電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

わたしが洗脳されなかった理由

なんだか三題噺みたいだが、最近目についた以下の3つには共通する問題がある気がする。

  1. 尼崎の連続変死事件
  2. 遠隔操作ウイルスによる犯行予告なりすまし事件での「やってない容疑の自白」
  3. ブラック企業(参照)

要するに「人はどういう状況に陥ると他人の言いなりになってしまうのか」という問題だ。

「洗脳」は自分からかかるものである

わたしは、尼崎の事件の報道にも使われた「洗脳」という言葉には、昔から違和感がある。
この言葉は、オウム真理教のようなカルト宗教団体がらみの事件や、X JAPANのToshiが自己啓発セミナーにはまった件やらオセロ中島と占い師の件やらにも使われたが、なんだか「洗脳する側」が何か異常なカリスマ性や技術を持ってるかのようなイメージがある。
だが、こういうと矛盾のように聞こえるが、洗脳された人間は当人の自発的意志で動いている。つまり、そうしなければならない、と思い込むように仕向けられているのだ。
うろ覚えだが、たしか『月姫』の中で、シエル先輩が「カレーが嫌いな人をカレー好きにさせることはできないが、カレーを食べないといけないように思わせることはできる」とかいうことを語っていたと思う。
さらに一歩進んで、義務から逃げられない環境に置かれた側が「自分は嫌々やってるんじゃない。自発的にやってるんだ」と思おうとするようになれば、洗脳はほぼ完成となる(人はときとして、従わされてる自己のプライドを守るためそのように考えようとする)。
逆に、洗脳が解けるというのは、特撮ヒーロー物でよくある、悪の組織や宇宙人に操られていた人が正気に戻って「ハッ、私は何をしていたんだ?」とかいうものではなく、相手の命令に従う義務なんかないと気づいてアホらしいと思えるようになる、ということだ。

◆人を屈服させる"場"の力

実際わたしも「洗脳」されかかったことがある。またもしつこいけど、ネットワークビジネス団体「リバティコープ」の話だ。本ッ当にくどいがこの件から学んだことは多い。
少なくともわたしは、同社の落合琢という経営者には何らカリスマ性など感じなかった。だが、参加者は自分も組織に賛同しないといけないよ〜な気分に誘導される。
尼崎の事件の角田美代子容疑者も、麻原彰晃もひと皮剥けばタダの人だ。人を洗脳する力とは、個人の能力よりむしろ"場"の力であるという気がする。
リバティコープを含め、個人や団体が、人を暴力的な脅迫によらずして言いなりにさせる手口は、だいたい以下のようなパターンだ。

  • 外部からの隔離(他の価値観をもつ人間に相談できなくする)
  • 一方的な情報の刷り込み(自分の意志で判断する余地を与えない)
  • 当人のやましさにつけこむ(相手に貸しを与える/相手の過去の過失を指摘するなど)

環境条件が整えば以下のような手法も効果的だ

  • すでに従ってる人間多数の間に放り込んで孤立感を味あわせる
  • 支配対象の人物をいっしょに行動させて共犯意識を植えつける
  • 自分が逃げたらほかの人間の迷惑になるというプレッシャーを与える

ざっくりと言えば、角田美代子容疑者も、やってもいない罪を自白させる取調官も、ブラック企業の経営者も、だいたいこれと同じことをやっているはずだろう。
要は「こいつに逆らったらおしまいだ」と思わせ、外部から見れば非常識なことにも応じてしまう心理に追い込むような"場の空気"を作りだすことだ。*1

◆洗脳の基本はまず「隔離」である

犯行予告なりすまし事件で無実の大学生を「落とした」取調官は、カリスマ教祖のような人を操る不思議な能力者だったのだろうか? わたしはそうは思わない。
取調室は密室で、若い素人相手なら、刑事訴訟法の知識については取調官のほうが絶対的優位だ。自白すれば釈放できるとかナントカ一方的なことがいくらでも言える。
今回の捏造自白強要と1960年代から有名な狭山事件を結びつけた記事が少ないのは残念だ。冤罪疑惑の濃厚な狭山事件は、まるで、取調官が容疑者の無知につけこんで罪状をでっちあげた手法の見本市みたいなものである(興味のある人はGoogleで調べて読んでくれ)。
取調室のような密室でなくても、支配対象を外部から隔離した状態に誘導するのは基本だ。
わたしはリバティコープに誘われたとき「あまり人に言わない方がいい」と言われた、外部の人間の意見を聞いて翻意されるのを避けたのだろう。のちにリバティコープの元被害者が集まる掲示板では「(サイドビジネスを謳っておきながら)元の職を辞めて自分らの紹介するバイトに就くよう勧められた」という証言を目にした記憶がある。*2
ブラック企業に勤め続けてしまう人間というのは、他のマトモな職場を知らない状態に置かれているから、その職場環境のほうが当たり前だと思い込んでしまっているのだ。

◆プライドを糊塗する被支配者の思考

人が人を支配するのに有効な手法は、暴力的な恫喝ばかりではない。
先に「当人のやましさにつけこむ」と書いたが、相手に「世話になっている」という心理があると逆らえない気分になる。角田美代子は、たかる相手に最初に少しだけ恩を売ったり、自分の方が迷惑を掛けられたよーな顔をするのが常套手口だったという。
「洗脳」という言葉を使うと一方的な支配みたいに感じられるから困る。じっさいは、支配する側とされる側が心理的に何かを共有しているつもりでいるから、離れられないのだ。しょーもないDV夫となぜかそんな奴と離婚しない(離婚できない)妻の関係に似ている(これは、ダメ夫ほど妻の方が「私がついてないと」思ってしまう共依存だというのが手垢のついた説明)。
これが進むと、はじめに述べたように、支配される側は「自分は嫌々やってるんじゃない。自発的にやってるんだ」と思おうとするようになる。
わたしはリバティコープの集会で、わけもわからんまま他の人間と一緒に日の丸はちまきを締めて「すばらしぃ〜!!」などと大声を張り上げるよう命じられたとき、やけくそのように自発的に大声で叫んでやった。そのときの皆が盛り上がっている"場の空気"の中では、もはや一人だけ「ばからしい、俺は帰る」なんて言えない。そこで、せめても自分のプライドを守るため、みずから従っているように、自分で自分を騙したのだ。*3

◆責任の所在を消すマジック

こうした"場の空気"は「加害者と被害者の共犯関係」ともいうべきおかしな事態を生む。
角田美代子が悪質なのは、みずから人を殺害せず、支配下においた人間に(忠誠心を試すかのように)相手が死に至るような暴行をさせた点だろう。さらに気持ち悪いのは、こういう状況下では、罪の意識が曖昧になることだ。
裁判になったとき角田美代子は「殺せとは命じてない」という言い逃れをするかもしれない。一方、実行した側は「殺す気はなかった。言われたからやった」と言うかもしれない。そうやって責任が曖昧にできたからこそ、凶行がエスカレートしたのではないか?*4
たちが悪いことに、こういう"場の空気"が進んで犯罪におよんだ人間は、反省もできない。悪意の自覚もないからだ。
角田美代子は「折檻を命じたら相手が勝手に死んじゃった」とホザくかもしれない。これは冗談ではない。実際、かつて1980年代末に起きた女子高生コンクリ詰め殺人事件なんかはそーいう雰囲気だったのではないか? という気がしてならない。

◆家族というアキレス腱

また、先に「自分が逃げたらほかの人間の迷惑になるというプレッシャーを与える」とも書いた。
密室の取り調べで捜査員が使う殺し文句でも「親が泣いてるぞ」は常套だ。とくに日本人は「身内への迷惑」という恥の意識に弱い。*5
すでに指摘があるだろうが、尼崎の事件では「個人単位ではなく家族単位」で相手を支配していたところがポイントだ。
もともと見知らぬ人間同士の集まった何かの会なら個人の意志で逃げる気にもなるだろう。
ところが、角田美代子の手口は、ある一家の一員に絡んで、その人物を通じてその親兄弟にもたかる形で、芋づる的に支配対象を増やすというものだったらしい。*6
個人なら角田美代子の支配から逃亡して行方をくらませるかもしれないが、地元の学校に通っている子供や、ずっと定住してる年配の父母も相手の支配下にいると、一人では逃げられない。被害者には、東京に逃亡をはかったが角田美代子のもとに連れ戻された人もいたという。逃亡先は親族から漏れたのではないか。

◆血縁・地縁は日本最強の動員装置

日本的世間では、血縁、地縁などは人を動かすうえで大きなプレッシャーの道具になる。
話は飛躍するが、與那覇潤は『中国化する日本』(isbn:4163746900)でこう書いていた。

日本人が赤紙一枚で粛然として徴兵されていったのは、江戸時代以来ガチガチに固定された地域社会における隣近所の目線があるからで、中国には近世以降、そんなものはないのだから、知ったことじゃありません。愛国心はムラ社会の結果であって原因ではない。

明治のはじめには、各地で徴兵反対の一揆が起きた。国家の軍隊なんて村の外のヨソの世界、それより村内の野良仕事をするほうが当然、という価値観だったからだ。
ところが、日清、日露の戦争を経て、村内から出征した兵士がお国のために働いた英雄ということになると、村では総出をあげて徴兵された者をもてはやして送り出すのが通例になった(おかげで、徴兵検査に落ちたことを親兄弟や隣近所の人々に恥じて自殺する奴まで出るようになったぐらいだ)。
これを拒否するのは辛い、なぜって「みんな従ってるから」つまり、従わないのは"空気"に反するから――ミもフタもない話、日本人の忠誠心というのは、じつは愛国心でも愛郷心でも愛社精神でもなく「そのときのその場の空気」に対する、脱落を怖れる心性でしかないのではないか? 命令者のカリスマなど関係ない話だ。(参考「空気読め」という暴力)

◆人は無理にでも「納得」を求める

もっとも、戦前から、日本にも地縁血縁と意識が切れた個人主義者のインテリもいた。
だが、イヤな言い方をすれば、戦時中の学徒動員兵の話などには、先にあげた「自分は嫌々やってるんじゃない。自発的にやってるんだ」という心境がちらほら見える。
吉田満の『戦艦大和ノ最期』のなかで、いずれにせよ負け戦とわかっている大和の出撃と自分らの戦死について、職業軍人の士官が「悠久の大儀」を唱えるのに対し、学徒動員の士官が「敗れて目覚めよ」と唱えて論議になる場面は有名だ。
高橋和巳『邪宗門』には、学徒動員で出撃の決まった学生が、新婚の妻にヘーゲルの世界精神だのニーチェの超人思想だのを説いて、自分が祖国のため死にに行くことの意味を熱く語る場面が出てくる。高橋和巳自身は戦時中は中学生だが、彼の通った京都大学には、つい数年上の先輩にそーいう人たちがいたのではないか、という嫌なリアリティがある。
大東亜戦争中、インテリ学生には、保田與重郎の著作とか、日本浪漫派の「近代の超克」論なんぞがよく読まれたそうである。当時のインテリ学生たちはそれらに、自分が戦争に参加することを堂々と意味づける思想を見いだそうとしたのだろう。
そこまでご大層な話でなくても、岡本喜八監督の映画『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』では、熱狂的な愛国心なんかないまま特攻隊員になってしまった学徒兵の一人が、出撃前に女に逢いに行く時「祖国を探してくる」と言っていた。これも「戦う理由」探しだ。
断っておきますが、わたしは学徒動員の特攻隊員を矮小化してあざ笑う気は一切ない!!!! わたしも同じ状況に追い込まれたら、自分が生きては帰れない戦場に行くことの意義を無理やりにでも考えようとするだろう。ものを考えてしまう人間は、逆らいようのない理不尽な運命に対しても、何らかの自分なりの「納得」を求めてしまうのだ。

◆罪悪感は人を縛る最高の鎖

学徒動員された特攻隊員たちの苦悩に比べれば、わたしがリバティコープの集会で「自発的にやってるんだ」とばかりに一時的に大声をあげたことなど、屁のようなものだ。
さて、いまだにリバティコープを叩くわたしに対し、同団体の元幹部は「お前もどうせ、儲けようと思って会員になって大損して『騙された』とか言ってんだろ」と言うかも知れないが、残念でした!! 俺は一日集会に付き合わされただけで、会員にはなってない。
むしろ、わたしは会員にならなかったからこそ、いまだにこの団体を叩けているのだ。
もし正式に会員になっていれば、自分も組織に与して「世話になり」、手を汚したという負い目で口が重くなっていただろう……そう、角田美代子に従ってしまった人々のように。
あり得たかも知れないもう一人の自分を演じてみると、ぞっとする。
わたしは素晴らしい落合琢さんの経営するリバティコープに属したのに、売上に貢献もできず、親兄弟や友人に高額な機器の購入を押しつけようとして迷惑ばかりを掛け、世間に合わせる顔もない。でも、全部自分が悪いんだ……
カモが自発的にこう思うように仕向けるのが、悪徳商法やブラック企業の手口なのだ!!

◆洗脳状態とは「引き際」を見失った結果

結論を言えば、わたしがリバティコープの会員にならなかったのは、まだ外部からの隔離も不徹底な状態で、わたし自身も謙虚さと従順さが足りない奴だったからだ。
わたしと違って謙虚で従順な善男善女が、角田美代子のような自我の強い人物や、無実の罪を"自白"させる取調のような密室のプレッシャーや、悪徳商法やブラック企業のような組織から身を守るために必要なのは、たいへんイヤな言葉だが「精神的な損切り」を考えることだろう。
本日のエントリで長々と書いてきたような、人が被支配状態から抜けられず、むしろそれを自発的意志だと正当化してしまおうとする心理は、被支配状態に置かれ続けた間に費やした労力や行為の重さ(支配者との共犯関係、自分も加害者になってしまった、身内への迷惑など)を考えると、今さら後に引けないという意識の産物だったりする。ギャンブルや株式投機やFXで引き際を見誤った結果、取り返しのつかない大損になるのと同じだ。
「心の損切り」ができなかった者は"場"の奴隷になるだけだ、それもみずから進んで。

*1:また、人を支配する側とされる側の資質もある。日本人はあまり物事を断言せず、謙虚に振る舞うのが美徳と刷り込まれている。これを信じてる善良な人は、強気にものを断言する奴にはつい従ってしまう。10年ばかり前、東京の東大和市に住む一夫多妻男の事件が報道された。この男、占いをやってて、女を自在に操れる呪文があるとか言っていたが、べつにオカルト話ではなく、要は従順そうな相手をうまく選んで、自分に従わないと生きられないように思い込ませる話術がうまかっただけではないのか? という気がする。

*2:リバティコープの集会では、あたかも「この団体に属する=絶対的な勝ち組リア充/この団体に属さない=卑しい醜い負け組」という極端な二者択一の世界観が刷り込まれる。だが実際の外の世間では、べつにこの団体に属さなくてもそこそこ充実の人が圧倒的多数だったろう

*3:いじめ問題も、実際には単純な支配・被支配関係ではなく、友だちグループ内でのパシリ役・いじられ役の形だったりする。いじめられてる側は、そこから逃げられないと「みずから仲間になってるんだ」と思おうとするものだ。

*4:リバティコープでは「絶対に儲かる」とは言わなかった。代わりに「やってみなくちゃわからない」「やってみれば『なーんだ』と思うよ」という巧妙なフレーズがくり返された。だが、煽られた末端会員たちは、新たなカモを勧誘するに当たって、会員になればお金が儲かって"相手のためにもなる良いこと"だという方便で人を釣ろうとした。

*5:わたしがリバティコープに勧誘されたときの場合は少し異なる。ここで帰るとわたしを勧誘した友人の顔を潰す、という形のプレッシャーだった。

*6:イヤな話でも親兄弟とかの「親族の頼み」が絡むとうかつに逃げられない。リバティコープをはじめ多くのネットワークビジネスも、結局は、会員を通じてその親とかに商品を買わせるビジネスだった。まさに芋づる的手法。