世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●「チーム安倍」盤石 盛者必衰の理をあらわす、を信じたい

2016å¹´08月08æ—¥ | æ—¥è¨˜
北一輝論 (講談社学術文庫)
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大川周明 ある復古革新主義者の思想 (講談社学術文庫)
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●「チーム安倍」盤石 盛者必衰の理をあらわす、を信じたい

 以下の日経電子版の記事を読んで、提灯記事だと口汚く罵ることは可能だが、筆者は、常々、安倍たち右翼(偏向保守)や日本会議系の連中は、群れることに長けている。良く言えば、“小異を捨てて大同につく”ことが上手だ。悪く言えば、糞味噌一緒くたに集団化する。しかし、愚民的民主主義においては、大きな強みで、組織票の読みも、あまり大きく外れることがない。筆者から見る限り、安倍政権のやっていることは、その多くが幻想と虚構に彩られている。今では、あからさまにメディア介入をしても、メジャーな反対意見すら出てこなくなった。

 お天道様も、天岩戸にお隠れになった塩梅の今日この頃だ。産経、読売、日経の記事は見るに堪えない程劣化しているが、劣化した国民に合わせているのだから、何処からも文句などでない。穿った見方をすれば、劣化愚民に合わせた報道姿勢だから、怖いものはないと云うことになる。取りあえず、ファイティングポーズを見せた朝日新聞も、今では、完璧に闘争心を失っている。テレビ朝日の“報道ステーション”なども、富川君に変り、もう、日本テレビとの区別がつかない悲惨な状態になっている。オリンピックで、景気づけと行きたいところだったが、端からズッコケ試合が連続的に視聴者が鼻白む有様になっている。まあ、大金かけているNHKがメダルだ!金だ!と、“狂躁曲”を奏でるが、選手がチャンと踊らない(笑)。

 まあ、自公政権に取って替わるべき「政党」が見当たらないわけだから、投票に行かないか、行っても、印象で投票行動を起こすのだから、政策なんて、何もいらないことは自明だ。英国、EU、米国の現状を見れば、日本だけに限ったことではないので、独り負けだと嘆くほどでもないのが、救いと言えば救いだ。最低でも、総理在任中に「憲法改正発議」にまで辿りつきたいのが、安倍晋三の唯一の目的であることは、ほぼ自明だろう。官僚らは“緊急事態条項”の追加などしたいだろうが、安倍の気持ちは発議が目的化しているようなので、その改正項目は些末なものになる推測できる。「憲法改正」と云う経験を、愚民に経験させることが重要なのだろう。しかし、首相の祖父が岸信介であった事実は、本当だろうかと思うほど、知識教養が雲泥の差なのだが、それでも、一部分だけでも真似ようとするのだから、何だか、滑稽さを感じる。

 民進党の代表選はどうなっているのだろうか?興味の埒外なの確認してみたら、NHKが以下のように報じている。代表選に手を挙げた有力候補は、蓮舫氏ひとり。来月、2日公示、15日投開票なので、前原が出るか出ないか程度の変化しかないだろう。つまり、民進党は蓮舫氏で行くことになりそうだ。しかし、いずれにしても、一応リベラル系を標榜する政治勢力と云うものは、前述の“右翼(偏向保守)や日本会議系の連中は、群れることに長けている。”と比較して語るならば、些細なことで、意固地になって、差異に拘る。連合と云う既得権勢力が基盤にある限り、自民党の対抗勢力になるのは、相当に困難だ。

≪ 蓮舫代表代行 民進党代表選に立候補表明
民進党の蓮舫代表代行は5日、党本部で記者会見し、来月行われる党の代表選挙について、「政権選択選挙へのスタートにする思いで、代表選挙に臨みたい」と述べ、立候補する意向を表明しました。
民進党は、岡田代表の任期満了に伴う代表選挙を、来月2日告示、15日投開票の日程で行うことにしています。
これについて、蓮舫代表代行は記者会見し、「政権選択選挙へのスタートにする思いで、代表選挙に臨みたい。向き合うべきは、大変高い山で、大きな与党であ り、向かうべき道が厳しく、険しいことも分かっている。私の覚悟は、崖とかスカイツリーのレベルでなく、富士山から飛び降りるくらいの覚悟だ」と述べ、立 候補する意向を表明しました。
そのうえで蓮舫氏は、「私たちには対案があるが、残念ながら国民に伝わっておらず、批判ばかりだと思われている。私は代表として、ここを変え、国民に選んでもらえる政党にしたい」と述べました。
また、蓮舫氏は、次の衆議院選挙に向けた共産党などとの野党連携について、「綱領や政策が違う政党とは、一緒に政権を目指さない。『基本的な枠組みは維持しつつ、検討を必要とする』というひと言に尽きる」と述べました。
さらに、蓮舫氏は、憲法改正について、「立法府の一員として、国会の憲法審査会に、積極的に参加する。憲法9条は絶対に守る、これは私の信念でもある。平和 主義、主権在民、基本的人権の尊重という基本理念は尊重したうえで、時代の変化に応じて、改正が必要なことが生まれたら、しっかり党内で議論して提言する のは当然の成り行きだ」と述べました。
そして記者団が、「岡田代表の後継者という意識はあるか」と質問したのに対し、「私が代表として目指すのは蓮舫路線だ」と述べました。
蓮舫氏は、参議院東京選挙区選出の当選3回で、48歳。党内では、野田前総理大臣の議員グループに所属しています。ニュースキャスターなどを経て、平成16年の参議院選挙で初当選し、民主党政権では、行政刷新担当大臣などを務めました。蓮舫氏が代表に就任すれば、民主党の時代も含め、女性としても、参議院議員としても初めてとなります。
民進党の代表選挙を巡っては、これまでに、岡田代表が立候補せず任期いっぱいで代表を退く考えを明らかにしている一方、長島・元防衛副大臣が立候補を目指す考えを示しています。 長島氏「何が何でも選挙に」
民進党の長島昭久元防衛副大臣は、記者団に対し、「非常にいい記者会見で意志が伝わってきた。憲法改正について、岡田代表の路線からの転換を打ち出し、私と考えは一致している。ただ、主体性を失った『野党共闘』を転換するとともに、党内の人事を刷新するのが私の主張だ。代表選挙の立候補に必要な推薦人を集めるのに苦労しているが、何が何でも選挙にしなければいけない」と述べました。
 ≫(NHK)

 â‰ªã€€ã€Œãƒãƒ¼ãƒ å®‰å€ã€ 強い団結を生む差配
 第3次安倍再改造内閣が始動した。安倍内閣の強さの秘訣は、首相官邸の陣容と差配から見える。首相官邸に勤務経験のある政治家と官僚が過去の教訓を生かし、霞が関や与党をコントロールする政権運営術が浮かぶ。
 安倍晋三首相は3日、内閣改造を説明する記者会見で、自ら「官邸主導」に触れた。官房副長官から経済産業相に起用した世耕弘成氏を紹介し「官邸主 導の政権運営を支えてきてくれた。官邸外交の経験も生かし、全世界を視野に大胆な通商戦略を展開してほしい」と述べた。政権運営も外交も官邸中心。官邸で育てた側近を政府の要職に配す。
 「首相官邸」は首相が執務する建物だが、首相と正副官房長官や首相補佐官、秘書官を含めた「チーム安倍」の代名詞でもある。各省庁とは違い、危機管理と調整力が問われる政治の最終決定の舞台になる。   安倍政権は補欠選挙を除く国政選で連勝。危機管理でも不手際と批判されない。再登板から3年半余りに及ぶ政権の強さの理由を、多くの首相周辺が「官邸勤務の経験者が多いから」と語る。世耕氏は「第1次政権で失敗の経験者たちが同じ事を絶対にくり返してはいけないという思いで団結していることが非常に大きい」と強調する。
 3日の内閣改造で首相は内閣の要である菅義偉官房長官と萩生田光一、杉田和博両官房副長官を続投させたほか、首相補佐官と首相秘書官を全員留任させた。周辺は「官邸の陣容は危機管理に直結する。簡単には動かせない」と指摘する。
 官邸での経験が最も長いのは他でもない安倍氏だ。森喜朗、小泉純一郎内閣で官房副長官を3年2カ月、小泉内閣で官房長官を11カ月、第1次安倍政権で首相を1年務めた。歴代自民党総裁で、2度、首相の座に就いたのは安倍氏だけだ。
  危機管理で試練に直面したのは、第2次政権発足直後の2013年1月。アルジェリアで邦人が人質になる事件が起きると、首相は訪問中のベトナムから「人命第一」の解決を指示。政府は首相官邸に対策本部を立ち上げ情報を集約し、初めて邦人救出のために政府専用機を派遣した。
 不祥事を受けた対応も早い。首相は14年9月の内閣改造で「女性登用」を掲げ、小渕優子経済産業相と松島みどり法相を看板閣僚として起用。だが「政治とカネ」などの問題が指摘されるとすぐにダブル辞任させた。
  早期辞任にこだわったのは、06~07年の第1次内閣での苦い記憶からだった。当時「政治とカネ」の問題などで閣僚の進退問題が相次ぎ浮上。首相は閣僚をかばったが、結局は「辞任ドミノ」で内閣支持率は落ちた。その後の参院選敗北につながり、約1年の短命政権に終わった。
 政務の首相秘書官を務めるのは今井尚哉氏だ。経済産業省出身で、第1次政権では事務の秘書官を務めた。17年4月に予定していた消費増税の延期に向けたシナリオを描き、財務省の抵抗を押し切る形で実現させた。参院選で政権与党の勝利の一因となったとの見方がある。
 秘書官のうち財務省出身の中江元哉氏、外務省出身の鈴木浩氏は、首相が官房長官だった時も秘書官として支えた。
 警察庁出身で事務担当の杉田副長官の存在も大きい。後藤田正晴官房長官のもとで秘書官を務め、内閣情報調査室長、情報官、危機管理監を歴任した。霞が関の官僚から「北朝鮮のミサイル発射など有事があっても官邸に杉田さんがいると安心できる」との声があがる。
  首相補佐官には第1次政権で内閣広報官を務めた経済産業省出身の長谷川栄一氏が就いている。国内外のインテリジェンス(機密情報)の専門家である内閣情報官の北村滋氏は第1次政権で首相秘書官だった。海外で邦人が事件に巻き込まれるなどの危機対応が必要になると、杉田副長官らと官邸に詰め、菅長官らに対策を助言する。
 第2次政権以降、官邸内の風通しをよくするために首相と正副官房長官が原則1日1回集まっているという。出席者のひとりは「首相官邸は建物が大きく、お互いに会わないと距離ができてくる。本音をぶつけることがスムーズな政権運営につながる」と話す。  ≫(日経新聞電子版)

≪ 人事権で官僚操る 対与党、解散カード駆使
 官僚の巧みな操縦術も安倍政権の特徴の一つだ。人事権を武器に成果を出した官僚を抜てき。与党には首相の衆院解散カードをちらつかせて「官邸主導」の構図を作り上げてきた。
  「内閣人事局ができて意見を言う雰囲気がますます薄れた」と経済官僚は嘆く。安倍政権は2014年5月に霞が関の幹部人事を一元的に統括する内閣人事局を発足した。これまでは各省庁の事務次官が実質的に決めてきたが、審議官・部長級以上は内閣人事局の審査を通らないと昇格できないしくみに変わった。
 政権に危機が訪れると解散カードで切り抜ける。14年秋の衆院解散が象徴的だ。消費増税の延期に財務省や自民党内で反対論が強まる気配を見て、首相はすかさず衆院解散・総選挙に打って出て、与党圧勝につなげた。
 増税延期の方針に異論を唱えた自民党税制調査会の最高幹部に対し、官邸筋から「次の衆院選で公認しない」と情報を発信。公認権も武器に反乱を鎮めた。
 ただ、こうした手法が今度も有効かは分からない。
 政治が官僚の人事に深入りし過ぎると、外された官僚の士気が落ちかねない。どこまで人事でにらみを利かせるかは難しい。
 次の衆院解散・総選挙の時期をめぐっても、首相にとってはいつでも解散できるように見せることで求心力を保ちたいところだが、これまでのように解散カードの威力を発揮できるかは見通せない。  ≫(日経新聞電子版)


 以上のように、日経のオベンチャラ記事は、安倍政権の官邸主導の強靭さを示している。当面、書いてある通り、盤石を印象づけている。筆者も、8割方、この方向で日本の政治は、ジワジワと劣化していくだろうが。国民の劣化に、政権が歩調を合わせている側面もあるので、これといった妙案はない。国防関連で、右往左往が起きることは望ましくないが、経済財政金融政策で、一敗地に塗れる程度なら、日本国や国民が塗炭の苦しみを味わうのも悪くはないだろう。そこまで、行きつかないと、愚民の「経済成長希求幻想」はなくならないのだから……。

 それにしても、安倍晋三の岸信介心酔の病気には呆れてものが言えない。ここ50年先の展望は、識者の希望的観測を裏切るように、中国が米国と肩を並べると認識することが、冷静な将来的世界の勢力図だ。感情的に好ましくない民族意識を持つ中国だが、防衛外交経済において、反目する選択は、あまりにも自虐的だ。真実を歪めて、幻想や物語に逃げ込む人種こそが、自虐的思考の持ち主だと云うこと、右翼や安倍官邸に自覚して貰いたい。それにしても、以下に引用する魚住昭氏の岸信介にまつわるコラムだが、肝胆寒からしめる内容だった。


≪  岸信介は革命家・北一輝にここまで傾倒していた〜「国家改造」をめぐる思想の融合

「青春の血で日本史を書くんだ」

■まさかと思うほどの薄い存在
・週末、目黒不動尊(天台宗・瀧泉寺)に行った。ちょっと見たいものがあったからだ。
・東急目黒線の駅から徒歩15分。初夏の陽射しを浴びて、なだらかな坂を上り下りしながら私が考えたのは、明治生まれの二人の男のことだった。
・北一輝(1883~1937年)と岸信介(1896~1987年)。北は2・26事件の首謀者として処刑された革命家だ。岸は言うまでもなく元首相で、安倍晋三首相の祖父でもある。
・岸は北より13歳若い。北とは生い立ちも性格もちがう。別世界の人間だ。似ている点を強いて挙げるとすれば、その尋常ならざる能力のために北が「魔王」と呼ばれ、岸が「昭和の妖怪」と呼ばれて、周囲から恐れられたことぐらいだろう。
・目黒不動は徳川三代将軍・家光ゆかりの寺である。入口の案内板によると、サツマイモで有名な青木昆陽の墓もあるらしい。
・でも、私が見たいと思っているのはそれではない。北一輝の碑と墓だ。なのに案内板には記載がない。寺務員に尋ねると「お墓ならありますが」と言って、境内から百数十m離れた道路沿の墓地を教えてくれた。
・墓地の奥の方に北の墓はあった。正面に「北一輝先生之墓」とあり、側面に夫人と長男の名も刻まれていた。それにしても拍子抜けするほど普通の墓であ る。「魔王」を連想させる部分はない。逆徒の縁者の暮らしは苦しく、贅沢な墓を作る余裕がなかったのか。それとも世間への遠慮がそうさせたのか。
・数m先には、北のかつての盟友で「大アジア主義」を唱えた大川周明(東京裁判で東条英機の頭を叩いた人だ)の墓もあった。こちらも戦前・戦中の彼の華々しさに比べると、忘れられたように地味な墓だった。
・さて次は北の碑を探さなければならない。墓地の管理人らしきおじさんに聞くとこの墓地にはないと言う。「どこにあるか知ってそうな人に聞いてくるか ら木陰で待っててください」と彼は言った。私は「そこまでしてもらわなくとも……」と言ったのだが、親切なおじさんは自転車でさっさと行ってしまった。
・数分しておじさんは帰ってきた。気の毒そうな顔で「寺の人にも聞いたんだけど、やっぱり北一輝先生の碑は知らないということでした」と言った。
・念のため、私も寺の境内をひと回りしてみたが、見当たらない。引き揚げる前にダメを押すつもりで大本堂にいた寺務員の男性に聞いてみた。すると「それだったら、この大本堂の下の斜面にありますよ」という意外な返事が戻ってきた。
・行ってみると、あった。青木昆陽の巨大な碑の隣の、奥まったところにあったから気づかなかったのだ。考えてみれば寺の一部の人しか知らなかったのも無理はない。歴史好きならともかく、一般人にとって北はもう忘れられた存在なのだ。
・私は高さ4m前後の碑に近づき、目を凝らした。大川周明の「歴史は北一輝君を革命家として伝へるであらう」で始まる墓碑銘がびっしり刻まれていた。そのなかで大川は、北が「世の常の革命家」ではなく、「専ら其門を叩く一個半個の説得に心を籠めた」と述べていた。

 â– ã€Œæ€ªç‰©ã€ã¨ã€Œå¦–怪」の接点
そう。その門を叩いた人のひとりが若き日の岸だった。原彬久・東京国際大学名誉教授の『岸信介-権勢の政治家-』(岩波新書)によると、たった一度だが、岸は東大の学生時代に北に会い、北の思想に強い影響を受けた。以下は岸の「思ひ出の記」の一節である。
〈此の北氏は大学時代に私に最も深い印象を与へた一人であつた。而して北氏は後に二・二六事件の首謀者の一人として遂に銃殺されたのであるが、辛亥革命以来一生を通じて革命家として終始した。恐らくは後に輩出した右翼の連 中とは其の人物識見に於て到底同日に論ずることの出来ぬものであつた〉
・これだけで、岸の北への傾倒ぶりがお分かりだろう。岸と北との関係は、戦後政治のあり方にも影響をもたらす重大事なので、ふたりの出会いに至る経緯をざっとご説明しておく。
・北は1916(大正5)年、中国革命に身を投ずるため上海に渡った。が、志を果たせなかった。生活も困窮した。そんな北を見かねた上海の日本人医師が彼の生活の面倒を見た。
・1919(大正8)年、東京で大川周明らが政治結社・猶存社を結成。その指導者として北を迎えるべく、大川が上海に赴いた。折から北は〈食物は喉を 通らず、唯だ毎日何十杯の水を飲んで過ごし〉、〈時には割れるような頭痛に襲はれ〉ながら日本革命の指針『国家改造案原理大綱』を執筆中だった。 その最後の巻八を書き始めたとき、思いがけなく大川の来訪を受けた。北は大川の招請を天意と感じて帰国を決意した。
・書きかけの原稿は彼の帰国前、大川らの手で秘かに日本へ運ばれ、ごく限られた支持者たちの間で回読された。岸もまた当時、秘密裏に出まわった原稿を手に入れ、夜を徹して筆写した。
・大綱の概略は(1)天皇の名で戒厳令を敷いて華族制度を廃止し、治安警察法や新聞紙条例などの廃絶で国民の自由の回復を計る、(2)皇室財産を国家に下付し、私有財産を制限する、(3)大資本を国有化し、私企業の純益を労働者に配当する―などだった。
・北は一方で世界の領土再分割も説いた。「不法ノ大領土ヲ独占」する国に対しては戦争する権利を持つとして、オーストラリアやシベリア取得のための開戦は「国家ノ権利ナリ」とした。
・岸はこの『国家改造案原理大綱』について〈当時私の考へて居た所と極めて近く組織的に具体的に実行方策を持つたものであつた〉と後に述べている。
・岸と北の思想は融合し、後に岸が辣腕をふるう統制経済や満州国経営で具体化する。晩年、岸は北との出会いを原彬久名誉教授にこう語っている。 〈彼は隻眼の人です。炯々とした片目で僕を睨みつけてね。こちらは大学の制服を着ていたと思うんだが、北一輝は辛亥革命のあの革命服を着ていた。そしてこういうんだよ。「空中に君らの頼もしい青春の血をもって日本の歴史を書くんだ」〉
 â‰«ï¼ˆç¾ä»£ãƒ“ジネス>わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ・『週刊現代』2016å¹´7月9日号より)


≪ 「昭和の妖怪」岸信介の知られざる素顔〜安倍首相の祖父が目指していた国家とは?

 â– A級戦犯で拘束後、4年で首相に
・「昭和の妖怪」岸信介と、「魔王」北一輝をめぐる旅の途中である。今回、立ち寄ったのは渋谷区の南平台。かつて岸首相の私邸があった場所である。 その私邸はとり壊され、今は青瓦と白壁の大型マンションが建つ。周辺には教会や大使館や豪邸が軒を連ねる。喧騒とは無縁の高級住宅街だが、60年安保の当時は連日のようにデモ隊が押しよせ、岸邸前の道は洗濯板みたいに凸凹になったそうだ。
・警官隊の厳重なガードにもかかわらず、岸邸にはねじって火をつけた新聞紙や石が投げ込まれた。岸首相は外に出られず、退屈すると孫たちを呼びよせた。当時6歳の安倍晋三・現首相も新聞社の車にそっと乗せてもらい、祖父宅に行った。
・以下は『美しい国へ』(安倍晋三著・文春新書)の回想である。 〈子どもだったわたしたちには、遠くからのデモ隊の声が、どこか祭りの囃子のように聞こえたものだ。祖父や父を前に、ふざけて「アンポ、ハンタイ、アンポ、ハンタイ」と足踏みすると、父や母は「アンポ、サンセイ、といいな さい」と、冗談まじりにたしなめた。祖父は、それをニコニコしながら、愉快そうに見ているだけだった〉
・往時の岸家を彷彿とさせるような文章だ。それにしても、と私は思う。 岸ほど不思議な政治家はいない。彼は東条内閣の商工相として開戦の詔書に署名し、戦時の経済を仕切った男である。
・戦後、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに3年拘束された。不起訴になったとはいえ、彼の戦争責任は重い。
・ところが連合国軍の占領が終わった翌年の1953(昭和28)年には代議士に当選し、それからたった4年で首相になった。国民をあんな悲惨な目に遭わせておいて、どの面さげてと言いたくなる。
・しかし、である。岸が首相在任中にやったのは安保改定だけではない。最低賃金法と国民年金法を成立させた。とくに年金法は、公務員や大企業の社員しか恩恵にあずかれなかった公的年金の受給対象を全国民に広げる画期的なものだった。
・『岸信介回顧録-保守合同と安保改定-』(廣済堂出版刊)で彼はこう振り返っている。 〈岸内閣の時代に社会保障や福祉の基礎がつくられたということが、私のイメージに合わないというか、私になじまないような印象を受けるらしいが、そういう評価の方がなじまないと言うべきで、私にとっては意外でもなんでもない(略)あたり前のことをしただけなのだから〉
・タカ派の親玉としか見られなかった岸が目指したのは弱者に優しい社会民主主義だった。富の再分配による格差の是正である。としたら、岸はいつ、どのようにして社会民主主義を志向するようになったのか。

■変幻自在の政治家
岸は山口県・田布施の地主の家に生まれた。曽祖父は伊藤博文らと交友があり、岸は幼いころから吉田松陰の「君臣一体」の皇国思想を吹き込まれた。 日本最難関の入試を突破して第一高等学校に入るのは1914(大正3)年。『岸信介-権勢の政治家-』(原彬久著・岩波新書)によれば、岸は一高の自由な校風の中で広範囲な濫読に明け暮れている。
・イプセン、トルストイ、ドストエフスキー、ゲーテ、シラーなどの小説類、ヘーゲル、ニーチェ、ショーペンハウエルなどの哲学書を翻訳で読み、和書では西田幾多郎、夏目漱石から歌集、歴史ものに至るまで手当たり次第に読んだという。
・原彬久・東京国際大学名誉教授は〈岸の広闊な教養の土壌がこの高校時代に培われた〉と指摘し、その〈知的土壌〉が、彼を国粋主義や右翼的思想の〈狂信性からある程度引き離し〉たのだろうと言う。慧眼である。
・岸という変幻自在の政治家は幅広い教養と、深い理解力を抜きに考えられない。彼は飛び抜けた頭脳の持ち主で東大法科では我妻栄(後の民法学の泰斗)と成績トップの座を争った。
・当時の東大の憲法学は、天皇機関説(主権は国家にあって天皇は国家の最高機関であるとする説)の美濃部達吉と、天皇主権説を唱える国粋主義者・上杉慎吉の激しい確執があった。
・松陰の皇国思想に馴染んでいた岸は上杉門下に入った。が、上杉の天皇絶対主義とは一線を画した。それを端的に示したのが森戸事件への岸の対応だ。
・1920(大正9)年1月、東大助教授・森戸辰男は無政府主義者クロポトキンの思想を経済学部機関誌に紹介したため休職に追いこまれ、起訴された。
・大学では社会主義の学生運動団体・新人会が森戸擁護にまわり、上杉が率いる国粋主義の興国同志会が森戸排斥を叫んで真っ向から対立した。
・岸はこの事件を機に興国同志会を脱会した。上杉に運動を抑えるよう頼んだが、聞き入れられなかったからだ。岸の証言。
〈興国同志会を牛耳っていた人々は融通のきかない、頑固一点張りの考えだった。われわれは思想の進歩とか、新しい考え方というものも理解したうえで、反駁するなら反駁すべきなのに、頭から一切理解しないのだ。これには僕はついていけない〉
・岸はもともと私有財産制に強い疑問を持ち、私有財産制を否定するマルクス的社会主義にある種の共感を持っていた。 私有財産制限を説く北一輝の『国家改造案原理大綱』に出合ったのもこのころだ。原名誉教授は〈北の社会主義論が岸の国家論に影響を及ぼし、岸の国家論が北の帝国主義的社会主義論と重なっていくサマは鮮やかである〉と語っている。
・ただ天皇制打倒に傾く北とちがい、岸はあくまで天皇制護持だ。しかし上杉のように神聖化され、絶対化された天皇制ではない。岸が求めるのは国民と苦楽を共にする天皇だった。
・同年夏、岸は東大を卒業し農商務省に入った。「これからの政治の実体は経済にあり」という確信がそうさせたという。 こうして私有財産制への疑問と天皇絶対化への反発、そして国粋主義の信念を併せ持った風変わりな官僚が誕生する。彼はやがて革新官僚のリーダーと呼ばれるようになり、北の言葉通り「青春の血をもって日本の歴史を書く」ことになる。
 â‰«ï¼ˆç¾ä»£ãƒ“ジネス>わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ・『週刊現代』2016å¹´7月16)


≪ アヘンとともに栄え、アヘンとともに滅びた満州国の裏面史

■岸の清濁を知る人物「古海忠之」
・引きつづき「昭和の妖怪」岸信介のことを書くつもりだったが、資料を漁るうちに面白い本に出くわした。これを素通りするのは惜しいので、今回はちょっと寄り道させてもらう。
・本の題名は『古海忠之 忘れ得ぬ満洲国』(経済往来社刊)だ。著者の古海は東大卒の大蔵官僚で、1932(昭和7)年に誕生したばかりの満州国政府に派遣された。国務院経済部次長など重要ポストを歴任。実質的には満州国副総理格で敗戦を迎え、戦後はソ連・中国で18年間にわたって拘禁された。
・ちなみに岸が満州経営に携わったのは1936(昭和11)年~'39(昭和14)年の3年間。古海は岸の忠実な部下で、岸の裏も表も知り尽くしている。
・その古海が語るアヘンの話に耳を傾けてほしい。ご承知と思うが、当時の中国はアヘン中毒患者が国中に蔓延していた。
・古海が満州国初の予算を編成していた1932(昭和7)年のことだ。上司が「満州ではアヘンを断禁すべきだ」と強く主張し、各方面の説得にあたった。
・その結果、植民地・台湾の例にならい、アヘンを一挙に廃絶するのではなく、徐々に減らす漸禁策をとることになり、ケシ栽培からアヘン製造販売まですべてを国家の管理下に置くことにした。アヘン専売制である。

■目論み外れ借金苦に
1940(昭和15)年、古海は経済部の次長になった。当時は産業開発五ヵ年計画達成のため、華北から輸入する鉄鉱石や石炭が膨大な量に上っていた。これに対し、華北の求める食糧や木材はあまり輸出できず、関東軍と満州国政府は巨額の支払い超過に悩まされていた。
・それを解消するため関東軍が考えたのが熱河省(満州の西側)工作だ。熱河はアヘンの主産地で、そのアヘンは専売総局で全部買い上げ、管理する建前になっている。が、実際は、広大な丘陵地帯を取り締まるのは不可能で、年々おびただしい量が北京などに密輸されていた。

 â– é–¢æ±è»ã®ç›®è«–見はこうだった
・―軍と政府が密輸業者の活動を黙認する。その見返りに彼らが密輸で得た連銀券(=華北通貨。満州はその不足に悩んでいた)を同額の中央銀行券(=満州国通貨)と交換する。あるいは業者に資金を与えて密輸アヘンを集め、華北に売りさばいた代金(連銀券)を回収する―。
・関東軍の要請で古海はこの工作を請け負った。彼は三井物産から個人的に2000万円(現在の約200億円)を借り、それを資金に活動したが、行き詰まった。密輸業者らが「俺たちには関東軍と経済部次長がついているから、警察に捕まる心配もない」と言いふらしたからだ。
・古海のもとに熱河省各地から抗議が殺到した。工作は中止され、彼が個人で支出した2000万円も回収不能になった。借金返済を迫られた古海は当時をこう回想する。
〈窮余の一策として、上海にいる私の親友里見甫君に助けを求めることにした。彼は当時、南京政府(=日本の傀儡政権)直轄の阿片総元売捌をやっていたので、手持ちの阿片を彼のもとに送りつけ、できるだけ高価に買い取っても らい、なるべく多額の金を得ようとした。(略)里見甫君は非常に無理をして結局二千万円を払ってくれた〉
里見は「阿片王」と呼ばれた男である。上海でペルシャ産や蒙古産の阿片を売りさばき、陸軍の戦費を調達していた。

■奪われたアヘン
・古海の回想をつづけよう。戦況が悪化した1944(昭和19)年。彼は満州のアヘンを上海に運び、満州で不足する生産機器や消費物資を調達する計画を立てた。そのため、まず飛行機で金とアヘン1トンずつを運んで南京政府の中央銀行の金庫に納め、副総理の周仏海に物資買い付けの援助を依頼した。
・周は「日本は何も持ってこないで物を取っていくだけなのに、満州国は貴重なものを現送してきて物資がほしいといわれる。誠にありがたい」と言って全面協力を約束したという。
・上海でのアヘンと物資の物々交換は里見の協力もあって順調だった。満州への大量の物資輸送も、アヘン3トンを出すなら艦隊司令部が責任を持って送り 届けると約束した。古海は〈昭和二十年当初からこの計画を実施し相当の成果を上げたのであるが、八月、大東亜戦争の終結を迎え、時すでに遅かったのは致し方なかった〉と振り返る。
・敗戦直前の7月、古海は関東軍から新京(現・長春)周辺にあるアヘンを全部引き渡すよう要請された。ソ連侵攻に備えて拡充中の通化(朝鮮との国境に近い)の基地に備蓄するためだ。
〈こうして関東軍に引き渡した阿片は莫大なものであった。関東軍はこの阿片を広く大きい正面玄関に積み上げた。まさに異観であった〉と古海は語る。
・ところが関東軍がこのアヘンをなかなか通化に運べないでいるうちに8月9日、ソ連軍の侵攻が始まった。驚いた司令部はアヘンをトラックに積んで通化 に向かわせたが、途中で暴徒の襲撃を受け、アヘンを奪い去られた。司令部に残ったアヘンは古海らが無人家屋の床下などに穴を掘って埋めたという。
・古海の回想は、満州国政府・関東軍とアヘンのつながりの深さを物語る。岸信介は1939年に東京へ戻る際、「満州国の産業開発は私の描いた作品である。この作品に対して私は限りない愛着を覚える」と言い残したが、満州経営の重要な財源となったのはアヘンだった。
・敗戦直前の1945年8月11日、古海は南新京駅にいた。いつソ連軍が来るかという不安と、敗戦の悲色におおわれた駅で過ごす一刻一刻は心細かった。やっと出発準備が整った。
・その頃、にわかに夕立があって雷鳴がとどろいた。満州国皇帝・溥儀が列車に向かって歩を進めた。つづいて、阿片中毒で立てなくなった皇后・婉容が看護人に背負われてゆく哀れな姿が、稲妻が走ると一瞬パッと光の中に浮かび上がった。
・それを見ながら、満州国最後の総務長官・武部六蔵が、「蒙塵(=天子の都落ち)というのはこれだな」と呟くのを古海は聞いた。 満州国はアヘンと共に栄え、アヘンと共に滅びたのである。
*参考:『新版 昭和の妖怪 岸信介』(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)
≫(現代ビジネス>わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ・『週刊現代』2016年7月23日)

*時間の都合で、本日はここまで。次回、岸信介とアヘンの関係と云う核心に迫る。

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