Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

EU批判の後はティルマンスとひと時を・・・

2006-02-28 14:42:37 | Weblog
ようやく、イタリアの財団に頼まれていた、アートプロジェクトの為の文章を仕上げた。いろいろとプレッシャーがある中での作業だったので、ここでふぅ、と一息。

文章を寄稿したのは、セルビア出身のDejan Kalujerovicというアーティストが行っているプロジェクト、「ユーロポリー」。「ユーロポリー」はゲーム「モノポリー」を模倣したもので、ヨーロッパに生まれたnon-EU CitizenがCitizenshipを取るまでを描いたゲーム。このゲームは9月よりヨーロッパ全土で発売の予定との事、ゲームとしての完成度にも期待したい所。このボードゲームは、かなり真面目な批評本とセット販売される予定で、それの寄稿メンバーにアジアから唯一、私が何故か(?)選ばれ、寄稿したという次第。ゲームそのものがヨーロッパの統一とNew Identityをテーマとしたものだったので、私は文章において、ヨーロッパすなわちEU圏におけるデカルト主義とモダニズム批判、そしてアジア統一の夢が引き起こした大東亜共栄圏と京都学派について簡単に書いてみた。コピーライトの件がまだ片付いていないのでWebに載せれるかどうかは分からないけれど、可能だったら載せてみます。

やっとこの仕事が片付いたので、今週末はのんびり過ごす。土曜日は友人と飲みにいって、日曜日は写真家の斉木さん達とPS1のオープニングに行ってきた。PS1では複数の展示が同時にオープンしたのだけれど、ヴォルフガング・ティルマンスの展示がダントツでよかった!今までの作品とは大変異なる、印画紙に直接光を当てることによってできる作品の大型パネルがメインの展示で、あたかもロスコの抽象画のような凄みをもって鎮座していた。久しぶりに凄い、と思える展示を見た気がする。さすがティルマンスだ。

会場にティルマンスがいたので、「斉木さん、挨拶して来ましょう!」と誘ったのだが、斉木さんは照れているのか、なかなか一緒に来ない。じゃあ、俺、行ってきますよ、と言って奥の展示室に入って行ったら、作品の前でティルマンスが彼氏とキスしていて、とても近づける雰囲気ではない。うーん、困った、と思ったら、事がひと段落着いたようなので、ティルマンスに挨拶してくる。話してみたら、本人本当に気さくな感じの人で、とっても良い雰囲気でした。ちゃっかり名刺まで渡してきた。ラッキ。

日本の郵便局はいかに優秀か

2006-02-23 13:48:24 | Weblog
アメリカの郵便事情の悪さには、ほとほとうんざりする。今日は愚痴ります。

先日、私は個人的に日本にある品物を送ったのだが、それが破損した為、かけておいた保険を請求しようとニューヨークのUSPS(United States Postal Serice)を訪れた。しかし保険担当のものがおらず、その時は保険の処理はできず。その後も何度か故意的と思われる引き伸ばしをうけた挙句、何度かチャレンジした上ですべての書類手続きが終わった際、2週間で保険部署から返事が来るとの答えをもらった。しかし1ヶ月経っても答えがもらえず、担当部署に電話をかけると、いつも通りの部署間のたらい回しだ。こんなことで今日は1時間以上も使ってしまった。本当に酷い。結果、書類の提出から回答まで60日かかるので、もう少し待て、と言われてしまった。現段階で処理がどこまで進んでいる、と聞いても、トラッキングできないので分からない、との答え。あまりにも酷い。あの手この手で保険金を払わないようにする戦略がみえみえである。

またUSPS(あまりにも態度がお粗末なので、実名出します)のデリバリーの人は、小包を面倒臭がって、私のアパートの上階まで登ってこず、下の郵便受けに不在者届けのみ置いて帰ってしまう。思い荷物の場合、不在者届けを持って郵便局まで引き取りに行かなくてはならず、本当に困る。さらに、不在者届けに小包の送り主の名前が書いてないので、内容が全く分からない。忙しい中なんとか時間を作って小包を取りにいったら、くだらない内容でがっくりしたことも何度かある。またある人に充てて送った手紙が、何ヶ月も経ってからあて先不明で戻ってくるというのもざらだ。

また先日、仕事でFedEX(これもあまりにも態度がお粗末なので、実名出します)を使ったのだが、ヨーロッパから最高級・最短ののサービスで国際郵便を送った際、fragileと書いたにも関わらず、強化プラスチックが割れて中の作品が痛んだ上、予定日から3日遅れて到着した。国際郵便で最短で着くものを指定したにも関わらず、なぜ遅れたかと聞くと、ヨーロッパ側の送付人の記入ミスで処理ができなかったと言う。しかし、記入ミスの証拠もなく、言われた側ははがゆい思いがする。会社側にしてみると、最高のexcuseではないだろうか。

また先月は私たちのアカウントを使ってテレビのリモコンを小箱に入れてFedEXの最速サービスにてフロリダに送ったのだが、オフィスにて「そこに箱を置いておけば処理しておく」と言われその通りにしたら、後で請求が来てゾっとした。なんと箱の重量が5キロでチャージされていて、リモコン一つ送るのに80ドルもチャージされていたのだ。これでは明らかに詐欺だ。また他の時は、そこに箱を置いてこれば処理しておく、と言われ置いておいたら、3日間放置された。なんという体たらくだろう。

アメリカは日本の郵便局の様に、完全に公営の郵送サービスが存在しない為、利益にならない仕事は一切やらない傾向がある。日本が郵便局を民営化した時陥るのは、こんな有様だという事を、日本国民は知る必要がある。資本主義はそんなに生易しくない。資本によって社会構造が二分化された際、労働意欲の低いブルーカラーが充当されるのが郵送サービスで、それが社会構造を歪めている、という事実をすべての人間が知る必要がある。国民皆保険と郵便局というナショナル・インフラがどれだけ凄いものなのか、みんなに知って欲しい。

中ザワさんのお別れパーティ

2006-02-21 16:13:21 | Weblog
昨日はNYに短期滞在していた中ザワさんのお別れパーティがブルックリンのギャラリー「ガライアス」で開かれ、参加してきた。サッカーの試合が終わってからの参加だった為ヘトヘトだったか、いろいろと面白い人たち、そして久しぶりに会う人たちが沢山集まっていたので、非常に有益だった。ガライアスのオーナーのまゆみさんにもご挨拶できたし、陵賀も久しぶりに中ザワさんに会えてよかったし、「生きろ」の鈴木さんが陵賀の兄弟だ、ということもバレてしまった!?それにしても鈴木さんと陵賀、似てたなぁ。

昨日は斉木さんが日本酒をあおり続けていて、いい感じにできあがっていた。ベロベロの斉木さんは、まゆみさんや俺に絡んできて大変だったが(笑)久しぶりに変身後のサイキックが見れた気がする。夜中になっても斉木さんの勢いが衰えず、数時間後にNYを発つという中ザワさんと3人で、近所のバーにて飲みなおし。

斉木さんと中ザワさんは私の美術界における、いや人生における大先輩だ。この二人に教わった事は、本当に数知れない。そして昨日もいろいろと教わる機会があった。斉木さんも中ザワさんも非常に言葉を紡ぎだすのが上手く、私のような荒削りな若造は全く敵わない。もっと勉強しなくては、と思う。

斉木さんがジュークボックスでスミスの曲を流したのを皮切りに、ヨーロッパにおけるイングランドの特異性と日本との類似性などについて話す。そんな中、私のヘーゲル理解が弱いと指摘され、その理解のために、ラッセルから読み始めることを薦められた。早速、時間を作って読んでみたいと思う。

アート・アジアパシフィック 2005年度美術展トップ10!

2006-02-20 05:23:32 | Weblog
アート・アジアパシフィックが選ぶ2005年度美術展ベスト10に、私が勤めるイーサン・コーエン・ファインアートで開かれた「d'Afrique d'Asie」と照屋勇賢氏のジョゼ・ビエンヴェニュー・ギャラリーでの個展が選ばれました。やったね!

反ユダヤ主義漫画コンテスト

2006-02-20 03:03:05 | Weblog
アムステルダムのnettimeにて、こんな記事が出てました。イスラエルの団体が、反ユダヤ主義漫画コンテストを開くそう。今回はユダヤ人のみの参加限定で、締め切りは3月5日、優秀作品はテルアビブで展示されるそう。

笑っちゃうのは、世界中から主催者の元に数百通ものメールが来て(98%はユダヤ人からだそう)、「あなたの試みは、私がユダヤ人であるプライドを与えてくれる!」との反響がほとんどだそう。さてさて、どんな作品が選ばれるのか。。。

Israeli group announces anti-Semitic cartoons contest!

February 14th, 2006

A Danish paper publishes a cartoon that mocks Muslims. An Iranian paper responds with a Holocaust cartoons contest - - Now a group of Israelis announce their own anti-Semitic cartoons contest!

Amitai Sandy (29), graphic artist and publisher of Dimona Comix Publishing, from Tel-Aviv, Israel, has followed the unfolding of the "Muhammad
cartoon-gate" events in amazement, until finally he came up with the right
answer to all this insanity - and so he announced today the launch of a new
anti-Semitic cartoons contest - this time drawn by Jews themselves!

"We'll show the world we can do the best, sharpest, most offensive Jew hating cartoons ever published!" said Sandy. "No Iranian will beat us on our home turf!"

The contest has been announced today on the www.boomka.org website, and the
initiator accept submissions of cartoons, caricatures and short comic strips
from people all over the world. The deadline is Sunday March 5, and the best works will be displayed in an Exhibition in Tel-Aviv, Israel.

VJと五感における身体性の変換作用

2006-02-18 15:06:54 | Weblog
今日はどうしようもなく音楽が聞きたくなって、ブルックリンのIssue Project Roomに行ってきた。Issueに行くのは半年振りくらいだろうか。オーナーのスザンヌさんや、友人のジェニー、ダナに挨拶する。新鮮な気分。

Issueはいつも、頭のてっぺんからストンと落ちてくるような音楽を、いつも流してくれる。私にとってライブハウスのTonicとIssueは、ある種母親のようなものだ。オーナーのスザンヌさんはもう40代後半だと思うのだが、気持ちが良い音楽が流れると、その場に座り込んでしまうくらい、音楽に敏感な人間だ。ここまで自由な人間は、そういないと思う。

丸型のライブスペ-スには、それに合わせてカスタムメードのはちの巣状のスピーカーが天井の至る所に設置してあった。これだけ大量のスピーカーをこの形で設置すれば、音の反響やエフェクトを考慮しなくても済むだろう。

今日のDJは、DJ Oliveとトシオ・カジワラだった。DJ OLIVEがライヒのFour Organsを爆音で流す。DJの身体の動きを見ながら、私の聞いている音が変わっていくのを感じるのが、新鮮に感じる。彼らの指先が自由に動いている。まるで彼らの身体性そのものが自身の体の外部に出て行ってしまっている様だ。

先日、中ザワヒデキさんと身体の持つイデアに関して話した際、十進法は人間の手の指の数の総和がグローバルな基準になっているのではないか、と話した(さらに中ザワさんは、フランス語圏の20進法は、もしかしたら足の指も加えた総和かもしれない、と提案した)指先が自由に動くことによって、いわゆる世界との外部性が薄れて行くのであれば、それは身体性の自由度の方が、既存の身体の持つイデア性を凌駕しているのではないか、と思った。

またVJを見ていて思ったのが、波の波長は簡単に色彩に変更可能だという事である。VJの操る、音の波長に合わせて動くビジュアルには、そのまま可聴領域を可視領域に当てはめれは可能だ。動いている周波そのものを、変換すれば良いのだ。(逆説的に、非可聴領域は、紫外線とでも言えるだろうか)

それを応用すれば、カレーの辛さ、つまり味覚そのものを利用したVJがあっても良いと思う。それが触覚となれば、サーモグラフィーのようなものになるだろうか。そこまで考えて思うのは、現在の通常の世界における、視覚領域の優位だろう。視覚に変換しようとは簡単に思いつくが、味覚や触覚には変換しようと思わないことから、逆説的に導くことができる。さらに逆説的に、音楽の方がビジュアルアートより絶対的に自由なのは、その辺のしがらみの無さ、といった所だろうか。

VJにおける「にじみ」は、ビジュアル・アートという平面のメディアに置き換えた場合、浸透圧という物質性になるかと思う。すなわち、物質の密度の違いによって生じる色彩のグラデーションだ。Qin Fengがお茶とウイスキーをまぜた溶液を利用して和紙(中国紙、またはHunan Paperといった方がPC的か)を作っていたが、そこで浸透圧の違う溶液をあえて利用することにより、バックグラウンドにグラデーションを生み出したのを思い出す。

VJにおける色のにじみは、空間と音の作る浸透圧の違いと言い換えることはできないだろうか。すなわち、空間という振動の、ある一定の係数における密度の違いなのだ。ちなみにこの係数はnという任意の数で変更が可能であり、それがシャーマンとしてのVJの腕の見せ所といった所だろうか。

My Foolish Valentine

2006-02-17 14:08:51 | Weblog
先日、写真家の斉木さんと陵賀と飲みに行った帰り、通りすがる人々がバラの花を持っているのが気になった。ああ、そうか、今日はバレンタインデーだな、なんてその時に思った。全くテレビを見ない生活スタイルの私は、そういった国民的行事もよく分からなくなってきている様だ。

先日、日本のアマゾンで本をまとめ買いしたのだが、その中で一番最初に、茂木健一郎さんの「プロセス・アイ」を読んだ。茂木さんの小説、と聞いたら読まない訳にはいかない。小説は批評系の本とは別腹で読めるので、とても楽しい。

内容は、クオリアの文学的発展との歌い文句がまさにピッタリのものであった。小説としても非常に優れていたが、特にクオリアという問題を展開して考えていくのに小説を用いたのはピッタリだったと思う(特に文学好きの茂木さんには)非常に分かりやすく、茂木さんの問題定義が見えた。脳科学は傾向として既存の科学の体系ではなくもっと生活レベルの話ではないのか、と素人ながら思うのだけれど、それは案外外れてないと思う。

とりあえず、みんな読んでみて下さい。

「人を信用してはいけない」

2006-02-14 10:52:50 | Weblog
「人を信用してはいけない」という言葉、この言葉を、どう理解すれば良いのだろう。

この言葉は教訓を含んでいると同時に、非常に示唆的である。こんな言葉は信じたくないが、いろいろと痛い目にあう度に、この言葉を反芻する必要に迫られる。

例えば、貨幣が流通するのは、ある貨幣が発行されている地域において、貨幣の受け取り人が貨幣を使った人と同じように貨幣を使うだろうという観測、もっと安易に言えば、ある特定の地域において人と人との間に信用があるからだか、そんな理論などを越えた所で、アクチュアルな世界は動いていることだろう。それはこういった論理が間違っている、ということではなく、もっと容赦のない現実の方が個人に迫っているからだと思う。

最近、ギャラリーの扉の閉まりが悪く、修理を依頼した。電話してやってきた男たちは、中東系の2人の男たちであった。その前に、パレスチナにてハマスが選挙に勝った直後だったこともあり、私もいろいろと思うところがあった。できるだけ中東系の人には優しくありたい(ここを意地悪に深読みしないで下さい)、と思うところがあるのだが、それで裏切られたことも、今までに何度か出会った。

扉の修理が終わり、支払いの段階になった際、請求書の額が当初の口約束の請求額から2割増しになっていることに気が付いた。さらに悪いことに、わざと詳細の所が100ドル計算間違いを装い、水増し請求してあった。この手のことは、NYのお店であればよくある事だが、こういう場面に出くわすたびに、私はなんとも言えない悲しさを感じてしまう。ここ一週間だけでそういう事態に2回でくわしたのだが、騙す側はどちらもマイノリティだった。アメリカにおいては、マイノリティが下層に溜まってしまう、そういう社会構造になっているとしか言い様がないが、同時にそれを構造のみに還元する必要もないと思う。

鍵屋さんというリピ-ターの少ない仕事において、そのやりとりの間の信用が低下するのは仕方がない。それはアメリカにおいてコミュニティがしっかりしている地域(Jane Jacobsの言うeyes on streetといった所だろうか)に比べ、ハイウェイ近郊の地域の犯罪率が高いという事実と似ている。

話は飛ぶが、日本の近代化の中において、江戸時代という安定期が及ぼした影響は計り知れない。そういった内的な事情を私が最初に察知したのは、ルーマニアのトランシルバニア地方においてであったが、おもちゃ屋さんにおもちゃらしいおもちゃがない(ものすごい簡単なものしかなかった)、すなわち子供の遊びすら存在しない、それだけの文化熟成期間がなかった地域に足を運んで、初めて身にしみて分かった。

中東は民主化という近代の構造、もっと言ってしまえば近代化の遅れを抱え込んでしまったような気がする。そして、そういった状態の細部が、いろいろな所に出てきている気がする。

ハマス、貨幣、信用、国家、民主主義・・・。近代の問題がずっしりと、亡霊のように私をとりまいている気がする。

大雪と「空」の思想

2006-02-13 11:33:39 | Weblog
今日のマンハッタンは史上まれにみる大雪。仕事が休みでよかった。町を歩いてみると、子供達がスキーやソリなんかを持って町に出ていた。それに混じって大人たちもはしゃいでいるのがよかった。

そんな中、「空」の思想に少し興味があって、調べ物をしていた。

般若心経が空の思想を上手く捕らえている、との事で今更ながら読んでみると、これが面白い。大乗仏教の歴史や、ナーガールジュナとインド、中国、日本の関係が手に取るように分かる。仏教は、本当にすごいことを言っているな、と不思議な再発見があった。

ちなみに般若心経の英語版があり、それを読んでみて自分で驚いたのは、英語の文章の方が理解しやすかった、という点である。般若心経の文章そのものが難解だからそれは仕方のないことなのかもしれないが、それにしても面白い。

そこで問題になってくるのは、アジアにおけるイデア思想である。イデア思想そのものが、空との絶対矛盾なのではないか?しかし空そのものが、イデア的ではないか?西田の絶対矛盾的自己同一という言葉は、自己規定の言葉だと思うが、これは自己のみならず、すべてに当てはまるのではないか?そもそも、それを言語によって語ることが可能だろうか?そして、この問い自体が有効で、さらにそれに対する答えを出すということが可能なのだろうか?

私は最近、ヨーロッパの心脳問題は、コギトを設定してしまった為に生まれたのではないか、と考えている。クリスチャニティの延長線上で出てきたコギトという硬直的ストラクチャーを生み出した為に、近代を作れたと思うのだが、それはユークリッド空間のみでの話で、非ユークリッド的な空間において、その思考はどれほど有効なのだろう。環境問題や植民地主義、さらには世界大戦という事象も、自己のユークリッド空間における発展の創造物ではなかったか。もっとふろしきを広げてしまえば、いわゆる民主主義による意思決定や、資本主義の支配する世界観も、そうではないか?

しかし、こういった構造に対する批判も構造的にやらなくてはならない、というジレンマがあると思うのだが、それは仕方がないのか、などと自問してみる。

デカルトとルターの立ち回り

2006-02-12 15:02:05 | Weblog
今、ヨーロッパのアイデンティティ問題という点で、反宗教改革期のデカルトの思想と、当時の幾何学的世界観について少し文章を英文でだが書いている。究極的には、そこからヨーロッパの近代批判を、ネーションの内外問題を含めて扱っていきたいと思っている。

それはそうと、クラナッハがルターと大親友だった、という事を最近知った。ふと見たwebサイトでルターの肖像画がクラナッハ作となっていた事から興味が沸いたのだ。クラクフで見たクラナッハが、やたら印象的だったことが思い出された。

ルターが宗教改革を唱えつつも、保守派の尼さんと結婚したのはなかなか良い話だと思うが、クラナッハもローマ・カトリックの宗教画を書いておきながらルターと仲良かったのは、なかなかのことなのかもしれない、と思う。磯崎新の立ち回り方が、私の頭をよぎる。私もこういう史実から少しは学ばないと。

また最近、ビザンツ帝国という名が19世紀ドイツにて便宜的に作られたということを知って、非常に興味が沸いた。なぜなら、ビザンツ帝国の正式国名はローマ帝国であり7世紀以降のビザンツ帝国はキリスト教化されたギリシア人によるローマ帝国であったからだ。またこの問題が、19世紀後半以降におけるオスマン帝国内部におけるギリシア人問題と、現在のキプロス問題、さらにはヨーロッパのアイデンティティ問題にまで迫ってくる。

したい勉強がたまってきている。いつか、また学生に戻るときが来るのだろうか。