Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

みつばちはささやくか?

2005-10-20 13:07:26 | Weblog
最近、久しぶりにレンタルビデオを借りて見た。ずっと昔に見たビクトル・エリゼの「ミツバチのささやき」がどうしても気になっていた。スペイン内戦以降、弱体化したフランコ政権が最後の文化統制をしていく中で作られた、珠玉の傑作だ。

1972年に制作された映画「ミツバチのささやき EL ESPIRITU DE LA COLMENA」(日本語訳すればミツバチの巣の精神となる)は、暗にスペイン内戦をテーマとした、1940年のスペインの田舎をテーマとした作品で、アンナとイザベルという少女をメインに据えた作品だ。あまりにも敏感な作品なので、強度のない言葉を寄せ付けない、完璧とも言える作品だ。ここにとても親切な解説が書かれた批評があるので、参考にまでどうぞ。

最近、まだ直感のレベルでしかないのだが、スペインにおける国民国家問題の状況は韓国のそれと似ているのではないかと考えている。韓国の国民国家問題は20世紀初頭の日本による植民地主義の問題、そして冷戦以降1982年の金泳三以前まで続いた親アメリカ傀儡政権の為、北と南の問題を抱え込んだ。一方スペインは、反ナポレオンのパルチザンにて始めて成立した「スペイン・ナショナリズム」の流れにおいて国家が成立したものの、第一次大戦以降、フランコによるクーデター以降の軍事政権によって民主化が遅れたため、それがバスクとカタロニアの問題へと繋がっていく。民主化の遅れは問題として非常に大きいが、同時に民主化を無理やり進めていたら早いうちに分裂していたかもしれない。

照屋勇賢さんが横浜トリエンナーレにて、フランコに反対しカタルニアからプエルトリコへと亡命したチェリストのパブロ・カザルスをテーマに作品を作っていたが、私はここには可能性があると思う。安易なナショナリティをテーマにするのではなく、ネーションにおける複雑な位相を丁寧に接続し、解き明かしていくのが重要なのではないだろうか。

エリゼを理解するのの困難は、逆を言えば外国人が中上健二や坂口安吾、成瀬巳喜男等の作品を理解できるか、というレベルと似てくると思う。角材を持って三里塚に座り込む「大男」の中上、法隆寺を焼き払えと唱える安吾、銀座のママが2階にあるお店まで階段を上るまでの憂鬱を描いた成瀬、これは非常にナショナルな問題をテーマとしているが、これを外国人でも理解できれば非常に面白いだろう。(最近は日本人でも分からない人が多いのでは?!)時代は今、そういう点に向かって動いていると言えよう。現に、NYでは現在成瀬の特集上映が始まっている。

つまり、こういった複雑なテーマを、いかに正確に、そしてわかりやすく、そして面白さを理解してもらえるか。これはキュレーターである私に課せられた使命とも言えよう。

エリゼの映画の中に出てくるフランケンシュタインは、何とも言えずポエティックなシンボルである。さらにこのフランケンシュタインはいわゆる民話的トリックスターではなく、あくまで詩的な直喩なのである。ここでアナ(無垢)の姉であるイザベル(理性)に対する質問が効力を発揮してくる。

「なぜフランケンシュタインは少女を殺したの」
「なぜ皆はフランケンシュタインを殺したの?」
「精霊とは何?良いの、悪いの?」

フランケンシュタインが何を意味するかは説明するまでもないが、同時に説明してしまった時点で野暮だ。これが表現における「語るもの」「語れないもの」の臨界線と言えよう。(同時にそこで沈黙してしまってもダメ!)ちなみにこのフランケンシュタインは記号ではなく、象徴的な何か、と言えるだろう。フランコ政権側の検閲官が、エリゼの作品が問題作だと分かっていながら検閲できなかった理由が、ここにある。さらにこの質問に関するシーン、そしてその回答は、全てモンタージュの接続方法、すなわち想像力に委ねられている。

「ミツバチのささやき」だが、「ささやき」という訳語を使ってしまった為、少女がベッドシーンにてささやく可愛らしさが前面に出すぎてしまった様に思える。しかし、ここは多少硬くても、あくまで「みつばちの巣の精神」という言葉を使うべきだったように思う。それは外国人には分かり難くても三里塚はJFKではなくsanrizukaであり、法隆寺はWestminsterではなくHoryujiであり、銀座がSohoではなくGinzaである様に。

パブロ田中さん、NYへやって来る

2005-10-09 11:16:59 | Weblog
私は去る2005年3月、沖縄にて展示「もう一つの万博」に関するプラットフォームを開催した。場所は沖縄国際大学前の、普天間基地の米軍ヘリコプターが墜落したすぐ目の前。国民国家問題をテーマとして扱う私は、日本でのプラットフォームを、どうしてもここから始めたかった。

会場は沖縄国際大学の目の前にある洋食レストラン「パブロ」。オーナーのパブロ田中さんは鹿児島出身の職人気質のシェフで、70年代にはコロンビア、フィラデルフィア、ニューヨークにてシェフをしていたと言う。その南米コロンビア時代の彼のヒスパニックネームが「パブロ」であり、その後日本に帰国、沖縄へと渡った後、レストラン「パブロ」を開業したそうだ。大卒の初任給が$100の時代、そして沖縄では$3000で家が買えた次代に、パブロさんはニューヨークで稼いだお金$800を持って帰ったと自慢していたから、相当腕利きのシェフだったのだろう。そんなパブロさんと私は大変馬が合って、すぐに意気投合してしまった。

そんな矢先、プラットフォーム終了後、パブロさんから人探しを依頼された。パブロさんがニューヨークに住んでいた76年時代に大変お世話になった友人である「じっちゃん」を探してくれ、という依頼であった。

1976年当時、「じっちゃん」はグリニッジ・ビレッジのジャズバー「ビレッジバンガード」の前にあるアパートの3階に住んでおり、お寿司屋さんに鮮魚を卸す仕事をしていたと言う。本名は「石丸さん」というのだが、いつもじっちゃんと呼んでいたので、下の名前を忘れてしまったと言う。まあ、もう30年も前の話なのだから無理もない。

じっちゃんとパブロさんは同じ鹿児島の出身、さらに当時は珍しかった日本人同士という事もあり、大変仲がよかったそうだ。また困った時には、いろんな面でお世話になっていたと言う。しかし10年ほど前から彼と連絡が取れなくなり、さらに鹿児島の本籍の方も消滅、完全に連絡が途絶えてしまったそうだ。そこで、私がパブロさんに人探しを頼まれたという訳である。

そこで、私は早速ニューヨークの日系コミュニティにあるインターネット掲示板に情報を書き込んだ。すると早速、5人の日本人女性の方からお返事があり、その全員から老舗の日本食レストランを当たってみてはどうでしょう、という提案を受け、いろいろなレストランの名前を教えて頂いた。では私がニューヨークに帰ってから探そうと思っていた矢先、ニューヨーク生活数十年になるという年配の女性の方が引き続き「石丸」さんを探してくれており、ブルックリンにて魚問屋を営んでいるという「西丸」さんという人物を見つけたとの連絡が入った。名前はニアミスだが、長いこと問屋をやっているという経歴から考えてみてほぼ間違いないのでは、との事であった。

そこで早速、パブロさんにその報告をしてみた。「ううん、石丸さんではなく西丸さんか、そんな名前だったかなぁ」、なんて話していたが、私は「とにかく電話してみて下さい」と伝えておいた。すると、数日後、パブロさんからお電話が。「西丸さん、じっちゃんでした。ありがとうございました。」

その後、とんとん拍子で話が進んで、パブロさんがじっちゃんに会いにニューヨークに来ることに。パブロさんはじっちゃんに会いに行くついでに、奥さんと一緒にオペラを見て、そして私とは一緒にジャズを聞きに行こう、という事になった。それでは、という事で待ち合わせ場所に私が選んだのは、もちろんグリニッジビレッジのビレッジバンガード。

パブロさん曰く、じっちゃんとの本当に久しぶりの再開も、昔と変わらない人柄に触れることができて、本当に懐かしい気持ちになったそう。そしてパブロさん自身も、久しぶりに訪れたニューヨークを心底楽しんでいる様に見えた。その後、ニューヨークの話しやら沖縄の話をしながらすきっ腹で白ワインのボトルを空けていたら、大分酔いが回ってきた。

ビレッジバンガードは私にとっても思い出の場所だ。私の座った席のちょうど目の前に、トミー・フラナガンの白黒写真が飾ってあったのだが、昔からそこに飾ってある同じ写真を見た瞬間、当時の記憶がフラッシュバックしてきた。19歳の時に初めてニューヨークに来た時、私が一番最初に行ったのがビレッジバンガードで、その後ニューヨークに引っ越した時にも一番最初に行った場所がここだった。偶然にも2つともトミー・フラナガンがピアノを引くトリオの演奏だった。「Maybe you know my name, my name is Tommy, Tommy Franagan.」と言ってピアノを弾き始めた老年のフラナガンの姿が、まるで昨日の事のように鮮明に思い出された。私が2回目の演奏を見た数ヵ月後、彼はこの世を去ったが、彼が亡きあと、この白黒の肖像写真はあたかも慰霊碑の様に私の目に映った。

私は人生における共時性を信じている。なにかこういった偶然の様なものが、大切に思えて仕方がない。そして、こういった出来事に美術展示を通じて出会っていけた私は、本当に幸せだと思う。