが出来る物が原則

本日の調理はここまでとした
茶事の段取りと流れにかまけて、料理の証拠写真を撮り忘れた、慙愧

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普段着に前掛け姿で、自分の手になる会席料理を出し、引く塾生
後輩塾生の濃茶点前が始まると、盆に酒と料理を載せて塾生が席に入る
調理稽古が終わった心地良さもあってか、当該塾生は一人で酒をガブ飲み
その日の稽古は一時間余り遅れて終了、まま、無事ではなかったが・・
身がタップリ付いたブリの骨と皮を「ブリ大根」にと二階で鍋を掛けたが
・・忘れて焦がした
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友人の炭焼窯と取り出した炭、多くは樫の木であった

昨日は塾生の車で友人の炭焼小屋に行き、炭を窯から取り出した
入口が二尺(60㌢)程度の炭焼き窯に入り、内から外を見た時の第一印象は
硫黄島の洞穴陣地にこもり、米軍を迎え撃った日本軍の思いであった
これで、外から手榴弾を喰らったり、火炎放射器で焼かれては堪らんと実感
炭は少々焼き過ぎの感があるが、まま、稽古炭になると有難く頂戴する

息子に会社の社長職を譲った友人が、奈良東山中の里山で炭焼をしている
奈良の歴史書物や資料関係の印刷や発行をする会社で友人は二代目
そして、息子に三代目を継がしたということで、里山で炭を焼き狐や狸と遊ぶ
彼の追求したテーマは「室町の奈良」で、奈良時代の奈良は奈良でないとか
日本文化の濫觴(らんしょう)の地は室町期の奈良であったという彼の見解
確かに、能楽や舞、墨と連歌、茶の湯、清酒、和菓子等々が奈良で萌芽
友人は、奈良に伝わる文化史料というべき店や工房を取り上げた雑誌を発刊
この雑誌は奈良県外からも評判を生み、友人の面目躍如となる

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炭焼小屋にあった七輪陶芸の一式、手前の機械は七輪に風を送るブロア
友人は、これで自分の湯呑や皿、ぐい吞みを焼いている
因みに、「七輪」とは関東用語で、上方では「かんてき」と云う
まま、悠悠閑適(ゆうゆうかんてき).の生き様であろう
2015.12.18 南洲翁遺訓
無題
大阪の夜、北新地の風景

前の記事にスマイルはんから早速のコメントが入った

「敬天愛人」が「天は自ら助くる者を助く」という英国人の自助努力を尊ぶ気風と見做すなら、美田を残さないことも、己の足らざるを自問することともピッタリ一致するのですが、「我を愛する心をもって人を愛するなり」というのは、夜の銀座の隣の席から聞こえてくるセリフのようで。それではカネがかかるだけかと。それでもたしかに「寧耐は事を成す」のか・・


Wikipediaの解説には注釈[19]とあり、西郷の直接の言葉ではないようだ
旧庄内藩の藩士達によって刊行された「南洲翁遺訓」にある解説文とか
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天 を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」

なるほどに、こんな文言を西郷ドンが自ら口にすれば、人品ガタ落ち
確かに、「敬天愛人」という言葉の理解も少々ずれているようだ
さすがにスマイルはん、真贋を見抜く慧眼に感服、私は看過していた
私は「夜の銀座」を知らぬ故、隣席のセリフを聞いたことがなかった
一度、北新地にでも行って耳をそばだててみようか、弁当持ち・・女房連れで
2015.12.18 敬天愛人
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東京・上野に建立された西郷隆盛の顕彰銅像、連れているのは薩摩犬「ツン」雌犬である
西郷隆盛、身長五尺九寸余、体重二十九貫何百とある
すなわち、身長が約一七九センチ、体重が一〇九キロ強、

夫婦同姓を定めた明治民法が施行された明治三十一年の今日、十二月十八日が銅像の除幕式
西郷隆盛、日本人なら全ての人が知っている歴史上の超有名人
今更云々すべきこともないが、私がその人物像として面白く思うのは名前である
実は、西郷隆盛とは父親の名前と同名である、その理由が面白い

王政復古の章典で位階を授けられる際に、親友が誤って西郷の父・吉兵衛の名を届けた
そこで西郷、それ以後は父の名を名乗ったという、如何にも西郷の人となりを感じる話
西郷の名(諱)は、元服時には隆永(たかなが)、つまり、本名は西郷隆永であった
少し、西郷語録も記す

「敬天愛人」
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」[19]
「児孫のために美田を買わず」
「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
「急速は事を破り、寧耐は事を成す」
「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」
「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」

人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。

鹿児島・城山で死んだ時、満四十八歳であった西郷隆盛、敬服に値する人物である

2015.12.17 夫婦の姓
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日本狸の夫婦、十年前位には裏の神社の森に狸の子連れ夫婦が居て、我が家に来ていた
ここ数年の間に外来種のアライグマが現われ、狸一家は行方不明になった
一夫一妻制で一生添い遂げる動物は全体の3%とか、狸は身近な一夫一妻制の動物

今日の新聞の一面に、「夫婦同姓・合憲」と出ていた
最高裁の裁判官十五名の中、賛成が十名で反対は五名、女性裁判官三名は皆反対とか
世論調査では「夫婦別性の賛成51・4%、反対42・3%」、夫婦別性を希望するか否かでは
「希望しない81・6%、希望する13・9%」と出たそうで、何とも面白い結果である
どうも、日本の夫婦はずっと「夫婦別性」の慣習であったことが忘れ去られているようだ
そして実際に、明治九年の太政官指令でも妻は生家の姓を用いること、とされたのである
それが百年前の明治三十一年に明治民法が制定され、初めて夫婦同姓になったということ

つい、姓名のことを調べてみた
日本では飛鳥から平安時代まで「氏・うぢ)」「氏名・うじな」「姓・かばね)」があった
「藤原」が氏であり「朝臣」が姓、女子には生家の氏を称した「刀自売・とじめ」があった
中世には、いつしか「姓・セイ」と呼ばれ、荘園の名田の名が「名字・みょうじ」となった
「源」は氏であり「足利」が名字である、その名字が「苗字」とも書かれたとある

江戸時代には、士分以外の者は一部を除き氏・苗字を公式に使用することが認められなかった
但し、あくまで「名乗る」ことが禁止されていたのであり、氏・苗字を持つ庶民も多くいた
苗字は必ずしも生涯不変ではなく(本姓を除く)、何度も変えたり、屋号を称する者もいたとか
女子の氏も苗字も、実家の父方のものを名乗るのが一般的であったようだ
また、妻の死後実家の墓地に「帰葬」する習慣が北陸から東北にかけて広く分布する

まま、色々あったということだが、夫婦同姓とはキリスト教思想の夫婦一体の観点から生まれた
プロテスタント色の強いドイツでは夫婦同氏が強制されて、それが西欧で一般化したとかいう
儒教色の強い支那・朝鮮では夫婦別姓で、女性は血族の一員として認めないという考え方
さてさて、頭で理解をしても感情が付いて来ないと云っても、ここ百年の夫婦同姓の慣習である
最高裁の女性裁判官三人全員が夫婦同姓を憲法違反と断じたとか、ヤレヤレの思いである
女性裁判官の頭には「男女同権、個人主義」という戦後民主主義の悪しき残滓があるのだろう
メンドリが啼くと家は滅ぶとか、これも歴史が教えるところ
2015.12.16 スマホ猿
スマホ猿
この写真、お題が「サルでも分るiphon」 「スマホ猿」

温泉に浸かりながら、携帯をいじり画面を見る目は猿とは思えない表情
確かに、猿と人間のDNAは98・5%が同一とか聞く
私はiphonとスマホの違いが分らない男で、携帯も「親指人間」である
その親指も、まどろっこしく動かすのが精々という「オジン操作」
電車やバスの中で見る若者が携帯をいじる親指の動きには驚かされる
携帯のブラインドタッチという早業で車席のあちこちで黙々と親指を動かしている

ふと思ったのは、車内で本を読む人の姿を見なくなったことである
電車の中の光景が様変わりしているのだ、活字離れの実態であろう
先日、交通事故にあった大学の先輩をOB達と一緒に見舞った際のこと
一つ上の先輩から携帯メールでの連絡のやり取りであった
私が「電話すれば、早くて分り易いのに」と不平を云うと、その先輩曰く
「メールの方が記録が残り忘れない、最近歳の所為で物覚えが悪くなった」
私も物覚えが悪くなったのは人後に落ちないが、メールは面倒という感覚

病院で会ったその先輩の持ち物を見て、私は何とも云えない気持ちになった
先輩の持ち物とは、親指携帯とスマホにアイパット、それにノートパソコンである
これはネットに繋ぐもの、これは受信だけ、これはメールに云々カンヌンである
私には、加湿器と除湿器を併用して持ち歩いている感じに思えたのだが・・
我が残りの人生、猿にも及ばぬままで行くしかないと思う、今日この頃
2015.12.15 広島牡蠣到着
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広島の知人から広島牡蠣(カキ)が直送されて来た

海の岩に着生する二枚貝で、岩から「かきおとす」ことから「カキ」の名がついた
食用にされるマガキやイワガキがよく知られるが、食用にされない種も多い
どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通である
船にとって船底に着生して抵抗となる固着動物は大敵といわれる

私は広島に居た頃、港の牡蠣打ち作業をよく見かけた
浜のオバチャンがヘラ状の金属を使い、アッと云う間に殻と実の分ける
惚れぼれする手捌きで、次から次へとポンポン空き殻を積み上げていく
見事というしかない職人芸であり、飽きもせず眺めていたものである

この牡蠣殻、内殻を砕いて潰すと真っ白な粉状になる
その粉を、我が流儀では牡蠣灰と云い風炉の灰に使っている
恐らく、我が流儀だけの独特なものであろう、他流では聞かない
今は、この牡蠣灰の作ㇼ手が減り、入手が難しくなりつつある

丁髷(ちょんまげ)の鬢(びん)付け油職人が居なくなり相撲部屋が困窮
我が流儀にとり、牡蠣灰は相撲部屋の鬢付け油と同様だ云えるもの
由って、私は少し買い置きをしている、勿論買い占めという量ではない・・
2015.12.14 伊勢本街道
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今朝の「あさがきた」では、大旦那夫婦が「暗峠」を越え奈良から伊勢へ行きたい云々
実はこの土曜日、私は知人夫婦の車に同乗して「伊勢本街道」を通っていた
近鉄橿原神宮駅で拾ってもらい、明日香から宇陀へ入り、曽爾村・御杖村を抜けた

奈良から伊勢に至る道は複数あるが、最短コースが「伊勢本街道」と呼ばれる道
奈良・猿沢池から出発し、三輪、宇陀、を経て山田(伊勢)に到る約百三十キロの街道
「伊勢本街道」とは、倭姫命が大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれる道
いわゆる「太陽の道」とも云われた“神意に叶う道”として西からの参宮者が多く利用した
しかし、伊勢本街道は距離的に短いが険しい山道が多く、利用者の減った街道である

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途中の人家で日本猿の家族(?)が、車には慣れた様子で道に出て来た
車の速度を緩めながら行くと、遅れた一頭がこちらを無視して何かゴソゴソ始める
そう云えば来年は猿(申)年、まま、早めのお出ましであろう

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脇の人家の前には日本水仙(にほんずいせん)が咲いていた
地中海原産で平安時代に日本に渡来した、花言葉は「想い出」
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靖国神社
靖国神社は、明治二年明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まり
国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えること
その目的に創建された神社である

ここ数日のテレビ・新聞では韓国人の「靖国神社爆破」というニュースが目につく
この韓国人、韓国へ戻りながら日本へ即再入国というのは韓国政府の茶番であろう
この報道がらみで、一つのことを私は思い起した
神社参拝での祈りと誓いの文言である

「平和を祈る」とか「不戦を誓う」云々、おかしな文言である
世情というか、何というか、常々疑問に思うところ
英霊への本来の祈りと誓いの文言とは
国のために命を落とされた英霊に対し、「安らかに眠られることを祈る」
そして、「再び国難あれば、後に続くことを誓います」
・・・、であろう
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花蜜を吸うアゲハ蝶、蝶々(てふてふ)には茶花と共通するものがあると私は思う

蝶々は其の種類により大きさや色・文様が多くあり、我々の目を楽しませてくれる
そして何より、その可憐さと風景を彩る姿は植物の花に優るとも劣らない
蝶々の数え方は「頭・とう」、一匹二匹でも一羽二羽でもなく、一頭二頭である
蝶の採集は「お頭付き」が大事とか、或いは採集を狩猟に見立てた慣習からとか云々
私が思うに、蝶は一輪二輪、一片(ひら)二片、一舞(まい)二舞とかで数えたいもの

八日は二次大戦の開戦日、真珠湾攻撃のことが少々テレビの話題になっていた
最近では、一次大戦のことが話題に上がることがほとんど無くなっている
私の想い出の洋画は二本、「エデンの東」と「西部戦線異状なし」である
多感な思春期(私にもあった)に観た所為か、今も感動場面が記憶に残る
その二本の映画の時代背景は、共に一次大戦であった

「エデン東」では、主人公(ジェームズディーン)に恋人を奪われた兄が欧州戦線へ志願
戦争反対の兄が、酒を飲んで軍用列車に乗り込み、町を去るラストシーンが胸を打つ
「西部戦線異状なし」は、一次大戦の西部戦線に投入されたドイツ軍志願兵の話
戦場で負傷し帰郷するが現実に葛藤、再び志願して戦線に戻り戦死する
主人公が塹壕の射撃口から見えた「蝶々」に触れようと手を伸ばし、撃たれるラストシーン
伸ばした手が地面に崩れる映像に字幕、「西部戦線異常なし、本日は報告すべき件なし」

https://www.youtube.com/watch?v=iru-Amt0Op4







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風呂場で丸洗いされた愛犬「ハナ」、陽溜りで毛繕いをしている
関守石があれば人が入って来ないと知る「茶犬」

今朝の天気予報では「本日快晴、日中は気温上昇」と報じられた
秋口以降、「ハナ」を洗っていなかったので本日決行する
散歩に連れ出す際に、昨日の風呂の残り湯に「追い焚き」のスウィッチを入れる
戻って来て風炉の湯に手を入れると温いので、私は冷えた体を温めることにした

裸になって湯に入ると底の方が冷たい、尻を浮かし温度が上がるのをジッと待つ
暫らくすると女房殿が「何してはるの?」と風呂場まで見に来た
私「風呂に入ったが、底が冷たいので温くなるまで出られへん」
女房殿「あっそう、ほな一人で朝ドラ観てますので」と云って去る

漸く風呂が沸き、体を温めることが出来た
湯上げタオルを腰に巻き、「ハナ」を捕まえて風呂場に連れてくる
湯を掛け、犬用ノミ取りシャンプーを手に付けてハナの体を洗う
ひと洗いする毎に「ハナ」は体を振るわし泡を飛び散らかすのであった

私は泡だらけになりながらも、「ハナ」の丸洗い完了
ハナ用のタオルで拭き上げると、また最後の身振るいをし、スタコラと出て行った
外での様子を見に出ると、陽溜まりで横たわり関守石の前で毛繕いをしていた
まま、天気が良いので風邪はひかんであろうと捨て置く
然し思うに野生の温泉猿、温泉から出た後の体拭きはどうしているのだろう
真冬の山中は夜の寒さが厳しく、風も冷たかろうに・・
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我が家の路地(露地)の紅葉した楓、ぼちぼち暮れなずんで来た

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手水の左横には手燭石(手水の左)がある、右横は桶石だが写真に入らない
手燭石が使われるのは、手燭を使う「夕ざり」と「夜咄」の茶事、云わば今日の主役i石である
当流は手燭石を左に置くが裏はんは右、表はんは当流と同じ、流儀でマチマチである

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床には白バラを挿した、写真は今朝の物なのですっかり開き切っている

夜会の茶事には白い花を使うことが多い、暗闇では赤や青色の花は冴えない故
茶花は棘のある花は棘を取るとされているようだが、私は在るがまま棘付で使う
棘を失くしたバラなんぞ、サビ抜きのにぎり寿司を食うようなもの、つまらん講釈無用
正午の茶事等の普通の茶事では会席に軸、後の茶席に花だが、「夕ざり」は逆

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豚汁の残り鍋

数寄屋で炭点前を終えた後、奥方衆も参加されるので広間で会席をする
折敷には飯と向付、そして蓋を付けないままの空の煮物椀を出す
向付は「かえる庵」で貰った辛味大根を下ろし、湯通しした生カキに載せ柚子ポン酢
昨日から仕込をしていた豚汁の土鍋を広間の炉に据え、私が煮物椀に粧(よそ)う
結構好評でお替りが続き空っぽになりかけ、ハタッと気付いた、私の分が無い
そのことを私が云うと、ある塾生曰く「残り汁に餅を入れて煮ると旨いですよ」
私「・・・、そうやな、ほなそうするわ、教えてくれておおきに」、粧う木杓を置いた
云われたように、その夜の私の食事は豚汁の残り鍋に餅を入れ、一人食した、

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藤原定家の、いわゆる「三夕」の一つで秋の夕暮を詠む色紙を掛けた

清少納言も「秋は夕暮」と書いていたように、 秋の情趣は夕暮れこそ深まるものとされた
然しながら、「秋の夕暮」の用例は万葉集にも古今和歌集にも見当らないという摩訶不思議
ともあれ、「秋の夕暮れ」の和歌が「夕去り茶事」には好かろうと思って掛けた次第
会席から茶席になると、陰から陽の席となり、簾を外して日の明りを入れるのが普通
もう日が落ちた「夕去り」ではそれは詮無い話であり、簾は付けたままにすると話す
それが後輩塾生が簾を外したので、私が云うたことを聞きなさいと声を大きくすると
「我々は数寄屋の中に入れないので、連子窓の外から見させてもらいたいと思いまして・・」
私は納得して、「少々寒いけど、我慢してや」と声を和らげる

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暗闇の中での点前が始まった、写真を撮っても和蝋燭と菜種油の燈火が写るだけ
暗闇の中での点前とは、加減が見えないので、目を閉じた状況に近いものがある
つまり、目を閉じても点前が出来る力量が求められると、塾生は身を以って知った
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今日は「夕ざり茶事」の稽古、蝋燭(ろうそく)と菜種油の灯火に使う道具を出した
手前から、露地行灯(ろじあんどん)と手燭(てしょく)、和蝋燭、燭台、吊り灯籠(木製と陶器)
短檠(たんけい)と雀瓦(すずめかわら)、するめ瓦、油注ぎ(腰に付けられる形)
白い糸状の灯芯(とうしん・イ草の芯)、そして一番向こうが一升瓶に入った菜種油、
露地行灯に洋蝋燭を立ているのは、和蝋燭との色や形の違いを示すため

「夕ざり」茶事とは晩秋から冬にかけて、日も短くなった頃にすることが多い茶事
蚊が居なくなる時分に、夕暮れと夜の燈火(ともしび)を味わう茶事ということ
「夕ざり」は「夕去り」と書き「ゆうさり」とも云い、趣きのある名付けと思う
出す料理は温いものが喜ばれるので、私は昨日から豚汁の準備にかまけている
もっと遅くの、日暮れから始める茶事は「夜咄・よばなし」の茶事と云い、夜半までやる
殆ど「夜宴」に近く、酒と料理にしゃべくりの茶事である、明け方の虚ろな行灯がオツ
しかし、私は夜咄の稽古はしない、稽古が稽古で無くなるのがその所以である
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カタバミ(方喰・酢漿草)の花、その三枚葉が家紋に使われている
繁殖力が強いことで、一族繁栄の目出度い吉兆の印とされのがその所以

最近の女房殿はNHKドラマ「あさが来た」にハマっている
朝昼の二回、その時間になると朝食と昼食に合わせてテレビを観るのが常態
女房殿曰く「脇役に良い役者を使うてるし、『あさと姉』のダブルヒロインがええ」
高い視聴率になっているようで、私がハマった昨年の「マッサン」も超えたとか

そこで、ヒロイン「あさ」を調べてみると、出自は京都油小路出水にあった三井家とか
出水三井家は東京に移って小石川三井家と呼ばれる三井十一家の大処である
「あさ」、本名・広岡浅子は女実業家して知られるが、一方で女性教育者でもあった
日本女子大は彼女の創設、そして御殿場の私塾では市川房江や村岡花子を教えた
実は、京都油小路出水には我が上田流の京都稽古場があり、ちょくちょく出向く所

「あさ」の旦那、広岡信五郎(劇では新次郎)は謡いと茶の湯を趣味とした「粋人・すいじん」
明治の財界人は茶人仲間が多く、その集まりから事業が生まれることも多々あった
新五郎が粋人仲間と作ったのが「尼崎紡績会社」、後の「ユニチカ」で信五郎は初代社長
この話に、実は意外な事実を知った、兵庫県である尼崎の電話局番が「06」ということ

明治二六年六月三日 尼崎紡績取締役会決議録として残る文書には
「大阪出張店より大阪電話交換局まで社費を以て電柱架設の落成のうえ、
逓信省へ上納方出願すべく事」、とある

信五郎たちは、自費で大阪電話交換局から同社の大阪支店と本社まで電話回線を引いた
電線と電柱の工事をして尼崎市に寄付、これが尼崎市における初の電話回線開通であった
自腹でインフラ投資をして地域に寄付する感覚、東京とは違う上方商人の心が現われている
その後、昭和二九年に尼崎局の大阪局編入が決定、八年後の市外局番整備の際でも
大阪市と同じ「〇六」が割り当てられたという歴史経緯、兵庫県にあっても尼崎は「06」局番
今となっても局番を替えないところがエエ話、上方「粋人」の心意気が小役人にも分るらしい
まま、茶人話としては嬉しいもの、独り合点の納得か・・
2015.12.02 同性結婚?
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子育て中のペンギン夫婦、巣をつくるペンギンのツガイは一生添い遂げるという
巣をつくらない皇帝ペンギンは都度つど相手が替わる例外とか(写真)

海老名市議会の鶴指眞澄市議のツイッター発言が問題視されたという
同性婚を肯定的に伝える朝日新聞の記事に対しての以下の発言である
「異常人間をほめるような記事を掲載したりすることが多いが、マスコミの責任感のない記事掲載が問題だ」
「同性愛は異常なのだ、異常なことをすることを取上げる必要はない」
「最近のマスコミの報道は倫理観に欠けている、何でも珍しいいことがあれば良いネタのようにして報道する」
「一例が同性愛とやらだ!生物の根底を変える異常動物だということをしっかり考えろ!」

この発言のどこが問題なのか私には分らない、至極真っ当な話と思う
古来、結婚とは一族の繁栄を願って、其々の家族を代表して結ばれるもの
「二人の幸せのために結婚」云々とは、本旨が分っていない軽薄者の利己主義
人間も含め、動物の結婚とは子づくり子育てを本旨としている
由って子供に恵まれない夫婦には、辛いものが有ると思うが夫婦の証と絆は同じ
それを「愛が有れば」「二人の幸せ」のために同性結婚を、認めろ、認めてやれ
こと更にそれを取り上げて騒ぐ似非言論人、似非人権論者、「異常」の一言である
思うに、同性愛は個人の趣味であろうが、社会が同性婚を受け入れることは変態

ペンギン夫婦の話をネット記事より転載
>ペンギンが繁殖する(夫婦になる)のは、「陸で生活する期間」です。
この時、陸に上がるのはオスが先です。オスは陸に上がると、まず巣を作ります。
そしてその状態でメスを待ち、やって来たメスと結婚するのです。
生まれた子どもが大人になると、ペンギンたちは「海で生活する期間」に入ります。
この時、ペンギンたちは夫婦バラバラに海に戻り、小さな群れで暮らします。
さて、「海で生活する期間」が終わり、「陸で生活する期間」になると、オスは去年と同じ場所に巣を作ります。
そして、そこで去年の妻を待つのです。
メスの方も、陸に上がると去年の巣の場所へ戻り、そこでオスと再会します。
ペンギンたちは互いの声を覚えているので、メスはたくさんいるオスの中から、去年の夫を見つけ出す事ができるのです。
つまり、ペンギンは、毎年毎年同じ相手と結婚をしている、というわけです。
しかし、まれにオスが怪我などの原因で、陸に戻れない事があります。
こうなると、メスは去年の夫と再会する事ができません。
するとどうするかと言うと、新しいオスと結婚するのです。
しかし、ここからがペンギン夫婦の固い絆の見せ所。
渋々新しいオスと結婚したメスですが、たまに、去年の夫が帰ってくる事があります。
するとなんと、新しい夫を捨て、去年の夫と結婚をしなおすのです。
ただ、この光景が見られるのは、巣を作るペンギンのみ。
巣を作らないエンペラーペンギン(皇帝ペンギン)は例外です。 <

皇帝ペンギンは足の上で卵を孵し、雛を育てるらしい
動物園のマゼランペンギンは、高齢になり繁殖をしなくなっても夫婦仲が良いとか
プールサイドで待ち合わせて、一緒に巣へ帰って寝るという老後を過ごすらしい
人間でも、老夫婦の愛の姿には美しい感動を覚えるものである
巣づくり、家庭とは何か、結婚の原点を考えること肝要