Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

東京文化発信プロジェクト室 退職のお知らせ

2010-03-31 18:12:20 | Weblog
ブログをご覧の皆さま

こんにちは、渡辺真也です。いつもブログをご覧になって頂き、ありがとうございます。

さて、突然ではありますが、私は、3月31日付の単年度契約満期終了をもちまして、東京都歴史文化財団 東京文化発信プロジェクト室 地域文化交流推進担当 主事 を退職することになりました。

沖縄県立美術館でのアトミックサンシャイン展開催の為、2009年初頭、ニューヨークよりスーツケース一つで来日した際にお声がかかり、そのまま就職することから、東京文化発信プロジェクト室の仕事が始まりました。2009年4月にオープンした沖縄展では、作品の検閲を巡り激しく炎上しましたが、それをくぐり抜け、11月にはニューヨークでの展示「ボルケーノ・ラヴァーズ - アイスランドと日本から」のキュレーションを無事こなすことができました。私の個人的なキュレートリアルプロジェクトを実現する為に、わがままを聞いてくれた部署、そして同僚たちには、大変感謝しております。

部署での仕事においては、BOAT PEOPLE Associationとの共催事業「LIFE ON BOARD」の開催や、AITとの共催事業「Tokyo Art School」などを開催してきました。私にとって、日本での初めて の就職ということもあり、書類の処理なども含め、右も左もわからないことばかりでしたが、部署の皆さま、そして共催相手の皆さまに支えられながら、今まで仕事をすることができました。特にBPAとの共催事業は、メンバーたちとかなり密度の高い時間を過ごすことができましたが、事業を推進する中で、東京の水辺でのアート事業の展開の難しさを痛感し、文化行政についても、その役割や意義について、考えさせられる箇所が多々ありました。

今後、私は現代美術のキュレートリアルにより近い立場で活動できる環境を探して行きたい、と考えています。しばらくは出版プロジェクトなどに関わることになりそうですが、その後はキュレーターとして意味のある仕事を行う為に、長期的なビジョンを設定し、次の第一歩を踏み出して行きたいと考えています。

これまで、部署の皆さま、共催団体の皆さま、そして事業を支えて下さった多くの皆さまに、大変お世話になりましたこと、心から感謝をいたしております。

私の活動はこれからも続きます。ぜひご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。

PS:翻訳のお仕事などございましたら、コメント欄よりどうぞご連絡下さい。

照屋勇賢個展、六本木クロッシング、そしてBO菜イベント開催・・・

2010-03-23 23:37:15 | Weblog
今回のヨーロッパでの旅では、イタリアにおける反ゴシックとしてのバロック美術や反宗教改革におけるカトリックの歴史、さらにオランダにおける、レコンキスタ期以降におけるカルヴァニズムと自画像の歴史に関する見識が、相当深まった。この件に関しては、時間をかけて書いて行きたい。

日本へと帰国の当日、上野の森美術館での照屋勇賢の個展+VOCA展のオープニングへと伺い、先週末は六本木クロッシングのオープニングに顔を出し、昨日はBO菜イベントの開催と、盛りだくさんの日々であった。

照屋勇賢の作品を、上野のロイヤルパークで見る、というのは非常に面白い体験だった。というのは、沖縄と異なり、作品を東京に持って来るだけで、持っている意味がガラリと変わってしまう。彼の作品のコンテクスト的な意味合いを沖縄以外の会場にて引き出すには多くの工夫が必要ではないか、そんなことを感じた。想像力を刺激して読ませる部分と、ある程度解説を添えて、作品の理解を進めることのバランスが重要ではないか、と思う。鑑賞者の想像力を補完し、作品の理解を促す、そのガイドラインの様なものを展示の流れの中で生み出すことがキュレートリアルの仕事なのかもしれない、そんなことを思った。

六本木クロッシングのパーティでは、森村泰昌さんとご一緒でき、同席した照屋勇賢さんを紹介する。ずーっと紹介したかったお二人だけに、繋ぐことができて光栄だった。

アトミックサンシャイン展でご一緒した作家が、同じ時期に東京で、昭和天皇をテーマとした作品を見せている、というのはとても重要なことではないか、という話になった。森村さんが、大阪のお茶屋さんの自宅にて、自身が昭和天皇さらにマッカーサーに扮し、そして勇賢さんが、沖縄の紅型にて、軍服姿の昭和天皇を染め抜いた、そこには表現におけるある種の共通点が感じられる。両者とも、展示においてお客さんから拒否反応の様なものがほとんど感じられなかったそうで、「時代は変わりましたなぁ」、と語る森村さんのコメントが、印象深かった。

六本木クロッシングでは、美術館のキュレーターである近藤健一さん、片岡真実さん、そして展示キュレーターを担当した窪田研二さん、木ノ下智恵子たちにご挨拶。先輩のキュレーターたちからいろいろと為になるお話が聞けて、私としても嬉しかった。さらに、トークイベントでご一緒した宇治野宗輝さん(たんすロボは素晴らしかった!)、そしてベルリンでお世話になった小金沢健人さんなど、多くのアーティストと交流でき、大満足だった。

その後、22日には、長期に渡って準備を進めていたイベント「BO菜」へと突入。かなり複合的なイベント、かつ天候にも左右されるということで不安いっぱいだったが、当日はこれ以上ない、というくらいの快晴。船橋からの漁船やお野菜も、無事ボートで到着し、サバイバルピクニックを敢行。アーティストの坂口恭平さん、そしてサバイバルのプロ(?)こと鈴木さんと一緒に、0円ハウスを立ち上げるワークショップもスムーズに進行でき、とにかく良かった。東京都歴史文化財団、東京アートポイント計画の最後の仕事となるものだったので、気持ち良く最後の仕事を成し遂げることができた。

22日夜は、共催団体であったBOAT PEOPLE Associationのメンバーと、軽く打ち上げをしながらお話する。今が時代の境目でありながら、それを上手く切り開いていけないもどかしさ。そんな中でも、どうにかあがいて、自分たちの道を切り開いて行くしかない。

乱反射するスピノザのレンズ - ヨーロッパの記憶を巡る旅

2010-03-11 07:04:40 | Weblog
ミラノよりアムステルダムへと入った。人々の服装が、イタリアとは変わって北欧っぽい感じになってきたのが印象的だ。人々の表情や、コミュニケーションの仕方も、イタリアとはずいぶん異なる。

今回の滞在先となった、MVRDVらデザイナーらがデザインしたホテルLloyd Hotelにて、ディレクターのスザンナさんとミーティング。とても魅力的な人だった。80年代の日本の歴史の話などで話が弾み、そのままずっと話し込む。その後、娘さんをお昼に迎えに行かなくては、ということになり、一緒に車へと乗り込んだ。まだ中学生の娘さんを、何故平日のお昼に迎えに行くのだろう?と不思議に思って聞いてみると、娘はモンテッソーリの学校に通っており、水曜日の午後は両親が面倒を見る日だからだ、と応えてくれた。

モンテッソーリ教育?私は不勉強にも、このモンテッソーリ教育のことを良く知らなかったのだが、学校に行ってみて、驚いた。数学の勉強を、数珠の様な編み物の連鎖を繋げて計算させたり、学生に好きなアーティストの絵画を選んで模写させたり、好きな花を見つけて、その花を植える花壇を作ったり、と、日本からやってきた私から見ると、かなりアナーキーな教育の現場がそこにあった。今回はアフリカをテーマとした自由イベントを学生たちが開催する、ということになっているらしく、10-15歳くらいの子供たちが、アフリカをテーマにした太鼓や籠などを持ち寄って、ドンドコやりながら遊んでいる姿を見ると、こんな自由な教育があっても良いんだ、と感心した。そんな校風のせいか、私が教室に行くと、東洋からの来客を子供たちが大歓迎してくれた。子供たちが描いたゴッホの模写を撮影させて下さい、と言ってカメラを取り出すと、少女たちがその前で飛び跳ねてポーズを取ったのが、印象的だった。

「モンテッソーリ教育はシュタイナー教育みたいなものですか?」、とスザンヌさんに聞いてみると、似通っている点が多いが、シュタイナー教育が最終的に宗教に傾倒している点とそうでない点が一番大きな違いだと言う。本当に興味深いものを見せてもらった。その後、スザンヌさんと一旦お別れすると、トラムに乗り換え、レンブラントの自宅へと向かう。レンブラントの自宅はかなり大きな豪邸で、彼が若い頃には相当派手な生活をしていたことが分かる。放蕩息子のモチーフが似合う訳だ。

レンブラントの家に行く前にスピノザの自宅に関しても調べておいたのだが、なんとレンブラントとスピノザが、全く同じブロックに住んでいたとは、大変な驚きであった。つまり彼らは、徒歩1分以内の圏内に住んでいたことになる。超ご近所さんだ。

その後、スピノザの銅像の前で記念写真を撮ると、ユダヤ博物館へと足を運ぶ。ここでも、スピノザにまつわる書籍資料などを沢山見ることができ、大満足。私が以前エッセイにて書いたマナッセ・ベン・イスラエルの肖像画の本物が見れて、感激。そして、スピノザが磨いたレンズの展示には、とにかく泣けた。スピノザは本当はレンズを磨く技術ではなく、レンズをカットする技術を得たかったのだが、マラーノの血をひくスピノザは、オランダ人たちからその技術を教えてもらうことができなかったそうだ。さらに、スピノザの父は21歳で他界しており、スピノザ自身は母親に育てられていることなどを知った。私が読んだ日本語書籍にはその記述が無かったので、とても勉強になった。

その展示の中で、一つ気になったことがあった。北部アフリカとイベリア半島からアムステルダムへと移り住んだマラーノ・ジューたちが、自らを「tedescos」と名乗るドイツ・ポーランド系のアシュケナジ・ジューのことを見下していた、というのだ。ポーランド系アシュケナジたちがユダヤの戒律については一番詳しかったそうなのだが、東インド会社と仕事をすることで経済力を付けていたマラーノ・ジューたちは、経済力の無いアシュケナジを差別していた、というのだ。

そこで、一つ思い出したことがある。アリゾナにあるパウロ・ソレリの建築コロニー「アーコサンティ」にてイタリア語をイタリア人から学んでいた際、ドイツ人の友人が「ドイツとはイタリア語で何と言う?」と聞いた際、イタリア人の先生が「テデスコ」だ、と答えたのを覚えている。「何故テデスコなの?」と聞くと、イタリア人の先生は「知らない」と答えてチャーミングに肩をすくめたのが、ドイツ人の友人は腑に落ちない様でムッツリしており、それがなんだか可笑しかったので、良く覚えている。
(詳しくはWikiのtedescoを参照して下さい)

ユダヤ系として知られるサルゴジ大統領の奥さんカーラ・ブルーニの本名が、Carla Gilberta Bruni Tedeschiというユダヤ系(?)の名前なのは非常に興味深い。モディリアーニもイタリア系マラーノだが、それを考えると、ナポレオンがユダヤ人たちに強制的にファミリーネームを付けさせた際、仕事や地域に関係した名前を付けさせたという史実と、リンクしてくるのかもしれない。

話を戻すと、「tedesco」はイタリア語で「ドイツ」を意味する。(スペイン語ではどうなのだろう?そして、15-16世紀におけるイタリア語とスペイン語の違いは何なのでしょうか?)つまり、スピノザの時代に「tedescos」と言った時、ドイツ・ポーランドからアムステルダムへと移り住んだ私たちアシュケナジ・ジューたち、というイタリア的(イベリア的)視点から眺めた、自身を卑下した呼び方だったのではないだろうか?これはマラーノという言葉が、スペイン語で「豚」を意味している、というのと似通った文脈だと思う。さらに、オランダをHollandではなく、Netherlandと読んだ時に「低地」という地形から国名が来ているのと(フランス語ではオランダのことをpays-bas=低地と呼ぶ)、Hollandと読んだ時、それはオランダのイスパニアからの独立をしたオラニエ公ウィレムと関係している様な、名づけられた経路により、持つ意味が変わると思うのだ。

考えなければならないことが多すぎて話がまとまらないので、今日はこの辺で。

奇跡の『イタリア紀行』 - ミラノにて

2010-03-10 04:37:34 | Weblog
ミラノに来た。イタリアの北部だけあって、人々の気さくさと都市のインフラのクオリティが、程良い程度にマッチしている。気持ちの良い町だ。

早朝から、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へと足を運ぶ。もちろん、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」を見に行く為だ。

2か月以上予約待ちの為、作品を見るのは絶望的に難しい、しかし朝一番で行けば、キャンセル待ちとして入れるかもしれない、と滞在先のホテルマンに勧められ、行ってみたものの、やはり入れず。建物の前では、同じくキャンセル待ち狙いのツーリスト達が列を作って待っていた。これでは、仕方ない。残念だけれど、あきらめてレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館へと伺う。

ここでは、レオナルドのスケッチから形を起こしたという、彼の発明品の実物版が目を引く。特に私が目を魅かれたのが、ヘリコプターのプロトタイプと、水の流れと野草のウェーブを描いたスケッチ群だった。(レオナルドに関しては、また後日詳しく書いてみたい)

ミラノでは、できる限り教会建築と宗教画を見て回ったのだが、やはりイタリアでイタリア絵画を見ると、その歴史と影響がどこから来たのか、よく理解できる。ミラノというイタリア北部の町から眺めた時、エジプト美術、エトルリア美術、ギリシャ美術、ガンダーラ美術、ローマ美術など、ばらばらになっていた点と点が少しずつ繋がって行く。(これも今度、試論を書いてみたい)

今回、個人的に収穫だったのは、ミラノ最大の境界であるドゥオーモにおけるゴシック様式を排除したのがボロメオ家であり、その最大の理由はルター派に対するローマ・カトリック側からの警戒であった、という歴史に触れることができた点だ。これを理解すると、イベリア半島とオランダ独立の歴史も、かなりすっきり理解できるはずだ。

繰り返しになるが、イタリアはとにかく宗教美術が圧倒的な存在感を放っている。その中で私が特に驚いたのは、サンタンブロージョ聖堂における殉教者たちだった。聖アンブロージョと、彼が発見したという殉教者のミイラが、聖堂の中に横たわっている。あたかも即身仏の様な遺体が3体横たわっており、頭蓋骨から綺麗に並んだ歯が見えた時、不覚にもキリスト教にこんな文化があったのか、と驚かされた。4世紀に建てられたギリシャ十字型のデザインで知られるサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会にも、ひんやりとした部屋の一角に、聖人のミイラが祭られており、驚かされた。

オペラで有名なスカラ座とドゥオーモの間に、ガッラリアと呼ばれるアーケードがあり、その中に、幸運を呼ぶという雄牛のモザイクがある。そのモザイクには丁度こぶし程度のへこみがあり、そこに右のかかとを入れて三回転した人には幸福が訪れる、という言い伝えがあるそうだ。多くの人たちで賑わっている中に私も混じって、どれどれ、私も、と早速右足のかかとを入れて3回転してみた。久しぶりに回転した?せいか、スイカ割りの時に友人にぐるぐるに回された時の様に、ふらふらになってしまった。

その後、ドゥオーモの中に入ると、携帯電話に着信がることに気がついた。実家からだったので、何だろう、と思い、実家に連絡すると、元気そうな母親の声が聞こえた。どうしたの?と聞くと、父が癌の定期健診に行った所、なんと父の癌が消えていた、と言うのだ。これには驚いた。

父はもう治る見込みの無い癌を患っており、5年生存率は40%程度、と診察を受けてからもう4年目を迎えていた。前回私が実家に帰った時には、遺言めいたことまで聞かされたのに。それが、検査の結果、ガンが見つからないとは・・・どういう事だろう。以前、試しに受けてみた放射線治療が効いたのだろうか。

「俺自身が、きつねにつままれたみたいな気分だ」そう語る父は、とにかく嬉しそうだった。久しぶりに、心の底から喜べる、本当に嬉しいニュースだ。父には、これからの第二の人生、いや、第三の人生を満喫してもらいたい。

タイミング良く、セリエAの試合や、スカラ座でのフルオーケストラでのマーラーのSynphony No.9の演奏を聞けたり、さらに父のガンが消えてしまった、という、まるで奇跡で全てが救われてしまうロッセリーニの映画『イタリア紀行』の様な、不思議なイタリア、ミラノ体験であった。

「ひがぁ~しぃ~」と「に~しぃ~」から考える、南方起源としての日本大相撲

2010-03-06 03:53:56 | Weblog
相撲における「ひがぁ~しぃ~」と「に~しぃ~」という声と、相撲場所での太鼓のリズムについて考えていたら、インドネシアの音楽みたいだなぁ、と感じ、その中で一つ気付いたことがあるので、書きとめておきたい。

日本の大相撲は、南方ルーツではないだろうか?そして、横綱や綱取りも、基本的に南方をルーツとして生まれているのではないだろうか?

沖縄の諸島地域では、豊作を占う為、東が男、西が女に分かれて綱引きをする習慣がある。この綱引き、西が勝つことが多いそうなのだが、西側、つまり女性側が勝つと豊作になる、という信仰がある為、女性に勝たせて豊作祈願をするために、綱引きの際にはわざと西側が坂道の下り側になる様、有利に設定することが多いと言う。また糸満地方では、この綱を巻く際にカヌチ棒という棒を差し込み、よじられた綱を男性と女性の生産的な力を注ぐそうなのだが、そこにある種の男性器崇拝が見て取れる(これは世界共通だろうか?)(ベーゴマの巻き方にチンコ巻きと○○○巻きという巻き方があるそうだが、それもこの名残なのかもしれない、と考えることもできる)

ケネーは経済活動の全てを太陽光の恵みから生まれると定義したが、西が勝つ、ということは、太陽の行き先である西への祈願=未来の豊作、という思想となったのではないか。

日本本土の相撲における綱取りも、東と西に分かれて戦う訳だが、例えばしめ縄に関しては、Volcano Lovers展のステートメントにも書いた様に、アマテラスが天岩戸に再度隠れない為の結界として使われたものであった。私には、この縄そのものが絡み合って出来ている、ということが重要な気がしてならない。

私がまだ小さい頃、お正月になると神棚を掃除したのだが、私は不器用だったので紙垂(しで)を作ることができず、姉が習字で使っている和紙を切り、末っ子長男である私が、しめ縄の間にこの紙垂(しで)を差し込む役割を担っていた。姉が紙垂(しで)を刺そうと、神棚にあるしめ縄を触ろうとした時の祖父の怒りっぷりに私はおどろいたのだったのだが、信仰心の強い、大正人には、しめ縄に対する率直な信仰があったのだろう。

その綱、を取るために戦うのが、神事をつかさどる「力士」であり、それを腰に巻くことが許されるチャンピオンが、横綱なのだろう。

--

遺伝子工学の発達により、ハワイのタロイモの遺伝子がインドネシア起源のものだと判明したと言う。環太平洋にまだ文字が発達していなかった時代、本当にスターナビゲーションによる航海技術が機能していたと仮定すると、環太平洋に交易権があったと考えても不自然ではない。スルガという言葉は、環太平洋圏で「幸福」という言葉を意味するそうだが、これは果たして偶然だろうか?

冬はつとめて、という言葉があるが、この「つとめて」には漢字における表意的な意味合いはあるのだろうか?八重山地方のウチナ口に、早朝を意味するというツゥトゥミティーという言葉が残っている、と本で読んだことがあるが、もしかしたら自らの文字を持つことができなかった環太平洋圏の人間の言葉を、漢字文化の流入とそれを支配する男性へのある種の反動としてひらがなを作成した日本列島の女性たちが表記し、それを「やまとことば」として体系化することで、初めて流通し、認識された、と考えることはできないだろうか?

チャンプルーはインドネシアでかきまぜる、という言葉であり、沖縄でもほとんど同じ意味を持つ。それが九州に入ると「ちゃんぽん」(=まぜる)となり、朝鮮半島でも「ちゃんぽん」となる。それが、本州に入った時に、相撲取りの食べる「ちゃんこ」という名前になったのではないか?

相撲は仏教伝来以前にあった南方ルーツの神事として日本本土に入ってきていたにも関わらず、「ほつま」などに見られる、漢字流入より前に存在していた環太平洋の文化は、白村江の戦いに敗れて以降、宗主国を無くした大和朝廷が、日本国独立の為にでっち上げた古事記との整合性が取れなくなった時に意図的に排除していく中で、これら環太平洋の文化そのものが断絶して行ったのではないか?

磯崎氏が「建築における日本的なるもの」にて看破した様に、伊勢神宮の建築はインドネシア様式だ。そうすると、日本の神事がインドネシアルーツであっても何もおかしくはあるまい。日本の神社においてしばしば見受ける男性器のご神体が、ヒンズー教のシヴァリンガと似通っていることも、偶然ではないだろう。伊藤忠太がインドネシアへと行った際、インドネシア建築に何を感じたのだろう?大変興味がある。

相撲などに見られる「日本的なるもの」を真面目に考えると、そんな所に行きつくのではないか、そんなことを考えた。

BO菜 ―ボートと野菜が東京を救う ― 2010年3月22日(月・祝)

2010-03-04 15:06:41 | Weblog
3月22日、月曜祝日に、東京での震災を想定した模擬防災クルーズ+ワークショップ「BO菜 ―ボートと野菜が東京を救う ―」を企画しております。私の東京都歴史文化財団での最後の仕事になります。

実際の震災を想定して、様々なコースをご用意しました。お勧めは、

助けられたい人コース
C-E-現地解散 (2000円、食事つき)
船でとりあえず都心脱出!
常磐橋防災船着場ー夢の島マリーナー常磐橋防災船着場

千葉へかえりたい人コース
C-E-F(3000円、食事つき)
船で千葉へ帰れるらしいよ!
常磐橋防災船着場ー夢の島マリーナー船橋漁港

助けたい人コース
B-D (4000円、食事つき)
船橋漁港から食料を船で輸送するのを体験!
バスー船橋漁港ー夢の島ー江東区の内部河川

助けられ、そして助けたい人コース
C-D-現地解散 (3000円、食事つき)
都心脱出後、船橋からやって来た食事を都内へ輸送!
常磐橋防災船着場-夢の島マリーナ-江東区の内部河川

など。こちら、下記のWebサイトにて詳細をご覧になって頂き、皆さまお誘いあわせの上、ぜひご参加下さい。

LIFE ON BOARD TOKYO 09-10
BO菜 ―ボートと野菜が東京を救う ―


東京にて直下型の地震が発生した場合、都市のライフラインが遮断され、陸上交通が途絶えることが想定されます。そんな時、救援物資輸送などで活躍が見込まれるのが水路です。しかし東京では個人の水面利用が一般的ではなく、人々の水辺に対する親しみも薄いため、もしも災害が起こった場合、水路が本当に利用できるのかどうか、不安が残っています。

BO 菜(ボーサイ)では、船(=BOAT)に東京湾の対岸で取れた野菜(=菜)や海産物を載せて東京へと運搬してサバイバルピクニックを開催し、さらにその野菜を、東京の運河を使って都内へと輸送します。このイベントを通じて、東京の水辺を楽しみながら防災への意識を高めて頂けたらと思います。

こちらよりチラシ(相澤幸彦さんの美しいデザインです!)がPDFでダウンロードできます


イベント概要

開催日:2010年3月22日(月・祝)
メイン会場:東京夢の島マリーナ
主催:東京都、東京文化発信プロジェクト室(財団法人東京都歴史文化財団)、一般社団法人ボート・ピープル・アソシエイション
協力:夢の島マリーナ/スバル興業株式会社、株式会社大平丸、深川東京モダン館、法政大学エコ地域デザイン研究所、葉山一色海岸UMIGOYA、船橋市農業関係者有志、WCT運河ルネッサンス、NPO法人海の歴史と文化を明日へ、OCEAN LEGEND、小川昭明(ホテルポートプラザ千葉総料理長)、株式会社舵社(順不同)

スケジュール

午前プログラム
■A:坂口恭平によるワークショップ「災害時に役に立つ0円ハウスのつくり方」
[時間] 10:00~13:00
[集合場所] 東京夢の島マリーナ2F会議室(その後屋外へ)
[定員] 40名
[料金] 2000円

東京にて大地震が発生し、家を失い夢の島マリーナへと避難してきたという想定で、参加者は建築探検家・坂口恭平氏の指導のもと、災害時にスーパースターとなるサバイバルのプロたちと一緒に0円ハウスを立ち上げます。船橋からやってくる救援物資(Bコース)を待ち受けた後、参加者全員でサバイバルピクニックを行います。
<内容> レクチャー、ワークショップ、サバイバルピクニック(ランチ)、野菜の土産、お楽しみBO菜グッズ、保険

■B:東京湾横断サバイバルツアー
[時間] 9:00~13:00
[集合場所] 日比谷公園
[定員] 35名
[料金] 3000円

東京での大地震を逃れたという想定の参加者が、船橋の農家・漁師の方と共に漁船へと乗り込み、東京の避難民(A・Bコース参加者)へと救援物資を届け、参加者全員でサバイバルピクニックを行います。
<内容> バスツアー+東京湾クルーズ(日比谷公園→船橋港→夢の島マリーナ)、サバイバルピクニック(ランチ)、野菜の土産、お楽しみBO菜グッズ、保険

■C:都心発運河サバイバルツアー
[時間] 10:00~13:00
[集合場所] 中央区常盤橋防災船着場
[定員] 35名
[料金] 2000円

東京にて大地震が発生し、家を失ったという想定のもと、参加者は夢の島マリーナへと避難します。Aコース参加者と一緒に船橋からやってくる救援物資を待ち受けた後、全員でサバイバルピクニックを行います。
<内容> 都心発運河クルーズ(中央区常盤橋防災船着場→夢の島マリーナ)、サバイバルピクニック(ランチ)、野菜の土産、お楽しみBO菜グッズ、保険


午後プログラム
■D:東京BO菜船着場クルーズ
[時間] 13:00~15:00
[集合場所] 夢の島マリーナ
[定員] 35名
[料金] 1000円

Zen Fleet号に乗り込んだ参加者は、都内の防災船着場をクルーズしながら、船橋の野菜を被災想定地へと運搬します。
<内容> 防災船着場クルーズ(夢の島マリーナ→江東区桟橋→夢の島マリーナ)、野菜のお土産、お楽しみBO菜グッズ、保険

■E:BO菜クイッククッキングワークショップ
[時間] 15:00~16:00
[集合場所] 夢の島マリーナ マリンセンター
[定員] 40名程度
[料金] 無料

船橋からやってきたお野菜の、簡単でおいしい食べ方を、フード+アートコーディネーターの福井純代さんから教わりながら試食します。
<内容> 福井純代さんと小川昭明(ホテルポートプラザ千葉総料理長)によるクッキングレクチャー+ワークショップ、試食


夕方プログラム
■F:サバイバル帰宅クルーズ(千葉方面)
[時間] 16:00~17:00
[集合場所] 夢の島マリーナ
[定員] 35名
[料金] 1000円

漁船に乗り込んだ参加者は、船橋よりいらっしゃった漁師さん、農家の方と一緒に漁船「大平丸」にて船橋へ移動し、そのまま帰宅します。
<内容> 東京湾クルーズ(夢の島マリーナ→船橋港)、保険

■G:サバイバル帰宅クルーズ(中央区・品川区方面)
[時間] 16:15~18:30
[定員] 35名
[料金] 1000円
Zen Fleet号に乗り込んだあなたは、都内の防災船着場をクルーズしながら船橋の野菜を運搬した後、都内の桟橋にて下船、そのまま帰宅します。
<内容> 東京湾クルーズ(夢の島マリーナ→中央区常盤橋防災船着場→品川区天王洲ヤマツピア桟橋)、保険

※午前・午後・夕方プログラムは連続してご参加いただけます
イメージ

お申し込み
(1)[インターネット] http://boatpeopleassociation.org/project/lob100322 よりオンライン申込み。
(2)[FAX] 件名を「BO菜」とし、1. お名前、2. 電話番号、3. 住所、4. 希望コースを明記の上、FAX(03-5638-8811)による申込み。

・定員に達した場合はお断りする場合があります
・クルーズプログラムでは、乗船30分前には集合場所へとお集まり下さい
・発着地が異なる場合があるのでご注意ください
・コースは予定です。当日の状況により一部変更する可能性があります
・6歳未満のお子様の乗船は安全管理上お断りしております
・サバイバルピクニックの食事は、プログラム参加者のみとなります
・雨天荒天による中止のお知らせは出艇2時間前にBPAのウェブサイトへ掲載及び参加者メール、携帯電話にご連絡いたします

会場アクセス

【メイン会場:夢の島マリーナ】

電車:JR京葉線・東京メトロ有楽町線・りんかい線「新木場」駅 徒歩15分
車:首都高湾岸線「新木場IC」より 2分(第三駐車場に駐車、料金:1日500円)


【東京湾横断サバイバルツアー集合場所:日比谷公園】

電車:東京メトロ丸ノ内線・千代田線「霞ヶ関」駅、日比谷線「日比谷」駅 徒歩3分、JR線「有楽町」駅 徒歩8分

【都心発運河サバイバルツアー集合場所:常盤橋防災船着場】

電車:東京メトロ半蔵門線・銀座線「三越前」駅 徒歩2分

アーティスト紹介
KAZZ
20代をアメリカ、フランス、西アフリカで過ごす。ニジェール共和国では、ニジェール初のレゲエバンドを結成、西アフリカをライブツアーして廻る。今回は BO菜船着き場クルーズとサバイバル帰宅クルーズ(中央区・品川区方面)に同行していただき、災害時における人の心を安らげるアコースティックギター演奏を行います。

川本尚毅
1980年生まれ。インダストリアルデザイナー。ロイヤル・カレッジ・オブ・アート卒業。今回はイベント会場に、災害時に役立つ?かもしれないタマネギテントを設営し、皆さまの心を癒します。

坂口恭平
1978年熊本県生まれ。2001年早稲田大学理工学部建築学科卒業。大学在学中から、大規模な現代建築を設計する建築家に疑問を持ち、人が本来生きるための建築は何かを模索し続けている。著書に、隅田川の路上生活者の家を取材した『Tokyo 0円ハウス0円生活』(大和書房)、小説『隅田川のエジソン』(青山出版社)、路上に存在する極小空間の魅力を伝えた『TOKYO 一坪財産』(春秋社)がある。

福井純代
東京生まれ。LA、Paris、NYなど世界各地で独自に学んだデザインや制作知識を活かし、料理教室の開催、バッグや小物類の企画制作、インテリアコーディネイトなど幅広く活動。このイベントでは、アート的要素を含んだサバイバルピクニックの食材調達、調理、テーブルセッティング、ワークショップ&レクチャーを担当。

お問い合わせ
財団法人東京都歴史文化財団 東京文化発信プロジェクト室(平日 10:00-18:00)
Tel:03-5638-8803
Fax:03-5638-8811
E-Mail:[email protected]

森村泰昌・なにものかへのレクイエム 東京都写真美術館 3/11~

2010-03-03 01:38:21 | Weblog
アトミックサンシャイン展にてご一緒した、森村泰昌さんの個展「なにものかへのレクイエム - 戦場の頂上の芸術 -」が、3月11日より、写真美術館にて開催されます。森村さんの近年の作品をまとめた、集大成的な展示になると思います。きっと驚く様な発見もあるはず。皆さまお誘い合わせの上、ぜひ足をお運びください。

--
森村泰昌・なにものかへのレクイエム
-戦場の頂上の芸術-


■会 期:2010年3月11日(木)→5月9日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:2・3階展示室
■料 金:一般 1,000(800)円/学生 800(640)円/中高生・65歳以上 600(480)円
※( )は20名以上の団体および東京都写真美術館友の会会員、上記カード会員割引料金
※小学生以下および障害者手帳をお持ちの方とその介護者は無料
※第3水曜日は65歳以上無料

--

私達は、戦場の頂上に旗を掲げます
意気揚々たる、勝ち誇る旗ではありません

一枚の薄っぺらな画用紙 平々凡々たるカンバス
私の旗は 白い旗です

見上げれば、宇宙の風 見下ろせば、戦える大勢の人々
宇宙の風と戦いの影がせめぎあう 地球の頂上に立ち
あなたなら どんな形の どんな色の どんな模様の
旗を掲げますか

(新作映像作品《海の幸・戦場の頂上の旗》より)


80年代から一貫して、名画の登場人物や映画女優などに自らが「なる」変身型セルフポートレイトの写真作品を手がけてきた美術家・森村泰昌。本展では、森村が「20世紀の男たち」に扮する新作シリーズ<なにものかへのレクイエム>を完全版でご紹介します。
20世紀は男たちが建設し、争い、破壊してきた歴史であるにもかかわらず、21世紀の現代では急速に「男性的なるもの」の価値が忘れ去られようとしています。森村泰昌はかつて<女優>シリーズで、映画という「フィクション」のなかで輝きを放つ20世紀の女たちの世界を表現しました。<なにものかへのレクイエム>シリーズでは、森村は「男性的なるもの」の輝きを求めて、政治や戦争、革命という「現実」の世界、20世紀を記録したシリアスな報道写真の世界に取組んでいます。<美術史の娘><女優>シリーズと過去に発表した作品のなかで、女性に「変身」するイメージが強かった森村泰昌。「男たち」になることは、自らの身体を 媒介にして性を自由に超越し、「私」の可能性を追求するセルフポートレイトの新たな挑戦でもあります。
『現在私たちは21世紀を生きています。しかしこの21世紀は、かつて人々が想像していたような夢の世紀ではないようです。にもかかわらず、人類はこの 21世紀をまっしぐらに突っ走っているかに思えます。前の世紀である20世紀をブルドーザーで更地にして、20世紀的記憶を忘れ、その上にどんどん21世紀が出来上 がってきつつあるように思います。私はここでいったん歩みを止めて、「これでいいのかしら」と20世紀を振り返りたいと思いました。過去を否定し未来を作るのではなく、現在は過去をどう受け継ぎ、それを未来にどう 受け渡すかという「つながり」として歴史をとらえたい。そしてこの関心事を私は「レクイエム=鎮魂」と呼んでみたいと思いました。』(森村泰昌)
鎮魂歌(レクイエム)。それは、森村泰昌というひとりの美術家が自らの身体という器に歴史の記憶を移し替えるセルフポートレイトの表現によって、過ぎ去った人物や時代、思想への敬意をこめて、失われていく男たちの姿を21世紀に伝えようとする行為なのです。20世紀とはどういう時代だったのか? 歴史の記憶に挑む森村泰昌の新たなセルフポートレイト表現の集大成をお楽しみください。

本展は東京都写真美術館の2フロア(2階・3階)を使い、4章構成で展示いたします。
出品総点数:新作15点を含む全43点(写真作品35点・映像作品8点)