http://d.hatena.ne.jp/misola/20071013
なくしたくないもの: 最高裁審理どうあるべきか 5判事大激論 強盗強姦事件
>最高裁の審理はどうあるべきか――。ある強盗強姦(ごうかん)事件の上告審で、最高裁第一小法廷の裁判官らが激論を戦わせたことが、決定書の内容からわかった。「二審判決には明らかな事実の誤認があるので審理を差し戻すべきだ」「最高裁は『法律審』であり、基本的には二審の事実認定を尊重すべきだ」。結局は裁判官5人のうち3人の多数意見で二審判決の結論を維持した。通常は「上告を棄却する」などと2、3行程度の内容で終わることが大半の刑事決定書で、こうした激論の様子が明らかになるのは珍しい。
http://www3.diary.ne.jp/user/338790/#1193731384
きっこの日記: (片岡さんの)控訴棄却! ※高松高等裁判所
http://www.ksb.co.jp/newsweb/indextable.asp?tid=4&sid=7
きっこの日記: KSB瀬戸内海放送「高知白バイ衝突死(冤罪)」報道(ビデオ)
三審制のロジックだけで、つまり、国家の訴訟経済への配慮偏重で、真実や正義(感情)を蔑ろにすべきではないのではないかと思う。国民のために、裁判所は、常に在るべきではないか。
三審制のロジックとは、概略[第一審(地方裁判所など)は、真実追求(事実認定)し判決を下す。第二審(高等裁判所など)は、第一審のした事実認定及びその判決について、違法はないか判断する。第三審(最高裁判所…)は、第二審の事実認定に基き、判決に違法・違憲はないか判断する。=『法律審』]というもの。
確かに、第一審は、真実追求をするものの、第二審、第三審は、真実追求から次第に遠ざかる。主に、(国家・裁判所の手間・暇をかけないとの)訴訟経済を図るためだ。
しかし、このロジックの裏をかかれる事件は、富山の冤罪事件に限らず、闇に埋もれたままの事件だって、相当あるのではないか。今回の「高知白バイ衝突死事件」のように、一個人が徹底抗戦出来る(過大な負担を要する)なんて、そうそうあることではなかろう。むしろ、富山の事件のように陥る場合の方が、普通にありそうに見える。
この不都合なロジック・事態を動かすためには、(上記)最高裁判所内部での議論より、国民の間の自由な議論の方が大事(有効)だろうと思う。自由主義社会においては、その日本国憲法の「法の支配」を実現するため、真実追求と(疑わしきは罰せず等)人権の尊重は、飽くまでも尊重されなければならず、訴訟経済(国家の都合)に偏重されてはならないと思う。
「護憲+BBS」「今日のトピックス」より
蔵龍隠士
なくしたくないもの: 最高裁審理どうあるべきか 5判事大激論 強盗強姦事件
>最高裁の審理はどうあるべきか――。ある強盗強姦(ごうかん)事件の上告審で、最高裁第一小法廷の裁判官らが激論を戦わせたことが、決定書の内容からわかった。「二審判決には明らかな事実の誤認があるので審理を差し戻すべきだ」「最高裁は『法律審』であり、基本的には二審の事実認定を尊重すべきだ」。結局は裁判官5人のうち3人の多数意見で二審判決の結論を維持した。通常は「上告を棄却する」などと2、3行程度の内容で終わることが大半の刑事決定書で、こうした激論の様子が明らかになるのは珍しい。
http://www3.diary.ne.jp/user/338790/#1193731384
きっこの日記: (片岡さんの)控訴棄却! ※高松高等裁判所
http://www.ksb.co.jp/newsweb/indextable.asp?tid=4&sid=7
きっこの日記: KSB瀬戸内海放送「高知白バイ衝突死(冤罪)」報道(ビデオ)
三審制のロジックだけで、つまり、国家の訴訟経済への配慮偏重で、真実や正義(感情)を蔑ろにすべきではないのではないかと思う。国民のために、裁判所は、常に在るべきではないか。
三審制のロジックとは、概略[第一審(地方裁判所など)は、真実追求(事実認定)し判決を下す。第二審(高等裁判所など)は、第一審のした事実認定及びその判決について、違法はないか判断する。第三審(最高裁判所…)は、第二審の事実認定に基き、判決に違法・違憲はないか判断する。=『法律審』]というもの。
確かに、第一審は、真実追求をするものの、第二審、第三審は、真実追求から次第に遠ざかる。主に、(国家・裁判所の手間・暇をかけないとの)訴訟経済を図るためだ。
しかし、このロジックの裏をかかれる事件は、富山の冤罪事件に限らず、闇に埋もれたままの事件だって、相当あるのではないか。今回の「高知白バイ衝突死事件」のように、一個人が徹底抗戦出来る(過大な負担を要する)なんて、そうそうあることではなかろう。むしろ、富山の事件のように陥る場合の方が、普通にありそうに見える。
この不都合なロジック・事態を動かすためには、(上記)最高裁判所内部での議論より、国民の間の自由な議論の方が大事(有効)だろうと思う。自由主義社会においては、その日本国憲法の「法の支配」を実現するため、真実追求と(疑わしきは罰せず等)人権の尊重は、飽くまでも尊重されなければならず、訴訟経済(国家の都合)に偏重されてはならないと思う。
「護憲+BBS」「今日のトピックス」より
蔵龍隠士
