Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

ベニスにて考えるベニスの商人(連続ツイートより)

2011-11-29 23:14:59 | Weblog
私は以前から、何故シェークスピアが「ベニスの商人」という喜劇を書くことができたのか、そしてその作品は果たして正しく受け止められているのかどうかに興味があった。ベニスを訪れた際には、ぜひこの喜劇の舞台となったユダヤ人街を訪れたいと考えていた。

ベニスの狭い一角にあるユダヤ人ゲットーには、極めて限られた地域に5000人もの人が人が住んでいたと言う。ユダヤ人には居住や移動の自由が認められなかった為、彼らは限られたゲットーの敷地に天井の低い8 階建ての「摩天楼」を建てては、ぎゅうぎゅう積めにして生活していたと言う。

スラム街を指すゲットーという言葉は、ベニスのユダヤ人街があったイタリア語のgeto(鋳造所)から生まれている。ドイツ語を母国語とするアシュケナジたちはイタリア語でジェトーと発音できずにゲットーとドイツ風に発音し、それが英語に取り入れられてスラム街を意味する言葉になった。

1382年にユダヤ人による金融業が認められ、現在に至る金融のグローバル化への契機となった。また1492年のレコンキスタ完了後の1541年より、イベリア半島にて信仰の自由を奪われ、ギリシャとスロベニアに避難していたセファルディム系ユダヤ人たちの居住が認められる様になった。

ヘンリー8世がイングランド教会のトップに君臨したのが1534年、バスク系ユダヤ人の背景を持つザビエルがベニスにてイエズス会の聖職者として任命されたのが1537年、さらにセファルディムのルーツを持つスピノザが1632年にアムステルダムに生まれたことなどを考えると興味深い。

またセファルディムは、イベリア半島からやって来た西方系のPonentini(=西)と東方系(Levantine=東)に分かれるという。金融関係者の多くはセファルディムで、ベニスのユダヤ人社会は豊かなセファルディムと貧しい労働者であるアシュケナジとの間で階層化したと言う。

またドイツ出身者、フランス出身者、そしてイタリア出身者と分離・階層化したのユダヤ人は、5つの異なるシナゴーグを持っていた。禁止されているはずの偶像や大理石が使われていたり、教会様式であるキューポラやステンドグラスが用いられていたりと、かなり混ぜこぜの様式だった。

ユダヤ人たちは、当時はまだキリスト教徒たちには許されていなかった金融業を始め、キリスト教徒たちに金を貸していた。しかし当時はユダヤ人に対する基本的人権が確保されていなかった為、貸したお金をキリスト 教徒に踏み倒されるということは日常茶飯事だったと言う。

シェークスピアの「ベニスの商人」とは、キリスト教徒に貸したお金を踏み倒されそうになっているユダヤ人シャイロックが法律を持って戦う喜劇である。シャイロックが、私もキリスト教徒と同じ一人の人間なのだ、と話す部分は、感動的ですらある。

「ベニスの商人」という喜劇は、ユダヤ人の金貸しに対する批判にフォーカスがあるのではなく、もっと豊かな意味を持っている。だからこそ、ハイネが伝える様に、「ベニスの商人」を鑑賞したドイツの貴婦人が、シャイロックの言葉に同情して涙を流し得たのだろう。

シェークスピアがこういったテーマを同時代に扱うことができたのは、イギリスがローマから分離して国教会を立ち上げ、聖書の英訳を行ったことが大きいと考えられる。そこで宗教・言語的に新たなコンテクストが生まれ、同時代のベニスにおけるユダヤ人を照射することが可能になった。

ベニスのユダヤ人コミュニティは第二次世界大戦中、ナチスドイツの特種部隊などにより消させられてしてしまった過去がある。その歴史を踏まえつつ、私達が作って行く21世紀という時代に、金融や宗教を乗り越える新たな哲学や美学の文法を確立できないか、とぼんやりと考えている。

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