原子力平和利用という美名の下で形成された原子力利権構造が、戦後日本の支配体制の象徴であると何度も指摘した。
未曾有の大災害からの復興、福島原発事故でもたらされた被害、どちらも巨額の費用が必要だ、と言う認識に反対を唱える人はいない。しかし、この費用の調達方法となると百家争鳴。一体、どれが正しいのか、判然としない。
このように、「総論」賛成、「各論」反対の場面は至る所で見られるが、今回の場合は、通常の場合とは話が違う。
何故なら、今回の復興、原発被害をどう回復するか、という問題は、戦後日本の総括と将来の日本をどのような形で構築するか、というグランドデザインなしに決定できない。場当たり的解決をすれば、本当に日本は沈没してしまう危険性が高い。復興の「理念」、日本のエネルギー政策(原発なし)の理念なしに「巨額な復興費、巨額な賠償費」を支出してしまえば、結局費用は拠出したが、ただの損失補填でしかなかった、と言う結果になる。
今回は、福島原発事故を社会的・思想的から考えてみる。
原子力発電(原子力の平和利用)はきわめて危険で、ひとたび事故が起きたら、取り返しのつかない被害を人体及び環境にもたらす存在である。
原子力発電そのものは、非常に高度で精密な最先端の科学的知見(論理)と科学経験的技術知に基づいて運用されている。純粋科学的論理だけからいうならば、「原子力は安全」というTVに出る原子力専門家なるものの言い分は、正しいのかもしれない。
しかし、これは原子力発電所自体が、物理的意味で安定した理想的環境に設置されているという仮説に基づいた言い分である。
現実の地球環境は、そのような理想的環境はあり得ない。現実の地球環境は、自然空間から過激で混沌とした影響を受ける事を宿命づけられている。当然のことながら、人間には予期しえぬ影響(地震、津波、台風、など)を地球環境から受けるし、テロという人的影響も受ける可能性がある。
この意味からすれば、「原発が安全である」などという事は、絶対に言えない。同時に、政府や官僚、学者たちが繰り返した「想定外」という言説は、自らが自然をコントロールできる存在であるという妄想を信じた人間の傲慢さの表現以外の何物でもない。つまり、純粋科学的論理のみに身をゆだねた人間の愚かさの表現以外の何物でもない。
さらに、今回の原発事故には、日本特有の事情もある。原子力平和利用の歴史についてはすでに述べたが、日本の原子力発電を支えてきたのは、産・官・学・政の癒着構造であり、今回の事故は、この構造からもたらされた「ヒューマン・エラー」の側面が大きい。
端的に言えば、4・21日付毎日新聞「記者の目」で取り上げられていた原子力村の存在である。毎日新聞の記事は、それでも遠慮勝ちだったが、原子力村の住人たちの傲慢さを今回の事故の遠因と指摘していた。
原子力村というのは、平たく言えば、原子力で飯を食っている人々の事をいう。電力会社・関連企業・官僚(原子力保安院など)・学者・評論家・メディア(重要な広告主)などの総合体。
この村はきわめて狭い範囲で構成されており、この村の住人たちのほとんどが顔見知り。例えば、大学や大学院で原子力を学んだ学生たちは、大学教授の紹介で、電力会社や大学、官僚・原子力関係の独立行政法人などに就職する。大学の研究などを支援する大口スポンサーは東電をはじめとする電力会社。この構造からすると当然原子力村の住人は、「原子力は安全」とする神話を標榜する人間たちの集団になる。「原子力の安全神話」に疑義を唱える人間は、「村八分」にあう。
※現在数少ない信頼できる研究者として活躍している小出裕章氏は、京大原子炉研究所(熊取にある)の反原発を標榜した7人の研究者(通称熊取七人衆)の一人。彼ら(現在2名)は60を超える現在も万年助手。原子力村の閉鎖性がこの一事で分かる。
オーム真理教の犯罪は、その組織の閉鎖性・排他性・外部に対する攻撃性などが、大きな心理的要因になった事は周知の事実だが、実は、原子力村の閉鎖性・排他性・外部の批判に対する攻撃性も似たようなものだ、と言える。
例えば、日本の原子力安全委員会と同じ役割を持つ米国の組織の名称は、原子力規制委員会。米国では、原子力は人間が扱うには、きわめて危険な物質という認識が基本にある。だから、この危険な悪魔を扱う機関には、厳重な規制を設け、慎重の上にも慎重な取り扱いを義務付けている。
ところが、日本では原子力平和利用決定以来「安全」という幻想を国民に信じさせることが運命づけられていた。この「安全神話」なるものが、日本の原子力村の住人たちを金縛りにしていた。この村の住人たちの存在意義は、「安全」という錦の御旗を国民に信じさせ、それを科学的に証明する事にあった。
当初は、住人たちは、危険な物質を「安全」と言い繕うのだから、それを証明するために、それなりの努力をしてきた。ところが、原子力発電所が、何年もあまり大きな事故がなく推移すると、「安全」であることが規定の事実になってしまう。そのうち、「安全」に疑義を差し挟むこと自体がタブーになる。この「タブー」に挑むものは、異端児として排除される。この村社会の論理が、今回の東電福島原発事故の大きな要因の一つだった事は論をまたない。ここに展開されている姿こそ、日本社会を永年蝕んできた「官僚無謬説」の象徴である。
だから、彼らの「安全」意識は、第一義的に緻密で合理的な科学的知見に向かった。この緻密で合理的な科学的知見の能力こそが、原子力村での地位を保障したのである。これも、官僚社会で細かな法律的知識を駆使して反対者を煙に巻く手法と同じだ。
しかし、彼らは苛烈な自然条件を考慮の外に置いた。だから、日本で第一級の頭脳の持ち主だと自他共に認めているエリート集団が、外部自然空間からの苛烈な攻撃を「想定外」と言わざるを得ない無様な有様に転落したのである。
だから、農業や漁業など自然条件を相手に生活している人々の「お天道様には勝てぬ」という自然に対する畏敬の念にも劣る言い訳しかできない。この無残な姿こそ、現在の日本の支配層の姿だと言う事を認識しなかったら、日本再建など夢のまた夢である。
東日本復興や原子力を含めた日本のエネルギー政策をどうするか。実は原子力発電問題は、日本のみならず世界的問題になっている。世界各国は福島原発事故の処理及びその後にくる日本の原発政策を固唾をのんで注視している。
この処理とその後のエネルギー政策は、世界各国のモデルになる事は間違いない。福島原発事故は過去の世界が経験したことのない未知の世界。ここで日本の叡智を集めた事故処理をすれば、日本の科学技術に対する信頼は大きく高まる。同時に、未来を見据えた新たなエネルギー政策を打ち出せば、それが21世紀世界のモデルになる。
福島原発事故という甚大な犠牲を払った日本である。せめて、この事故を将来の世界の指針になれるような新たな方向性を生み出す契機にしなければ、多大な犠牲を払った避難住民たちの思いは生かされない。わたしが復興計画には、理念が最も重要と主張するのも、ここに理由がある。
「護憲+BBS」「政党ウォッチング」より
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