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管理人は、アメリカ南部・ルイジアナ住人、伊勢平次郎(81)です。
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05/09
アイランダーズ・沖縄(その1)


沖縄戦は、最初で最後の地上戦であった。多くの沖縄島民が巻き添えとなった。日本国民も、米国民も、沖縄県民の反米・反戦感情を理解しなければいけない。そして、“なぜ、アメリカ~日本~アジアにとって、在沖縄米軍の存在が重要なのかを理解しなければいけない。反米感情と中国の脅威という現実との妥協を必用としている。本日から「アイランダーズ」シリーズを連載します。伊勢平次郎 ルイジアナ







小沢・鳩山民主党は、「米海兵隊普天間基地を沖縄県外か国外へ出てもらう」と沖縄県民に公約した。政権交代を果たすために、沖縄県民を騙したのである。県民が怒るのは当然である。一方、市街が、滑走路の見えるところまで接近した環境は、基地近くの住民に苦痛を与えている。騒音と墜落の危険である。アメリカはこれを理解している。だから、名護市への移設を協議してきたのである。現行案が最良であることは明らかだ。

普天間飛行場

普天間飛行場(Marine Corps Air Station Futenma)は、日本の沖縄県宜野湾(おぎのわん)市にあるアメリカ合衆国軍海兵隊の飛行場。通称は普天間基地(ふてんまきち、MCAS FUTENMA)で、地元宜野湾市民は単に「基地」と呼ぶ。2,700mの滑走路を持ち、嘉手納基地と並んで沖縄におけるアメリカ軍の拠点となっている。

地理

宜野湾市は沖縄本島中部、那覇市の北約10kmにある。普天間飛行場は宜野湾市大山二丁目に所在しており、その面積は約4.8km2である。これは宜野湾市の面積(19.5km2)の約25%にあたる。

所属部隊

第1海兵航空団司令部飛行隊
第36海兵航空群普天間航空基地飛行隊
第36海兵群第152海兵給油輸送飛行隊
第36海兵群第262海兵中型ヘリコプター飛行隊
第36海兵群第265海兵中型ヘリコプター飛行隊
第36海兵航空群軽/攻撃ヘリコプター飛行隊
第36海兵航空群重/ヘリコプター飛行隊
第31海兵遠征部隊第262及び265中型ヘリコプター混成飛行隊

歴史

戦前、飛行場が建設される前のこの地域にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地であった。また本島南部の那覇や首里と北部の国頭(くにがみ)を結ぶ交通の要衝でもあり、琉球松の並木道が続いていたという。水や交通の要衝であったことから,戦前は「宜野湾」,「神山」,「新城」という集落が街道沿いに存在していた。特に旧宜野湾は宜野湾村の中心で多くの民家が建ち並び,松並木街道沿いには郵便局,宜野湾国民学校,役場等の公共機関や商店などもあった。また,畑作が営まれる丘陵地には「屋取集落」と呼ばれる旧士族が開墾のため開いた散村形態の集落も分布していた。

1945年 - 沖縄戦の最中に、宜野湾(おぎのわん)一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊の発注により中頭郡宜野湾村(現・宜野湾市)の一部土地を接収し、2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された。

1953年 - 滑走路が2,800メートル(9,000フィート)に延長され、ナイキミサイルが配備された。

1960年 - アメリカ陸軍からアメリカ海兵隊へ移管された。民有地については、琉球政府が住民から土地を一括で借り上げたうえで米海兵隊に又貸しをし、軍用地料(基地・飛行場の土地賃借料)についてはアメリカ側から琉球政府に支払われたものを住民に分配する方法が採られた。

1972年 - 沖縄返還がなされた際、事務が琉球政府から日本政府(防衛施設局)に引き継がれ、飛行場は引き続き存続することとなった。現在でも、普天間飛行場が占める土地のうち、およそ9/10は私有地である。このため、年間61億円を超える賃借料が地主に支払われている。(ウイキぺディア)

                               ~続く~
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