Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

久し振りに分からない - Francesco del Cossaの絵画と、近代と意識について

2009-06-22 23:38:29 | Weblog
今日たまたま、ネット上でFrancesco del Cossaの絵画「St. Lucy (Griffoni Polyptych)」に出会った。なんだか、見てみると、手に添えた草の葉に目がついていて、こちらを見つめている。イタリア初期ルネサンスのフェラーラ派に属し、私の好きなピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を受けているそうなのだが、それにしても、この手のイメージと、目のイメージに、何とも言えない興味を覚えた。久しぶりに、自分が「分からない」と思える、大事なものに出会った気分だ。明らかに、ヨーロッパ近代以前の何か、重要なものがここに現われている様な気がする。

その後、何気なく、日本のご神体について調べていたら、日本のご神体にもシヴァリンガに似たものがあることに気づいた。アジアの神の系譜が、沖縄での体験を通じて、個人的には少し線的に捉えることができて来たのかもしれない。

愛知県の田縣神社と大縣神社にて毎年春に開かれる豊年祭では、男根を「天」、女陰を「地」と見立て、「天からの恵みにより、大地が潤い、五穀豊穣となる事と子宝に恵まれる」事を祈願する祭事がある。これは、ギリシャのイデア(男=天)とコーラー(女=地)の議論に、かなり近いものではないだろうか。つまり、近代以前の人間臭さが、こういったシンプルかつ伝統的な行事に見えていると思う。

以前、ウクライナ人の学者に、「日本人には無意識は存在しない、とラカンが言ったって本当?」と聞かれて、閉口してしまったことがある。ラカンは、日本人には精神分析は不要だ、とコメントした、とされるが、精神分析とは、無意識を意識化することにあると思う。しかし、日本人には、意識と無意識とを切り離す「考える自己」のゼロポイント=近代の発生が、一神教の不在によって確立されなかったのではないか。さらに、それが漢字・カタカナ・ひらがなの構造や、謙譲語の外部へと主体を依存する構造により、西洋とは異なった体系を生み出したのだと思う。

Francesco del Cossaは、神について何を思っていたのだろう?そんなことを考えてしまった。


渡辺真也×萱野稔人 「戦後」美術を沖縄で語れるか - 近代とネーションを巡って 7月3日6PM~

2009-06-19 18:39:09 | Weblog
沖縄のシンポジウムにてご一緒した萱野稔人さんと一緒に、多摩美術大学にてトークを行います。皆様、お誘いあわせの上、ぜひご参加ください。

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アーカイヴ設計企画

渡辺真也×萱野稔人 対談

「戦後」美術を沖縄で語れるか
  ー近代とネーションを巡ってー

渡辺真也氏(インディペンデントキュレーター)と
萱野稔人氏(哲学者・津田塾大学准教授)による対談。

 私たちのもつ『表現』や『視点』は自由なのかどうか、
 『私たち』というときのアイデンティティは一つなのかについて考えます。
日時:2009年7月3日(金)18:00~
場所:多摩美術大学芸術学棟 312教室
企画:多摩美術大学芸術学科アーカイヴ設計
お問い合わせ:[email protected]

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芸術学科アーカイヴ設計主催・特別講義 2009/7/3
『戦後』美術を沖縄で語れるか‐近代とネイションを巡って‐
渡辺真也(インデペンデントキュレーター)×萱野稔人(津田塾大学准教授)

『戦後がない』このことは近代を考える上で、共有する問いのたて方として私たちにとって有意義なものではないでしょうか。私たちのもつ「表現」や「視点」は自由なのか、『私たち』というときのアイデンティティは一つなのか。これらの問題は美術大学で学び、表現に携わる私たち学生にとって不可避であり、大きな問題だと思われます。
今回の特別講義では「アトミック・サンシャインの中へ―日本国平和憲法における戦後美術」(以下「アトミック・サンシャインの中へ」)という現代美術展を企画した渡辺真也さんに近代や美術に関して問題提起をして頂きます。
芸術、アートはどのようにして社会や世界と関与しあっていけるのか。対象をヴィジュアルで語ることの意義や難しさを、それぞれが踏み込んで考えていくきっかけになることを願っています。
アーカイヴ設計3年 久田五月、野口尭広

資料

1.『アトミック・サンシャインの中へ 
―日本国平和憲法第九条下における戦後美術―』(2008-2009)について

「アトミック・サンシャインの中へ」は昨年の1月にNYで開催され8月に東京、今年の4月から沖縄での巡回展が開催された。本展示会のキュレーターである渡辺氏は、日本国憲法第九条が戦後日本の復興から発達までを支える軸の一つとして大きな役割を果たしたと同時に、アメリカとの関わりの中で生じる日本国内外のねじれた状況に着目し、その(・・)影響下(・・・)で表現されてきた美術という観点から展示会を制作した。
以下は、渡辺真也「アトミック・サンシャインの中へ」のキュレイトリアル・ステートメントからの引用である。

日本国憲法は、日本の民間草案を取り入れた上で、アメリカ占領軍によって実質的に描かれた歴史がある。そして平和憲法として知られる日本国憲法第9条には、主権国家としての交戦権の放棄と戦力不保持が明記されている。
この世界的に見ても非常に珍しい憲法上の平和主義の規定は、アメリカのニューディーラーの理想主義が反映されており、平和主義を含んだ新憲法は第二次世界大戦の苦しみを経験した当時の日本の一般市民に受け入れられ60年改正されることなく今日に至る。しかし、冷戦の終結、アジアの不安定化とナショナリズムの高揚と共に、この平和憲法の基盤である第9条が、現在、その存在を問われている。
第9条は、戦後日本の復興と再形成に多大な影響を与えたのみならず、60年間他国との直接交戦の回避を可能にし、直接交戦による死者を一人も出さないことに成功したが、日本の実質的な戦争協力は第9条が保持される限り、ねじれた状況を生み出しつづける。この特異な磁場から、多くのアーティスト達は取り組むべき新たな課題を発見し、彼らの芸術に表現してきた。その中には、日本の戦後やアイデンティティ問題などをテーマとした、また9条や世界平和をテーマとした作品が少なくない。
美術展覧会「アトミック・サンシャインの中へ―日本国平和憲法第9条における戦後美術」は、日本国憲法改正の可能性を目前とする今、戦後の国民・国家形成の根幹を担った平和憲法と、その影響下に制作された戦後美術を検証する試みである。

2.なぜ沖縄なのか
 異質な要素が出会い、衝突している特殊な磁場を持った沖縄。沖縄の近代以降の歴史は現代において、どのような意味を持つだろうか。沖縄は日本のなかでも「戦後」のひずみが他県とは異なる形で表れている。
 「アトミック・サンシャインin 沖縄」で渡辺氏は、NY、東京で出品した作品の一つを沖縄側の要請により、展示することができなかった。同じ作品でも場所が変わるだけで作品の意味合いは大きく変わる。美術作品は、展示する場所で働いている力と、見る人々の感情の経験と必然的に関わることとなる。
今回は「戦後」が特別な意味を持つ沖縄というフィルターを通して、表現の自由や、ひいては近代の問題をみていきたい。


3.沖縄県の概況
3.1 歴史
1429年 尚巴志の三山統一
1609年 島津の琉球支配の開始。薩摩の「掟」15カ条制定と琉球検地。
1659年 人頭税が定額人頭税に。
(近代的な制度の登場)
1872年 明治政府による琉球藩の設置。
1879年 廃藩置県、琉球処分。(約450年の琉球王国は滅ぶ)
1903年 内国勧業博覧会・人類館事件
1945年 沖縄戦終結。戸籍原簿など、公文書の多くが焼失。
1948年 第一回通貨切り替え 円→B円へ。(円とB円の交換比率は3:1であった。)
1951年 サンフランシスコ平和条約締結。翌年発効。
1953年 北緯27度線から与論島以北の奄美諸島群が日本に返還。
1958年 第二回 通貨切り替え。B円→ドルへ。
1972年 沖縄の施政権返還。(日本復帰)第三回 通貨切り替え。(1ドル360円。)


3.2地理・風土

沖縄、琉球列島は日本の南西に位置する。日本の国土面積の約0,6%を占め、東西約1000㎞、南北約400㎞。

県都・那覇から東京まで2時間半、上海まで1時間半。台湾へは1時間の距離にあり、沖縄は日本で最も東アジア諸国に近い場所に位置している。地政学的な要因でアメリカ合衆国の極東軍事の要となっている。

国土面積が0,6%の沖縄県に、在日米軍専用施設面積の75%が集中。(沖縄本島においては約19%を占めている。)

3.3 文化
習俗:沖縄はしばしば女性原理である古層文化で語られ、儒教文化(父性原理)である日本本土と比較して語られる。うない神信仰(女性祭祀組織)、祖先崇拝。
   トートーメーの継承問題。
曖昧さへの耐性があり、「てーげー主義」と呼ばれる。西欧的な二項対立思考がなじまない風土。

言語:奄美、沖縄、宮古、八重山諸島の5方言が数十の方言群に分岐している。

音階:琉球音階は西洋音階を基準に考えるとレ・ラ抜けの「ドミファソシド」。舞踊では東南アジアと同じく「こねり手」文化圏に属する.

経済:日本本土との経済格差、沖縄県内の経済格差が顕著であり、沖縄県全体の所得の低さが指摘されている。所得の低さに関連して子どもたちの学力や教育にも問題がある。また、基地依存型経済、軍用地地主の問題が挙げられる。米軍再編と沖縄振興体制の非争点化により財政規律が崩壊している現状がある。失業率、離婚率の高さも全国で常にワーストの位置にいる。



参考文献『沖縄県史:県土のすがた』沖縄教育委員会編


追憶 - 宣撫官としての記憶と、謙譲語のメカニズムについて

2009-06-17 00:21:13 | Weblog
久し振りに静岡の実家に帰り、家族と時間を過ごしてくる。

自分が移動、そして年齢を重ねる度に、実家という場所の意味がある程度客観的に捉えられる様になってきて、自分が生まれ育った場所を、冷静に考えることができる様になったと思う。高校生までは、あんなに嫌で早く出たい!と切望した実家のエリアを、ノスタルジックに思えてしまう私がいることに対しても、いろんな感情が交差する。

駅まで迎に来てくれた父と一緒に、父の経営する魚問屋があった港のあたりをぐるりと散歩した。問屋業がすたれつつあり、港が観光地化しているのを見ると寂しくなると同時に、観光という、ある種いびつな産業を成立させることにより、ようやく成り立っている地元の漁港を見ると、あながち否定もできない。

そんなことを思いながら散歩しいていると、道すがら、おばさんに「あれ?真也君だよね?」と声をかけられた。

私は沼津の港町で小学校2年生まで育ち、その後家が手狭になった為、隣の校区に建てた新築の家へと引っ越したことがあるのだが、このご近所のおばさんは、小学校2年生までご近所に住んでいた私を覚えていると言う。このおばさんの記憶力に驚くと同時に、20年前のご近所さんの子供と、その顔まで覚えている、というコミュニティ意識に、私は驚かされた。小さい頃からマルヨの三代目、と呼ばれていた私の亡霊が、会社を継がなかた私に代わって、この辺りを徘徊しているのだろうか。

家族に会って、沖縄での出来事を話しているうちに、私が気にしていた祖父の記憶の話へと発展して行った。そんな話が進む中、父が大切に保管していた、祖父の軍隊手帳や、中国戦での記録写真などを、見せてもらった。

私の祖父は、中国にて宣撫官として活躍していたと言う。戦時中、祖父は中国人の校長先生の息子を人質に取って、日本風の教育をしたそうなのだが、その中国人の少年と、祖父が仲良さげに写っている写真が、とても印象的だった。この子供は、父である校長先生に、「渡辺教官はどうだ?」と聞かれて、「とても優しくて、好きだ」と答えると、この父親は子供の面前で号泣した、という出来事を、祖父に話したそうだ。その話を、一体祖父はどんな気持ちで私の父に話したのだろう、と考えると、私はすっかり分からなくなってしまう。圧倒的に政治的な状況が物事を規定してしまう、という状況は、あまりにも苦しい。とはいえ、宣撫官、という言葉を単語として初めて知った私は、祖父の記憶に一歩近づいたのかもしれない。


話は飛ぶが、最近、謙譲語のメカニズムについて不思議に思うことがあった。

例えば、日本では、組織の内部の人間として、外部と受け答えする際、形式として身内をへりくだって話すという形態を取る。いくら自社の社長や組織のトップであったとしても、「うちの三木谷が・・」とか、「うちの麻生が・・・」という具合だ。しかし、これが対外的な取引ではなく、内部でのやりとりとなると、謙譲語ではなく、敬語や尊敬語でのやりとりとなる。

廣松渉の共同主観性ではないが、日本語での会話の際、主観的要素の中に、関係性の要素が入りすぎるな、という印象を受ける。しかも、その関係性の要素が複雑に入り組んでいるものが自明のものとなり、あたかもエーテルの如く、日本社会をすっぽりと覆ってしまっている。もっと言うと、廣松の共同主観性は、日本語構造から出てきた思想であり、それは吉本隆明の「共同幻想論」においても同じ構図なのではないか。

構造的に考えると、日本で唯一謙譲語が使えないのは皇室の人間のみだが、それを指摘してもどうにもならない、というのと同じくらい、中空構造とも言えるものが、自明性を持ってしまい、それに対する論理的な反論が意味を持たない、という場所性を日本に感じてしまう。自我の問題と一神教の不在の問題が、この関係性の自明性に現われていると思うのだが、これが「他者」と出会った際に、かなりやっかいな問題になるのではないかと思う。このあたりは、自分なりに考えてみたい問題ではある。

私の「おじさん」 - 松岡洋右

2009-06-07 22:33:26 | Weblog
フロリダ在住の、ある友人からメッセージを頂いた。

彼女のご近所さんであり、そして友人である80過ぎの婦人が、つい先日お亡くなりになったと言う。このお婆さんは、病床にて、私の友人に「NHKの第二次世界大戦のドキュメンタリーを持ってきて見せてほしい」と依頼したそうだ。上映中スクリーンに松岡洋右が現れると、「I called him uncle」、と話したと言う。話を聞いてみると、このお婆さんの母親のいとこが松岡洋右だったと言う。

このお婆さんは満州で育ち、戦後、他の家族たちは自民党の極右の構成員になったと言う。彼女自身は、プレスビテリアンであった為、政治を拒否し、アメリカに忠誠を捧げ、GHQ側の弁護士と結婚したそうだ。彼女はドキュメンタリーを見ながら、私の友人に「逆コース」について語ったそうだが、彼女も、そして彼女の夫も、それを裏切り行為として認識していたそうだ。

癌を抱え、病床にてこんな話をしてくれたこのお婆さんは、自分自身の最後の時に、言い残したくなかった忌わしき過去の記憶を、乗り越えなくてはならないものとして、私の友人へと託したのかもしれない。その友人が、日本人ではなく、日系アメリカ人であった所に、私は言い様のない不安と共に、越えられない壁や、物理的な距離感を感じてしまった。

また、松岡洋右自身、渡米した際にメソジストとして洗礼を受けているが、松岡が渡米して洗礼された理由には、彼の親類がアメリカで成功をおさめていた、という経緯があった。こんな所で、彼の血縁者であるプレスビテリアンのそんなお話に触れることができるとは思わなかったので、正直驚きだ。(また、吉田茂が松岡洋右と友人関係にあったのは、単に国際派、というだけではなく、もしかしたらキリスト教徒、という同胞意識があったからかもしれない)

以前、アートフェアの仕事でNYからマイアミまでドライブして行った際、フロリダに「Exit:Yamato Road」という標識があり、何だろう、と思ったのだが、きっと日本からの移民たちが、19世紀末もしくは20世紀初頭に付けた名前なのだろう。もしかしたら、フロリダに移り住んだMatsuoka Familyも、その成立に絡んでいるのかもしれない。

アトミックサンシャイン展に関する英語記事を準備しているが、正直気乗りしない部分がある。アメリカ、日本本土、そして沖縄の距離や、温度差がありすぎる。このギャップを抱え込みながら、右往左往している私がいることに気づき、立ち止っている。

Soundscapeとは? ジミヘン、Allora and Calzadilla、そして清志朗

2009-06-05 00:31:25 | Weblog
今日、アトミックサンシャイン展に関する文章を書いていたら、Soundscapeについて、今更ながら思ったことがあるので、少し書いてみたいと思う。

今回、佐喜眞美術館でのサテライト展にて展示したAllora and Calzadillのビデオ作品「Returning a Sound」におけるトランペットの音は、爆撃音を恐れていた市民への優しい祝福なのではないか、と思い立った。

アローラ&カルサディーラのビデオ作品「Returning a Sound」(2003)は、プエルトリコのVieques島で制作されたものだが、このビエケス島は過去60年間、米軍とNATO軍の爆破訓練所として使われてきた島である。国際的支援を受けた地元市民の抵抗勢力により、2002年に爆破訓練の中止と、島からの米軍撤退が実現した、という歴史的背景が、この作品の理解に欠かせない。

このビデオ作品は、市民活動家であるHomar氏が、マフラーにトランペットが装着されたモペットに乗って、武装解除したビエケス島を横断していく、というものである。マフラーという防音用の設備はその本来の機能を失い、代わりにトランペットの音が、島に祝福の音声を鳴り響かせる。

このトランペットの、滑稽かつ喜ばしい音は、爆音、という音の暴力が島民の記憶に残り続けるビエケス島という場所にて、全く違うサウンドスケープを生み出したのではないか?バイクが奏でるトランペット音は、道路の振動や、バイクのエンジンを断続的にふかすことで、新たなサウンドスケープ=音の風景を生み出した様に思える。

この場所と音声と記憶というテーマを扱った最良の例が、ジミ・ヘンドリックスによる、1969年にウッドストックにて演奏された「Star Spangled Banner(星条旗よ永遠なれ)」ではないだろうか。ここでは、アメリカ国家という、ベトナム戦争の当事者が、反戦運動的なムーブメントの中に位置付けられるロックフェスという場所に、ベトナムにおける空爆というサウンドスケープを、ギター一本だけで再現してしまった。

北ベトナムに爆弾が投下される音、その爆弾が炸裂する音、それを見て叫ぶ声・・・ジミヘンは、自身がギターで奏でるアメリカ国歌の中に、サウンドスケープとして刻み込んだのである。これがベトナムの景色だ、ということが観客との間で共有できたのは、やはり69年ウッドストックという文脈なしでは語れないと思う。

そう言えば、先日他界したばかりの忌野清志朗が「君が代ロック」を初演した時、私はたまたま、その現場で聴いていた。現場に居た私、そして他のお客さんも、その曲がそのコンサート当日に発売禁止になったことを知らずに聞いていたのだが、「ふざけるんじゃねえ、ポリドール」という即興の歌を歌っていた清志朗を見ていたら、レコード会社との間に何かあったのだろう、ということは、とりあえずは理解できた。

清志朗は、Sex Pistolsの「God Save the Queen」や、Jimi Hendrixの「Star Spangled Banner」と同じく、日本国歌(?)である「君が代」を、歌詞を一字一句変えずにロック調にする、という技法だけで、まさに教科書的にロックにしたのは素晴らしいと思う。そして、ピストルズの「EMI」に負けないポリドール批判の歌も、パンクロックへの見事なオマージュであった。(そもそも、清志朗はジェームス・ブラウンやエルビス・プレスリー、さらにモンキーズなど、ロックのオマージュ的かつ教養的要素を持つものが圧倒的に多いと思う)

ジミヘンも、アローラ&カルサディーラも、そして清志朗が生みだしたサウンドスケープも、コンテクストという補助線を引くだけでぐっと深くなると思う。音の持つサウンドスケープの喚起力というテーマを、これからも考えてみたい。

展示がもたらしたものと、考え抜かなくてはならないこと

2009-06-03 01:48:43 | Weblog
先週の土曜日、5月15日のシンポジウムにて司会を務めて頂いた前嵩西一馬さん、さらにパネリストの萱野稔人さんを含めて、簡単な反省会+打ち上げを行った。展示そのものの反省はもとより、沖縄の米軍基地問題、という具体的な問題と、この問題に対して日本本土がどう関わって行くのか、という具体的なことについて意見交換をした。

萱野さんとは、沖縄のトークイベントについて聞ききれなかった部分について、個人的に多くを伺うことができ、大変参考になった。萱野さんはシンポジウムの際、ナショナリストという立場から、すべての日本人は、沖縄の米軍基地に対して責任がある、その責務を果たす為にも、米軍基地の県外移設論に対して真剣に議論すべきだ、という趣旨の発言をして、さらにそのナショナリストのネーション規定の際に、「言語」がその構成単位となる、として議論していた。

しかし私は、言語だけではネーションを定義するのは困難だ、という立場に立っている。もし仮に、ルターによる聖書の高地ドイツ語への翻訳が無かったら、自らの言語を神聖化することはできず、ドイツ国民のネーション規定を言語におって行うのは不可能であったと考えている。さらに、反ナポレオンとしてドイツ国民感情を鼓舞したフィヒテは、国家の統合体として言語の統一性を持ってくるが、このフィヒテは、スピノザ研究、つまり汎神論研究をした為に、イエナ大学を追放された経緯がある。

フィヒテの後釜としてイエナ大学に採用されたのは、当時若干20代前半であったシェリングであったが、もしも私の理解が正しいのであれば、萱野さんのナショナリストの連帯、といった形の思想は、シェリングが書いたとされている「ドイツ観念論最古の体系計画」にかなり似通ったものではないだろうか?

また、言語的統一体を背景に、ナチスドイツが1937年、オーストリアを民主的に併合した、という忘れてはならない事実がある。コソボの独立や大アルバニア主義など現在性のある問題が続いている中、言語的統一体をネーション定義の底辺に据えるのには、注意が必要だと思う、そんな話をした。

アトミックサンシャイン展は終了したにも関わらず、今だに大きな反響を引きずっている。先日は、展示に関して、アメリカから、個人的かつ普遍的に重要な意味を持つと思えるニュースが舞いこんできた。こちらについても、今後ブログにて丁寧に紹介して行きたいと思う。