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管理人は、アメリカ南部・ルイジアナ住人、伊勢平次郎(81)です。
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仲井眞の恐喝に応じてはならない(その1)
noda nakaima 2.26.12

仲井眞 弘多(1939年8月19日 ‐ )は、現沖縄県知事である。日米の、または、台湾の安全保障上、沖縄本島が戦力的に重要な島であることを知っている。これが、恐喝の種なのだ。つまり、仲井眞の本質はヤクザである。仲井眞は、丁寧にアタマを下げている。だが、首相の野田佳彦(1957年5月20日 - )が“うぶ”に見えるだろう。“野田を生かすも、殺すも、俺次第”と腹の中で思っているのだ。野田が説得出来るような尋常な輩(やから)ではない。伊勢平次郎 ルイジアナ






沖縄県は戦略的な位置にある
                        


県庁所在地である那覇市の1000KM圏内には、台北、福岡、上海、福州、1500KM圏内には大阪、ソウル、マニラ、香港等があり、東アジア・東南アジアと日本との接点とも言える位置にある。この地理上の位置が在沖米軍の駐留する理由なのである。ウイキぺデイア、その他の資料を参考とした。伊勢

49の有人島と多数の無人島から成り、0.01 km²以上の面積を持つ島は160島ある。最東端から最西端までは約1,000 km、最北端から最南端までは約400kmと、広大な県域を持つ。離島が多いものの、離島の医療は人材的・経済的理由から不足気味であり、病院がなく診療所のみという島も多い。そのため、離島で治療できない急患患者の沖縄本島への空輸を陸上自衛隊や海上保安庁が行っている。なお、宮古島、石垣島には県立の総合病院が設置されているため、それらの島の周辺離島での急患は沖縄本島ではなく宮古島や石垣島に搬送される場合もある。

沖縄本島の中部・南部は那覇市・沖縄市を中心として都市化・人口集中が進んでおり、全面積の約5分の1に110万人以上が居住している。そのため人口密度は全国で第9位で、三大都市圏の都府県を除くと福岡県に次いで2番目に多い。


沖縄県の概要

日本列島の南、南西諸島の内琉球諸島を占める地域である。気候は大部分の地域で亜熱帯に属し、多良間島・石垣島・西表島・与那国島・波照間島・沖大東島などでは最寒月平均気温が18°C以上の熱帯に属する。

歴史的には、明治時代の琉球処分まで、日清両属の琉球王国であった。そのため、他の都道府県とは異なる文化・習俗が根付いており、これらを生かした観光産業が盛んである。また、国内有数の長寿地域としても知られ、その食生活などが注目を浴びる反面、アメリカ統治時代に根付いた食文化が深く太平洋戦争では地上戦(沖縄戦)の末に米軍が占拠したことから、1972年(昭和47年)まで一貫して米軍の施政権下に置かれた。復帰後の現在でも多くの米軍基地が存在しており、重要な政治問題となっている。現在、普天間飛行場の移転先を巡る論争が続いている。


中国人の沖縄県に対する主張

中華人民共和国(中共)および中華民国(台湾)では、沖縄を琉球と呼称し~今も日本の領土であることを認めない主張がある。

一部のメディア、歴史学者、政府・軍関係者、その他の中国人が、“琉球処分や沖縄返還を国際法上の根拠はなく合法的主権がない” “中国も主権を有している”という主張をしている。

2005年4月18日

中国北京市で反日デモがあった際は、「沖縄を中国に返せ」と書かれたビラが出たと、沖縄県の沖縄タイムスが報じた。

8月1日

中国の国際問題専門誌・『世界知識』は、「戦後の日本による米国からの琉球接収は国際法上の根拠を欠き、その地位は未確定のままだ」と主張した。時事通信は、中国のメディアに沖縄の日本帰属に疑問を呈する論文が登場するのは異例だと報じた。

2009年12月

中国北京市で中国人歴史研究者らによるシンポジウムが開かれた際に、日中歴史共同研究の中国側委員も務めた北京大大学教授・徐勇は、「明治政府による琉球併合も、戦後の沖縄返還も国際法上の根拠はない」との主張をおこなった。

これに対し、琉球大学名誉教授・上里賢一は、「徐教授は過激な反日派ではないのに、こうした議論を展開している。中国政府も、中国共産党も、公式見解と異なる主張を黙認しているのが怖い」と話し、「米軍普天間飛行場の問題が焦点化した時期のシンポジウム開催に、意図的なものを感じた」として、参加を断った。

早稲田大学特別研究員・三田剛史も、徐教授のような議論は戦前に多かったが、戦後は息を潜めたとし、今世紀に入り、「中国は沖縄に対する権利を放棄していない」と主張する研究論文が発表され始め、関連した論文は06年以降だけで一気に約20本も出た、と話した。また、論文急増の理由を「研究の自由の幅が広がったからとも、沖縄の基地問題を巡る日米両政府への反発をにらんだ動きとも考えられる」と分析し、「日中関係や基地問題の行方次第で、さらに広がるかもしれない」と指摘した。

2010年6月

2009年9月、菅直人首相が喜納昌吉に対し、「沖縄は独立した方がいいよ」などと語っていた事が判明し[5]、一部の中国のネットサイトは、絶賛したり、「沖縄は一度独立させ、中国の属国にしよう」との意見があった。また、複数のサイトでは日本の主権には正当性がない、とする「沖縄奪還論」が多数あった。

8月26日

中国網(チャイナネット)で、清華大学学者・劉江永は、歴史及び国際法上、日本は沖縄を強制的に併呑したのであり、合法的主権はないとし、「中国は沖縄を取り戻すべきだ」と言っても、それはまったく滑稽な話となり、中国政府はかつて沖縄に対して主権を有したことはなく、中国が沖縄を取り戻すことには歴史的根拠に欠け、国際法上の支持もないからだと主張した。その上で「中国政府も一貫して沖縄が日本に属することを認めてきた」と指摘。一部の学者は、中国は沖縄を取り戻すべきだと主張しているが、それは民間の極めて少数の意見に過ぎず、しかも中国の主流の声または中国政府の姿勢を示すものではない、と主張した。

また、中国社会科学院日本処の学者・呉懐中は、中国も沖縄に対し主権を有しているとした上で、「中国の学者が中国は沖縄の主権を取り戻すべきだと主張することは、空騒ぎする日本の学者にとって警告となる」とし、「中国の学者が沖縄を借りて日本を反撃することは、歴史的角度または現実的角度から見て、日本に対しては完全に過度に非難できない刺激となり、中国が発言権を取り戻す上でも大きな助けとなる」と主張した。

9月18日

中国北京市の反日デモの際に、「琉球を返せ」と書いた、Tシャツやプラカードを掲げて主張した。

9月19日

中国商務省研究者・唐淳風は「環球時報」で、“沖縄は明治政府が19世紀末に清国から奪い取ったもので、日本政府は今も沖縄住民の独立要求を抑え込んでいる”とし、“かつての琉球王国住民の大部分は福建省、浙江省、台湾付近の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだった”とした。また、魚釣島については“中国領であることは明白で、日本には中国と話し合う資格もない”と主張した。

これに対し、宮崎正弘は、“中国は沖縄を独立させようとしているのです。そうして沖縄と安全保障条約を結び、自軍を駐屯させると。今までもチベット人やウイグル人の土地をそのやり方で奪ってきましたから”と指摘した。

9月

香港の有力誌「亜州週刊」、“尖閣諸島問題の発端はアメリカが、施政権を勝手に譲ったのが原因だ”として、“尖閣諸島の主権を争うなら、中国は、沖縄の主権の帰属についても合わせて議論すべきだ”と自社の意見を掲載した。

10月16日

中国成都市の反日デモの際に、デモの先頭集団は「琉球回収、沖縄解放」の横断幕を掲げていた。解放とは解放軍による解放で、政府に軍事力発動をけしかけていると毎日新聞が報じた。

11月8日

中国商務省研究者・唐淳風は「環球時報」で、“1879年に琉球王朝が廃止されてから1945年の敗戦まで、日本政府が沖縄に対して残酷な統治を行った”と決めつけた。また、終戦間際には現地軍に県民の皆殺しを命じ、“米軍占領の直前に日本軍は26万人を殺し、虐殺の規模は南京大虐殺に次ぐものとなった”とし、“1972年の本土復帰後、日本政府が沖縄を国内植民地として扱った”などと主張した。

“沖縄の米軍基地問題をめぐって日本政府と沖縄住民の対立が深まり、沖縄独立の機運を高めた”とし、“沖縄の独立闘争は沖縄だけの問題ではなく、全世界の圧迫を受けている民族をいかにして解放するかという大きな問題だ”と主張した。また、“日本政府は沖縄の陸海空自衛隊の配置を強化し、日米同盟を頼みとして再び沖縄を中国封じ込めの最前線基地にしようと企てている”とし、“沖縄独立闘争の主な目的の一つは中国の戦略的安全にある”と主張した。

2011年2月10日

中国人民解放軍海軍の張召忠少将はCCTVの「今日関注」のインタビューで、“第二次世界大戦前に日本が書いた地図をみても、釣魚島が日本の領土であるとの記載はない。そして、琉球諸島も日本の領土ではないことが分かる。したがって、釣魚島は中国の領土なのだ”と語った。


(伊勢爺の怒り)

仲井眞は、“沖縄を中国に取られるぞ~困るだろう?~取られたくなければ、俺の言うようにしろ”と言っているのだ。沖縄を人質にして、強請りを働いているのだ。こういうヤクザの要求に譲歩すれば、さらに強請られるものだ。

野田は、米軍再編~基地跡地返還~沖縄振興交渉を撤回することだ。さらに、「米海兵隊普天間基地固定」を宣言すればいいだけだ。ヤクザのボスというのは、カネを取って来なければ、ひきずり出されて袋叩きに会うものだ。だから、カネをやらないことがもっとも効果があるのだ。

まず、資金源を断ち切り~仲井眞らが暴れ出したら一網打尽にすればいい。沖縄を自衛隊が占領する。正しいことだよ。伊勢
02/24
不思議の国・カナダ(その1)


カナダは、日本の27倍という、世界で第二番目の広大な国土を持つ国だ。だが、その人口は、3461万人に過ぎない。世界第一国土が大きいロシア(日本の45倍)でも、1億4000万人なんだから、カナダは人口希薄では世界一である。人口が希薄なのはその寒冷な気候と関係する。人間は、みかんの花咲く~温暖な気候~暖かい海が好きだからね。

昔々、24歳の伊勢青年は、アメリカへ渡る前には、カナダへ移住することを計画していた。東京のカナダ大使館に移住者申請を出した。カナダを選んだ理由だが、ベトナム戦争を強行していたアメリカが嫌いだったし~実は、ライフマガジンで見たカナダのグラビア写真に惚れ込んだのだ。若い英国系カナダ女性たちが、ナイアガラの滝で撮ったものだ。みんな白いショートパンツを穿いていた。健康な脚を堂々と見せていた。体格に自信があるんだわな。伊勢青年は、美しい女性の住むカナダに、ひと目惚れしたのだよ(笑い)。後年、ボストン大の夏期講座で、トロントから来ていたカナダ女性と恋に落ちた。ダフネという名の女学生は伊勢よりも16個も年下だった。彼女は、リュックサックで山を歩くのが大好きだった。アタマはちょっと軽かったが、良い妻になっただろうと思う。ン?じゃどうして別れたって?なかなか帰ってこない娘を父親が迎えに来たんだよ。俺は逃げたよ(笑い)。

エントリーを「不思議の国・カナダ」とした理由は、昨日、オバマがマイアミで演説したことと関係がある。“USのエネルギー政策は、新しい油田掘削以上のものを必要としている”と言ったのだ。オバマが、石油メジャーに増税を考えていることが報道された。だが、油田掘削以上のアイデアには触れなかった。再生可能エネルギーの、巨大風車や太陽熱パネルは頓挫しているからだ。

早速、共和党大統領候補のギングリッチは、“トランス・カナダのキーストンXL・パイプラインをテキサスの製油所まで敷けば、1ガロン2、5ドルになる”と、2014年まで、パイプラインを延期したオバマを非難した。カナダが、中東やべネゼラに代わって、石油をアメリカに供給するというのである。伊勢平次郎 ルイジアナ

                               ~続く~



02/22
石油をめぐって戦争は起きる(その2)
crude oil pcture

これが原油だ。ブレント・クルード・オイルは、英国とノルウエーの間の北海で取れる。硫黄分が少なく、ガソリンの精製がしやすいために出荷値段が、西テキサス原油(WTI)よりも10%ぐらい高い。そこで、“スイート・クルード”などとニックネームが付いている。ヨーロッパ、アフリカの原油価格の基礎である。アフリカ(リビア、アンゴラなど)の原油も硫黄分が低く、質は高い。油田は、どれも、船で輸送出来るところにある。サウジ・アラビアも同じように、ペルシア湾までパイプラインを敷いている。つまり、ロシアの内陸部で採れる石油の輸送はカネがかかるのだ。プーチンさん、判らんの?伊勢平次郎 ルイジアナ






LNG indonesia bontan port

液化天然ガス (Liquefied Natural Gas)


インドネシアのボンタン基地から東京の天然ガス基地まで、6日間かけて、一度に12万5000KLのLNGを運んで来る。5個の大きな球形タンクが特徴だ。(タンカー船長になりたかったよ。伊勢爺)

 液化天然ガスは、「LNG」とも呼ばれ、メタン(CH4)を主成分とする天然ガスから、水分・硫黄化合物・二酸化炭素などの不純物を除去した後に、超低温で冷却・液化したものをいう。一般に天然ガスは、マイナス160℃程度で液化するが、液化すると気体の約600分の1の体積となり、その輸送や貯蔵が便利になる。これにより、天然ガスのピークシェービング(時間的に変動する需要のピークに対応するための供給サイドの特別な対策)の手段として、LNG化して一時貯蔵したり、パイプラインによる天然ガス輸送が不可能な海上輸送の場合などにLNG化される。

 この天然ガスを液化して海上輸送する事業は、技術的には1959年に貨物船を改造したLNGタンカーによって、米国のルイジアナで液化された天然ガスを大西洋を渡って英国まで輸送する試みに成功したことで、その道が開かれた。そして、アルジェリアで大量に発見された天然ガスをヨーロッパに輸送して利用したいという課題に対して、1964年にアルジェリアに本格的な液化工場が建設され、また新たに設計・建造されたLNGタンカーによって、その輸出事業が成功したことにより、現在に至る「液化天然ガス事業」の事実上のスタートとなった。なお、日本では、液化天然ガスは、発電所の燃料や都市ガスとして主に利用されている。また、その性質として、石油や石炭などの他の化石燃料と比べて、燃焼による二酸化炭素の発生量が2~4割と少なく、しかも硫黄酸化物や煤塵の排出がほとんどないため、環境面でクリーンなエネルギーとしても注目されている。(ファイナンス誌から抜粋)


三菱商事:カナダでガス田開発 日本にLNG輸出へ

 三菱商事が、新型天然ガス「シェールガス」の採掘で、カナダにある北米最大級のガス田の権益のうち4割を、同国の資源大手ネクセンから取得することで合意したことが18日、分かった。投資額は、権益取得額の約14億5000万ドル(約1150億円)に今後5年間の開発費を合わせ、計約60億ドル(約4800億円)となる。

 シェールガスから液化天然ガス(LNG)を生産する設備も現地に建設し、日本などへの輸出を目指す。東京電力福島第1原発事故を受けて、火力発電所でのLNG消費量が急増しており、安定確保を狙う。(共同)

毎日新聞 2012年2月18日 22時19分(最終更新 2月18日 22時27分)


(伊勢爺の毒舌) 実は、中国とカナダは先週だが、カナダ産のウラニウムを買う契約をしている。カナダの「カメコ」というウラン鉱山およびウラニウム精製会社が世界最大の産出量を誇る。一方で、中国はイランに特使を送り“長期の石油買い付け契約をしたい”と言ったが、イラン政府の怒りを買った。つまり、“アナタ、お困りでしょ?ワタクシが買ってあげるよ”と、経済封鎖を受けているイランの弱みに付け込んだわけだわな(笑い)。怒ったイラン政府は、同じ用件で来ていた中国の宿敵であるインドと契約をしたのだ(笑い)。

北京のチャンチャンらは、バカなんだよ。“監獄に入っている中国の漁船員と、韓国瀋陽大使館に閉じ込められている脱北者を交換しよう”だとよ。海上保安官殺された韓国はカンカンになっている(笑い)。チャンにはさ、常識なんてないんだわな。米中親善のはずのバスケット試合では、米国チームを殴ったり、蹴ったり。女児が生まれると河に投げ込んだり。ま、いくら労賃安いと言ったって、中国経済には無理がある。ザカリアの日曜番組で、“中国軍部がひとり歩きしている”とゴードン・チャン。習近平も軍部を抑えられない?は、は、は


原油価格のチャート

crude oil 10 year

これが、ここ10年間の原油価格だ。週明けの今日も騰がった。緊迫するイラン情勢が原因というが、実際は判らない。ちゅうのが、アメリカの景気回復が想ったよりも早く、エネルギー株は加熱気味だからだ。日本政府は早速動いたようだ。ルイジアナ沖の天然ガスを買いたいのだと。TPPの一環かな?野田泥鰌もやるね~!ルイジアナの南はメキシコ湾といい、向こう岸は、エメラルド・グリーンのカンクーンがあるユカタン半島だ。飛行機で2時間半で行ける。

日本は原発をあきらめるのかな?問題はね、天然ガスも安くないんだ。これは、原油のチャートだが、天然ガスも、“フラッキング”という掘削工法がモーイチの感がある。だけど、北米には、天然ガス(メタン)は埋蔵量が無限のようだと。東シナ海を見ているアメリカは、中国には掘らすことはない(笑い)。

こうして、次々と、日米が組んで天然ガスを開発すると、チャイナも、ロシアも、キXXXに冷や汗をかく(笑い)。軍刀ガチャつかせて脅す中露は後手に回るわけさ。カナダと契約するのも、三菱商事は速かったな。はじめから、カナダが欲しい値段を提示したんだろうね。さらに、カナダ原油も、天然ガスも、その資金はアメリカで集めたものだからね。だ・か・ら、欧米(ウエスト)を敵に回すとロクなことはない。中露はバカなんだな。世界から“総スカン”を食うとはねえ、、伊勢平次郎 ルイジアナ

                           ~続く~

(おまけ)
edward munk

Edvard Munch (ムンク)はノルウエーの画家だ。クレヨンで描いたと思われる。この「叫び」と題する作品は、63億円もするのだそうだ。どうしたら、俺の絵もその値段で売れるのかな?伊勢
02/18
石油をめぐって戦争は起きる(その1)
Giant jamese dean 1956

テキサスに59万エーカーの広大な土地を持つ牧場主ジョーダン・ベネディクト2世(ロック・ハドソン)が、東部の名門の娘レズリー(エリザベス・テイラー)を妻に迎える。初めてテキサスを訪れた彼女はその途方もない広さに驚き、東部とはあまりにも異なる人間の気質と生活習慣に戸惑う。夫の姉ラズ(マーセデス・マッケンブリッジ)の冷たい視線にも苦しめられ、一時は夫婦の間の絆にも危機が訪れるが、レズリーは持ち前の粘り強い性格でそれを乗り越えていく。

このレズリーに心を寄せるのがひねくれ者の若い牧童ジェット・リンク(ジェームス・ディーン)。彼は事故死したラズが遺してくれた土地に移って石油を掘り続け、ついに油田を掘り当て、石油事業を興して大金持ちになる。

歳月は流れ、米国でも屈指の大富豪になったジェットと牧畜業がうまくいかなくなったジョーダンは、ホテルの祝賀パーティの席で対決の時を迎える。

この物語にジョーダン3世(成長してデニス・ホッパー)、ラズ2世(成長してキャロル・ベイカー)、メキシコ人の若者(サル・ミネオ)らが複雑に絡み合い、メキシコ人差別の問題も盛り込みながら30年間のドラマが繰り広げられる。






(伊勢爺の解説)

1956年、女流作家・エドナ・ファーバーが書き終えるのに12年間かかったベストセラー小説「ジャイアンツ」を映画化した、ジョージ・スティーヴンス監督の大河ドラマである。

ドラマの中心となるベネディクト家は、移り行くテキサスを映す鏡である。監督は、その日常的な細部を克明に悠然たるテンポの演出で描くことによって、雄大なテキサスのエピックを完成しようとした。リアリズムを基調として、澎湃たるテキサスの発達史を描きだそうとしたわけで、野心的な試みである。

また、女性の自立の問題や人種問題など、21世紀になった現在でも直面している問題に対して、先駆的な問題意識を観客に届けている。

ステイーブンスは、「シェーン」で西部劇へ新しい世界を開いたように、「ジャイアンツ」ではエピックに新しい境地を開拓したと言える。


スピンドルトップ
250px-Lucas_gusher Spidletop 1.10.1901 Texas

ルイジアナのわが家から、西へ400キロでテキサス州境に着く。最初の町ボーモントだ。なんとも、薄汚い町だが、この町の「スピンドルトップ」が北米最初の油井となったのだ。

スピンドルトップ(Spindletop)は、アメリカ合衆国テキサス州ボーモント市の南に位置する岩塩ドーム油田。1901年1月10日、スピンドルトップに「ルカス1号油井」が完成、現代の石油産業の誕生の日付けを記した。一日10万バレルの産油量で、夜通し噴出する噴出油井でアメリカ合衆国の石油生産は3倍になり、第二次産業革命の燃料は、木材と石炭から、石油とその副産物に代わることを確実にした。今日よく知られるエクソンモービルやテキサコといった企業がスピンドルトップを開発した。1966年11月13日、アメリカ合衆国の国定登録史跡に指定された。

歴史

長い間「スピンドルトップ・ヒル」の地下は疑われていた。このエリアは硫黄泉と、着火すると燃える泡立ったガスの漏出が見られた。元羊飼いと元セールスマンであったファミル兄弟により、掘削が始められた。 1892年8月、ジョージ・W・オブライアン、ジョージ・W・ キャロル、パティリョ・ヒギンズとその他数名は、スピンドルトップの試掘を行うグラディス・シティ石油ガス製造会社を創設した。当初、会社は多くの無駄な井戸を掘り、それでも資金を要求される投資家とトラブルに陥った。

パティリョ・ヒギンズは会社を去り、アメリカの岩塩ドームの専門家、アンソニー・F・ルカスと手を組んだ。ルカスは1899年にグラディス・シティ社と契約し、後にヒギンズと契約を交わした。ルカスは資金が尽きるまでに、575フィート (175 m)を掘削した。ピッツバーグの投資家、ジョン・H・ギャレイとジェームス・M・ガフェイから追加資金の保証を得ていたが、その分配の取り決めはルカスに少しで、ヒギンズにいたってはまったく無かった。

ルカスは掘り続け、1901年1月10日、深さ1,139フィート (347 m)の地点で、今日ルカス油井、またはルカス間欠泉として知られる原油が噴出した。噴出の高さは150フィート(46 m)にも達し、一日10万バレルの量が出た。油井を統制するまでに9日かかった。スピンドルトップは、最大の噴出油井となり、ボーモントはアメリカで最初の石油燃料による新興都市となった。ボーモントの1万人の人口は3か月で3倍になり、ほどなくして5万人に達し、石油の産出が推測される土地の値段は急激に高騰した。1902年の終わりまでに、600以上の会社が作られ、285の油井が運営された。

1902年の後は石油生産は急激に下降し、1904年には油井の産出量は一日1万バレルだけになった。1925年11月13日、ヨーント・リー石油会社が岩塩ドームの側面の周りの深さ5,400フィート (1,646 m)の地点で新しい石油を発見し、石油ブームは少し復興した。その後5年間で、6千万バレル以上の石油が産出され、その大部分はさらに深い地点から掘られた。スピンドルトップの原油生産は1933年頃まで続き、1950年代から1975年頃までは、硫黄の採掘へと代わった。(ウイキぺデイアより)

                               ~続く~






02/16
アメリカを恫喝した習近平
Xi Jinping washington speech

習近平、チベットなど「核心的利益」譲歩せず

 訪米した中国の習近平(シージンピン)国家副主席は15日、ワシントン市内で講演した。

 習氏は、米中両国が「互いの利益や重大懸念を尊重すべきだ」と語って、中国が「核心的利益」と位置づけるチベット問題や台湾との関係で米国に譲歩しない姿勢を強調した。

 習氏は「双方が、それぞれの核心的で重大な利益に関連する問題にうまく対処している間は中米関係は安定し円滑だが、反対の状況になるとトラブル続きになることは歴史が示している」と指摘した。その上で、米国が「台湾独立に反対」し、「チベットが中国の一部であることを確認し、賢明に行動することを望む」と訴えた。

 習氏は一方で、「中国と米国は、共通の挑戦に直面し、国際関係で責任を共有している」と述べ、朝鮮半島情勢やイランの核問題で調整を強化すべきだと提案した。さらに、米国が、アジア太平洋地域の安定と平和に貢献する「建設的な役割」を果たすことを歓迎すると語った。

(2012年2月16日19時48分 読売新聞)






(伊勢爺の怒り)

習近平(58)が次期中国共産党主席となる。任期10年間なのだと。2009年12月、小沢一郎(当時、民主党幹事長)と鳩山由紀夫首相が中国政府の再三の要請に応じて天皇陛下と会見することを指示した。会見中、習は一度も、お辞儀をしなかった。その無礼を覚えている日本人は多い。

さて、オバマとの会談では、終始笑顔で握手も強かった習近平。だが、今日になると、君子豹変した。これが、中国人の特徴なのだ。日本人には真似すら出来ない。面の皮が厚い小沢でもだ。

なぜ、それほどの厚顔無恥を通せるのだろうか?それは、核兵器保有国の自信である。中国共産党は武装解除されるまで、強弁を続けるだろう。その武装解除は米軍の仕事ではない。中国国民自らの手で中国共産党政権は解体されなければならない。軍事クーデターがもっとも効果がある。必ず、中国民主化の機会はやってくる。南シナ海で周辺国と軍事衝突すれば、それがきっかけとなるだろう。アメリカは好機を見逃さないからだ。伊勢平次郎 ルイジアナ



02/15
一触即発のホルムズ海峡

Visit msnbc.com for breaking news, world news, and news about the economy



MSNBCが、米第五艦隊を今日取材した。“原子力空母アブラハム・リンカーンはいつでも戦闘できる”と、マーク・フォックス第五艦隊司令官。

米空母がホルムズ海峡を警備中、イランのが哨戒魚雷艇が2マイルまで接近した。哨戒機も飛んできた。艦長は、“イランの哨戒魚雷艇が一発撃ってくれば、戦争が始まる”と。イランは潜水艦を持っている。海岸には、数百の対艦ミサイルが設置されているのだと。だが、“こんな世界にわれわれは生きている。いつ戦争が始まってもおかしくない。準備は出来ている”とフォックス司令官は語った。英語ですが、映像でわかる。みてください。


イスラエル暗殺部隊VSイラン暗殺部隊(レバノンのテロ組織ヒズボラだと)

インドのニューデリーのイスラエル大使館爆破~今日は、バンコックで車に仕掛けた爆弾が破裂。これは、イスラエルの暗殺部隊がイランの原子力科学者を爆殺したことに対する報復なのだと報じられている。日本人のぼくらには、真偽を検証する方法はない。だが、日々日々と「米イ戦争」が近付いている。イスラエルとイランは、もう戦争を始めていると言ってもいいだろう。原油のルートが絶たれる。戦争なら、アメリカが勝つ。だが、ダメージを最小にするには、核ミサイルを使用するしかない。核兵器反対論者のオバマには不可能だ。だから、最高司令官の体質が問題になるのだ。日銀総裁もその体質がデフレ危機の対応に適さなければ、日本はジリ貧に堕ちていく。伊勢平次郎 ルイジアナ







オバマ習近平会談

obama Xi 2.14.12

山中さんがなんと言おうと、伊勢爺は中国共産党など好きになれないな。理由は単純だ。中国政府は、人権を無視するからだ。アフリカに貢献だって?スーダン~リビア~シリア~イラン~北朝鮮、、中国は、人殺しの独裁者を保護している。これがわからないなら、話しても無駄でしょ? (質問)あなたは、九条を守るひとですか?

習近平(現在副主席)は中国の次期主席と予定される。今朝、オバマと会談した。オバマは、“人民元の不均衡~人権侵害”を指摘した。オバマは、言論の自由~集会の自由を中国政府が認めるように強調した。習はそれには答えず、“米中会話を通して、両国の理解を深めたい”とだけ言った。

オバマとの会談の前に、習はバイデン副大統領と会った。バイデンは、“中国とロシアがシリア国連決議に拒否権を使ったことに強く反対する~中国は、イラン、北朝鮮、シリアの問題に協力するべきだ”と非難した。習は通訳を通して、“イランは対話に応じる意思がある~米とイランは話し合うべきだ”と答えた。伊勢
02/13
ジリ貧に向かう日本
経常収支:ジリ貧、日本の黒字…Q&A


経常収支の推移

 日本と外国とのモノやサービス、資金のやりとりを示す「経常収支」の黒字が減っている。11年の黒字額は9兆6289億円と15年ぶりに10兆円を割り込んだ。円高などで国際競争力が低下すれば、いずれ経常赤字に陥るとの見方も強い。経常収支の先行きと、日本経済への影響、どう対応すべきかを探った。

 
Q 経常収支の黒字が減ったのはなぜ?

 A 海外の景気低迷で輸出が減ったのに、原発事故で火力発電向け燃料などの輸入が増え、貿易赤字になったことが効いています。経常収支とは、貿易▽サービス▽所得▽経常移転の各収支を合わせたもので、日本が外国相手にどう稼いでいるかがわかります(表参照)。このうち額が大きいのが貿易収支と所得収支です。11年は、所得収支の黒字が前年から2割増えて14兆296億円になる一方、輸出から輸入を引いた貿易収支は1兆6089億円の赤字に転落。赤字は48年ぶりです。


 ◇原発事故原因…火力燃料輸入

 Q 日本って輸出大国じゃなかったの?

 A 昨年は東日本大震災やタイ洪水などの特殊要因や海外経済の低迷で輸出額は前年比では1.9%減りましたが、62.7兆円で過去5番目の水準を維持しました。一方で輸入は64.3兆円と同15%も増えました。火力発電を動かそうと、大量の液化天然ガス(LNG)などを輸入したためです。資源価格の高騰と脱原発依存で火力燃料の輸入額は当面、増えるでしょう。一方、中国など新興国がさらに低コストで良質なモノを作るようになれば、日本の競争力は低下するでしょう。いずれは貿易赤字が定着するかもしれません。

 Q 大変だ!

 A それはやや古い発想ですね。所得収支に目を向けてみましょう。日本の企業や政府が外国の政府や企業から買った債券(米国債など)の利子や、海外子会社からの配当収入です。貿易収支が毎年の給与所得なら、所得収支は資産運用と言えます。11年の所得収支は、前年から約2.3兆円も増えました。

 Q じゃ、大丈夫なの?

 A そうとも言えません。日本はこれまで、家庭の貯蓄などの“余裕資金”や貿易で稼いだ黒字で、海外に投資してきました。ただ高齢者が増えると、貯金を取り崩し、余裕資金が減る一方で、今後は大幅な黒字も期待できません。また、日本の所得投資は、比較的利回りが低い国債などの利子収入が半分を占めます。企業のM&A(合併・買収)を含めた海外の株式への投資など、リスクは大きいけれど、大きな利益につながる投資はまだまだ。所得収支の黒字が先細りし、貿易赤字が膨らめば、早ければ10年代半ばに経常赤字に陥ると予測する専門家もいます。M&Aなどで外国からお金が入る“仕掛け”を作る必要があります。

 
◇足りないお金調達して活用

 Q そもそも経常赤字は悪いことなの?

 A 経常赤字は、国内だけでは必要なお金をまかなえない状態を示します。ただ、赤字そのものが問題とは言えません。米国や英国は、輸出産業が衰退し、貯蓄が少ないため、既に赤字です。でも、日本より貧しいわけではありません。お金が足りないなら、海外から調達すればいいのです。米国は新興国から借金をして(国債を売って)まかなっているし、英国は金融業などが盛んで、海外投資家などからお金が集まります。

 Q 借金が増えるのは問題だと思うけど。

 A 海外から借りたお金を元手に稼ぎ配当で返せば、国内経済は活発になり、雇用も維持できます。心配なのは、将来の日本にお金を出す国や企業が現れなくなることです。成長力や将来性がないと、外国企業は日本に投資せず、生産や雇用の場が少なくなるかもしれません。財政健全化も必要でしょう。政府の財政がさらに悪化すれば、国債を返済できない懸念が強まり、長期金利が上昇。住宅ローンや設備投資の負担が増し、景気悪化に陥りかねません。

毎日新聞 2012年2月12日 11時24分(最終更新 2月12日 17時18分)


(伊勢爺の経済学)

毎日新聞経済部の記事だが、書かれていることは嘘ではない。「日本のチョイス」は少ないが、自信を失ってはいけない。「ジリ貧」を解決するには、経済が理解出来る政権が必要ということだ。麻生太郎首相が最適だと思う。また、経産省に任せておけばいいではない。首相は経産大臣を兼ねるべきである。外務大臣は、安倍晋三さんが適している。防衛は、もちろん、石破茂さんがベストなのだ。

China shrinking surplus 2.13.12

さて、実は、隣の中国も経常黒字が激減している。ご周知の欧州市場は縮んで行く。つまり、日本~中国~欧州の購買力が落ちて行く。みんな溝(どぶ)に落ちた車のごとし。アメリカだけが、どぶを這い出し~よたよたと村道へ出た~そこからハイウエーに出られるか?

世界経済は、新しいパラダイム(ガラガラポン)が始まっている。日本人は優秀な商人なのだ。海外のM&A(企業買収)は美味しいはずだ。日本の青年は先進国を目指さず~ベトナム、インド、東南アジアを目指せ!伊勢ならベトナムを選ぶ。打って出なければ、ジリ貧から抜けられない。19世紀の後半、フロンテイアを目指したアメリカの歴史に学べ。伊勢




02/13
政党はどうして出来るのか?


ロシアの画家Nicholas Roerichが1936年に発表した「共感」という絵である。コーカサスだろうか?少年が峰の上に座っている。それでは、この少年は何に共感を覚えたのだろうか?

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「外国のお客さん」という絵である。1901年の作。父親はニコラスに法律を学んで欲しかった。だが、彼の絵画への情熱は衰えず、ピーター皇帝の美術学校に合格する。サンクト・ペテルズブルグの生まれだが、風景画が多い。ノーベル賞候補に多く上がったが受賞はない。美術にど素人の伊勢爺でも、ニコラスがすばらしい画家であることがわかる。


政党は共感することから出来る

共感(empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。たとえば知り合いがつらい表情をしているとき、相手が“つらい思いをしている”ということがわかるだけでなく、自分も同じように「つらい感情」を持つ。「共感」は、人間に本能的に備わっているものなのである。

共感は友情を生み出す。友人になったきっかけは、「何となく」であることが多い。だが、「何となく」の本性は、共感なのである。(ウイキぺデイアの解説から)

本日のエントリーは、「政党とは何か?」である。人間が自然に持つ「共感すること」からグループが出来る。国を想う者は共感出来る政党を選ぶ。左に傾いているのか?右なのか?ときには口論になるほど、その好き嫌いの感情は強いのである。原因は、“自分の価値観が否定される”と感じるからである。

一方、sympathy(同情)という紛らわしいことばがある。「共産党シンパ」とか使う。だが、共感ではないのだ。“何となく理解できる”ということである。


ストックホルム・シンドローム

「ストックホルム・シンドローム」という心理がある。スウエーデンで、人質に取られたひとが時間がたつにつれて、犯人に好意を持つてしまう。その結果、自分を救助にきた警官を撃ってしまうという事件である。この心理は、「同情」ではなく、「共感」なのである。この事件から、人間が持つ「共感」が研究された。「犯罪心理学」のひとつとしてである。

民主党が好きだ~自民党の方が自分に向いている、、アメリカ人は嫌いだ~中国人の方が親しみがある、、これらの感情が「共感」なのである。この感情が極端になると、それらの政党や国が犯す犯罪までも擁護するようになる。その傾注する感情が危険なのである。その最大の原因は、人格形成が出来ていない~人間が未成熟ということだろう。つまり、善と悪の分別が出来ないのである。

29ヶ月前、日本の選挙民やマスコミは、麻生政権を嫌い~民主党に政権を取らせた。ある者は、“鳩山由紀夫の人柄がいい”と選んだという。これが、共感なのだ。共感は自然な感情だ。だが、政党を選ぶとき、共感だけで選らんでいいのだろうか? 伊勢平次郎 ルイジアナ





02/10
米中開戦のとき、日本は何をする?
米海軍・第七艦隊とは



パラワン島



フィリッピンのパラワン島。目前に南シナ海が広がっている。南西には、カヌーで行けるマレーシアが位置する。最近、中国海軍は、この海岸から90マイルの岩礁にコンクリートを流して、基地を造った。なんと、中国の海岸線から300マイルの地点にだ。もちろん、中国のものだからと言っている。(BBC)


牛の舌



赤い線が「牛の舌」と呼ばれる中国の主張する海域だ。青い線が国際領海条約の決めたEEZだ。すると、南沙諸島がフィリッピンの領域であることが明らか。米七艦隊と比海軍が合同演習をやると発表した。“フィリッピンは痛い目にあうだろう”と中国の新聞が脅している。


日本が見捨てられる日がくる?

さて、米中開戦が始まるとき、日本はどうするのだろうか?憲法九条では専守防衛のみと~集団自衛権すら明確でない日本。ウイラード米太平洋司令官は、“イランがホルムズ海峡を閉鎖したら、日本は、ペルシア湾に自衛艦を派遣するべきだ”と、読売記事。これは意味深長である。日本を見捨てる印象がある。沖縄の反米軍基地運動~憲法改正に反対するサヨク、、ついに、おおらかなアメリカも日本に愛想を尽かしたのかな?伊勢平次郎 ルイジアナ












02/05
露中、人道よりも商売が優先
Syrian Arab Republic map

ロシアにとって、シリアを失うことは大きな勢力圏の後退なのだ。ご覧のように、ロシアの石油パイプラインは、シリアに極近い距離にあるトルコのセイハン港が終点だ。そこから、タンカーで地中海に出る。伊勢爺は勉強が足りないが、シリア国内にもパイプラインは敷かれていると容易に想像が付く。チャイナもロシア同様に、アサド政権に武器を売っている。米国・国連大使のスーザン・ライスは、“この二国は恥だ~人道よりも商業を優先させている”と非難した。伊勢平次郎 ルイジアナ






2.4.12土曜日、アラブ連合議長国のサウジ・アラビアと13各国が提出した「シリア非難決議(二回目)」は、露中の拒否権行使で決裂した。シリア代表が話し始めると、米国代表のスーザン・ライスは、資料をブリーフ・ケースに入れて、さっと会場を立ち去った。この黒人女性を伊勢爺は好きである。彼女は、ブルッキングズ外交政策シンクタンクの理事だった。もとより、地球上の人権改善と民主化を自分の使命としていた。

American UN envoy Susan Rice described the veto on Saturday as "shameful", saying Russia and China aimed to "sell out the Syrian people and shield a craven tyrant"."Any further bloodshed that flows will be on their hands," she said.

米国・国連大使スーザン・ライスは、露中の拒否権行使を“恥に満ち満ちている~ロシアとチャイナは、シリアの民衆を売り飛ばし、勇気の欠如する独裁者を保護している~さらに続く流血は露中の手を血で洗うであろう”と非難した。(日曜日。BBC)


クリントン米国務長官の演説

“What happened yesterday at the United Nations was a travesty,” she said.

“昨日土曜日に、国連で起きたことは、事実を歪曲する茶番だった~「シリア民主化の友達」は結束して、反体制派を応援しなければいけない”と、クリントン米国務長官はブルガリアの首都ソフィで演説した。(日曜日、W・ポスト)


クリントン米国務長官、拒否権行使に「信じられない」

 クリントン米国務長官は4日、当地で記者会見し、国連安保理で露中がシリア非難決議案に拒否権を行使したことに対し、「国際社会が(アサド政権による)暴力を非難することを阻止しようとする者がいることが信じられない」と強く非難した。

 安保理での採決に先立ち、国務長官はラブロフ露外相と会談し、妥協の道を探ったが失敗した。2人は3日に始まったミュンヘン安全保障会議に出席していた。

hillary Lavrov 2.4.12

土曜日、クリントン米国務長官とラブロフ露外相はミュンヘンで会談した。クリントンが国連安保理のシリア非難決議にロシアの協力を求めた。ラブロフは、“反政府側に有利な決議だ。外国が内戦に干渉するべきでない”と協力に応じなかった。(AP)

シリア安定化への一つの具体策として、今回の安保理決議案は、アラブ連盟が1月に発表した「行程表」への支持をうたっ

ていた。アサド大統領が権限を副大統領に移譲し、挙国一致内閣を構成するのがその柱である。 アサド大統領は、「バース党」一党支配と秘密警察で国民を抑圧する強権政治を続けてきた。前任大統領だった父親の時代から通算すれば、アサド父子による独裁は40年を超える。

 反政府デモに押され、大統領は一党独裁放棄や憲法改正などの改革に応じる意向は示した。だが、具体化は進まず、一方では、軍まで投入して弾圧を続けている。

 大統領の統治は、正統性に大きな疑問符がつく。退陣なしに国民和解は進まないのではないか。

 米英仏などは、今回の決議案を巡り、アサド大統領の退陣の必要性を明示せず、シリアへの軍事介入を否定する文言も挿入した。

 しかし、アサド政権を支えてきた露中両国は、決議採択に否定的な姿勢を崩さなかった。とくにロシアは、反体制派に肩入れする決議案だとして強く拒んだ。

 背景には、ソ連時代から築いたシリアとの密接な関係がある。シリアは、武器の主要輸出先であり、ロシア軍にとって、地中海沿岸の重要な補給拠点だからだ。

 ラブロフ露外相は7日、シリアを訪れ、アサド大統領と会談する。流血停止に向けて、強く説得すべき重い責任がロシアにはある。

(日曜日、読売新聞社説)


(伊勢爺の妄言)

玄葉光一郎(外相)さんも、露中の拒否権行使に遺憾の意を表明した。日本は民主主義と人権を尊ぶ国であると。アメリカの心ある指導者たちは、“日本人には善意がある”と日本を高く評価している。アメリカ政府は、“外交官には女性が適している”という共通意識が出来ている。するとだね、玄葉さんはこれらのアメリカ女性に好かれるでしょう。“~会津若松鶴ヶ城~”の白虎隊の鉢巻がお似合いだからね(笑い)。泥鰌が選んだ、唯一の逸品である。民主党は癌が進み末期じゃないの?でも、玄葉光一郎さんは、外相を続けられないものかな?伊勢
02/03
裏稼業・アメリカ情報局と岸信介(その2)


ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower, 1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ合衆国の軍人~政治家。第34代大統領及び第二次世界大戦中のヨーロッパの連合軍最高司令官。愛称は「アイク」。

1961年、70歳。日米安保改正の頃の写真。伊勢爺と同じ歳だが若い風貌だ。さすがは、ノルマンデイ上陸作戦の総指揮官だ。カンサス高原育ちのアイゼンハワーは、第二次大戦後の大統領で、“もっとも好ましい大統領”とされる。伊勢爺もそう思っている。アメリカ情報局(CIA)を活用したのもこの人である。岸信介の才覚を買っていたことは明らかだ。アイゼンハワーも、岸信介も強烈な反共闘争を行った。それでも、現在でも左翼思想は陰湿に蔓延している。伊勢爺は、サヨクはパラサイト(寄生虫)だと認識している。大学や~教育界~マスコミ~政界~沖縄の血を吸っている。それらの反日団体のパトロンが中国共産党だ。だから日米同盟による反共闘争は続くのである。伊勢平次郎 ルイジアナ






CIAの日本関与

日本占領期から、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中清玄、正力松太郎などをエージェントとして、揺籃期の自由民主党に活動資金を提供し、政治及び国内のアメリカニゼーションと政府の親米化に一役買った。

2006年7月18日に公開されたアメリカ国務省編纂の外交史料集によると、冷戦時代にはアメリカ政府の反共政策に基づき日本の親米勢力や左派穏健勢力に秘密資金を提供していた。秘密資金の提供を受けたのは岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と社会党右派(後に民社党を結党する勢力)とみられている。この結果、右派が民社党をつくり、日本社会党は弱体化することになった。

冷戦終結後、双子の赤字に苦しむアメリカ政府がCIAの人員や経費の削減等を行う危機に直面したCIAは、日本等の友好国の経済情報などの非軍事分野での情報収集と分析をはじめた。 1990年4月にはウェブスターCIA長官が「日本やヨーロッパ諸国の経済上の競争相手に対する情報戦略を扱う企画調整室を設けた」と発言し、1992年4月にはゲーツCIA長官が「業務の約4割、予算の2/3は経済分野に当てる」と演説した。2011年にはジェラルド・カーティスが対日工作者の一人であると名指しされている。

日本の指定暴力団ともコネクションを持つとされる。 岸の系列から、統一協会への関与も主張される。 エージェントの正力松太郎を使って日本全土を縦断する一大反共軍事通信網を構築する構想があったとされる。(→正力マイクロ波事件)


アメリカ情報局(CIA)の歴史

第二次世界大戦中のOffice of Strategic Services(OSS-戦略事務局)がCentral Intelligence Group(CIG-中央情報グループ)及びOffice of Political Coordination(OPC-政策調整局)を経て1947年に成立した国家安全保障法により改組され誕生した。

第二次世界大戦終了後、アレン・ダレスはドイツから数千人ものナチス出身者を招聘(連行)して、CIAの作戦能力を強化させた(ペーパークリップ作戦、MKウルトラ作戦など)。

東西冷戦時代は共産主義国の転覆を狙っていたこともあり、特に有名な活動が1961年のキューバにおけるピッグス湾事件である(詳細は該当記事参照)。 この作戦は失敗し、当時のアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディは作戦そのものやその後始末に失敗したことに激怒し、CIAの解体を宣言した。 しかし、実現する前にケネディ自身がケネディ大統領暗殺事件で凶弾に倒れたため結局解体には至らなかった。 このため映画や小説の中では、事件にも関与していたとされることもある。
1980年代ソ連崩壊直前には、世界中で主要敵であるソ連国家保安委員会(KGB)の諜報員の離反を成功させるなどして冷戦の終結に貢献した。


日本の妖怪・岸信介

岸信介伝は、一読する価値がある。伊勢(ウイキぺデイアから)



岸 信介(きし のぶすけ、1896年11月13日 - 1987年8月7日)は、日本の政治家、官僚。内閣総理大臣(第56・57代)。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤。元衆議院議員。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)などを歴任した。

東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省、同省廃止後は商工省にて要職を歴任した。建国されたばかりの満州国に渡ると、国務院の高官として実業部次長や産業部次長など要職を歴任し、「満州開発五か年計画」などを手がけた。その後、日本の商工省に復帰すると次官に就任した。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣となった。なお、東條内閣の閣僚を務める間も、商工省の次官や軍需省の次官を兼任していた。

その経歴から、太平洋戦争後にA級戦犯容疑者として逮捕されるが、不起訴となり公職追放。公職追放解除後に政界に復帰すると自由党に入党するが、その後日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。石橋内閣にて外務大臣に就任。首班である石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名された。
第61 - 63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟、第90代内閣総理大臣安倍晋三は外孫である。  

生い立ち

山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字を取って「信介」という名が付けられた。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった。

秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)。

学生時代

岡山市立内山下小学校から[5][6]岡山中学校に進学したが、叔父の松介が肺炎に依り急逝したため2年と一ヶ月足らずしかいることが出来なかった[7]。山口に戻り、山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。

1914年(大正3年)、山口中学を卒業。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば映画(当時は活動写真といった)や芝居を見に行ったりした。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だったが、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。

1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった。我妻栄と二人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、二人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。

このころ岸は北一輝の思想に魅了され、中込に北を訪ねている。のちに岸は北について「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている。

1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入省したことは意外の念をもって受け止められ、同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。


満州国時代

農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(元首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった。同期には平岡梓(作家・三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった。

1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であった。1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。


東條内閣の閣僚時代



内閣総理大臣東條英機(最前列中央)ら東條内閣の閣僚と岸(前から2列目左から2人目)

伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。その後、商工大臣に座った小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、戦局悪化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。

1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。

同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、すでに岡田と気脈を通じていた岸が、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する。東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。

1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。


戦犯容疑者から復権まで


1948年12月24日、内閣官房長官公邸にて内閣官房長官佐藤榮作(右)と

1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結した後、故郷の山口市に帰郷していた所をA級戦犯容疑者として逮捕された。東京の巣鴨拘置所に収監されたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。東條ら7名の処刑の翌日の1948年(昭和23年)12月24日に釈放、公職追放となる。


保守合同

公職追放処分を受けて岸は、東洋パルプの会長などを務めていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となり、4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、日本再建連盟を設立、会長に就任した。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選したが、1954年(昭和29年)に吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。

11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導。

1955年(昭和30年)10月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに結成された、自由民主党の初代幹事長に就任した。かくして「55年体制」が始まる。


岸内閣誕生

1956年(昭和31年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。2か月後に石橋が脳軟化症に倒れ、首相臨時代理を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。1958年(昭和33年)4月25日に衆議院を解散。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。

1958年(昭和33年)に日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、国内の反発を恐れた岸はこれを拒否した。

当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。

この他、最低賃金制や国民皆保険や国民皆年金など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張した。


岸信介と安保改定

岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。

新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆(=暴力団組長)の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」(『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』)。

連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生した。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。

6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。

岸は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」のいう言葉を残している。岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。


日韓国交回復

岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。
日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を組織する。また日韓の反共政策を推進する過程で「統一協会」とも1973年(昭和48年)より親交を持ち「国際勝共連合」結成に協力、1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税容疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送るなど、同教団が政界へ影響力を広げるにあたって重要な役割を果たしたとされる。


中華民国・蒋介石との関係

岸は中華民国の蒋介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年(昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蒋介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蒋介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蒋介石死後も岸は「蒋介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蒋介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄は、岸の名刺を示すだけで蒋介石や息子の蒋経国に面会できたと語っている。


岸信介の晩年

政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。

1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は山口1区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。

1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。

弟の佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという。

1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、地盤を吹田あきらに譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された。

晩年は御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。これは女婿安倍晋太郎、外孫安倍晋三など後世に大きな影響を与え、自民党清和政策研究会の基本政策となって現在まで受け継がれている。1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。

死ぬまで自民党内で影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー、黒幕、昭和の妖怪(この渾名に関しては自身も「私も昭和の妖怪と呼ばれておりまして」と冗談めかしながら発言し笑いを誘うこともあった)とも呼ばれた。また、正力松太郎などとともにアメリカCIAから資金提供を受けていたとされる。


(伊勢爺のつぶやき)

とにかく、たいへんな妖怪である。伊勢が中学時代、わが父は、”岸信介さんは偉い”と言っていた。岸さんは、91まで生きた。アイクさんは、79でこの世を去った。伊勢も、馬齢70歳となり、ようやく、「巨人」の意味がわかった。出典は多くの資料を基にしているが、ウイキぺデイアから抜粋した。

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