昨日、【日本未来の党】が結成された。嘉田滋賀県知事が代表となり、【卒原発】を合言葉に、全国の脱原発勢力の結集を目指したものだ。これに呼応して、【国民の生活が第一】【脱原発】【みどりの風】などの党が合流や協力を決めた。
この党の旗上げに関しては、早速さまざまなネガテイブキャンペーンがなされている。いわく、後ろに小沢一郎がいる。いわく、小沢隠しだ。いわく、ワンイッシュウで選挙を戦っていいのか。あらゆる誹謗中傷が飛び交うのが選挙なので、この程度の誹謗中傷は当然なのだが、各メディアのあわてぶりがおかしい。
まあ、この旗上げが小沢一郎の選挙戦略の核をなしているのは、間違いない。個人の選挙なら、橋下流のパフォーマンスがものを言うが、団体の選挙というものは、全体を覆う空気をどう変えるか、という事が物を言う。団体スポーツでいえば、【流れ】をどう変えるか、という事になる。
今回の選挙戦、国民の多くが、マスメディアの第三極報道狂騒曲に何となく違和感を抱き、うんざりし、忸怩たる思いを抱いていたに違いない。その理由は簡単。メディア報道は、今回の選挙の重要性(※わたしは、戦後最も重要な選挙であり、この選挙結果によっては、日本の沈没は決定的になると考えている)や本当の争点をどうやって国民の目から隠すかという事に腐心しており、その真実を覆い隠すための第三極狂騒曲と小沢隠しだからである。
【未来の党】結成は、この国民の間に蔓延しているよどんだ白濁した空気を吹き散らす可能性がある。経済だとか景気だとか、愚にもつかない政局話を得々として語るしたり顔の政治家・経済人・コメンテーター連中にうんざりしていた国民に、【命】や【生活】の重要性を真正面から語る政党が現れたのである。その意味で【日本未来の党】結成は、絶妙のタイミングだったと言ってよい。団体スポーツでいえば、形勢逆転のきっかけをつかんだと言える。問題は、これをどう広げ、この流れを確かなものにするか、という事だろう。
3・11の大惨事は、日本人に自分たちは実にもろいものの上に立っていて、人間の営みなんて、大自然の力の前には、ひとたまりもない、という事を教えた。そのような圧倒的な力の前には、人間一人の力など弱いものだという事を教えた。同時に、原子力というものは、人間が統御できない【プロメテウスの火】だという事も教えた。
以前にも書いたが、日本人全体が、戦後初めて、【存在論的不安】の前に立たされた。つまり、日本人一人一人が深刻な【パラダイム転換】を迫られたのである。今回の選挙戦報道が、多くの国民に何となく違和感を覚えさせているのは、自公民も維新もどの報道機関もこの【存在論的不安】に答えておらず、国民の心の底に起きている深刻な【パラダイム転換】に錘を下していないからである。
その意味で、今回の【日本未来の党】結成は、国民の【存在論的不安】=【パラダイム転換】に応える政党の結集軸になる可能性がある。
今日、NHKプレミアムで、五木寛之の【21世紀仏教の旅③】の再放送が放映された。今日は、世界一「幸せの国」として有名になったブータンの旅だった。その中でブータンの仏教が一番大切にしている考え方が紹介されていた。【無我】と【縁起】である。【無我】とは、文字通り【我】を無にする。捨て去る、という事。【縁起】とは、生きとし生けるもの全てが、関係があり、その関係性の中に人は生きている、という考え方である。
西洋流近代的物質文明とは、【我】を追及し、【我】を無限大に膨らませる事によって肥大化してきた。その究極的理念が、【新自由主義】と言ってもよい。同時に、人間の理屈【効率化】を最優先し、環境を壊し、人間の本来的営みすら壊してきた。その結果、本当に人間は幸せになったのだろうか。
この問いは、深刻である。いわば【存在論的不安】が21世紀文明への根本的問いかけになっている。文字通り【文明論的問いかけ】になっているのである。日本だけでなく、世界各国でこの問いが真剣に問いかけられている。日本では、この問いの象徴が、【原発問題】である。
今回の【日本未来の党】結成と反原発・脱原発各党の結集は、国民の心に広がっている漠とした不安(存在論的不安)への一つの政治の答えになる可能性がある。願わくば、リベラルな各党各派が、この旗の下に結集し、世界各国に共通な【文明論的不安=存在論的不安】の解消に向けての一つの方向性を示してほしい。
「護憲+BBS」「政党ウォッチング」より
流水
この党の旗上げに関しては、早速さまざまなネガテイブキャンペーンがなされている。いわく、後ろに小沢一郎がいる。いわく、小沢隠しだ。いわく、ワンイッシュウで選挙を戦っていいのか。あらゆる誹謗中傷が飛び交うのが選挙なので、この程度の誹謗中傷は当然なのだが、各メディアのあわてぶりがおかしい。
まあ、この旗上げが小沢一郎の選挙戦略の核をなしているのは、間違いない。個人の選挙なら、橋下流のパフォーマンスがものを言うが、団体の選挙というものは、全体を覆う空気をどう変えるか、という事が物を言う。団体スポーツでいえば、【流れ】をどう変えるか、という事になる。
今回の選挙戦、国民の多くが、マスメディアの第三極報道狂騒曲に何となく違和感を抱き、うんざりし、忸怩たる思いを抱いていたに違いない。その理由は簡単。メディア報道は、今回の選挙の重要性(※わたしは、戦後最も重要な選挙であり、この選挙結果によっては、日本の沈没は決定的になると考えている)や本当の争点をどうやって国民の目から隠すかという事に腐心しており、その真実を覆い隠すための第三極狂騒曲と小沢隠しだからである。
【未来の党】結成は、この国民の間に蔓延しているよどんだ白濁した空気を吹き散らす可能性がある。経済だとか景気だとか、愚にもつかない政局話を得々として語るしたり顔の政治家・経済人・コメンテーター連中にうんざりしていた国民に、【命】や【生活】の重要性を真正面から語る政党が現れたのである。その意味で【日本未来の党】結成は、絶妙のタイミングだったと言ってよい。団体スポーツでいえば、形勢逆転のきっかけをつかんだと言える。問題は、これをどう広げ、この流れを確かなものにするか、という事だろう。
3・11の大惨事は、日本人に自分たちは実にもろいものの上に立っていて、人間の営みなんて、大自然の力の前には、ひとたまりもない、という事を教えた。そのような圧倒的な力の前には、人間一人の力など弱いものだという事を教えた。同時に、原子力というものは、人間が統御できない【プロメテウスの火】だという事も教えた。
以前にも書いたが、日本人全体が、戦後初めて、【存在論的不安】の前に立たされた。つまり、日本人一人一人が深刻な【パラダイム転換】を迫られたのである。今回の選挙戦報道が、多くの国民に何となく違和感を覚えさせているのは、自公民も維新もどの報道機関もこの【存在論的不安】に答えておらず、国民の心の底に起きている深刻な【パラダイム転換】に錘を下していないからである。
その意味で、今回の【日本未来の党】結成は、国民の【存在論的不安】=【パラダイム転換】に応える政党の結集軸になる可能性がある。
今日、NHKプレミアムで、五木寛之の【21世紀仏教の旅③】の再放送が放映された。今日は、世界一「幸せの国」として有名になったブータンの旅だった。その中でブータンの仏教が一番大切にしている考え方が紹介されていた。【無我】と【縁起】である。【無我】とは、文字通り【我】を無にする。捨て去る、という事。【縁起】とは、生きとし生けるもの全てが、関係があり、その関係性の中に人は生きている、という考え方である。
西洋流近代的物質文明とは、【我】を追及し、【我】を無限大に膨らませる事によって肥大化してきた。その究極的理念が、【新自由主義】と言ってもよい。同時に、人間の理屈【効率化】を最優先し、環境を壊し、人間の本来的営みすら壊してきた。その結果、本当に人間は幸せになったのだろうか。
この問いは、深刻である。いわば【存在論的不安】が21世紀文明への根本的問いかけになっている。文字通り【文明論的問いかけ】になっているのである。日本だけでなく、世界各国でこの問いが真剣に問いかけられている。日本では、この問いの象徴が、【原発問題】である。
今回の【日本未来の党】結成と反原発・脱原発各党の結集は、国民の心に広がっている漠とした不安(存在論的不安)への一つの政治の答えになる可能性がある。願わくば、リベラルな各党各派が、この旗の下に結集し、世界各国に共通な【文明論的不安=存在論的不安】の解消に向けての一つの方向性を示してほしい。
「護憲+BBS」「政党ウォッチング」より
流水